تسجيل الدخولある日、姉から突然命じられた。 「あたしの代わりに、お見合いに行ってきて」 断れない事情を抱え、引き受けるしかなかった私・西園寺柚葉。 相手は黒瀬グループの若き社長・黒瀬柊。冷徹で合理的、なのに鋭い観察眼で仮面の下の「本当の私」を見つけてくる男だった。 そして三週間後、彼は静かに告げた。 「最初から、分かっていました。あなたが彼女ではないことを」 正体が明かされた瞬間、すべてが終わるのだと思った。けれど、彼は私を手放さなかった。 「俺が欲しかったのは、最初からあなたの姉じゃない」 正体がバレても、終わらない。三年間にわたる彼の執着が、少しずつ明らかになっていく。嘘から始まり、本物になっていく恋の物語。
عرض المزيد「あなた、
その一言で、心臓が止まった。
白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。
小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。
どうして?どうしてバレたの?
「……何のことでしょうか」
かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。
「無理に誤魔化さなくて結構です」
向かいに座る男──黒瀬グループの社長である
責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見透かすような目で。
ガラス張りの窓の向こうに、青々とした四月の葉桜が風に揺れている。
三週間前に初めて会った日は、雨だった。
「本当のお名前を、教えてもらえますか?」
低く、落ち着いた声だった。急かさない、追い詰める口調でもない。なのに、息が苦しい。
──無理だ。
この人の前では、どんな嘘も薄っぺらく見えてしまう気がした。
窓の外で、鮮やかな緑の葉がひとひら、風に弾かれた。
「……安心してください」
私が口を開く前に、黒瀬さんが言った。
「今すぐ責めるつもりはありません」
そこで一度、言葉が途切れた。
コーヒーカップをソーサーに置く。迷いのない動作だった。
「ただ──非効率なことが、嫌いなので」
黒い瞳が、まっすぐ私を捉える。
「あなたが誰なのか、教えてもらった方が話が早い」
背筋を、氷で撫でられたような感覚が走った。
四月の嘘は、桜と一緒に静かに散るはずだった。なのに、花が落ちて鮮やかな青葉が芽吹いても、私はまだ偽物の仮面を剥がせずにいた。
……こうなったのには、理由がある。
三週間前。姉からかかってきた一本の電話が、すべての始まりだった。
◇
三週間前──四月最初の日曜日、朝七時。
けたたましい着信音で目を覚ました私は、スマホの画面を見て顔をしかめた。
《真帆お姉ちゃん》
嫌な予感しかしなかった。
「……もしもし」
『ねえ。今日のお見合い、あたしの代わりに行ってきて』
開口一番、それだった。
「そんなの、無理に決まってるでしょう」
布団から起き上がりながら、即答する。
お姉ちゃんの代わりにお見合いだなんて、冗談じゃない。
カーテンの隙間から見えた空は、どんよりとした曇り空だった。
『断るなら……あの会社に教えてあげようか。あんたが、五年前にしたこと』
息が止まった。
五年前──今の会社に入る、直前のことだ。
あの雨の夜の選択が、一瞬で脳裏に蘇る。
正しかったのかどうか、今もわからない。
それでも、あの日から失われたものは少なくなかった。
忘れようとして、忘れられなかった記憶。それを、お姉ちゃんはずっと握っていたのか。
あの夜のことを思い出すたび、胃の底が冷たく沈む。
もちろん、誰にも話していない。話せるはずがなかった。
口にしてしまえば、ただの後悔では済まなくなる気がして。
ずっと心の奥に、重い石のように沈めてきた。
「……っ、わかった。行く」
その先を、言わせたくなかった。
電話の向こうで、姉が満足そうに笑う気配がした。
『それで良いわ。下手なことをしたら、あんたが今の会社で積み上げたもの、全部失うことになるわよ』
それだけ言って、電話は一方的に切れた。
私はしばらく、スマホを握ったまま動けなかった。
私の名前は西園寺
五年前、奇跡みたいにして滑り込んだ会社だった。没落した西園寺家の娘に残ったのは、持ち前の粘り強さと、祖父に叩き込まれた礼儀くらいのものだ。
それで社名の通った会社に入れたのは、今でも少し信じられない気持ちがある。
だから──失いたくなかった。仕事だけじゃない。もし、あのことが誰かに伝わったら……今の自分でいられる場所が消えてしまう。
姉の西園寺真帆は二つ年上で、昔から『特別』だった。華やかで、美人で、部屋に入るだけで空気を変えてしまうような人。
それに比べて私は、地味で、目立たなくて、昔からずっと「姉のついで」みたいに扱われてきた。
幼い頃から『真帆ちゃんは綺麗なのに、柚葉ちゃんは……』と言われて育った。
比べられることに、慣れすぎていた。本当は一度も慣れてなんかいなかったのに。
そう気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
◇
二時間後、姉が大量の化粧品とドレスを抱えて、私のアパートへ押しかけてきた。
「ほら、さっさと座りなさいよ。時間ないんだから」
挨拶もなく、有無を言わせない勢いでパイプ椅子に座らされる。
「あんたって、本当にいつ見ても冴えないわね。同じ血が流れてるなんて信じられない」
容赦なくブラシを動かしながら、姉が鼻で笑う。
「顔のパーツは悪くないのよ。目元と骨格だけは似てるし。ただ、もったいない使い方してるわね。全体的に芋臭い」
痛い、と言えなかった。
姉にとって、私は一人の人間ではなく、自分の身代わりを果たすための便利な『着せ替え人形』に過ぎない。
「あんたって、自分を殺して生きるの得意そうよね。そういうところ、便利だわ」
鏡の中で、見慣れた自分の顔がファンデーションで塗り替えられていく。
地味で目立たない西園寺柚葉が消され、代わりに知らない女が出来上がっていく。
最後に真っ赤なリップを塗られ、姉は満足そうに頷いた。
「完璧。──あ、そうそう」
颯爽と立ち上がりかけて、姉が振り返る。
「余計なことは喋らないで。適当に笑ってれば男なんて騙せるから。下手を打ってあたしの顔に泥を塗ったら、承知しないからね」
──バタン。
玄関のドアが閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
◇
ホテルへ向かうタクシーの中で、私は窓の外を流れる春雨をぼんやりと眺めていた。
「西園寺真帆……西園寺真帆……」
自分のものじゃない名前を口にするたび、喉の奥がひりついた。
タクシーの中で、姉から送られてきたメモを確認する。
今日のお見合い相手は、黒瀬グループ社長──黒瀬柊、三十四歳。
姉が「冷酷で仕事人間のカタブツ。あんな男と二時間もお見合いなんて苦痛よ」と切り捨てた、その男の顔を、私はまだ知らない。
やがてタクシーは、高級ホテルの車寄せへ静かに滑り込む。
重厚なラウンジの扉を前に、私は一度だけ深く息を吸った。
引き返すなら、今しかない。
──けれど、気づいたら私の手は、ドアを開けていた。
あのメッセージから、数日が経っていた。コンペの下調べのために、黒瀬グループ関連企業が入居するビルへ向かったのは、木曜日の午後だった。プレゼン当日に初めて足を踏み入れるより、一度見ておいた方がいい。エントランスの雰囲気や、周辺の空気を確認しておきたかった。地下鉄の出口を上がると、初夏の日差しが眩しかった。ビルは、駅から徒歩三分ほどの場所にあった。周辺のビルよりひとまわり背が高くて、入り口の前には黒いスーツの人影が絶えなかった。そこを出入りする人たちを見ていると、説明会の日の柊さんを思い出した。会議室で社員に向けていた、容赦のない声。なのに、電車の中で『忘れてください』と送ってきた、不器用な一文。どちらも本物だと、今はわかっている。私も今日、ここを仕事の場所として自分の目で確かめておきたかった。エントランスの位置とロビーの広さを確認して、踵を返そうとした時だった。「……例の件、あちらの担当者に話は通してある。問題ない」声が、聞こえた。低くて、落ち着いていて、それでいて奥に何かを隠しているような声。心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。その一拍の後、体温がすっと下がっていくのがわかった。指先から、感覚が薄れていく。視界の端が、少しだけぼやけた。声が届いた瞬間、記憶の方が先に動いた。あの夜、見知らぬ番号からかかってきた電話。『五年前の件で、一度話したくてね』という、あの声だ。耳の奥で、電話越しのあの声が、今聞こえた声にぴたりと重なった。同じ人間だ、と体が先に理解していた。五年前の廊下。横領の証拠を通報した夜。あの男の顔が、声より先に浮かんだ。全身の血が、一瞬で冷えた。心臓の音が、自分の耳にまで聞こえるくらい大きくなっていた。呼吸が浅くなって、うまく吸えない。「黒瀬グループ側にも、根回しは済んでいる」その一言で、頭の中が白くなった。黒瀬グループ。今、自分が足を踏み入れているこのビルと、同じ
コンペの説明会がある、という連絡が入ったのは、コンペへの参加を返答した翌日のことだった。『黒瀬グループ本社で、簡単な概要説明を行います。担当者の方は、ご出席をお願いします』メールの文面はビジネスライクで、特別な感情は何も含まれていなかった。だけど、行き先が『黒瀬グループ本社』だと知った瞬間、少しだけ手が止まった。これまで柊さんと会っていたのは、ホテルのラウンジ、レストラン、美術館、カフェ、雨の部屋──どこも、彼の「日常」とは少し違う場所だった。本社に行くのは、初めてだった。◇当日、私は指定された時間にビルへ向かった。エントランスを抜けただけで、空気が変わった。受付の人、行き交う社員、みんなどこか緊張感を纏っていた。私服で来たことを、少しだけ後悔した。もう少し、ビジネスカジュアルを意識すればよかった。「西園寺さんですね」声をかけてきたのは、城島さんだった。「どうぞ、こちらへ」案内されながら、ロビーを歩く。エレベーターに乗って、上の階へ向かう。「緊張されていますか」城島さんが、静かに聞いた。「……少し」「大丈夫です。説明会自体は、形式的なものですから。気負わず行きましょう」その言葉に、わずかに肩の力が抜けた。◇エレベーターを出て廊下を歩いていると、向こうから誰かが歩いてきた。柊さんだった。私が声をかけようとした瞬間、柊さんの前を歩いていた社員が、深く頭を下げて道の端へ寄った。それも一人ではなく、すれ違う人みんなが同じことをしていた。誰も気軽に話しかけない。誰も視線を合わせない。懇親会の夜、役員に向けて短く指示を出していた姿も見ていた。葵からも、「黒瀬グループの社長って、仕事だとめちゃくちゃ厳しいんだって」と聞いていた。知識としては、知っていた。でも、こうして日常の中にいる彼を見るのは、初めてだった。
私はメールを二度、読み直した。黒瀬グループ関連企業からの、広告案件コンペへの参加依頼だった。担当プランナーとして、西園寺柚葉の名前が指定されていた。「黒瀬グループ」という文字を見た瞬間、胸が一度だけ跳ねた。なぜ名前が指定されているのか。頭の片隅で、柊さんが関わっている可能性が浮かんだ。今それを確かめたら、仕事として向き合えなくなる気がした。意図的に、その問いを後回しにした。次の瞬間、頭が切り替わった。これは案件だ。プレゼンして、評価してもらうだけだ。「西園寺、確認したか」村田さんが声をかけてきた。「はい」「やるか」「やります」「先方、かなり厳しいらしいぞ。黒瀬グループは特に。中途半端な提案なら切られる」「やります、やらせてください」村田さんが「そうか」と言って、自分のデスクへ戻っていく。その背中を見ながら、私はもう一度メールを開いた。都市部の中規模商業施設のブランディング案件だった。施設の「顔」を作る仕事。人が集まる場所の、空気を作る仕事。黒瀬グループの出発点が「人が集まれる街を作りたい」だったことを思い出した。誠一郎さんが若い頃の写真の前で、柊さんが言っていたことを。この案件は、その精神と直接繋がっている。だとしたら、私が出すべき答えはひとつしかない。人が来たくなる場所ではなく、人がまた来たいと思う場所。その違いを、言葉にすることだ。面白い、と思った。純粋に、仕事として。◇その夜。スマホが鳴った。画面に《真帆お姉ちゃん》と表示されている。「もしもし」『黒瀬グループからコンペ依頼、来たんでしょ』姉の声は、いつもより一段高かった。余裕があるというより、焦りを抑えているような響きだった。どこで知ったのか、聞く気にもなれなかった。「来た」『降りなさい』「なんで」『あんたみたいな子が、黒瀬グループ
会議室に入ると、見知らぬスーツ姿の男性が二人いた。部長が私に椅子を引いて示してくれた。「西園寺、こちらが『シマ・ビューティー』の本社営業部の方々だ」シマ・ビューティー。先日、私が力を入れて取り組んでいたあの案件の。「先日の提案資料、拝見しました」男性の一人が、丁寧な口調で言った。落ち着いた、よく通る声だった。「あの切り口は、私どもが言語化できていなかったものを、そのまま形にしてもらえたと感じまして」「ありがとうございます……!」自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。「ぜひ一度、詳しくお話を聞かせていただけますか。担当は西園寺さんにお願いしたいと、うちの責任者からも話が出ていまして」指名。その言葉が頭の中で繰り返されて、膝の力が一瞬だけ抜けた。「……私、ですか?本当に、私で良いのでしょうか」「当たり前だろう。西園寺しかいないじゃないか」部長が、少し笑って言った。そこからの打ち合わせは、一時間ほど続いた。先方の担当者は、資料のどの部分が響いたかを、具体的に話してくれた。『選ぶ行為そのものが、今日の自分を肯定する』というコンセプトが、社内での議論を動かしたらしかった。「このコンセプトをさらに展開するとしたら、次はどんな方向性を考えていますか。西園寺さんの個人的な意見を聞きたい」担当者が聞いてきた。予想していた問いではなかった。でも、答えは自然に出てきた。「選ぶ、という行為の前には、必ずお客様の迷う時間があります。その迷いを否定するのではなく、そっと寄り添う。そういうブランドとしての温かい立ち位置が、今の時代にこそ作れると思っています」担当者が、メモを取りながら頷いた。「それです。私たちが求めていたのは、その視点だ」短い一言だった。それだけなのに、机の下で、私の指先がかすかに震えた。あの孤独に悩み
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。