Masukある日、姉から突然命じられた。 「あたしの代わりに、お見合いに行ってきて」 断れない事情を抱え、引き受けるしかなかった私・西園寺柚葉。 相手は黒瀬グループの若き社長・黒瀬柊。冷徹で合理的、なのに鋭い観察眼で仮面の下の「本当の私」を見つけてくる男だった。 そして三週間後、彼は静かに告げた。 「最初から、分かっていました。あなたが彼女ではないことを」 正体が明かされた瞬間、すべてが終わるのだと思った。けれど、彼は私を手放さなかった。 「俺が欲しかったのは、最初からあなたの姉じゃない」 正体がバレても、終わらない。三年間にわたる彼の執着が、少しずつ明らかになっていく。嘘から始まり、本物になっていく恋の物語。
Lihat lebih banyak雨が上がるまで、もう少し時間がかかりそうだった。「温かいものを」と柊さんが立ち上がって、キッチンへ向かった。ソファに一人で座ったまま、雨音が少しずつ遠くなっていくのを聞いていた。私は、今日のことを順番に思い返した。古本屋で偶然会って、路地を並んで歩いて、カフェで「柊さん」と呼んだ。この部屋に来て、書棚の本に手書きの名前を見つけて、色褪せた写真の前に立った。母親のことを聞いて、少しだけ間があった。まさかこんな一日になるなんて、朝には思っていなかった。しばらくして、柊さんが戻ってきた。「どうぞ」マグカップを差し出された。受け取った瞬間、湯気の甘い香りに気づいた。「……ミルクですか?」「ミルクココアです。……何か不満でも?」柊さんは少しだけぶっきらぼうに、だけど私の反応を窺うように視線を泳がせた。その見たことのない顔に、胸の奥で何かがほどけた気がした。私はマグカップを両手で包んだ。柊さんも、自分のカップをソファの隣で持っていた。部屋の中が静かだった。雨の音だけが、窓の向こうで続いている。どちらも何も言わなかった。それで、よかった。お砂糖とミルクの優しい甘さが、ゆっくりと体の中に広がっていく。甘いものが好きだと、今日初めて自分から言えた。その甘さと、いま手の中にある温かさが、同じ一日の中にある気がした。「……柊さんも甘いものが、好きなんですか」柊さんが、カップを置いた。「普段は、あまり人前で頼めません」「……黒瀬グループの社長が、というやつですか」「城島に、心配させることになります」表情は動いていなかった。でもその一言に、かすかな自嘲と諦めが混じっていた。この人も、人前では言えないことがある。私と同じだ。好きなものを好きだと言えない理由が、この人にもある。立場が、肩書きが、その言葉を飲み込ませる。それを知った瞬間、嬉しいというより、少しだけ切なかった。でも、そ
「どうぞ」案内されたのは、徒歩三分ほどのマンションだった。エントランスに入ると、外の雨音が遠くなった。内廊下が続いていて、足音だけが響く。柊さんが鍵を取り出して、一つのドアを開けた。「お邪魔します」一歩入って、思わず立ち止まった。広くはない。でも、整っていた。余計なものが何もない。必要なものだけが、必要な場所にある。生活の匂いが薄くて、ホテルの部屋とも違う──この人そのものみたいな空間だった。「少し待ってください」柊さんが奥へ消えた。私は一人になった。柊さんの部屋に、いる。その事実が、今更のように体の中に落ちてきた。動悸が、自分でもわかるくらいうるさかった。落ち着こうとして、視線をさまよわせた。そして──息が止まった。壁一面の書棚があった。天井近くまで、本が詰まっている。建築の本、都市計画の資料、哲学書、小説──ジャンルがばらばらで、整理されているようで、でも読んできた時間の順番で並んでいる気がした。どこから読み始めたのか、確かめたくなった。この人がどんな夜に、どんな本を開いていたのかを、知りたいと思った。書棚は、その人が何に迷い、何を求めてきたかを、静かに証言している。この棚の前に立っていると、黒瀬柊という人の時間の厚みだけが、そこに積み重なっている気がした。ファイルの背表紙には、年度ごとにラベルが貼られ、一ミリのズレもなく並んでいた。本棚の端から端まで、乱れがなかった。私は一冊、手に取った。奥付を見ると、柊さんの名前が丁寧に書いてあった。蔵書印ではなく、手書きで。几帳面な、小さな文字だった。これだけの本に、一冊ずつ名前を書いてきた人。ラベルを一ミリの狂いもなく貼ってきた人。その時間と几帳面さが、同じ一人の人間から来ていることを思うと、何かがゆっくりと動いた。棚の一角に、小さな写真立てがあった。色褪せた写真だった。建設途中の現場を背景に、スーツを着た男性と、小さな子
古本屋を出た後の代官山の路地を、二人で並んで歩いた。黒瀬さんの斜め後ろを歩きながら、左手の薬指をスカートの上でそっと握りしめた。緊張しているのを悟られたくなかった。彼が足を止めたのは、緑の蔦が這った、隠れ家のような角のカフェの前だった。「入りますか」「……はい」木の扉を開けると、珈琲の焙煎の香りが漂ってきた。照明が低めで、窓際の席から代官山の路地が見える。夕方、店内は半分ほど埋まっていた。窓際の二人席に向かいながら、メニューを手に取った。コーヒーを頼もうとした。指がメニューの「ブレンド」という文字の上で止まる。今日は、柚葉として好きなものを頼めばいい。「ホットココアを」ウェイターに告げた。「ブラックで」と黒瀬さんが続けた。確認する必要もない、迷いのない注文だった。向かいの黒瀬さんを見ると、どちらとも判断できない顔をしていた。「……甘いものが好きなので」「そうですか」黒瀬さんが、口の端をわずかに動かした。それだけだった。でも、その一言を自分から言えたことが嬉しかった。◇ココアが届いて、口をつけた。甘くて、温かい。「仕事は、うまくいっていますか」黒瀬さんが聞いた。「……先週、担当を外れた案件がありました」「そうなんですか?」「クライアントから、担当変更の依頼が来て。理由は曖昧なままで、上司には『そういうこともある』と言われて」「どう思いましたか」「最初は、プレゼンの組み立てに問題があったんだと思っていました。翌朝、作り直した企画書を見ていたら……足りなかったのは技術じゃなかった、と気づいて」「何が足りなかったと」「相手を、見ていなかった」黒瀬さんが、コーヒーカップをソーサーに戻した。「それに気づいたのは、どんな時でしたか」「ドラッグストアの棚の前で、お客さんを見ていた時です。何を探しているんだ
あの夜、結局メッセージは送れなかった。何度も書いては消し、最後に送ったのは『今度、お茶でもどうですか』という短い一文だけだった。黒瀬さんから返ってきたのは、『はい』の一言だけ。それから一週間ほどして、私は代官山に来た。仕事が一段落したものの、家にいる気分でもなかった。深夜に企画書を作り直したあの夜から、少し空気を変えたかったのかもしれない。ただ歩いていたら路地の奥に古本屋の看板が見えて、吸い寄せられるように入ったのは、純粋な気まぐれだった。店内は薄暗くて、本の紙とほこりの匂いがした。天井まで届く棚に、背表紙がぎっしり並んでいる。文庫、単行本、写真集、洋書──ジャンルの境界がほとんどない、雑然とした並びが心地よかった。週末の昼下がり、店内には数人のお客が本棚を眺めていた。奥の棚に向かいながら、ふと目が止まった。黒のカットソーにデニム。建築関係の棚の前に立って、本を開いている人。──あれ。思わず、二度見した。「黒瀬、さん?」声に出してしまってから、後悔した。男性は、ゆっくりとこちらを向いた。黒瀬柊だった。いつものスーツ姿とは、まるで違った。完璧に整えられた仕事の顔ではなく、ただ本を読みに来た人の顔をしていた。秘書の姿もない。「……西園寺さん」「偶然ですね」「そうですね」間があった。「……休日は、本を読むんですか?」「ええ、習慣で」黒瀬さんが手にしていた本を、さりげなく確認した。建築の写真集だった。「趣味ですか?」「昔は、建築家になりたかったんです」初めて聞く話だった。黒瀬グループの社長が建築家になりたかった、というのは、意外だった。「祖父が、人の集まれる場所を作ることが好きで。それを見て育ったので」誠一郎さんの言葉が、頭をよぎった。『人が集まれる街を作りたい』──黒瀬グ
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見