LOGINある日、姉から突然命じられた。 「あたしの代わりに、お見合いに行ってきて」 断れない事情を抱え、引き受けるしかなかった私・西園寺柚葉。 相手は黒瀬グループの若き社長・黒瀬柊。冷徹で合理的、なのに鋭い観察眼で仮面の下の「本当の私」を見つけてくる男だった。 そして三週間後、彼は静かに告げた。 「最初から、分かっていました。あなたが彼女ではないことを」 正体が明かされた瞬間、すべてが終わるのだと思った。けれど、彼は私を手放さなかった。 「俺が欲しかったのは、最初からあなたの姉じゃない」 正体がバレても、終わらない。三年間にわたる彼の執着が、少しずつ明らかになっていく。嘘から始まり、本物になっていく恋の物語。
View Moreコンペの説明会がある、という連絡が入ったのは、コンペへの参加を返答した翌日のことだった。『黒瀬グループ本社で、簡単な概要説明を行います。担当者の方は、ご出席をお願いします』メールの文面はビジネスライクで、特別な感情は何も含まれていなかった。だけど、行き先が『黒瀬グループ本社』だと知った瞬間、少しだけ手が止まった。これまで柊さんと会っていたのは、ホテルのラウンジ、レストラン、美術館、カフェ、雨の部屋──どこも、彼の「日常」とは少し違う場所だった。本社に行くのは、初めてだった。◇当日、私は指定された時間にビルへ向かった。エントランスを抜けただけで、空気が変わった。受付の人、行き交う社員、みんなどこか緊張感を纏っていた。私服で来たことを、少しだけ後悔した。もう少し、ビジネスカジュアルを意識すればよかった。「西園寺さんですね」声をかけてきたのは、城島さんだった。「どうぞ、こちらへ」案内されながら、ロビーを歩く。エレベーターに乗って、上の階へ向かう。「緊張されていますか」城島さんが、静かに聞いた。「……少し」「大丈夫です。説明会自体は、形式的なものですから。気負わず行きましょう」その言葉に、わずかに肩の力が抜けた。◇エレベーターを出て廊下を歩いていると、向こうから誰かが歩いてきた。柊さんだった。私が声をかけようとした瞬間、柊さんの前を歩いていた社員が、深く頭を下げて道の端へ寄った。それも一人ではなく、すれ違う人みんなが同じことをしていた。誰も気軽に話しかけない。誰も視線を合わせない。懇親会の夜、役員に向けて短く指示を出していた姿も見ていた。葵からも、「黒瀬グループの社長って、仕事だとめちゃくちゃ厳しいんだって」と聞いていた。知識としては、知っていた。でも、こうして日常の中にいる彼を見るのは、初めてだった。
私はメールを二度、読み直した。黒瀬グループ関連企業からの、広告案件コンペへの参加依頼だった。担当プランナーとして、西園寺柚葉の名前が指定されていた。「黒瀬グループ」という文字を見た瞬間、胸が一度だけ跳ねた。なぜ名前が指定されているのか。頭の片隅で、柊さんが関わっている可能性が浮かんだ。今それを確かめたら、仕事として向き合えなくなる気がした。意図的に、その問いを後回しにした。次の瞬間、頭が切り替わった。これは案件だ。プレゼンして、評価してもらうだけだ。「西園寺、確認したか」村田さんが声をかけてきた。「はい」「やるか」「やります」「先方、かなり厳しいらしいぞ。黒瀬グループは特に。中途半端な提案なら切られる」「やります、やらせてください」村田さんが「そうか」と言って、自分のデスクへ戻っていく。その背中を見ながら、私はもう一度メールを開いた。都市部の中規模商業施設のブランディング案件だった。施設の「顔」を作る仕事。人が集まる場所の、空気を作る仕事。黒瀬グループの出発点が「人が集まれる街を作りたい」だったことを思い出した。誠一郎さんが若い頃の写真の前で、柊さんが言っていたことを。この案件は、その精神と直接繋がっている。だとしたら、私が出すべき答えはひとつしかない。人が来たくなる場所ではなく、人がまた来たいと思う場所。その違いを、言葉にすることだ。面白い、と思った。純粋に、仕事として。◇その夜。スマホが鳴った。画面に《真帆お姉ちゃん》と表示されている。「もしもし」『黒瀬グループからコンペ依頼、来たんでしょ』姉の声は、いつもより一段高かった。余裕があるというより、焦りを抑えているような響きだった。どこで知ったのか、聞く気にもなれなかった。「来た」『降りなさい』「なんで」『あんたみたいな子が、黒瀬グループ
会議室に入ると、見知らぬスーツ姿の男性が二人いた。部長が私に椅子を引いて示してくれた。「西園寺、こちらが『シマ・ビューティー』の本社営業部の方々だ」シマ・ビューティー。先日、私が力を入れて取り組んでいたあの案件の。「先日の提案資料、拝見しました」男性の一人が、丁寧な口調で言った。落ち着いた、よく通る声だった。「あの切り口は、私どもが言語化できていなかったものを、そのまま形にしてもらえたと感じまして」「ありがとうございます……!」自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。「ぜひ一度、詳しくお話を聞かせていただけますか。担当は西園寺さんにお願いしたいと、うちの責任者からも話が出ていまして」指名。その言葉が頭の中で繰り返されて、膝の力が一瞬だけ抜けた。「……私、ですか?本当に、私で良いのでしょうか」「当たり前だろう。西園寺しかいないじゃないか」部長が、少し笑って言った。そこからの打ち合わせは、一時間ほど続いた。先方の担当者は、資料のどの部分が響いたかを、具体的に話してくれた。『選ぶ行為そのものが、今日の自分を肯定する』というコンセプトが、社内での議論を動かしたらしかった。「このコンセプトをさらに展開するとしたら、次はどんな方向性を考えていますか。西園寺さんの個人的な意見を聞きたい」担当者が聞いてきた。予想していた問いではなかった。でも、答えは自然に出てきた。「選ぶ、という行為の前には、必ずお客様の迷う時間があります。その迷いを否定するのではなく、そっと寄り添う。そういうブランドとしての温かい立ち位置が、今の時代にこそ作れると思っています」担当者が、メモを取りながら頷いた。「それです。私たちが求めていたのは、その視点だ」短い一言だった。それだけなのに、机の下で、私の指先がかすかに震えた。あの孤独に悩み
昨夜、姉から届いた一行のメッセージが、朝から頭を離れなかった。『そろそろ動く時期ね』姉が何をしてくるのか、わからない。ただ、何かが動き始めた、という感覚だけがあった。社内で妙な噂が広まっていることを、葵から聞いたのは水曜日の昼だった。「ちょっと聞いてほしいんだけど、今話せる?」会社の近くにある、少し薄暗い路地裏のカフェ。葵は向かいの席に座るなり、注文したアイスコーヒーにも手をつけず、身を乗り出してきた。いつもの明るく軽いトーンではなかった。左右を気にするようなその仕草に、心臓が小さく跳ねる。「西園寺は黒瀬グループとコネがある、って話、社内で出回ってるらしいよ」「……何それ。どこから?」「分からない。でも、複数のルートから聞いたの。柚葉が黒瀬グループの役員向けの懇親会に出ていただとか、黒瀬社長と個人的に高級店で食事をしてるだとか」コーヒーカップを両手で包んだまま、私はしばらく何も言えなかった。もしかして、これが姉の言っていた「動く」ということなのか。私を揺さぶるために、姉が社内に情報を流したのだろうか。確かめる術はなかった。でも、手のひらが、じわりと冷たくなっていくのを感じていた。「要するに、柚葉が実力じゃなくて、黒瀬社長との『特別な関係』で評価されてるんじゃないかって、周囲に思われてるってこと。悔しいよね、そんなの」私は唇を噛み締めた。「……悔しいよ」口から出たら、思っていたよりずっと深い、ドロドロとしたところから来た言葉だった。コネだと思われることより、自分が積み上げてきたものを見てもらえていないことの方が、ずっと悔しかった。そして、その悔しさの奥に、もう一つ冷たい痛みが横たわっていることにも気づいていた。柊さんとの関係がなければ、こんな疑いを持たれることもなかったのかもしれない。あの人に近づくたびに、自分の仕事の評価が歪んでいく。それが、悔しさの底にある、もっと静かな痛みだった。懇親会に出たのは、元々は姉の命令だった。最初に食
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。





