All Chapters of 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜: Chapter 21 - Chapter 30

32 Chapters

第21話 この絵が、好きなんです

『今週末、お時間はありますか』金曜の夜に届いたメッセージを、土曜の朝になっても見つめていた。花束のお礼も言えなかった。『届きましたか』にも答えられなかった。なのに、また返信できないでいる。ネットで見つけた記事のことが、まだどこかに引っかかっていた。でも返信できないでいる本当の理由は、それだけじゃない気がした。日曜の昼前、気づいたら『今日の午後なら』と打っていた。送信ボタンを押してから、スマホを置いた。自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。◇待ち合わせは、上野の美術館だった。四月の日曜日、美術館の前には家族連れや観光客が行き交っている。その中に、紺のジャケットを着た黒瀬さんの姿を見つけた瞬間、周囲の音が遠のいた。ラウンジや高級レストランで見ていた、隙のないスーツ姿ではない。白シャツにジャケットを羽織っただけの姿は新鮮で、それだけで「プライベートな時間に彼と会っているのだ」という現実が押し寄せてくる。「お待たせしました」「いえ」黒瀬さんが私の顔を一度だけ見た。その目が、いつもより少しだけ柔らかかった。私たちは、並んで中へ入った。◇常設展示の廊下を、並んで歩いた。黒瀬さんはあまり喋らない。けれどその沈黙は、以前より息苦しくなかった。この人の隣の静けさに、いつの間にか慣れてしまっていた。時折、すれ違う他の観客を避けるように黒瀬さんの肩が微かに触れる。そのたびに、ジャケット越しでも分かる彼の体温や、かすかに香るウッディなコロンの匂いに、私の心拍数が勝手に跳ね上がった。仕事の場ではない彼が隣にいる。その事実だけで、展示されている美術品がまるで目に入らなくなるほど緊張していた。廊下の途中で、黒瀬さんのスマホが短く鳴った。彼はそれを一瞥して、画面を伏せた。「失礼」それだけ言って、また歩き始めた。見なかったわけじゃない。確認して、今は不要と判断した。
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第22話 あなた、本当は甘いものが好きでしょう

狭い路地を入った先に、古い洋館を改装したような店があった。天井が高くて、木のテーブルが等間隔に並んでいる。窓の外には、青々とした葉桜が風に揺れていた。三週間前、彼と初めて会った日に散り始めていた花が、今はもう緑に変わっていた。窓際の席に座ると、ウェイターがメニューを差し出した。柔らかい光がテーブルに落ちて、店内には焼き菓子の匂いがかすかに漂っていた。コーヒーを頼もうとした瞬間、黒瀬さんが先に口を開いた。「あなた、本当は甘いものが好きでしょう」「……え」「最初にお会いした時、確認もせずブラックに決めてしまいましたが」手の中のメニューを、思わず取り落としそうになった。あの日、姉の「ブラック派」という設定を必死に守っていたのに、こちらが口を開く前に決まってしまった。それをこの人は覚えていて、しかも自分が決めたことだったと認識していた。「なぜ、わかったんですか」「……なんとなく」黒瀬さんは、それきり手元のグラスに視線を落とした。なんとなく。この人がそう言う時、大抵は「なんとなく」じゃない。ちゃんと見ていて、ちゃんと気づいていて、それでも理由を言葉にしない。その不器用な正直さが、妙に信用できた。「カフェラテと、こちらのケーキを」黒瀬さんがウェイターに短く告げた。運ばれてきたカップを前に、私はしばらく口を開けずにいた。「……ありがとうございます」「どうぞ」一口飲むと、ミルクの甘さが広がった。最初からこれを頼めばよかった、とずっと思っていた味だった。添えられたチョコレートケーキをフォークで小さく崩し、口に運ぶ。濃厚な甘さが、美術館から張り詰めていた心のコリをじわりと溶かしていくようだった。この人は、どこまで分かっているんだろう。じっと私を見つめる彼の前で、私は自分の本性を少しずつ暴かれていくような、心地いい恐怖を感じていた。店内には、低く流れるピアノの音と、隣のテーブルの老夫婦の穏やかな話し声があ
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第23話 最初から分かっていた

「ただ──非効率なことが、嫌いなので」黒瀬さんは、コーヒーカップの縁を指でなぞってから続けた。「これ以上、お互いに不毛な探り合いをする時間は無駄でしょう。あなたが誰なのか、教えてもらった方が話が早い」背筋を、氷で撫でられたような感覚が走った。「実は、最初から分かっていました。あなたが彼女ではないことを」テーブルの上の白いカップ。漂うコーヒーの香り。窓の外の葉桜。全部が、一瞬だけ遠くなった。──最初から。この人は、最初から分かっていた。お見合いの席で、噛みそうになりながら「西園寺……真帆です」と名乗ったあの瞬間から。あの時、彼の口の端がかすかに動いたのを見た。笑ったのか、気づいたのか、ずっとわからなかった。あれは、知っていたということだったのか。コリアンダーを、さりげなく避けてくれた時。一言も言わずに気遣ってくれたあの動作の奥に、すでに「偽物だ」という確信があったのか。雨の夜、傘を差し出してくれた時。「今度、返してください」と言った、あの迷いのない声も。懇親会で「西園寺さん」と、姓だけで呼んだ時。全部、知っていて──黙っていた。『社長はあなたのことを──』城島さんのあの言葉の意味が、今ならわかった気がした。黒瀬さんが、カップをソーサーに置いた。「本来なら、この時点で話は終わっていました」喉が閉じたように、言葉が出てこなかった。「仕事でも私生活でも、嘘をつく人間とは関わらない主義です」黒瀬さんは、感情を乗せない声で言った。責めているわけではなかった。事実を確認するような、それだけの口調だった。だからこそ、重かった。「……では、なぜ」「それでも、話を聞きたいと思いました」窓の外に一度視線を流してから、彼が続けた。「少しだけ、話してもいいですか」答える代わりに、小さく頷いた。「三年前に、祖父が倒れたことが
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第24話 考えさせてください

「西園寺柚葉さんとして、改めてお付き合いをお願いしたい」その言葉の意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。怒るべきなのか、喜ぶべきなのか、わからなかった。「……なぜ、ですか」問いが口から出た時、自分の声がわずかに震えていた。正体がバレて、これで終わりじゃないの?黒瀬さんは、すぐには答えなかった。「理由が必要ですか」「必要です」じっと見つめると、黒瀬さんが口を閉ざした。視線が窓の外へ向いて、また戻ってくる。「純粋に、あなたに興味が湧いた」「それだけですか」「……あなたの前では、余分なことを言わなくて済む」うまく息が吸えなかった。この人が「余分なことを言わなくて済む」と感じている相手が、私だというのか。「私たちは、嘘の上に成り立った関係です。それを続けるのは……」「では、もう一度最初からやり直しましょう」黒瀬さんが、端的に言った。「今日、ここで。西園寺柚葉さんとして、初めてお会いした。そういうことにしませんか」「……そんな簡単に」「簡単ではないですが」黒瀬さんの目が、こちらを向いていた。急かさない目だった。ちゃんと待っている目だった。何か言い返そうとして、うまく声にならなかった。「……考えさせてください」それだけ言って、私はカップに視線を落とした。カフェラテは、もうすっかり冷めていた。◇帰り道、夕方の風が頬に当たった。頭の中を、今日のことが順番に流れていく。美術館の絵の前で、腕を掴まれた瞬間。「甘いものが好きでしょう」と言われて、カフェラテを注文された時。「左手の薬指を握る仕草を、三年前にも見たことがあった」という言葉。「逃
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第25話 三度目の正直

土曜日の朝。目が覚めた時から、ずっと考えていた。「考えさせてください」と言ったきり、一週間が経っていた。あの日の最後に届いたのは、『来週、お返事を聞かせてください』その一通だけだった。それ以来、黒瀬さんから催促の連絡は一度もない。ただ、返事を待っていた。──来週、お返事を聞かせてください。そう言われた以上、返事をしなければ、この人はもう誘ってこない気がした。でも土曜日の朝、気づいたら『午後なら』と返事を打っていた。また、やってしまった。◇待ち合わせは、南青山の静かなカフェだった。黒瀬さんは、すでに席についていた。今日は休日だからか、いつもより柔らかい色のジャケットを着ていた。席に向かいながら、私は心の中で言葉を繰り返していた。今日で終わりにします。準備してきたその言葉が、向かいに座った瞬間、少しだけ揺れた。黒瀬さんの目がいつもと変わらずこちらを見ていた。急かさない、ただ待っている目。その目を見た瞬間に言わないと、もう言えなくなる気がした。「今日で終わりにします」席に着くなり、私はそう告げた。黒瀬さんが一瞬だけ目を止めた。驚いた様子はなかった。ただ、こちらを見た。「どうして」「私たちは、嘘の上に成り立った関係だからです。最初からやり直すといっても、そもそもの始まりが……」「柚葉さん」名前を呼ばれた瞬間、言葉が止まった。「お仕事は、楽しいですか」唐突な質問だった。「……急に何ですか」「イタリアンレストランで、二度目にお会いした時。煮詰まった時こそ手放すと、言っていたので」覚えていた。あの何気ない会話を。三週間以上前の、仕事の話を。「……楽しいです」「そうですか」黒瀬さんが、コーヒーカップを置いた。「私もそうです。手放せない時ほど、うまくいかない」
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第26話 二つの声

着信履歴を見つめた。三回。出なかった、という事実が小さく胸に引っかかる。折り返すべきか、明日にすべきか、五秒だけ迷った。先延ばしにしても何も変わらない。意を決して発信ボタンを押すと、一コールで出た。『遅い!』「ごめん。外にいて」『黒瀬と会ってたの?』「……うん」電話の向こうで、姉が息をついた。『ねえ、柚葉』いつもの命令するような口調ではなかった。どこか探るような、慎重なトーンだった。『正直に教えて。今、どういう状況なの?』「……実は、バレた」『は?』「私がお姉ちゃんの身代わりだって、最初から分かってたって」沈黙が続いた。やがて、静かだが圧のある声が戻ってきた。『……何やってるの、あんたは』「私だって──」『黒瀬が、最初から知ってた?なんで今まで黙ってたの。あんたがちゃんとやってると思ってたから、任せていたのに』「お姉ちゃん、私は──」『本当に出来の悪い妹ね』吐き捨てるように言われた。慣れたはずの言葉だった。子どもの頃から何十回と聞いてきた言葉だ。なのに今夜は、その言葉が最後まで消えなかった。黒瀬さんが「柚葉さん」と呼ぶ声が、頭の中にあるせいかもしれない。あの人は私を「西園寺柚葉」として扱ってくれる。その時間が長くなるほど、姉の言葉が以前より深く刺さるようになった。『じゃあ、もう終わりじゃない。どうするのよ』『それが……改めて、柚葉として付き合ってほしいって言われたの』今度は、長い間があった。怒鳴られると思っていた。けれど、来なかった。代わりに聞こえてきたのは、何かを素早く計算しているような、静かな気配だった。やがて、姉がふっと短く笑った。温度のない笑い方だった。それだけで、背筋が寒くなった。『ねえ、柚葉。あんたの前の会社の上司、今うちの彼と仕事で繋がってるの』「……え」
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第27話 奪われる前に

連絡が来たのは、火曜日の午後だった。担当しているアパレルブランドの販促キャンペーン、クライアントの沖山さんから直接メールが届いた。『担当者の変更をお願いできますか』上司に報告すると、「まあ、そういうこともある」と言われた。理由を聞こうとしたが、「向こうも明確には言ってないから」という返しで話が終わった。デスクに戻って、先月から作り続けてきた資料を開いた。ターゲット分析、媒体戦略、コピーの方向性──どれも丁寧に作り込んだつもりだった。つもりだった、という言葉が、頭の中に残った。「西園寺さんのプレゼン、なんか熱量が空回りしてましたよね」少しして、隣のデスクの後輩が別の誰かに話しているのが聞こえた。こちらに向けた言葉ではなかったかもしれない。だとしても、確かに聞こえた。空回り。否定できなかった。それが余計に、痛かった。仕事だけは、ちゃんとやれていると思っていた。嘘をつきながらも、姉の脅しに怯えながらも、デスクの前に座れば西園寺柚葉でいられると思っていた。その場所まで、揺らいでいたのか。◇深夜のオフィスには、私以外誰もいなかった。蛍光灯の白い光だけが、変わらず天井を照らしている。ふいに、姉の『親族への挨拶は私が行く』という言葉が、何度も頭をよぎった。このまま迷っていたら、本当にその日が来てしまうかもしれない。考えるのをやめるように、私はデスクに向かって、企画書を最初から作り直していた。何が足りなかったのか。伝えたいことはあった。データもあった。論理の筋も通っていたと思う。でも──届いていなかった。相手を見ていたか、と自分に問いかけた瞬間、手が止まった。足りなかったのは、技術じゃない。私はずっと「正しいことを言おう」としていた。データに裏付けられた、反論できない提案を作ろうとしていた。沖山さんが欲しかったのは、正しさじゃなかったはずだ。しばらくして、スマホが短く
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第28話 代官山の偶然

あの夜、結局メッセージは送れなかった。何度も書いては消し、最後に送ったのは『今度、お茶でもどうですか』という短い一文だけだった。黒瀬さんから返ってきたのは、『はい』の一言だけ。それから一週間ほどして、私は代官山に来た。仕事が一段落したものの、家にいる気分でもなかった。深夜に企画書を作り直したあの夜から、少し空気を変えたかったのかもしれない。ただ歩いていたら路地の奥に古本屋の看板が見えて、吸い寄せられるように入ったのは、純粋な気まぐれだった。店内は薄暗くて、本の紙とほこりの匂いがした。天井まで届く棚に、背表紙がぎっしり並んでいる。文庫、単行本、写真集、洋書──ジャンルの境界がほとんどない、雑然とした並びが心地よかった。週末の昼下がり、店内には数人のお客が本棚を眺めていた。奥の棚に向かいながら、ふと目が止まった。黒のカットソーにデニム。建築関係の棚の前に立って、本を開いている人。──あれ。思わず、二度見した。「黒瀬、さん?」声に出してしまってから、後悔した。男性は、ゆっくりとこちらを向いた。黒瀬柊だった。いつものスーツ姿とは、まるで違った。完璧に整えられた仕事の顔ではなく、ただ本を読みに来た人の顔をしていた。秘書の姿もない。「……西園寺さん」「偶然ですね」「そうですね」間があった。「……休日は、本を読むんですか?」「ええ、習慣で」黒瀬さんが手にしていた本を、さりげなく確認した。建築の写真集だった。「趣味ですか?」「昔は、建築家になりたかったんです」初めて聞く話だった。黒瀬グループの社長が建築家になりたかった、というのは、意外だった。「祖父が、人の集まれる場所を作ることが好きで。それを見て育ったので」誠一郎さんの言葉が、頭をよぎった。『人が集まれる街を作りたい』──黒瀬グ
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第29話 初めての下の名前

古本屋を出た後の代官山の路地を、二人で並んで歩いた。黒瀬さんの斜め後ろを歩きながら、左手の薬指をスカートの上でそっと握りしめた。緊張しているのを悟られたくなかった。彼が足を止めたのは、緑の蔦が這った、隠れ家のような角のカフェの前だった。「入りますか」「……はい」木の扉を開けると、珈琲の焙煎の香りが漂ってきた。照明が低めで、窓際の席から代官山の路地が見える。夕方、店内は半分ほど埋まっていた。窓際の二人席に向かいながら、メニューを手に取った。コーヒーを頼もうとした。指がメニューの「ブレンド」という文字の上で止まる。今日は、柚葉として好きなものを頼めばいい。「ホットココアを」ウェイターに告げた。「ブラックで」と黒瀬さんが続けた。確認する必要もない、迷いのない注文だった。向かいの黒瀬さんを見ると、どちらとも判断できない顔をしていた。「……甘いものが好きなので」「そうですか」黒瀬さんが、口の端をわずかに動かした。それだけだった。でも、その一言を自分から言えたことが嬉しかった。◇ココアが届いて、口をつけた。甘くて、温かい。「仕事は、うまくいっていますか」黒瀬さんが聞いた。「……先週、担当を外れた案件がありました」「そうなんですか?」「クライアントから、担当変更の依頼が来て。理由は曖昧なままで、上司には『そういうこともある』と言われて」「どう思いましたか」「最初は、プレゼンの組み立てに問題があったんだと思っていました。翌朝、作り直した企画書を見ていたら……足りなかったのは技術じゃなかった、と気づいて」「何が足りなかったと」「相手を、見ていなかった」黒瀬さんが、コーヒーカップをソーサーに戻した。「それに気づいたのは、どんな時でしたか」「ドラッグストアの棚の前で、お客さんを見ていた時です。何を探しているんだ
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第30話 雨の部屋

「どうぞ」案内されたのは、徒歩三分ほどのマンションだった。エントランスに入ると、外の雨音が遠くなった。内廊下が続いていて、足音だけが響く。柊さんが鍵を取り出して、一つのドアを開けた。「お邪魔します」一歩入って、思わず立ち止まった。広くはない。でも、整っていた。余計なものが何もない。必要なものだけが、必要な場所にある。生活の匂いが薄くて、ホテルの部屋とも違う──この人そのものみたいな空間だった。「少し待ってください」柊さんが奥へ消えた。私は一人になった。柊さんの部屋に、いる。その事実が、今更のように体の中に落ちてきた。動悸が、自分でもわかるくらいうるさかった。落ち着こうとして、視線をさまよわせた。そして──息が止まった。壁一面の書棚があった。天井近くまで、本が詰まっている。建築の本、都市計画の資料、哲学書、小説──ジャンルがばらばらで、整理されているようで、でも読んできた時間の順番で並んでいる気がした。どこから読み始めたのか、確かめたくなった。この人がどんな夜に、どんな本を開いていたのかを、知りたいと思った。書棚は、その人が何に迷い、何を求めてきたかを、静かに証言している。この棚の前に立っていると、黒瀬柊という人の時間の厚みだけが、そこに積み重なっている気がした。ファイルの背表紙には、年度ごとにラベルが貼られ、一ミリのズレもなく並んでいた。本棚の端から端まで、乱れがなかった。私は一冊、手に取った。奥付を見ると、柊さんの名前が丁寧に書いてあった。蔵書印ではなく、手書きで。几帳面な、小さな文字だった。これだけの本に、一冊ずつ名前を書いてきた人。ラベルを一ミリの狂いもなく貼ってきた人。その時間と几帳面さが、同じ一人の人間から来ていることを思うと、何かがゆっくりと動いた。棚の一角に、小さな写真立てがあった。色褪せた写真だった。建設途中の現場を背景に、スーツを着た男性と、小さな子
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