『今週末、お時間はありますか』金曜の夜に届いたメッセージを、土曜の朝になっても見つめていた。花束のお礼も言えなかった。『届きましたか』にも答えられなかった。なのに、また返信できないでいる。ネットで見つけた記事のことが、まだどこかに引っかかっていた。でも返信できないでいる本当の理由は、それだけじゃない気がした。日曜の昼前、気づいたら『今日の午後なら』と打っていた。送信ボタンを押してから、スマホを置いた。自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。◇待ち合わせは、上野の美術館だった。四月の日曜日、美術館の前には家族連れや観光客が行き交っている。その中に、紺のジャケットを着た黒瀬さんの姿を見つけた瞬間、周囲の音が遠のいた。ラウンジや高級レストランで見ていた、隙のないスーツ姿ではない。白シャツにジャケットを羽織っただけの姿は新鮮で、それだけで「プライベートな時間に彼と会っているのだ」という現実が押し寄せてくる。「お待たせしました」「いえ」黒瀬さんが私の顔を一度だけ見た。その目が、いつもより少しだけ柔らかかった。私たちは、並んで中へ入った。◇常設展示の廊下を、並んで歩いた。黒瀬さんはあまり喋らない。けれどその沈黙は、以前より息苦しくなかった。この人の隣の静けさに、いつの間にか慣れてしまっていた。時折、すれ違う他の観客を避けるように黒瀬さんの肩が微かに触れる。そのたびに、ジャケット越しでも分かる彼の体温や、かすかに香るウッディなコロンの匂いに、私の心拍数が勝手に跳ね上がった。仕事の場ではない彼が隣にいる。その事実だけで、展示されている美術品がまるで目に入らなくなるほど緊張していた。廊下の途中で、黒瀬さんのスマホが短く鳴った。彼はそれを一瞥して、画面を伏せた。「失礼」それだけ言って、また歩き始めた。見なかったわけじゃない。確認して、今は不要と判断した。
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