All Chapters of 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜: Chapter 11 - Chapter 20

32 Chapters

第11話 仕事という地面

月曜日の朝、私はいつもより三十分早く出社した。ライトワークスの企画部フロアは、朝八時半でもすでに何人かが出勤している。早出の常連は大体決まっていて、私もその一人だ。自分のデスクに座って、ノートパソコンを開く。画面に映し出されるのは、先週から抱えているドラッグストアチェーンの販促キャンペーンの企画書だ。クライアントからのオーダーは『夏に向けて、若い女性が毎日使いたくなるスキンケアキャンペーンを』先週提出した第一稿に、クライアントの田端さんから大量の赤字が入って戻ってきた。『ターゲットが曖昧。もっと「この子のための企画」という感じが欲しい』抽象的なフィードバックだ。けれどこういう言葉の奥に、クライアントが言語化できていない何かが必ず潜んでいる。それを掘り起こすのが、私の仕事だ。コーヒーを一口飲んで、もう一度企画書を最初から読み直す。「西園寺、おはよ。もう来てたの」声をかけてきたのは、先輩の村田さんだった。三十二歳、企画部のチーフ。いつも少しだけ眠そうな目をしている。「おはようございます」「田端さんの件、まだ悩んでる?」「……はい」村田さんがデスクの端に腰を下ろして、画面を覗き込んでくる。「なんか、過不足なくまとまりすぎてるんだよな、西園寺の企画って」「……そうですか」「悪い意味じゃないけど。資料としては完璧なんだよ。でも田端さんが欲しいのって、そういうのじゃないと思うんだよね」それだけ言って、村田さんは自分のデスクへ戻っていく。私は画面に向き直った。過不足なく、まとまりすぎている。その言葉は、今までずっと自分がやってきたことそのものだった。姉と比べられないように、隙を見せないように、完璧に振る舞う。仕事の企画書も、きっと同じようにまとめていた。正解を探すことには慣れていた。でも、誰かのために本気で泥臭くなることを、私はいつから忘れていたんだろう。◇
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第12話 霧の向こうの顔

伝えたい、と思った。いつも私の本音を引き出してしまうあの人に、真っ先に聞いてほしかった。でも──私はあのお見合いの席に、『西園寺真帆』として座っているだけだ。彼が向き合っているのは私ではなく、姉の肩書きなのだと、冷たい現実が頭をよぎる。膨らみかけた気持ちを打ち消すように、スマホを伏せた。姉に「黒瀬さんの周辺を調べてほしい」と言われたことを、ふと思い出した。仕事の喜びに浮かれていた頭が、すっと冷える。調べたくて調べるわけじゃない。でも、知らないままでいることの方が怖かった。仕事を終えて帰宅し、お風呂上がりの濡れた髪にタオルを巻いたまま、私は再びスマホを手に取った。深夜の静まり返った自室で、液晶のブルーライトが妙に眩しい。少しだけ躊躇ってから、スマホの検索窓に「黒瀬グループ」と入力した。大手ポータルサイトには、きらびやかな企業情報、右肩上がりの沿革、創業者のインタビュー記事など、表向きの華やかな実績がずらりと並ぶ。スクロールを続けていくうちに、画面の隅に一件だけ、毛色の違うリンクを見つけた。経済誌の古い記事だった。三年前、黒瀬グループが関西の中堅不動産会社を買収した際、半年以内に従業員の三分の一が退職したという内容だった。インタビューに答えた元社員の言葉が、一行だけ引用されていた。『事前の説明は一切なかった。ある日突然、辞令が来た』『黒瀬流の冷徹なリストラ』という見出しが、画面の中でひどく目立った。冷酷、強引、容赦のない切り捨て。文字を一行ずつ追うごとに、私の中で何かがぐらついていく。三分の一、という数字を目で追いながら、ふと思った。あの人が『私が置き場所を間違えた』と言った時の、あの迷いのなさ。何かを切り捨てる時も、同じ顔をするのだろうか。あの優しさは、交渉を有利に進めるためのただのビジネススキルなのだろうか。それとも、これが大企業のトップに立つ男の本当の顔なのか。でも。グラスを受け止めてくれた、あの手。
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第13話 西園寺家の事情

実家の最寄り駅を降りると、商店街がいつもの顔で出迎えてくれた。鮮魚屋の威勢のいい声、豆腐屋の白い湯気、八百屋の店先に並んだ春野菜。子どもの頃、祖父と手を繋いでよく歩いたこの道が、今もここにある。けれど西園寺の家は、変わっていた。少しずつ、確実に、内側から崩れるように。呼び鈴を押すと、すぐに母が出てきた。「あら、柚葉。ちゃんと来たのね」月に一度は必ず顔を出しているのに、まるで滅多に来ないかのような言い方だ。促されてリビングへ向かいながら、廊下の壁を何気なく見た。飾り棚が、また空になっている。祖父が大切にしていた青磁の花瓶が、なくなっていた。幼い頃、触ってはいけないと言われていたものだ。先月来た時は、まだそこにあったのに。あの花瓶の前で、祖父によく正座させられたのを今も覚えている。『柚葉、これは触ってはいけないものだが、見て覚えなさい』そう言って、祖父は花瓶の文様を指でなぞりながら、いつどこで誰が作ったものかを静かに教えてくれた。値打ちのことなど、一度も口にしなかった。ただ、美しいものを美しいと感じる目を持てと、繰り返し言われた。『家が傾いても、お前の中にあるものは誰にも奪えない』あの頃は、意味がわからなかった。けれど今は、少しだけわかる気がする。何も言わずにリビングに入ると、座卓の上にはすでにお茶と菓子が用意されていた。◇西園寺の家は、祖父の代まではそれなりの旧家だった。都内に複数の不動産を持ち、「西園寺」という名前が地域でそれなりの重みを持っていた時代がある。だが、父の代で事業が傾き、その後の離婚で決定的に崩壊した。残ったのは、この古びた建物と母、そして「西園寺」という名前だけだった。母にとって、その名前は唯一の拠り所だ。だからこそ母は、姉の真帆を熱心に磨き上げた。美しく、完璧な娘に仕上げて、一流の家に嫁がせることで西園寺の名を立て直す──それが母の描いた筋書きだった。私は、最初からその計算の外側にいた。母の期待の射程に入っていな
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第14話 仮面の宴

翌朝、スマホが鳴った。画面を見た瞬間、指先が冷たくなった。「……もしもし」『明日の夕方ね、黒瀬グループの小さな懇親会があるらしいの。あたしの代わりに出て、黒瀬さんの機嫌を取ってきて』「昨日、直接会いに行くって言ってたじゃない」『気が変わったの』声のトーンは平坦だった。いつもなら「当然でしょ」という傲慢さが滲むのに、今日はそれがない。乾いていて、どこか上の空な感じがした。「そんな急に言われても……」『断るなら、わかってるよね?』「……わかった。行くよ」返事も待たず、電話が終わった。説明も、交渉の余地もなかった。気が変わった。たった一言で片付けたけれど、昨日の姉の目の泳ぎ方が頭から離れない。あの声のトーンも、いつもの姉じゃなかった。何かがあって、直接動けなくなった。だから私を行かせる。──何があったんだろう。◇翌日の夕方、定時に会社を出て会場のホテルへ向かった。規模は小さく、黒瀬グループの関連会社の担当者が数十人集まる程度のものだと姉から聞いていた。エレベーターで二階へ上がりながら、心の中で「西園寺真帆、西園寺真帆」と繰り返す。でも今日は不思議と、その言葉が喉に引っかかった。エレベーターのドアが開いた瞬間、城島さんが立っていた。目が合った瞬間、城島さんが会釈した。「西園寺さん、いらっしゃいませ」一瞬、息が止まった。真帆さん、でもない。柚葉さん、でもない。西園寺さん──姓だけ。深読みしすぎているだけかもしれない。でも、その呼び方がひどく正確なものに聞こえた。「よろしくお願いします」と答えながら、会場の中へ進む。和やかな空気で、スーツ姿の人たちが小さなグループに分かれて話している。窓の外には、都心のビル群が広がっていた。この部屋の中の誰かが、本当の西園寺真帆を知
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第15話 温かい手

白髪をきちんと整えた、背筋の真っ直ぐなご老人だった。年齢の割に足取りがしっかりしていて、歩いてくるだけで周囲の空気が変わる気がした。それでいて、城島さんがさりげなく傍に寄り添っているのが目に入った。黒瀬誠一郎。黒瀬グループの創業者にして、現会長。ビジネス誌やニュースで何度も目にしたことのある人物が、今、こちらへ歩いてくる。まさか、こんな小さな懇親会に自ら足を運ぶなんて聞いていなかった。「あなたが西園寺さんですか」誠一郎さんが、穏やかな声で尋ねた。「はい、西園寺……真帆と申します」偽りの名前を口にする瞬間、罪悪感で喉が重くなった。「そうですか」誠一郎さんが、私の顔をゆっくりと見つめた。黒瀬さんとよく似た切れ長の目。だけど、孫の目とはまったく違う温度で──柔らかく、深い光を湛えたまま、細められた。「……西園寺さん、ですか」小さく、独り言のように呟く。そのまま、少しだけ間を置いた。値踏みでも確認でもない。何かを、慎重に測っているような間だった。「なるほど」もう一度だけ呟いて、誠一郎さんはふっと表情を和らげた。その「なるほど」が何への納得なのか、私には測れなかった。「育ちのいいお嬢さんだ。柊、私は少しあちらの者たちと話をしてくる。お前も席を外してきなさい。さっきから携帯が鳴っているだろう」「……わかりました。西園寺さん、少し失礼します」黒瀬さんは私に一度だけ視線を向けてから、その場を離れた。気づけば、私は誠一郎さんと二人きりでテーブルを挟んで座っていた。◇てっきり、厳しい家柄のチェックや値踏みするような質問をされると思っていた。けれど誠一郎さんは、驚くほど他愛ない話をしてくれた。好きな花のこと、季節の移り変わり、昔の東京の景色。押しつけがましくなく、ただ穏やかに語りかけてくれる。それなのに、どこかで緊張が解けない。
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第16話 城島の言いかけた言葉

閉会のスピーチが始まり、周囲に拍手が広がる。その音の中で私はただ、何も言えないまま立っていた。「──『真帆』さん」という一言が、まだ耳の奥に貼りついている。初めて彼が名前を呼んだ。なのに、温度がなかった。確認するような、試すような。それとも、どちらでもないような。あの一言はいったい、何だったのだろう。その時、一人の役員らしき人が足早に黒瀬さんへ近づいた。「社長、少々よろしいでしょうか」「何でしょう」「例の再開発案件ですが、先方から返答が来ておりません。最終判断は、明日の午前中でも──」役員の言葉を、黒瀬さんが遮った。「明日では遅いです」穏やかな声だった。だが、その場の空気がわずかに張り詰める。「本日中に、数字をまとめてください」「ですが、まだ確認作業が──」「だからです」黒瀬さんは表情を変えない。「確認が終わるのを待っていては、こちらが主導権を失う」役員が口を閉ざした。「今夜中に、私へ報告を」「……承知しました」役員が深く頭を下げて去っていく。そのやり取りを見ながら、私は思わず息を止めていた。声を荒げたわけではない。怒ったわけでもない。それなのに、誰も逆らえない空気がそこにあった。私が知っている黒瀬さんは、コリアンダーを避けてくれる人だった。グラスを受け止めてくれる人だった。雨の夜に傘を差し出してくれる人だった。でも今、目の前にいるのは──その人と同じ顔をした、別の何かだった。どちらも嘘ではない。それがわかるからこそ、怖かった。優しさも、この冷徹さも、同じ一人の人間の中に何の矛盾もなく収まっている。あれだけの人に囲まれながら、誰も彼の本当の顔を見ていない。大勢の中心にいながら、たった一人でいるように見えた。──三年前、従業員の三分の一が辞めた。あの記事の数字が、不意に頭をよぎった。この人が
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第17話 届いた場所

朝、目が覚めた瞬間から、手のひらに鈍い重さがあった。スマホの画面に《真帆お姉ちゃん》という表示を見た瞬間、その重さの正体がわかった気がした。「……もしもし」『おはよう、柚葉』いつもより、少しだけ甘い声だった。姉が甘い声を出す時は、ろくなことがない。『ねえ。まさかあんた、あの男に本気になっているんじゃないでしょうね』一拍、遅れた。「そんなわけないでしょう」できる限り、平坦な声で答えた。『……そう。ならいいけど』姉が少し間を置いた。何かを確かめるような沈黙だった。『だったらお願い。黒瀬さんから何か届いたら、あたしに渡してちょうだい』「そんな約束は──」『それじゃあ、あんたの過去のこと、もう少し調べてみようかしら』言葉が、詰まった。五年前のこと。誰にも話していない、なぜか姉だけが知っているあの夜のこと。「……わかった」答えながら、自分の声がひどく遠くに聞こえた。◇出社すると、フロアはいつも通りの騒がしさだった。デスクに座って、ノートパソコンを開く。先週通った田端さんの企画の次が、もう動き出していた。画面に並ぶタスクを確認して、コーヒーを一口飲む。仕事に向かうはずの頭が、どうしても今朝の電話の方へ引き戻された。誠一郎さんの「なるほど」という呟き。城島さんの言いかけた言葉。黒瀬さんの「『真帆』さん」という、あの一言。それぞれの断片が、頭の中でぐるぐると回り続ける。手元のコーヒーが冷めていることに気づいて、私はキーボードに指を置き直した。今日の仕事は、今日終わらせる。それだけだ。◇花束が届いたのは、午後三時過ぎだった。受付から「西園寺さんにお荷物です」という内線が入って、エントランスへ降りた私は、そこに置かれたものを見て、足が止まった。
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第18話 不器用なメッセージ

デスクの端に、包装紙に包まれたままの花束をそっと置いた。「おかえり西園寺。……って、何そのすごい花束」向かいのデスクから松本くんが目を丸くし、チーフの村田さんまで「お、彼氏からか?」とからかうように覗き込んできた。「違います、仕事の……ちょっとしたお礼で」嘘ではないけれど、耳が熱くなるのを隠すように、私は大急ぎで花束をデスクの陰に隠した。返信しなければ、という気持ちはあった。でも、何を書いても、どこかが嘘になる気がして、画面を開いては閉じることを繰り返した。『届きました、ありがとうございます』──誰に届いたものなのか。『きれいなお花でした』──誰が喜んでいるのか。西園寺真帆として返せば、この花を受け取ったのは姉になる。でも、柚葉として返せば、嘘が崩れる。どちらでもない自分として、この花束を受け取る言葉が、まだどこにもなかった。花束を眺めながら、私は左手の薬指をきつく握りしめた。気づかないうちに、いつもの癖が出ていた。結局、私は返信できなかった。◇仕事が終わっても、花束のことが頭から離れなかった。白いバラは知っていた。でも、あの薄紫の小花だけがどうしても気になって、帰りの電車の中でこっそり画像検索した。スカビオサ、という名前だった。温室栽培のものは、春先から花屋に並ぶらしい。季節より少し早い花。花言葉を調べた瞬間、画面を持ったまま固まった。『私はすべてを失った』『不幸な愛』……なんで、よりにもよってこんな。電車の窓に映る自分の顔が、妙に間の抜けた表情をしていた。黒瀬さんが知って選んだはずがない。きっと花屋に「春らしいものを」とだけ伝えたのだろう。効率を重んじる、あの人らしい頼み方だ。それでも、画面から目が離せなかった。不幸な愛。姉の名前を使って、誰かの隣に立っている。渡すべき花束を、渡せないまま抱えている。これを不幸と呼ばずに、何と呼ぶのだろう。黒瀬さんは知らずに選んだ
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第19話 餃子と直感

仕事から帰って、スマホの中の一文をまた開いた。『気に入らなければ、次は別のものにします』このメッセージを、もう何度読んだだろう。読むたびに笑いそうになり、その少し後で胸の奥が重くなる。同じところをぐるぐる回るだけで、返信はまだできていない。一人で抱えているのが限界だった。だから昨夜、電話口で葵にかいつまんで話した。『今夜行っていい?』用件を言い終わる前に、食い気味にそう返ってきた。◇金曜日の夜、葵が餃子の材料を抱えて部屋にやって来た。「ニラが高かった。割り勘ね」「まずは、お邪魔しますとか、ないの?」「ない」葵がキッチンに入り込んで、勝手知ったる様子で材料を並べ始める。大学から十年近い付き合いだから、今更よそよそしくする方がおかしい。デスクの端に置いた花束に、葵がふと目を留めた。「これ、まだ綺麗に咲いてるね。……大事にしてるんだね」責めるでも、からかうでもない声だった。ただ事実を確かめるような言い方が、胸の奥にすっと入り込んできた。大事にしている。そうだ、姉に渡さず、こうして部屋に飾っている。渡すべきだとわかっていて、それでも手放せなかった。「ほら。柚葉も手、動かして」促されて、私もキッチンへ向かった。◇テーブルに具材と皮を広げて、二人で餃子を包み始める。手を動かしていると、不思議と口が軽くなった。黒瀬グループの懇親会に出たこと。城島さんが「西園寺さん」と姓だけで呼んだこと。誠一郎さんが「今日は来てくれてありがとう」と手を握ってくれたこと、初対面のはずなのに昔からの知り合いのように接してくれたこと。黒瀬さんが「『真帆』さん」と呼んだこと。そして職場に届いた花束のこと、フォローの拙さのこと。話しながら、私は何度も皮のひだを崩しそうになった。葵は餃子を包む手を止めずに、じっと聞いていた。「絶対その社長、柚葉のこと知ってるよ。調べら
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第20話 五年前の夜

葵は何も急かさなかった。ただ、待っていた。「五年前のこと」皿の上の餃子を見つめたまま、口を開いた。「前の会社で、上司が横領しているのを見つけた」葵の手が止まる。「証拠を添えて、内部通報した。でも……証拠の入手に、問題があったの」「問題?」「上司のパソコンのデータを、許可なく見てコピーした。内容は本物だった。横領は事実。でも手段はグレーだった」葵が黙っている。「内部通報は匿名のつもりだったけど、たぶん調べればわかる状態だった。あの時の私には、そこまで考える余裕がなかった」「それで?」「上司は降格になって、職場の空気が変わった。誰も口にしなかったけど、みんなわかってた。私がやったって」喉の奥が、重くなる。「それだけじゃない。巻き込まれて辞めた同僚もいた。何も悪いことをしていない人たちが」葵が箸を静かに置いた。「……あなたのせいじゃないでしょ、それ」「それでも、きっかけは私だった」半年後、居続けられなくなって辞めた。大学を出てすぐの会社だったから、葵とはまだ別の職場だった頃の話だ。「問題は、その元上司が今もうちの会社の主要クライアントの窓口にいること」「……え」「広告の世界は狭いから。あの人が担当してる取引先は、うちの主要案件に直結してる。先日の田端さんの企画も、遡れば同じ線に繋がってる」葵の顔が、わずかに強張った。「姉は、なぜかその人と接点がある。どこで繋がったのかは、私にも分からない。でも、姉が一言言えば、今日明日にでも取引を止められる」私は唇を噛みしめた。「証拠の取り方がグレーだったこと、同僚を巻き込んだこと。業界内で広まれば終わり。場合によっては、法的な問題になることだってある。五年かけて積み上げたものが、一瞬で消える」葵はしばらく黙って、それから低く言った。「&he
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