All Chapters of 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 ミルクココア

雨が上がるまで、もう少し時間がかかりそうだった。「温かいものを」と柊さんが立ち上がって、キッチンへ向かった。ソファに一人で座ったまま、雨音が少しずつ遠くなっていくのを聞いていた。私は、今日のことを順番に思い返した。古本屋で偶然会って、路地を並んで歩いて、カフェで「柊さん」と呼んだ。この部屋に来て、書棚の本に手書きの名前を見つけて、色褪せた写真の前に立った。母親のことを聞いて、少しだけ間があった。まさかこんな一日になるなんて、朝には思っていなかった。しばらくして、柊さんが戻ってきた。「どうぞ」マグカップを差し出された。受け取った瞬間、湯気の甘い香りに気づいた。「……ミルクですか?」「ミルクココアです。……何か不満でも?」柊さんは少しだけぶっきらぼうに、だけど私の反応を窺うように視線を泳がせた。その見たことのない顔に、胸の奥で何かがほどけた気がした。私はマグカップを両手で包んだ。柊さんも、自分のカップをソファの隣で持っていた。部屋の中が静かだった。雨の音だけが、窓の向こうで続いている。どちらも何も言わなかった。それで、よかった。お砂糖とミルクの優しい甘さが、ゆっくりと体の中に広がっていく。甘いものが好きだと、今日初めて自分から言えた。その甘さと、いま手の中にある温かさが、同じ一日の中にある気がした。「……柊さんも甘いものが、好きなんですか」柊さんが、カップを置いた。「普段は、あまり人前で頼めません」「……黒瀬グループの社長が、というやつですか」「城島に、心配させることになります」表情は動いていなかった。でもその一言に、かすかな自嘲と諦めが混じっていた。この人も、人前では言えないことがある。私と同じだ。好きなものを好きだと言えない理由が、この人にもある。立場が、肩書きが、その言葉を飲み込ませる。それを知った瞬間、嬉しいというより、少しだけ切なかった。でも、そ
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第32話 実力で、黙らせる

昨夜、姉から届いた一行のメッセージが、朝から頭を離れなかった。『そろそろ動く時期ね』姉が何をしてくるのか、わからない。ただ、何かが動き始めた、という感覚だけがあった。社内で妙な噂が広まっていることを、葵から聞いたのは水曜日の昼だった。「ちょっと聞いてほしいんだけど、今話せる?」会社の近くにある、少し薄暗い路地裏のカフェ。葵は向かいの席に座るなり、注文したアイスコーヒーにも手をつけず、身を乗り出してきた。いつもの明るく軽いトーンではなかった。左右を気にするようなその仕草に、心臓が小さく跳ねる。「西園寺は黒瀬グループとコネがある、って話、社内で出回ってるらしいよ」「……何それ。どこから?」「分からない。でも、複数のルートから聞いたの。柚葉が黒瀬グループの役員向けの懇親会に出ていただとか、黒瀬社長と個人的に高級店で食事をしてるだとか」コーヒーカップを両手で包んだまま、私はしばらく何も言えなかった。もしかして、これが姉の言っていた「動く」ということなのか。私を揺さぶるために、姉が社内に情報を流したのだろうか。確かめる術はなかった。でも、手のひらが、じわりと冷たくなっていくのを感じていた。「要するに、柚葉が実力じゃなくて、黒瀬社長との『特別な関係』で評価されてるんじゃないかって、周囲に思われてるってこと。悔しいよね、そんなの」私は唇を噛み締めた。「……悔しいよ」口から出たら、思っていたよりずっと深い、ドロドロとしたところから来た言葉だった。コネだと思われることより、自分が積み上げてきたものを見てもらえていないことの方が、ずっと悔しかった。そして、その悔しさの奥に、もう一つ冷たい痛みが横たわっていることにも気づいていた。柊さんとの関係がなければ、こんな疑いを持たれることもなかったのかもしれない。あの人に近づくたびに、自分の仕事の評価が歪んでいく。それが、悔しさの底にある、もっと静かな痛みだった。懇親会に出たのは、元々は姉の命令だった。最初に食
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第33話 あなたの仕事だ

会議室に入ると、見知らぬスーツ姿の男性が二人いた。部長が私に椅子を引いて示してくれた。「西園寺、こちらが『シマ・ビューティー』の本社営業部の方々だ」シマ・ビューティー。先日、私が力を入れて取り組んでいたあの案件の。「先日の提案資料、拝見しました」男性の一人が、丁寧な口調で言った。落ち着いた、よく通る声だった。「あの切り口は、私どもが言語化できていなかったものを、そのまま形にしてもらえたと感じまして」「ありがとうございます……!」自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。「ぜひ一度、詳しくお話を聞かせていただけますか。担当は西園寺さんにお願いしたいと、うちの責任者からも話が出ていまして」指名。その言葉が頭の中で繰り返されて、膝の力が一瞬だけ抜けた。「……私、ですか?本当に、私で良いのでしょうか」「当たり前だろう。西園寺しかいないじゃないか」部長が、少し笑って言った。そこからの打ち合わせは、一時間ほど続いた。先方の担当者は、資料のどの部分が響いたかを、具体的に話してくれた。『選ぶ行為そのものが、今日の自分を肯定する』というコンセプトが、社内での議論を動かしたらしかった。「このコンセプトをさらに展開するとしたら、次はどんな方向性を考えていますか。西園寺さんの個人的な意見を聞きたい」担当者が聞いてきた。予想していた問いではなかった。でも、答えは自然に出てきた。「選ぶ、という行為の前には、必ずお客様の迷う時間があります。その迷いを否定するのではなく、そっと寄り添う。そういうブランドとしての温かい立ち位置が、今の時代にこそ作れると思っています」担当者が、メモを取りながら頷いた。「それです。私たちが求めていたのは、その視点だ」短い一言だった。それだけなのに、机の下で、私の指先がかすかに震えた。あの孤独に悩み
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第34話 降りない

私はメールを二度、読み直した。黒瀬グループ関連企業からの、広告案件コンペへの参加依頼だった。担当プランナーとして、西園寺柚葉の名前が指定されていた。「黒瀬グループ」という文字を見た瞬間、胸が一度だけ跳ねた。なぜ名前が指定されているのか。頭の片隅で、柊さんが関わっている可能性が浮かんだ。今それを確かめたら、仕事として向き合えなくなる気がした。意図的に、その問いを後回しにした。次の瞬間、頭が切り替わった。これは案件だ。プレゼンして、評価してもらうだけだ。「西園寺、確認したか」村田さんが声をかけてきた。「はい」「やるか」「やります」「先方、かなり厳しいらしいぞ。黒瀬グループは特に。中途半端な提案なら切られる」「やります、やらせてください」村田さんが「そうか」と言って、自分のデスクへ戻っていく。その背中を見ながら、私はもう一度メールを開いた。都市部の中規模商業施設のブランディング案件だった。施設の「顔」を作る仕事。人が集まる場所の、空気を作る仕事。黒瀬グループの出発点が「人が集まれる街を作りたい」だったことを思い出した。誠一郎さんが若い頃の写真の前で、柊さんが言っていたことを。この案件は、その精神と直接繋がっている。だとしたら、私が出すべき答えはひとつしかない。人が来たくなる場所ではなく、人がまた来たいと思う場所。その違いを、言葉にすることだ。面白い、と思った。純粋に、仕事として。◇その夜。スマホが鳴った。画面に《真帆お姉ちゃん》と表示されている。「もしもし」『黒瀬グループからコンペ依頼、来たんでしょ』姉の声は、いつもより一段高かった。余裕があるというより、焦りを抑えているような響きだった。どこで知ったのか、聞く気にもなれなかった。「来た」『降りなさい』「なんで」『あんたみたいな子が、黒瀬グループ
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第35話 社長の顔

コンペの説明会がある、という連絡が入ったのは、コンペへの参加を返答した翌日のことだった。『黒瀬グループ本社で、簡単な概要説明を行います。担当者の方は、ご出席をお願いします』メールの文面はビジネスライクで、特別な感情は何も含まれていなかった。だけど、行き先が『黒瀬グループ本社』だと知った瞬間、少しだけ手が止まった。これまで柊さんと会っていたのは、ホテルのラウンジ、レストラン、美術館、カフェ、雨の部屋──どこも、彼の「日常」とは少し違う場所だった。本社に行くのは、初めてだった。◇当日、私は指定された時間にビルへ向かった。エントランスを抜けただけで、空気が変わった。受付の人、行き交う社員、みんなどこか緊張感を纏っていた。私服で来たことを、少しだけ後悔した。もう少し、ビジネスカジュアルを意識すればよかった。「西園寺さんですね」声をかけてきたのは、城島さんだった。「どうぞ、こちらへ」案内されながら、ロビーを歩く。エレベーターに乗って、上の階へ向かう。「緊張されていますか」城島さんが、静かに聞いた。「……少し」「大丈夫です。説明会自体は、形式的なものですから。気負わず行きましょう」その言葉に、わずかに肩の力が抜けた。◇エレベーターを出て廊下を歩いていると、向こうから誰かが歩いてきた。柊さんだった。私が声をかけようとした瞬間、柊さんの前を歩いていた社員が、深く頭を下げて道の端へ寄った。それも一人ではなく、すれ違う人みんなが同じことをしていた。誰も気軽に話しかけない。誰も視線を合わせない。懇親会の夜、役員に向けて短く指示を出していた姿も見ていた。葵からも、「黒瀬グループの社長って、仕事だとめちゃくちゃ厳しいんだって」と聞いていた。知識としては、知っていた。でも、こうして日常の中にいる彼を見るのは、初めてだった。
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第36話 柱の陰で

あのメッセージから、数日が経っていた。コンペの下調べのために、黒瀬グループ関連企業が入居するビルへ向かったのは、木曜日の午後だった。プレゼン当日に初めて足を踏み入れるより、一度見ておいた方がいい。エントランスの雰囲気や、周辺の空気を確認しておきたかった。地下鉄の出口を上がると、初夏の日差しが眩しかった。ビルは、駅から徒歩三分ほどの場所にあった。周辺のビルよりひとまわり背が高くて、入り口の前には黒いスーツの人影が絶えなかった。そこを出入りする人たちを見ていると、説明会の日の柊さんを思い出した。会議室で社員に向けていた、容赦のない声。なのに、電車の中で『忘れてください』と送ってきた、不器用な一文。どちらも本物だと、今はわかっている。私も今日、ここを仕事の場所として自分の目で確かめておきたかった。エントランスの位置とロビーの広さを確認して、踵を返そうとした時だった。「……例の件、あちらの担当者に話は通してある。問題ない」声が、聞こえた。低くて、落ち着いていて、それでいて奥に何かを隠しているような声。心臓が、一拍だけ大きく跳ねた。その一拍の後、体温がすっと下がっていくのがわかった。指先から、感覚が薄れていく。視界の端が、少しだけぼやけた。声が届いた瞬間、記憶の方が先に動いた。あの夜、見知らぬ番号からかかってきた電話。『五年前の件で、一度話したくてね』という、あの声だ。耳の奥で、電話越しのあの声が、今聞こえた声にぴたりと重なった。同じ人間だ、と体が先に理解していた。五年前の廊下。横領の証拠を通報した夜。あの男の顔が、声より先に浮かんだ。全身の血が、一瞬で冷えた。心臓の音が、自分の耳にまで聞こえるくらい大きくなっていた。呼吸が浅くなって、うまく吸えない。「黒瀬グループ側にも、根回しは済んでいる」その一言で、頭の中が白くなった。黒瀬グループ。今、自分が足を踏み入れているこのビルと、同じ
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第37話 見覚えのある背中

肩幅の広い体格、グレーのスーツ。少し癖のある、後ろへ撫でつけた髪。背中を見た瞬間、五年前の記憶が一気に押し寄せてきた。五年前、横領の証拠を私が掴んだ男。降格になっても業界に残り続けた男。姉の脅しの、核心にいる男。そしてさっきの一言──黒瀬グループ側にも根回しは済んでいる。この人が、黒瀬グループに何をしようとしているのか。姉が言っていた「黒瀬の周辺を調べて」という言葉と、この男が今ここにいることは、繋がっているのか。頭の中で、最悪の展開が連鎖していく。もし今、あの人に振り返られたら。もし目が合ったら。五年かけて積み上げてきたものが、今日ここで終わるかもしれない。「……っ」呼吸が、浅くなっていた。肺が小さくなったみたいで、うまく空気が入ってこない。柱にもたれたまま、ゆっくりと息を吸って、吐いた。もう一度、同じことを繰り返した。◇どのくらい経ったのだろう。いつの間にか、辺りは静かになっていた。柱の端から顔を出した。静まり返ったロビーの奥、エレベーターのインジケーターが上へと動いている。二人が完全にビルの中へ消えたのを確認すると、肩の力がどっと抜けた。膝が笑っていた。しばらく、その場を動けなかった。涙が出た。泣くつもりはなかったのに、勝手に出てきた。悔しくて、自分の体の反応が恨めしかった。こんなところで、と思いながら、止まらなかった。しばらくそのままでいて、やがて袖で目を拭った。泣いていても、足は動く。そう思いながら、ビルから離れ始めた。歩きながら、少しずつ呼吸が戻ってくる。城島さんに伝えるべきだろうか、と思った。でも、何を伝えればいいのかがわからなかった。「黒瀬グループに根回しをしていると言っている人間を見た」と告げれば、それで済む話かもしれない。でも、その人が姉と繋がっていて、五年前の私の過去まで知っているとなれ
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第38話 噛み合っていく感覚

五月に入って、コンペまでの時間が読めてきた。締め切りまで、二週間を切っていた。深夜のオフィスには、私以外ほとんど誰もいなかった。画面だけが明るく、フロアの奥が暗かった。その中に、今夜作り直したターゲット分析の資料が広がっていた。市場データ、競合の動き、ターゲットの輪郭、クリエイティブの方向性──一つずつ確かめながら並べ直していくうちに、バラバラだったパズルのピースが、正しい場所にカチリと噛み合っていくような感覚があった。ずっと曖昧だった自分の軸が、今、確かな形になろうとしている。柊さんのことも、姉のことも、この時間だけは頭から消えていた。今ここにあるのは、西園寺柚葉の仕事だけだった。◇資料を印刷して、大量の紙を整理していた時だった。カッターを使って資料の端を揃えようとした瞬間、刃が滑った。「……痛っ」左手の人差し指の先が、じわりと赤くなる。ティッシュを引き出して押さえた。すぐに止まるだろうと思っていたのに、なかなか止まらなかった。ティッシュが赤く滲んでいく。三枚目に替えた頃、ようやく滲み方が緩くなってきた。傷は浅い。でも深夜の静かなオフィスで一人、指を押さえながら座っていると、妙に心細かった。荷物をまとめ始める。今夜はもう帰ろう。そう決めて会社を出た。エントランスを抜けた瞬間、スマホが鳴った。画面を見ると、メッセージが届いていた。『近くを通ったのですが、まだ会社にいますか』柊さんからだった。着信が入った。『柚葉さん、今どちらですか』「……今、会社を出たところです」『夜道は危ないので、送ります』「大丈夫です」『送ります』反論する隙を、与えない言い方だった。仕事の場で、何度もこういう声を出してきたのだろうと思った。今、それが自分に向けられている。◇数分後、エントランスに黒い車が滑り込んできた。後部座席のドアが
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第39話 怖がっていない

会場は、思っていたより広かった。都内のオフィスビルの一室を借り切った形式で、長机が二列並んでいる。審査員席には五人。その右手奥に、関係者席が設けられていた。入り口から室内を確認した瞬間、息が一瞬止まった。関係者席に、柊さんがいた。黒のスーツ。いつも通りの、隙のない佇まい。手元の資料に目を落としていて、こちらにはまだ気づいていなかった。なぜここに。黒瀬グループ関連企業のコンペだとわかっていた。でも柊さんが同席するとは、聞いていなかった。その瞬間、柊さんが顔を上げた。目が、合った。心臓が、一度だけ大きく跳ねる。柊さんの表情は動かなかった。会釈もしない。ただ、こちらを見ていた。──深呼吸。一つ、息を吸って吐いた。私が今日ここにいるのは、西園寺柚葉として仕事をしに来た。それだけだ。気持ちを切り替えて、前を向いた。◇順番は三番目だった。前の二社のプレゼンを後方の席で聞きながら、手元の資料を確かめた。一社目は、データの精度が高かった。数字の裏付けが丁寧で、論理の穴がない。二社目は、ビジュアルが洗練されていた。スライドの一枚一枚に、デザインの意図が見えた。どちらも、良いプレゼンだった。だからこそ、違うことをやるしかない。自分の言葉で話せるか。自分が見てきたものを、そのまま伝えられるか。それだけを、確かめていた。「次、ライトワークスさん、どうぞ」名前を呼ばれた瞬間、私は立ち上がった。◇スクリーンの前に立った瞬間、心臓が大きく跳ねた。あとは、落ち着いていた。部屋が、しんと静まり返った。「それでは、始めます」自分の声が、思ったより落ち着いていた。最初のスライドを出した。「今回、私たちが提案するのは──」自然と、言葉が出てきた。準備してきた言葉ではなく、この企画を作った時に感じたことが、そのまま
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第40話 待っていた

会場を出て、私はしばらく歩いた。スマホの画面を閉じてから、気づくと足が違う方向へ向いていた。黒瀬グループの本社ビルの前に、立っていた。なぜここへ来たのか、わかっていた。わかっていたから、認めたくなかった。柊さんに、話したかった。コンペが終わったこと。緊張したこと。それでもやり切ったこと。関係者席に柊さんがいることに気づいた瞬間、視線が止まったこと。全部、あの人に話したかった。連絡はしていないし、アポもない。ただここに来て、ビルの前に立っている。我ながら、何をしているんだろうと思った。来るつもりはなかった。コンペが終わったら、まっすぐ帰るつもりだった。でも足が、ここへ来た。この足は正直だと思った。頭が「まだ早い」と言っていても、足の方はもう知っている。◇ロビーのベンチに座って、スマホの画面を見つめた。連絡しようとして、できなかった。『コンペが終わりました』と送ればいい。それだけのことだ。なのに、指が動かない。送ってしまったら、今日ここに来た理由が言葉になってしまう気がした。言葉になったら、もう知らないふりができない。「西園寺さん」声がした。顔を上げると、城島さんが立っていた。いつも通りの、物静かな表情だった。「今日は、コンペでしたね」「……はい。なんとか終わりました」「お疲れ様でした」城島さんが、少し間を置いた。「社長は、今日は外出先から戻っておりません。もう少し時間がかかるかと」何も言っていないのに、そう言った。「……あの、私は別に」城島さんが、会釈をした。「では、社長にお伝えしておきます。西園寺さんがいらした、と」それだけ言って、城島さんは奥へ消えた。◇十分ほど経った頃、エントランスの自動ドアが開いた。柊さんが入ってきた。スーツのジャケットを手に持って。外
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