جميع فصول : الفصل -الفصل 20

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第11話

あの夜の飲み会で、周囲に勧められて、昭弘は普段より多く酒を飲んだ。静河はもともと酒気を嫌う性分だった。だから別室で一晩過ごし、匂いが落ち着いてから寝室に戻ろうと思っていた。酔いから覚めて気づいたとき、隣に裸の純子がいた。怒りと恐怖が同時に押し寄せた。これほど大胆な女だとは思わなかった。そして静河が知ったらどれほど傷つくか、離れていくかもしれないと思うと、恐ろしかった。そのとき頭にあったのはひとつだけだった。この過ちを揉み消さなければならない。しかし純子は床に跪いて、泣きながら頼み込んだ。ちょうどそのとき、両親から電話がかかってきた。子どもをどうするのかという催促だった。静河には、産めない事情があった。電話を切ってから、一晩中煙草を吸い続けた。気づけば純子の顔が頭に浮かんでいた。純子は静河の従妹なのだから、生まれてくる子どもは静河に似るかもしれない。純子に産ませて、自分と静河の子として育て、純子には大金を掴ませて追い払えばいい。そう決めた通りに動いた。すべては思い通りに進んでいるはずだった。それなのに、こうして何もかもが崩れた。昭弘の言葉の冷たさに、純子は全身から力が抜けた。うなだれて、握っていた手を離す。昭弘がそのまま出ていこうとしなかったのは、自分の体に惹かれているからだと思っていた。田舎にいた頃から、純子は人の情を信じていなかった。愛などというものにとっくに幻想など抱いていなかったし、体で繋ぎ止めるのも悪くないと思っていた。それなのに昭弘はだんだんと純子に優しくなった。何度も静河を置いて自分のところへ来た。そのうちに純子の心が動いた。欲しいものが増えた。子どもを産むだけでなく、この人と結婚したかった。頭のてっぺんから爪先まで、全部自分のものにしたかった。それなのに昭弘は今、冷たくはっきりと言い渡した。静河が子どもを産めないから、お前が必要だったのだと。昭弘の目に凄みが滲んだ。声だけは冷静だった。「明日の朝、手術を受けろ」静河がいなくなった今、純子の腹の子に用はない。死んだような目をしていた純子が、はっと顔を上げて首を横に振った。「嫌、嫌だッ!あなた、それでも人間なの!?この子だって、あなたの子よ!」泣き崩れながら、何度も頼んだ。お腹の中の子どもだけが、今の純子
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第12話

それだけ言って純子を一瞥もせず、昭弘は自分のオフィスへ向かった。デスクの上に静河と二人で写った写真があった。それを手に取ると、胸の奥がじわじわと痛んだ。しばらくその写真を抱えていた昭弘は、やがて受話器を上げ、静河の知人や友人の電話番号を、片端からダイヤルし始めた。どこへ行ったか、知らないか。みんなに聞きたかった。しかし一本目から百本目まで。返ってくる答えは、常に同じだった。知らない。最後には自尊心を捨てて、長年反目を続けてきた宿敵にまで電話をかけた。嘲笑だけが返ってきた。答えはやはり同じだった。居場所を探すよう手配していた人間からの報告も届く。やはり手がかりなし。静河はまるで煙のように、跡形もなく消えていた。昭弘は力なく受話器を置き、椅子に座ったまま夜を明かした。一方、純子は手術室でひと晩苦しんだ末に、まだ小さな、男の子の胎児を産み落とした。目が覚めると、母親がベッドの傍らに座っていた。田舎の両親から数日前に手紙が届いていたことを、そのとき思い出す。上京して静河と自分に会いに来ると書いてあった。この数日のことが頭に蘇って、また涙が出てきた。「お母さん……っ」言葉は続かなかった。母・森永菊恵(もりなが きくえ)の平手が純子の頬を打った。「お母さん!」純子は腫れ上がった頬を押さえて、信じられない目で母を見た。涙がどっとあふれた。それでも菊恵の怒りは収まらず、もう一度強く手を振るった。「人の旦那さんに手を出すなんて!」菊恵の体は怒りで震えていたが、その奥には深い悲しみがあった。昨晩、昭弘と純子のことは病院中に知れ渡っていた。菊恵が尋ねるまでもなく、周囲の人がだいたいの事情を彼女に教えてくれた。純子の母親だと分かった瞬間、その人の目に浮かんだ嫌悪を、菊恵は一生忘れられないと思った。彼女と夫はこれまで何年も必死に生きてきたが、人からあんな目で見られたことなど一度もなかった。菊恵は口を開くと、涙がこぼれた。「静河ちゃんの旦那さんなのよ!彼女のご両親に、あっちの世界でどんな顔をすればいいの!」菊恵は泣けば泣くほど、胸の奥が締めつけられていった。静河の両親が亡くなったとき、静河の母は最後に一人娘を弟夫婦たちに託した。静河に不自由をさせないようにと、まとまったお金まで持
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第13話

M国へ渡って七ヶ月が経ったある日、静河はようやく国内の友人から一通の手紙を受け取った。その頃にはもう、昭弘の金庫から持ち出したあの金を元手に、不自由のない暮らしを確立していた。M国の首都の目抜き通りに、静河はビルをまるごと一棟買い取った。三階より上を自分だけの空間とし、一階は新聞社へ、二階は近所の人に店として貸し出している。毎日の日課といえば、バルコニーで花に水をやり、コーヒーを片手に新聞をめくるだけだ。静河はコーヒーをひと口含み、思わず顔をしかめた。これだけ時が経っても、あの独特の苦みにはどうしても馴染めなかった。カップをそばの鉄製テーブルに置くと、ようやく封筒の封を切った。差出人の近況を気にかける言葉のあとは、手紙のほとんどが昭弘と純子のことで埋め尽くされていた。静河が姿を消し、密会が世間に知れ渡ってから、昭弘は純子と完全に破局した。純子は流産に追い込まれ、昭弘自身も純子の両親にひどく叩きのめされたという。報せを受けた榎木家の人間が慌てて病院へ駆けつけ、なんとか事を収めようとしたが、すでに一歩遅かった。噂は瞬く間に西京市一帯へと広まっていた。不祥事が公となり、昭弘はとうとう病院を解雇された。榎木家がいくら手を回しても、もはや覆せない決定だった。仕事を失い、家に籠もった昭弘は、来る日も来る日も酒に溺れながら、静河の写真を胸に抱いてその名を呼び続けているという。一方の純子はといえば、不倫の事実が世間に暴かれてからというもの、両親には縁を切られ、所属していた舞踊団からも放り出された。昭弘にしがみつく以外に、もはや道はない。しかし昭弘はとっくに彼女への情を失っており、榎木家とて、どこの馬の骨とも知れぬ田舎娘を嫁として迎え入れるつもりなど毛頭なかった。追い詰められた純子は病院の屋上へ飛び出し、榎木家に入れないならせめて金を出せ、と叫んだ。榎木家が首を縦に振るはずもなく、結局は昭弘が自腹を切ることになった。ところが純子の要求する額はかなりのもので、昭弘は金庫を開けてみてはじめて、中がすっからかんである事実に気づいた。純子と早く縁を切りたい一心で、友人たちに頭を下げて金をかき集めるほかなかった。しかし純子は、金を渡すという名目にかこつけて、またしても昭弘に薬を盛った。だが今回は、前のよ
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第14話

友人たちは顔を見合わせ、これ以上話す気はないとばかりに黙々とステーキを切りはじめた静河をちらりと見てから、話をやめた。その夜、静河は車で送ってくれた友人と別れ、階段をゆっくり上って自室へ戻った。洗面を済ませて浴室から出ると、執事がすでにテーブルに夜食を整然と配膳していた。その上品な料理のそばに、故国から届いたばかりの手紙が一通置いてある。静河が出てきたのを見た使用人は、一礼してそっと部屋を出ていった。静河は椅子に腰を下ろし、コーヒーを飲みながら封を切った。コーヒーの苦みが舌に触れるより早く、手紙の内容に顔色が変わった。差出人は、稔たちが住む村の村長だった。国際郵便の送り方がわからなかったらしく、一週間前に書かれたその手紙が今日ようやく届いたのだという。村長は申し訳なさそうに、純子の不始末を知った菊恵が衝撃で倒れてしまったこと、稔が看病と野良仕事をひとりでこなしていること、もし時間があれば顔を見せてほしいと、そう伝えてきていた。読み終えた静河の目の端が熱くなった。幼い頃から、両親の次に自分をかわいがってくれたのは稔と菊恵だった。渡航してからの数ヶ月も、手紙で体を気遣う言葉を送り続けてくれていた。けれど二人は悪い知らせを隠していた。村長から連絡がなければ、いつまで知らずにいたかわからない。夜食に手をつける気にもなれなかった。静河は使用人に翌朝一番の帰国便を手配するよう頼みながら、クローゼットへ向かって荷造りをはじめた。田舎に暮らす稔と菊恵の前に静河が突然姿を現したとき、二人は驚きと喜びで顔をほころばせた。急いで家の中へ引き入れ、座敷の座布団へと座らせる。「あっちで元気にやってるって聞いてたのに、どうして急に?」静河は持ってきた土産をテーブルに置きながら答えた。「ただ会いたくなっただけですよ」菊恵がため息をついた。「高い旅費をかけてまで帰ってくるなんて、お金がもったいないでしょう」その心配そうな顔を見て、静河の胸がじんと温かくなった。静河は菊恵の手をそっと取った。「体の具合がよくないって聞いたので、明日一緒に病院へ行きましょう」菊恵は首を横に振り続けた。「どこも悪くないわよ、お金の無駄よ」やがて話が以前のことに及ぶと、菊恵は目を赤くして何度も謝った。純子をちゃんと育てられなかった、あんなこ
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第15話

翌日、静河は稔と菊恵を連れて西京市の病院へ向かった。菊恵の状態は思わしくなく、医師に数日間の入院経過観察を勧められた。静河は介護士を手配し、さらに病院そばの一軒家を借りて、菊恵の付き添いを終えた稔が足を伸ばして休める場所も整えた。二人は申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになり、こっそり静河に金を押しつけようとしたが、それもそっと返された。もうそれ以上は何も言えなかった。その日の夕方、面会を終えた静河は、近くの食堂へ夕食を買いに出た。ところが、病院の廊下へ差しかかったとき、前方から、切羽詰まった看護師たちの叫び声が響いた。「道を開けてください!危篤の患者さんです!どいてください!」廊下にいた人々が壁際へ退くなか、ストレッチャーが猛スピードで運ばれてくる。その上に横たわる人物を見た瞬間、静河の体が凍りついた。――昭弘?五年間連れ添った相手でなければ、気づかなかったかもしれない。今の昭弘は、かつての面影をほとんど残していなかった。やせ細った頬には血の気の一片もなく、全身からむせ返るような酒臭さを漂わせており、すれ違った人々が思わず眉をひそめて鼻を背けるほどだった。静河はきつく拳を握りしめ、そのまま外へ向かおうとした。その背後から、ひそひそと声が漏れてくる。「今の……榎木さんじゃない?あんなになっちゃって」「自業自得よ。奥さんとあんなに仲よくやってたのに、よりによってその従妹と浮気なんて」「奥さんが出ていってから毎日飲んだくれて、しょっちゅうここに運ばれてくるらしいわよ」……あとの言葉は耳に入らなかった。静河は足を進め、病院の外の食堂へと向かった。冷たい秋風がひと吹きして、静河は思わずコートの襟をかき合わせた。「すみません、生姜焼き弁当を二つ、野菜炒め弁当を二つ、豚汁を一つ。持ち帰りでお願いします」店員に伝えると、静河は傍らの椅子に腰かけて静かに待った。やがて隣のテーブルに客が数人やってきて、注文を終えると声をひそめて話しはじめた。「ねえ、聞いた?あの森永純子が出てきたって」「え、まだ何年も刑務所にいるはずじゃ……」先に口を開いた女が周りを確かめ、さらに声を落とした。「刑務所に勤めてるうちの旦那の弟から聞いたんだけど、純子、また妊娠してたんですって。あのとき実は、薬を盛る計画は成
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第16話

しかし、静河が知らなかった事実がある。太郎と喜久美は、最初から純子を外に出すつもりなどなかったのだ。出所した純子を榎木家の屋敷に引き取ったその日から、二十四時間体制で見張りをつけた。産婦人科の検診でさえ、榎木家傘下の私立病院でやっている。純子が逃げ出すことを恐れたわけではない。西京市の隅々にまで榎木家の目は光っている。逃げたところで行く場所などない。昭弘が入院している病院へ彼女を連れていかないのは、息子が純子をひどく嫌悪していると知っていたからに他ならない。純子が屋敷にいる事実が昭弘の耳に入れば、腹の子など一日ともたない。純子自身も、逃げるつもりは毛頭なかった。刑務所での日々がよい薬になっていたからだ。それに、今の自分を支える命綱は、お腹のこの子だけだと身に染みてわかっていた。無事に生まれさえすれば、その後の人生は衣食に困らない。だから榎木家の言いつけにはすべて従い、使用人にさえ口ごたえすることなく、借りてきた猫のようにおとなしくしていた。誰もが完璧に隠しおおせていると思い込んでいた。ところが太郎と喜久美は、一人だけ計算から漏らしていた。昭弘付きの執事である。その日、執事は屋敷に昭弘の着替えを取りに来て、思いがけずその場面に出くわした。喜久美が使用人たちにきつく口止めをする姿も、目の当たりにした。執事は着替えを取るのも忘れ、そっとその場を離れた。病室で目を覚ました昭弘は、何かを言いたげにためらっている執事の様子に苛立ちを覚えた。「また何かあったのか」静河が姿を消して以来、昭弘の気性はすっかり荒んでいた。執事は意を決して口を開き、純子が屋敷に引き取られて静養していること、喜久美がそれを昭弘に知らせないよう厳命していた事実を告げた。話し終えると、執事はそっと脇へ退き、怒号が飛んでくるのを覚悟して身を硬くした。しかし昭弘は聞き終えると、ただ手を振って執事を室外へ下がらせた。扉が閉まると、昭弘は持っていたみかんを無造作に置いて仰向けになり、虚ろな目で天井を見つめた。あんな過ちさえなければ、今頃、静河が自分の子どもを宿していたかもしれないのに。男の子なら自分に似て、女の子ならきっと静河そっくりになっただろう。どちらにせよ、二人の面影を持つ子どもが生まれていたはずだ。昭弘は力なく顔を両手で覆い、苦く
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第17話

病み上がりの体をものともせず、昭弘は階段を駆け下り、病室をひとつひとつ覗いて回った。そのとき、ふと足が止まる。廊下の先に、見覚えのある細い背中が見えた。「静河!」思考より先に体が動いた。昭弘は迷うことなく走り出した。ほんの一瞬でも遅れたら、また消えてしまうような気がして。遠くでその聞き慣れた声を聞いた静河は、病室の扉を閉めかけていた手を止めた。振り返ると、昭弘が大股で迫ってくるのが見えた。静河はためらうことなく踵を返し、階段を駆け下りた。なぜあの男がここにいるのか、その経緯などを考える余裕もない。とにかく今は、顔すら見たくなかった。病院を飛び出し、たまたま目についたタクシーに乗り込んだ。「急いでください!」そこへ追いついた昭弘が、すがるように窓ガラスを叩きはじめた。「静河!静河!話を聞いてくれ!頼む、行かないでくれ!」静河はそれを完全に無視し、運転手を急かした。車が走り去るのを見送り、昭弘がたまらず追いかけようとした瞬間、胃を鋭く締めつけられるような激痛に襲われた。思わず体をくの字に折って、腹を押さえる。そのとき、鋭い怒声が飛んだ。「お前ッ!」静河と交代しようとやってきた稔が、その一部始終を目にして、怒りにまかせて昭弘の顔面に拳を叩き込んだ。「よくも静河の前に顔を出せたな!」続けてもう一発。ただでさえ胃の痛みでふらついていた昭弘は、そのままアスファルトに叩きつけられた。地面に這いつくばった昭弘が何かを掴もうと手を伸ばしたが、稔は一瞥もくれず背を向けた。「消えろ。二度と顔を見せるな」この一件で、稔も菊恵もやり切れない思いを抱えていた。あれほどの過ちを犯しておきながら、昭弘がまだ静河に近づこうとしていることへの怒り。そして、ようやくあの男から解放されたはずの静河が、菊恵の入院のせいでまた絡まれることになった申し訳なさが入り交じっていた。菊恵は今すぐ退院して田舎へ帰ると言い張り、静河を早くM国へ戻らせようとした。静河が必死になだめて、ようやく菊恵を思いとどまらせた。西京市に戻ってきた最初の日から、静河はわかっていた。いつかは昭弘と顔を合わせることになると。なにしろ、西京市は榎木家の庭だ。昭弘が本気になれば、飛行機から降りた瞬間から追ってくることだってできたはずだった。タクシーの
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第18話

扉が閉まる音が響いた瞬間、昭弘はようやく我に返り、慌てて静河に閉められた病室のドアを叩いた。「静河、そこにいるんだろう。頼む、話を聞いてくれないか。わざと隠してたわけじゃない。あの夜、俺が酔っている隙に、あいつがつけ込んできたんだ!その場できっぱり関係を終わらせるつもりだった。でも父さんと母さんから子どものことで電話がきて……君にだけは産ませたくなかった。あいつが君に似ているから、生まれてくる子も君に似るはずだと思って……だから俺は……ただ……っ」その先を言うのは、彼自身も気まずかったのだろう。最後の数語だけは、どうしても口にできなかった。扉一枚を隔てた向こう側で、静河はその扉に背を預けたまま、冷ややかな目で虚空を見つめていた。――私に産ませたくなかった?じゃあ、私がこれほど心を痛めていることは、どうでもいいっていうの?心の傷は、体の痛みよりずっと深い。裏切りを知ったあの日、静河は息もできないほどの苦しみに呑み込まれた。昭弘のそばで暮らした日々のなかで、病院の世話になることなどほとんどなかった。けれどあの日、彼女はあまりの苦痛に、手術台から二度と下りられなくなるところだった。その間、昭弘は何をしていたのか――純子のベッドにいたのだ。それに、もっとましな選択肢はいくらでもあったはずだ。それなのに彼は、よりによって最も許しがたい道を選んだ。金で解決したとしても、ほかの女と関係を持ったという事実は消えない。昭弘の独占欲を知っていれば、陰でまた純子を引き留めるようになることは目に見えていた。あの夜、酔っていても、ただ自分たちの寝室へ戻ればよかっただけだ。それに、純子が手を出してくる前から、昭弘の態度はおかしくなっていた。かつて彼の口から出る女の名前は静河だけだったのに、いつからかそこに「純子」という名が混ざるようになっていた。思い返せば、純子が仕掛けてきたのは、昭弘に一線を越える口実を与えた、ただそれだけのことだったのだ。静河は苦しげに目を閉じた。扉の外で昭弘が何を哀願し続けても、静河はいっさい答えなかった。壁の時計の針は、すでに何周も回っていた。それでも外の声はやまない。はっきりした答えを聞くまでは絶対に引かないとでも言うように。途切れ途切れに響く哀願の声は、静河の気を滅入らせるだけでなく、隣
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第19話

静河の声は、どこまでも静かだった。しかしその言葉は研ぎ澄まされた刃となって、昭弘の胸を深く突き刺した。静河に事実を突きつけられ、昭弘はとうとう背中を壁にぶつけた。もう逃げ場はどこにもない。顔面からすっかり血の気が引いている。口を開こうとしても、まともな声にはならなかった。静河はすっと距離を取り、口元の冷笑を消した。「ほら、そんな基本的なことすら答えられないじゃない。これ以上、どんな言い訳ができるっていうの?昭弘、できることなら、あなたのことなんて、最初から知らなかったことにしたいわ」そうすれば、こんなに何度も傷ついたり、これほど長く苦しんだりせずに済んだのに。静河が見つめる先で、昭弘の瞳には深い苦悩が滲んでいた。昭弘はこれまで幾度となく弁明を重ねてきたが、浮気という絶対的な事実の前では、どんな言葉も色褪せる。ただの滑稽な笑い話でしかない。静河は黙って元夫を見た。その瞳に何の揺らぎもない。昭弘が絶句したまま立ち尽くしていると、静河はようやく淡々と口を開いた。「……話はそれだけ?」昭弘はびくりと肩を揺らし、慌てて首を横に振った。まるで叱られるのを待つ子どものように、緊張した眼差しで彼女を見つめていた。しかし静河は何も返さなかった。これ以上ここに留まる意味はない。下で稔と菊恵を待たせているのだから。静河は背を向け、ただひと言だけ残した。「もう二度と、私に会いに来ないで」その言葉が告げられた瞬間、昭弘はその場に崩れ落ちた。遠ざかる静河の背中を、絶望に染まった瞳で見送りながら。そこまで俺を憎んでいるのか。ただ一度のチャンスさえ、与えてはくれないというのか。「……はは」長い沈黙のあと、昭弘の唇の端に苦い笑いが滲んだ。静河の冷徹な拒絶が骨身に堪えたのか、その後しばらく昭弘の姿は見えなかった。菊恵が順調に回復して退院すると、静河はふたりを、あらかじめ借りておいた一軒家に滞在させることにした。西京市をゆっくり観光してから、田舎へ帰ってもらおうと考えてのことだ。ある日の午後。稔と菊恵が昼寝をしている隙に、静河はひとりで外へ出ようとした。扉を押し開けると、かつてのお隣さんである顔見知りの女性たちが数人、ドアの前に立っていた。「静河ちゃん!帰ってきたって聞いたから、顔を見に来たのよ」――聞いた?
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第20話

夢の中で、昭弘は片膝をついていた。自ら丹精込めて作り上げた婚約指輪を手に、白いウェディングドレスをまとった目の前の女性を、深い愛情を込めた瞳で見つめている。「静河、俺と結婚してくれるか?一生、君だけを愛し続ける。ずっとそばにいる。絶対に、裏切らない」やがて目の前の女性がゆっくりと顔を上げた。そこに浮かび上がったのは、静河ではなく、純子の顔だった。それでも昭弘は気づかないかのように、変わらぬ眼差しで見つめ続けている。純子が口を開こうとした瞬間、静河は夢から覚めた。ぼんやりと窓の外を見つめながら、なんとも後味の悪い夢だと思った。扉をノックする音が響いた。「静河ちゃん、起きてる?」菊恵の声が聞こえ、静河は頬を軽く叩いて声を返した。「はい、起きてますよ」菊恵がドアを開け、封筒を差し出した。菊恵によると、友人から届いたものらしい。帰国してすぐ旧友と偶然顔を合わせたとき、別れ際に住所を聞かれた。近々結婚式の招待状を送ると言っていたのだ。礼を言って受け取り、封を開けると、中身は案の定、その招待状だった。大切な友人のため、静河は翌朝いつもより早く起き、デパートへ贈り物を選びに行った。ところが二階へ上がった途端、前方から大勢の客がぞろぞろと歩いてきた。人々が道を譲るなか、静河は慌てて脇の店舗へと身を寄せた。人の波が目の前を過ぎ去ろうとしたとき、ふと、ある一点に視線が引き寄せられた。次の瞬間、静河は思わず目を見開いた。純子?かつてぱっと目を引く鮮やかな花のようだった純子は、今や色あせた影のようにやつれていた。骨ばった体に不釣り合いなほど大きなお腹を抱え、生気のかけらもない顔でそこに立っていた。まるで、全身から生気が抜け落ちたように見えた。静河だけでなく、傍を歩く人々もひそひそと囁き合っていた。「あれが純子さん?見る影もないわ。榎木家はご飯も食べさせてないの?」そばにいた人が、せせら笑うように言った。「とんでもない。榎木家の人間が口の中に押し込むくらい食べさせてるって、あそこで勤めているうちの妹が言ってたわ。ただ、悪いことをしすぎたせいで、食べるそばから吐いてしまうらしいの。昭弘さんも妊娠を知ってからというもの、あの手この手で精神的にいたぶっていて。奥様が見張ってなかったら、お腹の子もとっくに
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