LOGIN西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。 「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移住するつもりですか。ご主人の榎木昭弘(えのき あきひろ)様は、まだ渡航の許可が下りていないと伺っております。ここにご署名、ご捺印なさいますと……当分、お会いになるのは難しくなるかもしれません」 静河に迷いはなかった。印鑑を手に取り、申請書に静かに判を押した。 ――一生、会わなくていい。それでいい。 それ以上は何も言えず、係官は書類を受け取った。 「では、手続きには二週間ほどかかります。今しばらくお待ちください」 静河は小さく頷き、窓口を離れた。出口へ向かう背中に、職員たちの低い囁きが追いかけてくる。 「榎木様とご主人、何かあったのかしら……でも、ここまでなさらなくてもねえ。あのご夫妻、西京市内でも評判のおしどり夫婦だったのに」
View More静河は軽く笑った。「どれほど私を愛していたとしても、それが何だというんですか。結局、あの人は浮気したじゃありませんか。あの人だけじゃない、彼の友人たちも、みんな私に隠していました。もしかして、あなたも私に隠していたのではありませんか?」かつて純子が静河の誕生日パーティーの最中に、妊娠が原因で倒れた一件。あれほど大騒ぎになったのだ。喜久美が知らなかったなど、静河にはどうしても信じられなかった。案の定、喜久美の表情はこわばった。昭弘と静河が結婚してから、喜久美はずっと、早く子どもを作るよう二人を急かしていた。けれど一人は体の問題で子どもを産めず、もう一人は妻を思いやるあまり、子どもを望まなかった。それが喜久美には腹立たしくて仕方なかった。だから静河の顔を見るたびに、心の中がひどく不快になり、自然といい顔などできなくなっていた。だからこそ、純子が妊娠したと知ったとき、喜久美はとうに礼儀も何もかも置き去りにしていた。浮気が榎木家にとって、どれほど恥ずべきことなのかも忘れていた。たとえ昭弘の父の太郎がそのことで毎日のように喜久美に冷たい顔を向けても。たとえ静河がそのことで、毎日ひそかに心を痛めていても。喜久美には、そんなことはどうでもよかった。何よりも大切なのは、榎木家の跡取りとなる孫の顔を見ることだった。喜久美のその反応を見て、静河の目にかすかな皮肉がよぎった。自分の息子の浮気を後押ししておきながら、なぜ今さら、昭弘に完全に失望し、心を閉ざした自分を説得しに来るのだろう。「奥様。帰ったら、あの人に伝えてください。彼は自分を苦しめているだけではありません。私のことも苦しめています。昔、私に与えた傷だけではまだ足りないとでもいうのでしょうか。私を死ぬまで追い詰めなければ、気が済まないのですか?」そう言い終えると、静河はもう喜久美の反応を見ることもなく、軽く手を上げ、出ていくよう促した。喜久美も、立ち上がって出ていくしかなかった。一方、病院。喜久美の後ろに誰の姿もないことを見た瞬間、昭弘の目に残っていた最後の光が、完全に消えた。彼は何も言わなかった。ただ手を振り、喜久美に外へ出るよう示した。昭弘は手の中の結婚写真を持ち上げた。後悔の涙が、写真の中で花のように笑う静河の顔の上へ落ちた。
しかし昭弘は、その場に微動だにせず立ち尽くしたままだった。それどころか、また静河の手を掴もうとした。静河は彼の手をそのまま押しのけ、先ほど酔いが回っていた友人を、ほかの友人たちと一緒に病院へ送ろうとした。けれど一人の友人がすぐに前へ出て、静河の申し出をやんわり断った。そもそも今日の食事は、静河を見送るために開いたものだった。それなのに、最後はこんなことになってしまった。自分たちは申し訳なく思うことこそあれ、これ以上、彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。そう言って、その友人は静河の背を軽く押し、早く帰って荷造りをするよう促した。静河もそれ以上は何も言えなかった。そして身を翻し、外へ向かって歩き出した。「待って、静河!」昭弘はずっとそばで彼女を見ていた。彼女の友人が、早く帰って荷造りをするようにと言ったのを聞いた瞬間、彼の胸に突然、激しい不安が走った。彼は思わず静河の手を強く掴んだ。「荷造りって……またどこへ行くつもりなんだ?」昭弘の額の血は手当てされていたが、そこには痛々しく裂けた傷だけが残っていた。その傷の下にある、怯えきった目。そのせいで、今の彼はひどく哀れで、どこか滑稽にさえ見えた。静河は答えなかった。ただ、自分の手を彼の手から引き抜こうとした。けれどどれほど力を込めても振りほどけない。それどころか、逆に昭弘に強く抱きしめられてしまった。「教えてくれ。いったいどこへ行くつもりなんだ?」昭弘の声には震えが混じっていた。それでも静河は、相変わらず冷たい表情のままだった。「静河……っ」静河はようやく目を上げ、目の前の男を見た。そして、まるで気にも留めていないように言った。「私がどこへ行こうと、あなたに関係あるの?」昭弘が呆然とした隙に、静河は一気に彼の手を振り払った。そして、そのまま店の外へ歩いていった。「静河!」昭弘が追いかけようとした、まさにその瞬間。次の刹那、凄まじい衝撃が彼の体をまともに襲った。ドン!静河ははっと振り返り、目の前の光景に恐怖で目を見開いた。……昭弘は交通事故に遭い、両脚に障害を負った。それ以来、彼はまるで生気を失ったように、抜け殻のような人間になってしまった。一日中、静河との結婚写真を抱きしめ、何度も何度も彼女の名を呼び続けた。そ
静河はしばらく黙っていたが、やがて昭弘の手を振りほどき、そのまままっすぐ歩き出した。「静河!」昭弘は苦しげに彼女の行く手を遮り、どうして一度もチャンスをくれないのかと問いかけた。再会したあの日から、彼はずっと静河を取り戻そうとしていた。けれど、どれほど弁明しても、どれほど尽くしても、彼女の心は少しも動かなかった。「あんなに俺を愛してくれていたじゃないか。どうしてもう一度だけ機会をくれないんだ?家に純子がいた痕跡が嫌なら、家ごと売る。昔、俺が贈ったものが目障りなら、全部新しく買い直す。俺が汚いと思うなら、何度でも風呂に入る」「じゃあ……あなたの心が汚れてしまったら?」静河が不意に口を開いた。けれど昭弘は、いつまでたっても答えることができなかった。静河は笑った。もう彼を見ることもなく、その場に一人残して去っていった。翌日から、静河は荷造りを始め、M国へ戻る準備を進めた。本来は、稔と菊恵も一緒にM国へ連れていくつもりだった。けれど稔と菊恵は、田舎で一生を過ごしてきた人たちだった。この土地を離れることにも、どうしても未練があった。それを見て、静河もそれ以上は何も言わなかった。ただ出発の前夜、稔と菊恵が気づかないうちに、そっとふたりの枕の下へまとまった現金を忍ばせておいた。それから、国内にいる友人たちを誘って食事をした。食事のあいだ、友人たちは静河がまた遠くへ行ってしまうことを思うと、悲しみが込み上げてきた。「あなたが行ってしまったら、次はいつ会えるかわからないね」「いつか機会ができたら、私たちもM国まで会いに行くから」静河はうなずいた。そして友人たちと互いに住所を残し合い、これからは手紙で連絡を取り合えるようにした。皆は酒を一杯、また一杯と重ねながら、静河と話をしていた。静河が湯呑みの最後のお茶を飲み干し、店員を呼んで淹れ直してもらおうとした、そのときだった。酔いが回った友人の一人が手を振り、自分が淹れてくると言った。皆は慌てて座るよう勧めたが、その人はどうしても聞かず、急須を手に個室の外へ出ていった。ところが、しばらくもしないうちに、外から激しい口論の声が聞こえてきた。個室にいた数人は顔を見合わせ、慌てて外へ飛び出した。見ると、さっきの友人が向かいの席にいた酔客
純子の瞳に宿っていた憎しみが、みるみるうちに恐怖へと塗り替えられていった。榎木家で過ごした日々の中で、純子は昭弘の「やり方」というものを骨身に染みて理解していた。喜久美が二十四時間体制で見張っていても、昭弘の息のかかった者はどこからともなく病室へ忍び込んできたのだ。運がよかったから生き延びられただけで、一歩間違えれば、とうに静かに消されていたはずだった。掴まれた純子の顎が小刻みに震えているのを感じて、昭弘の目がわずかに陰った。静河があのような残酷な真似を嫌うと知っているから、こいつはここまで生かしておいた。ただ、それだけのことだ。腹の子も死んだ。これでひとつ、厄介事が片づいた。昭弘は汚いものを見るように純子の顎を放し、ハンカチで指先をぬぐった。「二度と俺の前に現れるな。もう一度でもその顔を見せたら……今度は、今日みたいな話じゃ済まないぞ」警告を残し、昭弘は病室の扉を力任せに閉めた。その容赦ない言葉に、純子は思わず身震いした。手にしていた布団も、次第にぎゅっと握りしめていた。西京市の反対側。駅で、静河は名残惜しそうに稔と菊恵を見送っていた。電車が走り去るのをしばらく見届けてから、ゆっくりと歩き出す。こちらでの用事は、これで期せずしてすべて片がついた。あとはM国へ戻るだけだ。ここにこれ以上長居しても、余計な煩わしさが増えるばかり。足早に帰り道を歩きながら、静河は借りていた一軒家を家主に返しに行こうと思い立った。「え……?もう誰かが買い取って、私に贈る手続きをしたんですか?」隣に住む老人の言葉を聞いて、静河は目を丸くした。老人は籐椅子に座ってゆったりと団扇を揺らしながら、売買契約の書類を差し出してくる。「ほら、ここにあんたの名前が書いてあるだろう」静河は半信半疑でそれを受け取り、書類の隅に自身の名前を見つけた。見覚えのある筆跡に、眉をひそめる。何かを言いかけたとき、老人が団扇の先で門の外を示した。「ほら、買った本人がそこにいるよ」顔を上げると、逆光の中にひとりの男が立っていた。かつてと何も変わらない、やわらかなまなざしでこちらを見つめている。「静河」「昭弘、これはどういうつもり?」老人に手短に礼を言うと、静河は昭弘の腕を掴んで門の外へと引きずり出した。「こんな埋め合わせ、必
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