遅すぎた後悔と静寂の海 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

22 チャプター

第11話

深夜、宥丸は疲労困憊した体を引きずるようにして邸宅へと帰ってきた。扉を押し開けると、家の中は真っ暗で、ぞっとするほどの静寂に包まれていた。「千穂……?」小さく呼びかけてみるが、その声は部屋にむなしく響くだけで、いっさいの返事はない。手探りで壁のスイッチを押し、明かりをつける。ガランとしたリビングをゆっくりと見渡した宥丸の視線は、やがてテーブルの上にポツンと置かれたひときわ目を引くその診断書に釘付けになった。「失聴完治診断書」そこに印字された文字が、まるでナイフのように宥丸の目を真っ直ぐに突き刺した。心臓はドクンと嫌な音を立て、底なしの深淵へと真っ逆さまに突き落とされたような感覚に陥った。彼は信じられないといった面持ちで、ふらつく足を引きずりテーブルへと近づいた。小刻みに震える手でその診断書を取り上げると、そこに書かれた内容を食い入るように読み進めた。検査結果の欄には、千穂の聴力がすでに一週間前には完全に回復していたという事実が、非情なほど明瞭に記されていた。その瞬間、宥丸の視界がぐらりと激しく歪んだ。「あいつ……聞こえていたのか?」彼は呆然と呟いた。同時に、これまでの記憶が濁流のように脳裏に押し寄せてきた。個室での彼女に対する無情な侮辱。七緒が何度も繰り返した嫌がらせ。ジュエリーショップでの身の毛もよだつような嘘。そして今日の誕生日パーティーでの、身勝手極まりない欺瞞……その一言一句を、彼女はすべて、はっきりと聞いていた。もしかすると……つい先ほど、カメラの前で自分が吐き捨てた、「七緒は、私がこれまでに愛した唯一の女性です」というあの冷酷な言葉すらも。そこまで思い至った瞬間、宥丸はよろよろと数歩後ずさりし、そのまま力なくソファに崩れ落ちた。顔面からは血の気が引き、真っ青になっていた。かつて友人たちに向かって言い放った自分の言葉がフラッシュバックした。「聞こえない方が都合がいい。騙しやすいからな」その言葉が今、刃となって、彼自身の心臓を深く、えぐり取るように刺し貫いていた。彼は弾かれたようにスマートフォンを取り出し、慌てて千穂の番号へ発信した。しかし、耳に届いたのは無機質な自動音声だけだった。「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……」宥丸は通話を切ると
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第12話

千穂が国立研究院に足を踏み入れたその瞬間、まるでまったくの別世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。真っ白な廊下はまるで果てがないかのように奥へと伸びている。千穂がスマートフォンをロッカーに収める際、彼女の指は電源ボタンの上でほんの一瞬だけ止まり――そして、迷いなく押し込まれた。彼女は自分が宥丸からの着信を逃したことなど知る由もない。だが、仮に気づいていたとしても、いまの千穂にとってはもうどうでもいいことだっただろう。金属の蓋がカチャリと閉まる。その静かな響きは、過去のすべてに別れを告げる、厳かな儀式のようでもあった。「新人の試用期間は通常、2ヶ月です」人事の責任者が眼鏡を押し上げると、レンズの反射が彼女の品定めするような視線を覆い隠した。「ですが、あなたに与えられた期間は……わずか1ヶ月」責任者は千穂を見つめた。手渡されたスケジュール表は、分単位で管理される過酷極まりないものだった。千穂は自分の識別番号がある重要プロジェクトの末端リストに印字されていることに気づいた。廊下の突き当たりにある虹彩認証スキャナーが緑色の光を放ち、機械の女声が彼女の認識番号を読み上げる。「KY0364」解析チームのオフィスは、巨大なメインフレームを中心に据え、放射状に広がる蜂の巣のようだった。パーテーションで区切られた30のブースからは、完全に同調したキーボードの打鍵音が響いている。千穂のデスクはエアコンの吹き出し口の真下にあり、絶え間なく吹き下ろす冷風が、常に彼女の計算用紙をカサカサと鳴らす。冷気で手は頻繁にかじかんだが、決して動きを止めるわけにはいかなかった。手が止まることは、すなわちここでの「脱落」を意味するのだ。第一週目が終わる頃には、彼女の右手小指の付け根にタコができていた。それは毎日14時間も休まず端末のキーを叩き続けた痕跡であり、今の彼女にとっては一種の勲章でもあった。睡眠時間は限界まで削られ、コーヒーが彼女の意識を繋ぎ止める必需品となった。ある深夜、データの照合を行っていた際、彼女は第3班から提出されたパラメータに極めて微小な誤差があることに気づいた。システムによって自動補正されるレベルの誤差ではあったが、千穂はあえてそのデータの下に赤ペンで疑問符を書き込んだ。その結果、第二週目に入ってすぐ、彼女
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第13話

翌朝、千穂が自分のデスクに着くと、そこには一枚の銀色のセキュリティカードが置かれていた。それは、Bエリアにあるすべての実験室を解錠できるマスターカードだった。最初の1ヶ月が過ぎた。月末の査定面談に現れた人事の責任者は、あの眼鏡を外していた。白一色で統一されたこの研究院そのもののように、責任者の眼差しは底知れず冷ややかで透き通っていた。千穂はポケットに手を入れ、無意識に何かを探り当てようとしたが、指先に触れたのは支給品のボールペンだけだった。そこには自身の認識番号が刻印されていた。「――あなたは今日から、『オリジン』班への配属となります」手渡された新しい辞令は21ページもの厚みがあり、署名欄の横には真紅のインクで「極秘」の二文字が押されていた。千穂はここでようやく、小さく息を吐き出した。この研究院に足を踏み入れてからというもの、彼女の頭の中で張り詰めていた糸が、かすかに緩んだ瞬間だった。人より短い試用期間は、より高いスタートラインに立てることを意味するが、同時に途方もない重圧を背負うことでもあった。「……ありがとうございます」彼女の掠れた声には、かつてないほどの確かな決意が宿っていた。何はともあれ、千穂はやり遂げた。疲労のあまり見間違いでもしたのだろうか。人事責任者の口角が、ほんのわずかに上がったように見えた。「感謝するなら、ご自分自身にすることです」――あるいは、見間違いではなかったのかもしれない。千穂は研究院の真っ白な廊下に立ち、胸元に下げた銀色のセキュリティカードに指先でそっと触れた。薄い白衣越しに伝わってくる冷たい金属の質感が、これが紛れもない現実なのだと教えてくれた。「KY0364。B-2実験室へようこそ」無機質な機械の女声が響き、虹彩認証スキャナーに緑色の光が走った。分厚い放射線防護扉が音もなく開いた。千穂は深呼吸をして、かつて夢見たその場所へと足を踏み入れた。ほんの3ヶ月前まで、彼女は宥丸から「耳の聞こえない出来損ない」と蔑まれる、哀れな身代わりでしかなかった。だが今は違う。彼女は国立研究院の国家極秘プロジェクト、「オリジン計画」の最年少メンバーなのだ。「篠崎博士、おはようございます」分厚いレンズの眼鏡をかけた研究員が千穂の姿に気づき、軽く会釈をした。「高橋教授がお待ちです」
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第14話

宥丸は静まり返った邸宅のなかに立っていた。千穂が姿を消して以来、どういうわけか、彼自身もこの場所に帰ってくることを無意識に避けるようになっていた。室内の家具の配置は以前と寸分違わない。だが、彼女の私物がごっそりと消えた空間は、ぽっかりと穴が空いたように虚ろだった。次の瞬間には、千穂が買い物袋を下げていつものように玄関のドアを開けて入ってくるのではないか。宥丸は本気でそう錯覚しそうになるが、薄らと降り積もった埃が、無情にも現実を突きつけてくる。――千穂がここから去って、もうずいぶんの時間が経っているのだと。宥丸は強く拳を握りしめた。指の関節が白く変色する。「調べがつかないだと?」アシスタントから差し出された報告書を睨みつける彼の顔色は酷く沈み、その声は氷のように冷え切っていた。傍らに立つアシスタントは深く頭を下げたまま、額に滲み出た冷や汗を拭うことすらできずに怯えている。「社長……篠崎さんの個人情報はすべて暗号化されており、出入国の記録すらも一切残されておりません……携帯電話の番号もとうの昔に解約されており、北の果ての山間部付近で最終シグナルが検知されたのを最後に……ぷっつりと途絶えてしまいました」「途絶えただと?」宥丸は鼻で笑った。「生きた人間が一人、跡形もなく消え失せるわけがないだろうが!」アシスタントは身を縮ませて完全に押し黙り、言葉を返すことなどできなかった。宥丸はどうしても納得がいかなかった。芸能界で長年トップを張り、人脈の広さには絶対の自信があった。彼は動かせるコネクションを片っ端から当たったが、結果はすべて徒労に終わった。そして最後に、様々な伝手を頼って政界の有力者にまで探りを入れたが、返ってきた答えは宥丸にとって到底受け入れがたいものだった。「笠井さん、これ以上嗅ぎ回るのはやめろ」「どういう意味です?」「いくら地位や権力を持とうが、我々のような表舞台の人間が決して触れてはならない領域というものが、この世にはあるんだよ」その言葉は、まるで鋭い棘のように、宥丸の心に深く突き刺さったまま抜けなかった。そして、七緒はここ最近の彼の異常な様子を見逃していなかった。「宥丸、あなた一体、何を探し回っているの?」階段の踊り場で待ち構えていた七緒が、深夜になってようやく帰宅した宥丸を、目を真
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第15話

深夜、千穂は個室寮のベッドで弾かれたように目を覚ました。冷や汗が寝巻きをぐっしょりと濡らしていた。夢の中で、宥丸はまたしても彼女の補聴器をもぎ取り、嘲りの笑みを浮かべながら七緒に向かって言い放った。「こいつはただの耳の聞こえない出来損ないだ。お前には永遠に敵わない」と。暗闇の中を手探りして卓上ランプを点けると、震える指先をそっと自分の耳へ当てた。――そこには何もない。千穂はふと我に返った。今の彼女には、もう補聴器など必要ないのだ。窓の外では、研究院のサーチライトが夜空を白日のように照らし出し、遠くに見える実験棟の明かりも煌々と灯ったままだった。千穂は身を起こしてデスクに向かい、一冊のノートを開いた。ページには実験データや推導式がびっしりと書き込まれていたが、一番最後のページにだけ、色褪せた一枚のメモ用紙が挟まれていた。それはまだ恋を知ったばかりの頃、彼女が宥丸に向けて書いたラブレターの草稿だった。千穂は自嘲気味にふっと笑うと、それを細かく引き裂き、ゴミ箱へと放り捨てた。卓上のデジタル時計に目をやると、時刻はすでに午前3時28分を回っていた。再びベッドに戻り寝返りを打つが、脳内で様々な思考が入り乱れてひどく混乱していた。あの悪夢のせいで、抑えようもなく過去の忌まわしい記憶が脳裏に蘇ってきた。1時間後、千穂はベッドの上に上体を起こした。小さくため息をつき、もう一度眠ろうとするのは諦めた。立ち上がって白衣に着替え、一足早く今日の仕事に取り掛かることにした。この研究院において、不眠症を治す一番の特効薬は「仕事」なのだ。部屋のドアを開けると、廊下には人っ子一人おらず、ただ千穂の足音だけが静寂の中に響き渡っていた。B棟の実験室を通りかかったとき、そのうちの一つのドアがわずかに開いており、隙間から微弱な光が漏れ出ているのに気がついた。好奇心から、千穂はそっとドアを押し開けた。そして、目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。実験室の中央に設置された隔離チャンバーの中に、青白い光を放つ奇妙なクリスタルが宙に浮いていた。以前、彼女も目にしたことのあるあの古代遺跡のサンプルだ。「美しいだろう?」ふいに背後から声がした。千穂が振り返ると、入り口のところに天泰が立っており、両手にはコーヒーが二杯握られていた。「
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第16話

全面ガラスの窓の前に立つ宥丸のスマートフォンが明るく点灯し、アシスタントからのメッセージがポップアップした。【篠崎さんが北の果ての研究院にいたことが確認できました。ですが、こちらからのアクセス権限がすべて、強制的に遮断されました】宥丸は苛立たしげに眉間を揉んだ。ここ数ヶ月、似たような報告を何度受けたことか。だが毎回、千穂の居場所にあと一歩まで迫ったと思った矢先に、必ずこうして手掛かりがぷっつりと途絶えてしまっていた。まるで、見えざる巨大な手が彼女を裏で守護しているかのように。「宥丸、見て。このネックレス、似合うかしら?」七緒がウォークインクローゼットから姿を現した。首元にはダイヤモンドのネックレスが飾られ、部屋の照明を反射して眩いきらめきを放っていた。宥丸は七緒の声に無意識にスマートフォンを隠し、振り返って微かな笑みを浮かべた。「よく似合ってるよ」七緒は不満げに唇を尖らせた。「ちゃんと見てくれてないじゃない!最近、あなたどうしちゃったの?ずっと心ここにあらずって感じで」七緒は歩み寄ると、宥丸の胸元にそっと手を添え、彼を見上げた。「お仕事が忙しすぎるの?」宥丸は顔色を変えずにわずかに身を引いた。「ああ、そうだな。最近はずっと新作映画の件で立て込んでいてね」言いながら手首の腕時計に目をやり、わざとらしく焦ったような表情を作ってみせた。「これから監督と脚本の読み合わせがあるんだ。もう遅刻しそうだ」宥丸は身を屈めて七緒を軽く抱き寄せ、申し訳なさそうな声を出した。「悪いが、先に出るよ。気に入ったものは全部買えばいい。店には俺から伝えておくから」「また行くの?」七緒は宥丸の手をきつく掴み、不満を露わにした。「やっと顔を合わせられたと思ったらもう行くなんて……今週だけでも、もう三回も約束をすっぽかしてるのよ!外のメディアがなんて言ってるか知ってる!?私たちの関係がもう冷え切ってるんじゃないかって、好き勝手に書き立ててるのよ!」宥丸は声を潜め、七緒をなだめた。「七緒、俺の仕事の性質は分かってるだろう。この忙しさが一段落したら、ちゃんと埋め合わせをするから。な?」だがそう言う間にも、七緒の瞳には涙が浮かび、声も縋るように弱々しくなっていた。「宥丸……私、海外のキャリアを捨てて帰ってきたのよ。あなたと一緒にいるために。今は
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第17話

3日後、SNSのトレンド欄は、七緒に関するいくつもの話題で埋め尽くされていた。#白川七緒の障害者虐待#白川七緒のプライベート動画流出#白川七緒の病歴偽造瞬く間にネット上は空前のお祭り騒ぎと化し、野次馬たちがゴシップに群がるなか、大手メディアやまとめサイトもこぞって七緒の特大スキャンダルを書き立てた。七緒のあらゆるSNSアカウントは批判の嵐で完全に炎上し、あれほど熱狂的だったコアなファンたちでさえ、あまりのすさまじい逆風に誰一人として擁護の声を上げられずにいた。自宅マンションの周辺は言うまでもない。スクープの第一報を狙う各メディアの報道陣やパパラッチが蟻の這い出る隙もないほどに殺到し、完全に包囲されていた。七緒は分厚いカーテンをきつく引き、部屋に引きこもるしかなかった。彼女は半狂乱で各所に電話をかけ続けた。一体誰が自分を陥れたのかなどと考えている余裕はない。今はとにかく、この破滅的な事態をどうにかして乗り切らなければならない。だが、誰にかけても、返ってくるのは冷たい電子音ばかりで、一向に繋がる気配はない。七緒は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。絶対に日の目を見ることはないと信じ切っていた彼女の醜悪な秘密の数々が、今や容赦なく暴き立てられていた。一方、宥丸は自分のオフィスに座り、事態の推移を冷ややかな目で傍観していた。彼自身が周到に仕組んだ、この社会的抹殺――七緒には、そう簡単に心が折れてもらっては困る。宥丸は裏から手を回してこれらの証拠を匿名でメディアに提供させ、さらに所属事務所に圧力をかけて七緒へのバックアップをすべて打ち切らせた。そればかりか、彼女が広告塔を務めていた全ブランドのスポンサー契約まで、宥丸自らが直談判して解約させた。デスクの上のスマートフォンがけたたましく震え出し、画面に七緒の名前が浮かび上がった。どうやらパニックに陥り、藁にもすがる思いなのだろう。宥丸はスマホを手に取ると、一瞬の躊躇もなく電源を落とした。「宥丸、出て……お願いだから電話に出てよ!」電話口から無機質な電子音声が流れた瞬間、七緒は呆然と立ち尽くし――次の瞬間、発狂したようにスマホを壁に叩きつけ、粉々にした。七緒は決して馬鹿ではない。宥丸にまで電話を拒絶された時点で、誰がこの悪夢を引き起こした張本人な
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第18話

3ヶ月後。千穂は、研究院メインビルの大きなガラス窓の前に立ち、下の駐車場を見下ろしていた。一台の高級車の列がゆっくりと滑り込んできた。車体には、まるで紺碧の海のような、有名なテクノロジー企業のロゴが印字されていた。「今日は視察団が来るのよ」千穂が窓の前に立ったまま身動き一つしないのを見て、同僚が横から声をかけてきた。「噂じゃ、視察団のトップはあのカリスマ起業家の笠井宥丸らしいわよ。最近テクノロジー投資に舵を切って、すごく話題になってるじゃない?」千穂の瞳が、一瞬にして氷のように冷たくなった。宥丸?ここに?同僚はさらに言葉を続けようとしたが、千穂の血の気を失った顔を見て言葉を飲み込んだ。「篠崎さん?顔色がすごく悪いけど、どこか具合でも悪いの?」同僚が心配そうに尋ねた。「ううん、大丈夫」千穂は深呼吸をして、無理やり自分を落ち着かせた。「昨夜、少し夜更かししすぎちゃっただけ……ところで、視察団は何時に会議室に来るの?」「10時にA-1会議室よ」そう答えてから、同僚は付け加えた。「高橋教授が、あなたにも同席するようにって。なんと言っても、あなたがこのプロジェクトのコアメンバーなんだから」「わかった」千穂が腕時計を見ると、9時45分だった。心を整えるには、ちょうど15分ある。化粧室の鏡の前。千穂は鏡の中の自分を真っ直ぐに見据えた。すっきりと切り揃えられた短い髪、清潔な白衣、そして冷静な眼差し。左頬の傷跡はもうほとんど見えない。パーソナルスペースを越えて、よほど至近距離まで顔を近づけなければ気づかないほどに薄くなっていた。彼女はもう、宥丸に依存するしかなかったあの「耳の聞こえない女」ではないのだ。「私なら、できる」鏡の中の自分に向かって、彼女は静かに言い聞かせた。「ただの赤の他人。そう思えばいい」A-1会議室の扉の前で千穂は深く息を吸い込み、思い切ってドアを押し開けた。室内はすでに人で埋め尽くされており、最前列では天泰が数名の来客と談笑している。その中に、見覚えのある背中があった。まるで彼女の視線を感じ取ったかのように、宥丸が突然振り返った。視線がぶつかったその瞬間、千穂はこれまでの人生で、自分の視力がこれほど良いと思ったことはなかった。彼女ははっきりと見た。宥丸
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第19話

深夜。千穂はたった一人、実験室に残って作業を続けていた。昼間の出来事が彼女の心をひどく掻き乱していた。データの海に没頭している間だけが、唯一思考を冷静に保てる時間だった。「やはりここにいたか」天泰がドアを押し開けて入ってきた。その手には、夜食の入った袋が二つ提げられていた。「昼も君が食事をとる姿を見なかったからね。寮にもいないし、十中八九ここだろうと思ったよ」千穂は無理に口角を上げようとしたが、すぐに諦め、どんよりと沈んだ顔を見せた。「ありがとうございます。でも、まだお腹は空いていなくて」「無関係な人間のために体を壊すなんて、割に合わないだろう」天泰は笑うと、手慣れた様子で箸を千穂に手渡した。そして、もう片方の手で千穂が持っていた資料を取り上げた。「今日、彼が帰る前に、我々のプロジェクトへ10億円の投資を申請してきてね」千穂の手がピタリと止まり、掴みかけたおかずが皿へと落ちた。「……受けたんですか?」「まさか」天泰はフッと鼻を鳴らした。「オリジン計画は国家機密だ。個人の投資など受け入れられるわけがない。だが、彼もずいぶんと誠意を見せていてね。投資の理由は『千穂のために何かしたい』とのことだった」そう言って、天泰はさりげなさを装いながら千穂の顔を窺った。「私は、あの人のものなんて何も必要ありません」千穂は再びおかずを口へと放り込み、くぐもった声で答えた。天泰は小さくため息をついた。「千穂くん。なぜこの計画が『オリジン』と名付けられたか、知っているか?」千穂は首を振った。天泰は、実験室の中央に据えられたメインコンソールを指し示した。「我々が研究しているこの技術は、人類のコミュニケーションの根本的な壁を打ち破るものだ。音も、言語も、そして健常な五感さえも必要としない。まさに、万物が生まれ落ちた瞬間の、あの純粋な状態へと回帰するかのように」天泰は再び千穂に向き直った。「君はかつて、無音の世界で生きてきた。だからこそ、この壁を越えることの本当の意義を、誰よりも深く理解しているはずだ。だがね、科学と人間の感情は対立するものではない。時に、過去を正視してこそ、未来へと力強く踏み出せることもある」千穂の視線が、メインコンソール上で点滅するインジケーターへと吸い寄せられた。そのマシンは、あの古代遺跡のクリスタ
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第20話

宥丸は、これ以上研究院に留まるすべを持たなかった。彼の申し出た投資案は撥ね付けられ、千穂と再会することも叶わない。ひとまず視察団と共に、そこを立ち去るほかなかった。しかし、彼の脳内は千穂の姿で埋め尽くされていた。とうとうマネージャーにもその心ここにあらずな様子を見透かされてしまった。「最近はしばらく自宅でゆっくり休んでください」宥丸はアシスタントを呼びつけ、七緒の近況を尋ねることにした。「白川さんは……その、あまりよろしくない状態のようです」時間が経つにつれ、ネット上の炎上騒ぎは収束するどころか、ますます激しさを増していた。家の周囲に群がっていた記者たちはとうの昔に姿を消したというのに、七緒は未だに部屋に引きこもったままだ。宥丸が彼女の部屋へ足を踏み入れたとき、目の前にいる人物が、かつて華やかで美しかったあの七緒だとは、にわかには信じがたいほどだった。ひどくやつれ果てた七緒は宥丸の姿を認めるやいなや、這いつくばるようにしてすがりついてきた。「宥丸……宥丸!私が悪かったわ、お願いだから助けて!彼ら、絶え間なく電話をかけてきて、私のことを罵るの……!怖いの、ねえ宥丸、助けてよ!」だが、宥丸は一言も発することなく、ただ冷ややかな瞳で彼女を見下ろしていた。七緒の瞳に灯っていたかすかな期待の光が、みるみるうちに消えていった。口から吐き出される言葉も、哀願から怨み言へと変わっていった。「私を許す気なんて、最初からないんでしょう!あんな耳の聞こえない女のために!」その言葉を聞いた瞬間、宥丸はついに反応を示した。彼はゆっくりと身を屈め、憎悪に満ちた七緒の瞳を真っ向から見据えた。「あいつを許さなかったのは、お前の方だろう。千穂の顔を刃物で切り裂き、あまつさえ悪びれもせず、人を雇って千穂をめちゃくちゃにさせるとまでほざいた……お前がここまで底意地の悪い毒婦だったとは、以前の俺は気づきもしなかったよ」七緒はその場で凍りつき、狼狽した様子で尋ねた。「どうして……それを、知ってるの……?」宥丸は顔色一つ変えずに言い放った。「俺が知っているのはそれだけじゃない。今こんなに落ちぶれているってのに、お前のあの何人もの愛人たちは、どうして助けに来てくれないんだろうな」「ち、違う……!愛人なんていないわ、私には宥丸しかいないの
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