夜明けより少し遅れて、屋敷の空気が壊れた。 いつもなら、ヴァルダンジュ伯爵家の朝は、磨き上げられた銀器のように静かに始まる。まだ陽の色が薄い時刻、東棟の長い廊下には淡い金色の光が斜めに差し込み、窓硝子の向こうで白く霞んだ庭木が、朝露をまとってじっと息を潜めている。侍女たちは靴音を立てぬよう細心の注意で行き交い、暖炉にくべられた薪は小さく鳴って、台所からは焼きたてのパンと溶かしバターの匂いが流れてくる。誰もが決められた持ち場で、決められた速度で、決められた朝を作る。 けれどその日は違った。 どこかで扉が勢いよく開く音がした。続けて、押し殺しきれていない悲鳴のような声。階下から駆け上がってくる足音が、いつもの抑えた歩調を忘れたまま、廊下の空気を荒く震わせていく。銀盆の上で何かが触れ合い、甲高い金属音が短く鳴った。そのひび割れたような響きが、まだ寝台の上にいたセレフィアの胸を、薄い氷の針みたいに掠めた。 寝台の天蓋越しに見える薄青い朝の気配は穏やかなままだったのに、部屋の外だけが、急に違う屋敷になってしまったようだった。 セレフィアは、掛布の上に置いていた手をそっと握る。指先が冷えている。春が近いとはいえ、朝方の空気にはまだ冬の名残があった。肌着の上から羽織った薄い寝衣の裾を寄せながら身を起こすと、枕元の卓上時計が、普段よりほんの少し遅い時刻を指していた。姉の婚礼を三日後に控えたこの時期、屋敷の朝が乱れることなど、本来ならあり得ない。 胸の奥で、よくない予感が、音もなく沈んでいく。 すぐに扉が叩かれた。「お嬢様、失礼いたします」 いつもの控えめな調子ではなかった。切羽詰まった、けれど必死に整えようとしている声だ。「……入って」 返事をすると、侍女のミレナが顔色をなくして入ってきた。栗色の髪をきちんと結い上げたはずなのに、耳の脇が少しだけ乱れている。呼吸も浅い。彼女は盆の上に洗面用の水差しを載せていたが、その銀の縁が、かすかに震えていた。「何かあったの」 問うた声は、自分で思っていたより落ち着いていた。けれどミレナはすぐには答えなかった。喉の奥で一度息を詰まらせてから、慎重に言葉を選ぶように唇を開く。「オルフィーヌ様が……お部屋に、いらっしゃらないのです」 最初、その意味がわからなかった。「……え?」「昨夜のうちに、お部屋を出られたようで。
Last Updated : 2026-06-20 Read more