「……どなたですか」 自分で思っていたより、声は落ち着いていた。少なくとも表面上は。 扉の向こうで一拍の沈黙。 それから返ってきた声に、セレフィアの指先がさらに冷えた。「ゼルヴァンだ」 低い声だった。昼間、城門の前で聞いたのと同じ、余計な熱のない声音。飾らず、押しつけず、それでいて拒みがたい声。 喉が詰まる。 来ると思っていなかったわけではない。むしろ、どこかで待っていた。待っていたからこそ、現実になった瞬間に呼吸が浅くなる。「……どうぞ」 そう返したところで、手が震えているのに気づく。急いで膝掛けの下へ隠す。扉が開く音は静かだった。蝶番ひとつ鳴らず、ただ重い気配だけが部屋へ入ってくる。 ゼルヴァンは一人だった。 黒に近い濃紺の上着の上へ薄い毛織の外套を羽織っている。昼間より軽い装いだが、それでも体の線は隠れすぎず、無駄のなさだけがよく見える。部屋の暖かさの中でも彼は汗ひとつかいておらず、外気の冷えをそのまま少しだけまとってきたようだった。髪にはもう雪はない。だが眉尻の古傷のあたりに落ちる影が、昼間よりも濃く見える。 扉が閉まる。 その音がやけに重かった。 セレフィアは椅子から立ち上がろうとした。けれど足へ一瞬うまく力が入らず、立つ動作が半拍遅れる。その遅れをゼルヴァンが見たかどうかはわからない。「長旅のあとにすまない」 彼が言う。「少しだけ話がしたい」 その言い方に怒気はない。責めるような色もない。けれど、それがかえって恐ろしい。もし糾弾されるのなら、もっとわかりやすく怒られたほうがまだ楽だったかもしれない。静かな言葉のほうが、逃げ道がない。「……はい」 セレフィアはどうにか立ち上がり、礼をしようとする。だがゼルヴァンが軽く手を上げた。「座ってくれ」「ですが」「君も疲れているだろう。形式は今はいい」 形式は今はいい。 その一言に、胸の奥がざわめいた。形式ではない何かを、これから扱うつもりなのだと、その言い方だけでわかってしまう。 ゼルヴァンは暖炉の向こう側、セレフィアと斜めに向かい合う位置へ立った。座らない。立ったまま、火の明かりを半分だけ受けている。その影が背後の壁へ細く長く落ちる。銀鉄色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。 沈黙が落ちた。 暖炉の薪がひとつ、ぱちりと弾ける。その音があまりにも大きく聞こえた
Last Updated : 2026-07-08 Read more