All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 31 - Chapter 40

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第6話 あなたは姉ではない②

「……どなたですか」 自分で思っていたより、声は落ち着いていた。少なくとも表面上は。 扉の向こうで一拍の沈黙。 それから返ってきた声に、セレフィアの指先がさらに冷えた。「ゼルヴァンだ」 低い声だった。昼間、城門の前で聞いたのと同じ、余計な熱のない声音。飾らず、押しつけず、それでいて拒みがたい声。 喉が詰まる。 来ると思っていなかったわけではない。むしろ、どこかで待っていた。待っていたからこそ、現実になった瞬間に呼吸が浅くなる。「……どうぞ」 そう返したところで、手が震えているのに気づく。急いで膝掛けの下へ隠す。扉が開く音は静かだった。蝶番ひとつ鳴らず、ただ重い気配だけが部屋へ入ってくる。 ゼルヴァンは一人だった。 黒に近い濃紺の上着の上へ薄い毛織の外套を羽織っている。昼間より軽い装いだが、それでも体の線は隠れすぎず、無駄のなさだけがよく見える。部屋の暖かさの中でも彼は汗ひとつかいておらず、外気の冷えをそのまま少しだけまとってきたようだった。髪にはもう雪はない。だが眉尻の古傷のあたりに落ちる影が、昼間よりも濃く見える。 扉が閉まる。 その音がやけに重かった。 セレフィアは椅子から立ち上がろうとした。けれど足へ一瞬うまく力が入らず、立つ動作が半拍遅れる。その遅れをゼルヴァンが見たかどうかはわからない。「長旅のあとにすまない」 彼が言う。「少しだけ話がしたい」 その言い方に怒気はない。責めるような色もない。けれど、それがかえって恐ろしい。もし糾弾されるのなら、もっとわかりやすく怒られたほうがまだ楽だったかもしれない。静かな言葉のほうが、逃げ道がない。「……はい」 セレフィアはどうにか立ち上がり、礼をしようとする。だがゼルヴァンが軽く手を上げた。「座ってくれ」「ですが」「君も疲れているだろう。形式は今はいい」 形式は今はいい。 その一言に、胸の奥がざわめいた。形式ではない何かを、これから扱うつもりなのだと、その言い方だけでわかってしまう。 ゼルヴァンは暖炉の向こう側、セレフィアと斜めに向かい合う位置へ立った。座らない。立ったまま、火の明かりを半分だけ受けている。その影が背後の壁へ細く長く落ちる。銀鉄色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。 沈黙が落ちた。 暖炉の薪がひとつ、ぱちりと弾ける。その音があまりにも大きく聞こえた
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第6話 あなたは姉ではない③

 ゼルヴァンはそんな彼女を見ても、声を荒らげなかった。近づいてもこない。怒鳴りつけるでもなく、扉を開けて人を呼ぶでもなく、ただ静かにこちらを見ている。 その静けさが、むしろ残酷だった。「……申し訳」 やっとのことで出た声は掠れていた。「申し訳、ございません……」 それしか言えなかった。何から先に詫びればいいのかもわからない。姉が失踪したことか。家が自分を差し出したことか。辺境伯を欺いたことか。手紙のやり取りの中へ自分の言葉を混ぜ込んでいたことか。どれも、どれも詫びても足りない。 けれどゼルヴァンは、謝罪の言葉を途中で遮るようにわずかに首を振った。「責めるために来たわけではない」 その一言に、セレフィアはむしろ混乱した。「……え」「今はまだ、何があったかを聞く前に、まずこちらの認識だけを伝えるべきだと思った」 認識。 その言葉の選び方が、ゼルヴァンらしいと思ってしまう。怒りや感情をぶつけるのではなく、まず事実の輪郭から置く。まるで書簡の文面のように。 セレフィアは唇を開いたが、声が出ない。 ゼルヴァンは少し視線をずらし、暖炉の火を横目に見た。そしてまたセレフィアへ目を戻す。その視線は厳しいが、無意味に冷たくはなかった。必要以上に追い詰めないよう距離を測っているようにさえ見えた。「最初に違和感があったのは、婚約後に届いた返書だった」 セレフィアの心臓が、また一つ大きく打つ。 やはり、そこなのだ。「王都で見聞きするオルフィーヌ嬢の評判と、手紙の文が一致しなかった」 ゼルヴァンの声は低く、一定の速さで続く。「私は王都の噂話を鵜呑みにする気はない。だが、少なくとも耳に入る人物像と、便箋の上にいる書き手には、かなり開きがあった」 セレフィアは膝の上で手を握った。手袋を外した指先が白くなる。「最初は、本人が意外に思慮深いのだろうとも考えた。社交の場で見せる顔と、書く時の顔が違う人間は珍しくないからだ」 そこまで聞いて、胸の中にほんの少しだけ痛みに似たものが走る。もしそうであればよかったのに、と一瞬だけ思ってしまう。オルフィーヌにも、自分の知らない思慮深さがほんとうはあって、それが手紙にだけ現れていたのなら。そうなら、こんなふうに罪悪感へ変わることもなかっただろう。 だが現実は違う。「けれど、文が重なるごとに、その違和感は大きくな
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第6話 あなたは姉ではない④

 そこまで言われると、セレフィアはもう逃げ場を失う。 あの一文は、たしかに自分の奥に近すぎた。だから返書を書き終えたあとで、ひどく躊躇したのだ。それでも削れなかった。削ればただの花嫁の文にはなっただろう。だが、自分にとってはあまりにも嘘になりすぎた。 そしてその嘘でない部分こそを、彼は見つけていた。「……では」  声が、ひどく小さく出る。 「最初から、ずっと……」「最初から、というほど早くはない」 ゼルヴァンは訂正した。「ただ、手紙の主に対して私が抱いていた印象と、王都で実際に見聞きするオルフィーヌ嬢の気配が噛み合わなかったのは事実だ」 事実。 その言葉が静かに胸へ落ちる。 セレフィアはゆっくり息を吸った。暖炉の熱で空気は温かいはずなのに、肺の内側だけが冷たい。目の前の現実が、痛いほど鮮明だ。 彼は読んでいたのだ。 社交辞令の向こうにあるものを。姉の名の下へ紛れ込んだ、自分の言葉を。考えを。視点を。 そのことが恐ろしく、同時に、どうしようもなく苦しい。救いだった時間が、まるごと今の断罪の理由へ変わっている。 セレフィアはようやく顔を上げた。ゼルヴァンはまだ立ったまま、こちらを見ていた。「……では、城門で」「確認した」  彼は短く言った。 「話し方、沈黙の置き方、寒さへの反応。私が手紙の中で知っていた書き手と、目の前の君は一致していた」 一致していた。 その言葉に、胸が締めつけられる。心臓のあたりへ冷たい指を差し入れられたみたいに。 手紙の中で知っていた書き手。 それはオルフィーヌではなく、セレフィアだった。セレフィアの感覚で考え、選び、削れなかった言葉たち。誰にも見えないところで、誰かの名前を借りて書いていたはずのもの。 それを知っていたのだ、この人は。「そんな……」 言葉にならない。何を言えばいいのかわからない。否定もできないし、認める勇気も足りない。認めた瞬間に、すべてが決定的に壊れる気がする。 けれどもう、十分壊れているのかもしれない。 セレフィアは視線を膝の上へ落とした。自分の手が、知らないほど強く握られている。爪が掌へ食い込み、赤い月形の跡をつくっているだろうと思う。「……申し開きは、ございません」 やっとそれだけを絞り出した。「姉は……オルフィーヌは、婚礼の三日前にいなくなりました。父と母は
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第6話 あなたは姉ではない⑤

 尋ねる声はかすれていた。 ゼルヴァンは一歩だけ暖炉へ近づいた。火の明かりが頬の線を少し和らげる。「君が、どういう立場でここへ来たのかを知る必要があった」  それから少し間を置き、 「そして、君自身がそのことをどこまで理解しているのかも」 理解しているのか。 もちろん理解している。自分が偽りであることも、ここへ来たことの重大さも、辺境伯家に対して働いた無礼も。理解していないふりをできるなら、どれほど楽だったか。「理解しています」  セレフィアは答える。 「だからこそ、恐ろしいのです」 その言葉は、今度は驚くほど素直に出た。 恐ろしい。 家に逆らえなかった自分も。ゼルヴァンに会うまでの道のりも。手紙の向こうにいた人が目の前に立って、自分の偽りを見抜いていることも。全部が恐ろしい。 ゼルヴァンはその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を伏せた。「そうだろうな」 たったそれだけだった。だがその短い肯定は、思いがけないほど静かに胸へ落ちた。恐ろしいと口にした時、否定されるか、あるいは「当然だ」と切り捨てられるかと思っていたのだ。それなのに彼は、ただそうだろうな、と言った。大きく慰めるわけでもなく、責めるわけでもなく。 セレフィアはその一言で、かえって息が詰まりそうになる。 どうしてこの人は、こんな時まで紙の上と同じような返し方をするのだろう。誇張せず、けれど相手の言葉を雑に扱わない。だから余計に、胸の奥が痛い。「……手紙のことまで」  セレフィアは絞り出すように言う。 「見抜いていらしたのに、なぜ婚姻を進めたのですか」 そこには責める響きはなかった。ただ、本当にわからなかったのだ。違和感があったのなら、婚礼前に何か手を打つこともできたはずではないか。王都へ確認を入れるなり、家同士で問い詰めるなり。そうしなかったのはなぜなのか。 ゼルヴァンはしばらくセレフィアを見ていた。その視線の重さに、また喉が乾く。「決定打がなかった」  やがて彼は答える。 「手紙の文だけで、花嫁を別人だと断じるのは乱暴だ。噂と違うというだけで、こちらから婚姻を壊す理由にはならない」 たしかにそうだ。王都の噂話など、どれほど当てにならないかはゼルヴァンでなくとも知っている。文の書き手と社交場の顔が違う人間も、世の中にはいくらでもいるだろう。「だが今日、君を
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第6話 あなたは姉ではない⑥

 その言葉が、書簡の続きのように思えてしまって、セレフィアは胸の奥が鈍く痛んだ。紙の上では救いだった「返ってくること」が、今は逃げられない現実として目の前にある。「……はい」 それしか言えなかった。 ゼルヴァンはそれを聞くと、ようやく少しだけ頷いた。去るのかと思った。けれど扉へ向かう前に、ほんの一瞬だけ、彼はセレフィアの手元へ目を落とした。強く握り込まれたままの指先へ。「手を開け」 突然そう言われ、セレフィアは反射的に顔を上げた。「え?」「爪が食い込んでいる」 言われて初めて、自分がどれほど強く手を握っていたのか気づく。恐る恐る指をほどくと、掌には白い半月の跡が幾つもついていた。皮膚が薄いところは赤くなっている。 セレフィアは急に恥ずかしくなって、手を隠そうとした。だがゼルヴァンはそれをとがめることも、哀れむこともしない。ただ一度だけその赤い跡を見て、低く言った。「今夜はそれ以上、自分を追い詰めるな」 その一言が、思いがけず胸へ深く落ちた。 追い詰めるな。 誰もそんなことを言わなかった。王都では、自分を追い詰めてでも役目を果たせとしか言われなかった。苦しくても、怯えても、削れても、それが当然だと。だから「それ以上するな」と止められることが、どう受け止めていいのかわからない。 セレフィアは何も言えなかった。 ゼルヴァンも、それ以上は言葉を足さない。扉へ向かい、手をかける。けれど出ていく寸前、わずかにだけ振り返った。「……城門で君が言っただろう」 セレフィアは息を止める。「王都とはずいぶん空気が違う、と」「……はい」「そういう反応をする人間が、手紙を書いていた」 短く、それだけ言った。 暖炉の火がまた小さく鳴る。セレフィアの胸の奥へ、熱とも痛みともつかないものがじわりと広がった。自分が城門でうっかり漏らした、あの率直な一言。母に叩き込まれた台詞ではなく、思わず出てしまった自分の感想。それすら彼は拾っていたのだ。 どこまで見られているのだろう。 どこまで知ってしまっているのだろう。 けれどそれ以上に、その「書いていた」と過去形でも現在形でもない、曖昧な言い方が妙に心へ残る。 ゼルヴァンは扉を開けた。廊下の冷えた空気が細く入り込む。「おやすみ、セレフィア嬢」 そう言って、彼は出ていった。 扉が閉まる。 静けさが戻
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第7話 断罪の代わりの椅子①

翌朝、セレフィアは目が覚めた瞬間に、自分がまだこの城の中にいることを思い出した。 天蓋の布越しに差し込む光は、王都のそれより白かった。夜のあいだに窓硝子へ薄く霜が降りたのか、カーテンの隙間から洩れる朝の明るさが、どこか粉を散らしたように淡く、冷えている。暖炉の火はもう落ちていたが、寝台の中には昨夜の名残のぬくもりが少しだけ残っていた。そのぬくもりと、胸の中に最初から沈んでいた冷たさとが、不思議なくらい混ざり合わない。 ここはグランザイアの城だ。 ゼルヴァンは昨夜、自分を見抜いた。 そして今日、改めて話をすると言った。 その三つの事実が、目を開く前からすでに意識の底で整列していた。夢のぬるい曖昧さへ逃げ込む余地は、ほとんどなかった。 掛布の上へ出した指先が冷えている。セレフィアはゆっくりそれを握った。爪を食い込ませないように、と昨夜自分へ言い聞かせたことを思い出しながら。 ゼルヴァンは最後に、今夜はそれ以上自分を追い詰めるな、と言った。 あの一言を、起きたばかりの頭がぼんやりと反芻する。叱責でも、命令でもなく、止める言葉だった。それがありがたいことなのか、かえって逃げ道を奪われることなのか、まだよくわからない。ただ、あの低い声が、自分の掌の赤い跡を見ていたことだけは、目を閉じても鮮明に思い出せた。 扉が控えめに叩かれた。「お目覚めでしょうか、お嬢様」 ミレナの声だった。「ええ」 返事をすると、彼女はいつもよりさらにそっと部屋へ入ってきた。手には湯気の立つ水差しと、朝の支度に必要な小物を載せた盆。北辺の朝の冷えへ慣れていないことを気づかってか、湯は少し熱めにしてくれているらしい。立ちのぼる蒸気に、石鹸と乾いた布の匂いが混ざっていた。「お加減はいかがですか」 問いかける声は慎重で、柔らかい。「眠れたような、眠れなかったような……そんな感じね」 そう言うと、ミレナは困ったように微笑んだ。微笑みというより、何と返していいかわからない時の、そっと形だけ整えた表情だった。彼女もまた、昨夜何があったのか詳しくは知らない。ただ、ゼルヴァンが遅くに部屋を訪れたことと、そのあとセレフィアの顔色がさらに薄くなったことは見ていた。「お茶を先にお持ちしましょうか」「ありがとう。でも、その前に……少しだけ、水を」 湯で手を温め、顔を洗いながら、セレフィア
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第7話 断罪の代わりの椅子②

 時間はゆっくり過ぎるようでいて、実際には容赦がなかった。身支度を直し、髪の乱れを少し整え、手袋をはめなおし、呼吸を整えようとしているうちに、案内のための侍女が迎えに来る。 東翼の小応接室は、昨夜の客間とは違う静けさを持っていた。 大広間のような見せるための華美はなく、客間のような私的なやわらかさもない。石壁へ深い色の織物がかけられ、窓は小さく、高い。だが暖炉にはきちんと火が入っていて、赤い炭の下で薪が静かに燃えている。中央には低めのテーブルを挟んで椅子が二脚。その背後に、もう一脚。机ではない。問い詰めるための長卓でもなければ、立ったまま相手を見下ろすための間合いでもない。 部屋へ入った瞬間、セレフィアはそれに気づいてしまった。 椅子だ。 断罪の場ではなく、座って話すための椅子。 そのことが、かえって息を詰まらせた。 ゼルヴァンはすでにそこにいた。今朝は外套を脱いでおり、濃い色の上着の上から細い銀の留め具だけが光って見える。立つ姿勢は変わらず無駄がなく、部屋の中でさえ風の冷えを少し残したような静かな気配をまとっている。 セレフィアが一礼すると、彼はすぐに近くの椅子を軽く示した。「座ってくれ」 それが最初の言葉だった。 叱責でも、追及でもなく、まず椅子を差し出す。 セレフィアは一瞬、動けなかった。立ったまま問い質されるものと思っていた。怒りに満ちた声で、あるいは冷え切った口調で、何をしに来たのかと断じられるのだとばかり思っていた。それなのに、目の前にあるのは低い椅子と、すでに湯気の立つカップだった。 ゼルヴァンはそれ以上何も言わない。急かさない。ただ待っている。 その待ち方に逆らえず、セレフィアはゆっくりと椅子へ腰を下ろした。背もたれは硬くも柔らかくもなく、まっすぐだった。座面は厚手の布で張られており、ひやりとしたあとに少しずつ体温を返してくる。目の前の低い卓には、白磁のカップと、小さな銀のポット。香りは昨夜の茶と似ているが、今日はもう少し苦みが強いようだった。「冷えるだろう」  ゼルヴァンが言う。 「飲めるか」「……ありがとうございます」 セレフィアはカップへ手を伸ばした。指先にあたたかさが移る。王都の茶器より厚手の白磁で、熱を逃がしにくいのだろう。両手で包むと、ようやく手の骨の奥にまで熱が入った気がした。 ひと口含む。乾い
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第7話 断罪の代わりの椅子③

「……私が」  唇がうまく動かない。 「書いていたのは、最初は……本当に、軽いものだったのです」 ゼルヴァンは黙っている。急かさない。その沈黙が、言葉を継がせる。「礼状や、詩会の返信や、招待状への答えを……姉が面倒がって。母も、それくらいは姉妹で助け合うものだと」 言いながら、頭の中に昔の部屋の匂いが立ち上がる。オルフィーヌの私室の甘い香り。蜜菓子。香粉。花瓶の薔薇。ソファへ沈み込んだ姉の退屈そうな横顔。 ――あなた、こういうの得意でしょう。 あの軽い声が、何度も何度も重なる。「最初はそれでよかったのだと思います。いえ、よかったわけではありませんが……誰も、それを大きなこととは思っていませんでした」 セレフィアは一度だけ茶を口に含んだ。喉が乾きすぎて、言葉が擦れる。「姉の返事を整えることは、私の役目のようになっていました。招待客ごとに言葉を変えて、礼を失しないようにして、必要なら少しだけ感傷を混ぜて……そうすれば母は満足しましたし、父も家の外聞に傷がつかないなら何も言いませんでした」「姉君本人は」 ゼルヴァンが問う。「楽になったと、喜んでおりました」 言葉にすると、妙に乾いて聞こえた。 楽になった。助かった。便利ね。そうした姉の言い回しの数々が、今さら骨だけになって胸の中へ残っている。「婚約後の返書も、最初は同じだったのです」  セレフィアは続ける。 「姉は辺境へ嫁ぐことを好いていませんでしたから。手紙を読むのも、返すのも面倒だと……。最初は、どのように返せばよいか尋ねられるだけでした。けれど次第に、手紙そのものをそのまま私へ渡すようになって……」 言いながら、悔しさとも情けなさとも違う苦いものが舌の裏へ溜まっていく。「私が書いて、最後に姉がざっと目を通し、署名だけ入れる。それがいつのまにか当たり前になっていました」 ゼルヴァンは、表情を変えずに聞いている。だがただ無感情なのではない。視線が逸れない。必要なところでだけほんのわずかに瞳が動く。聞いているのだ、とその目だけでわかる。書簡の時と同じように、相手の言葉を途中で決めつけず、そのまま受け取ろうとする聞き方。 そのことが、セレフィアにはつらかった。 自分の話など、そんなふうに聞かれたことがないからだ。「断ることはできなかったのか」 ゼルヴァンの問いは静かだ。 
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第7話 断罪の代わりの椅子④

 ゼルヴァンの表情は変わらない。けれどわずかに視線がやわらいだように見えたのは、暖炉の火のせいかもしれない。「王都の方たちの文は、もっと飾りが多いのです。季節の花や、舞踏会の色や、月の見え方や……そういう、美しいけれど誰にでも言えることが並ぶ。でも、あなたの文は」 そこで、また一度言葉が切れる。喉が熱い。情けないほど、自分の呼吸の音が大きい。「……人の暮らしに触れていました。旅の寒さや、薪の減り方や、薬草茶や、火を弱めすぎると病人が出ることや……」 ゼルヴァンは何も言わない。「それが、私には」 セレフィアは目を伏せた。「...救いだったのだと思います」 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。 言ってしまった。 そこは本来、黙っているべきところだった。実家に命じられたことや、姉に押しつけられたことだけを淡々と話せばまだよかったのに。なぜそこで、自分がどう感じていたかまで言ってしまうのか。しかも、相手本人の前で。 恥ずかしさと罪悪感が一気に押し寄せる。「申し訳ございません」 思わず被せるように言う。「こんなことまで申し上げるつもりは……」「いや」 初めて、ゼルヴァンが言葉を挟んだ。「続けてくれ」 その短い許しに、セレフィアはかえって逃げ場をなくす。 救いだった。 それは本当だった。何度読み返しても、その答えだけは変わらない。 自分の書いた言葉が、誰かに正面から返される。その感覚を、彼との往復書簡で初めて知った。姉の名で書いた文であることに罪悪感はあった。あるどころか、そのたびに薄い刃を胸の中へ仕込むような気持ちにもなった。けれど、それでも手紙が来るたびにどこかで少し待ってしまっていた。「私が書いた文に……」 セレフィアはやっとのことで続ける。「返事を返してくださる時、ただ礼儀として受け流すのではなくて、書いた内容そのものへ返してくださるでしょう。火のことも、薬草のことも、春と冬のことも……」 思い出すだけで胸の奥が痛い。あの短い一文一文が、どうしてあんなにも残ったのか。自分でも説明できない。けれど確かに、そこにだけは誤魔化しのない往復があったように感じられたのだ。「誰も、私が何を考えてそう書いたのかなんて……見たことはありませんでした」 その言葉が出た瞬間、セレフィアは自分で一度息を呑んだ。 そうか、と
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第7話 断罪の代わりの椅子⑤

 セレフィアは、返す言葉を失う。 怒鳴って済むなら、そのほうが楽。 たしかにそうだ。自分にとっても。激しく責め立てられれば、ただ恐れていればいい。自分の中の後ろめたさも、感謝も、救われていた記憶も、全部一緒に押し潰してしまえる。けれどゼルヴァンはそれをしない。整理されないから、と言って。 その冷静さがありがたいのか残酷なのか、まだわからない。ただ、逃げ場がないことだけは確かだった。「……辺境伯様」「ゼルヴァンでいい」  彼は短く言う。 「今この場で、それを続ける必要はない」 その一言に、セレフィアの呼吸がまたひとつ乱れた。 辺境伯様ではなく。名で呼べと。 もちろんそれは親しみを許したという意味ではなく、今は儀礼ではなく話をしているのだという線引きだろう。わかっている。わかっているのに、その距離の変え方が妙に胸を刺す。昨夜、自分の本当の名を口にされた時と同じ種類の痛みだ。「……ゼルヴァン様」 そう呼ぶと、舌の上で音が少し重かった。 ゼルヴァンは否定もしなければ訂正もしない。ただ静かに続きを待つ。「私は……どのように扱われても、仕方がないと思っています」  セレフィアは言う。 「けれど、もし……」 そこから先を言うべきか迷う。今さら、何を願う資格があるのか。「もし?」「……姉のことも、家のことも、私が申し上げたことは、すべて事実です。ですが、信じていただきたいとまでは言えません。ただ……」  セレフィアは膝の上の指を重ね直す。 「どうしてこうなったのかを、お聞きいただけたことだけは……ありがたいと、思っています」 その言葉を口にした瞬間、喉がひどく熱くなった。 ありがたい。 こんな場面で、そんな感情が出てくる自分がわからない。見抜かれ、追いつめられ、明日どうなるかも定かではないのに、なぜそこへ感謝が混ざるのか。だが、それもまた本当だった。事情を聞きたい、と言われたこと。椅子を差し出され、温かいものを持たされ、自分の話を途中で切られずに聞かれたこと。それはセレフィアの人生の中で、あまりにも珍しい扱いだった。 そしてその珍しさが、胸を苦しくする。 ゼルヴァンはしばらく何も言わず、暖炉の火がはぜる音だけが続いた。 やがて彼はごく静かに言った。「理由を聞かずに決めるのは、私のやり方ではない」 セレフィアは顔を上げた。
last updateLast Updated : 2026-07-15
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