All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 21 - Chapter 30

31 Chapters

第4話 北へ向かう花嫁馬車①

 ヴァルダンジュ伯爵家の門をくぐった時、セレフィアは、自分がもう本当に戻れないところまで来てしまったのだと知った。 朝はまだ薄かった。空は白く、東の端だけがようやく淡い金を滲ませている。春に近づいたとはいえ、朝の空気には夜の冷えがまだ残っていて、吐く息がわずかに白んだ。石畳の中庭には出立のための馬車が三台並び、黒く磨かれた車体の側面へ、まだ若い光がぼんやりと映っている。馬の鼻息が白く煙り、蹄が地面を掻くたびに金具が小さく鳴った。革の匂い、乾いた藁の匂い、油を差した車輪の匂い。それらが朝の湿った空気と混じって、いつもの伯爵家の庭とは違う、遠出の匂いを作っている。 門前にはもう父と母がいた。 父レオンハルトは濃紺の外套をきちんと留め、手袋をはめたまま、すでにすべてが滞りなく整っていることを確認する役人のような顔をしていた。母エルヴィラは薄灰色の朝用ドレスの上に毛皮の短い肩掛けを羽織り、唇の色だけが、春の冷えた花のように淡く硬い。どちらの目にも、娘を送り出す親の感傷はなかった。あるのは、手落ちがないかを点検する目だけだった。 セレフィアの背後ではミレナが最後の荷を確認している。花嫁道具と呼ばれる箱の中身のほとんどは、本来オルフィーヌのために選ばれたものだ。深い色の外套、レース、手袋、香水瓶、針箱、祈祷書、薄絹の夜着。箱の蓋が閉じられるたび、かすかな木の鳴る音がする。そのどれひとつにも、自分のためという感触がない。「もっと顎を引きなさい」 母が近づいてきて、セレフィアのヴェールの位置を整えた。白い手袋越しの指先が額に触れる。冷たかった。「出立前から怯えた顔をしていてどうするの。哀れに見せたいのなら別だけれど、今は不要よ」「……申し訳ありません」「謝らなくていいのです。直しなさいと言っているの」 母はそう言うと、耳元に残っていた髪をひと房、指先で内側へ収めた。香水の匂いがかすかに揺れる。白百合と、少し甘い琥珀。昨日一日で嫌というほど嗅がされた、オルフィーヌの香りだった。朝の冷気の中でもそれははっきり残っていて、首筋へ貼りつくようにまとわりつく。「道中は口数を減らしなさい。宿に泊まる時も、疲れているように見せること。食欲がなくても少しは取りなさいよ。顔色が悪すぎると不自然です」「はい」「笑う必要はないけれど、沈み込んでも駄目。静かに、慎ましく。わかる
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第4話 北へ向かう花嫁馬車②

 扉が閉まった。 外の音が、厚い木と布越しに少し遠くなる。馬車の中には淡い革の匂いと、乾いた木の香り、座席へ詰められた羽毛のやわらかな匂いがこもっていた。向かいの席へミレナが座り、膝の上に小さな籠を置く。湯を入れた小瓶と、乾いた果実、薄い焼き菓子、酔い止めの薬草が入っている。 ほんのわずかな揺れのあと、車輪が動き出した。 石畳を踏む音が規則正しく響く。ごろ、ごろ、と低く腹へ伝わる振動。伯爵家の門を通り抜ける時、車輪が段差を越えて少し大きく揺れた。セレフィアの体もわずかに揺れる。その瞬間だけ、不意に胸が詰まった。ああ、本当に出たのだと。もう歩いて自室へ戻ることはできないのだと。 門の外へ出ると、王都の朝の匂いがした。石造りの街路、まだ開ききらぬ店先、パン屋の窯の熱、濡れた路地の冷え、遠くで鳴る教会の鐘。カーテンの隙間から覗くと、道の脇では早朝の商人が荷を下ろし、通りを掃く少年が眠たげに箒を動かしている。誰も、この馬車の中に「偽りの花嫁」が座っているなど知らない。黒い車体に伯爵家の紋がついているだけで、人はそれぞれの朝を生きている。 それが奇妙に心細かった。「……寒うございますか」 ミレナが小さく尋ねる。「少しだけ」 そう答えると、彼女はすぐ膝掛けを広げてくれた。厚手の織物が足元へかかる。指先に触れた感触はしっかりしていて、少しざらりとしていた。王都を出る前に用意された、北向きの旅のためのものだ。 セレフィアはその布へ指を置いた。昨夜、ゼルヴァンから届いた過去の書簡を読み返した時、何通目かにあった一文を思い出す。 ――王都では春でも、北辺では朝晩の冷えが骨へ残ります。旅支度の布は、見た目より厚さを優先なさってください。 その言葉を最初に読んだ時、オルフィーヌは「見た目より厚さを優先って、まるで軍人の発想だわ」と笑った。けれどセレフィアは、その現実的な気づかいにほっとしたのだった。美しく見せることより、寒さで体を損ねないことのほうが大切だと、当たり前のように書く人。その当たり前が、この家では少し珍しかった。 馬車は王都の中心を離れ、やがて城壁の外へ出た。街の石畳から、郊外の道へ。車輪の音が少し変わる。ごろつきが粗くなり、振動も大きくなる。窓の外には、まだ裸に近い並木と、朝露を含んだ畑、ところどころに小さな農家の煙が見えた。王都の尖塔や高い屋根は
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第4話 北へ向かう花嫁馬車③

 そして数日後、届いた返書の中に、たしかにそれへの応答があった。 ――見栄えのよい節約より、長く保てるあたたかさのほうが尊い。まったくその通りだと思います。言葉にしてもらうと、考えがよく整います。 その一文を読んだ瞬間のことを、セレフィアは今でも覚えている。 窓の外では雨が降っていた。細い春の雨だった。机の上のランプはまだ早い夕方から灯していて、紙の白がその明かりの中でやわらかく浮いていた。ミレナが入れてくれた薬草茶の湯気が、鼻先へかかる。雨の湿り気と、乾いた茶葉の香りと、インクの匂い。その中で、ゼルヴァンの文字だけが、妙にはっきり見えた。 考えがよく整います。 誰かにそう言われたことが、それまであっただろうか。 母はいつも、整えた言葉を「よくできた」とは言っても、その中身には触れなかった。父に至っては、手際のよしあしを見るだけだ。オルフィーヌはもっと軽い。助かったわ、便利ね、さすがだわ。そんなふうに笑って終わる。 けれどあの返書は違った。自分が書いた言葉の内容に、真正面から返してきた。賛成するでも、お世辞を言うでもなく、その言葉によって考えが整ったと、まっすぐに返してきた。 セレフィアはその時、しばらく手紙を持ったまま動けなかった。 自分の書いたものが、誰かの中へ入って、ちゃんと読まれて、しかも返ってくる。 その感覚を、彼女はほとんど知らなかったからだ。 この家では、自分の書くものは常に「誰かのため」だった。姉のため。家のため。体面のため。けれどあの瞬間だけは、紙の向こうにいる相手が、書いた言葉の芯へ触れてきた気がした。まるで自分自身に返されたように。もちろん、それはオルフィーヌの名で書かれた文であり、ゼルヴァンが見ているのも「婚約者の長女」のはずなのだと、頭ではわかっていた。わかっていても、その返り方はあまりにもまっすぐで、セレフィアの胸の奥へ深く残った。 馬車が大きく揺れ、現実へ戻される。車輪が石の出っ張りを乗り越えたらしい。ミレナがとっさに座席の端を押さえ、薬草の籠が倒れないように手を添える。「道が悪くなってまいりましたね」「ええ……」 セレフィアが答えると、御者台のほうから馬を宥める声が聞こえた。王都近郊の整えられた街道を外れれば、道は少しずつ粗くなる。土は乾いていないところも多く、昨夜の冷えで固まった轍がそのまま残っている
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第4話 北へ向かう花嫁馬車④

 宿の中は、外の冷えを忘れさせるような熱に満ちていた。大きな暖炉に火が入り、煮込みの匂いと、焼いた肉の油の匂い、乾いた木の焦げる匂いが混ざり合っている。旅人たちの低い話し声、食器の触れ合う音、床板のきしみ。それらのざわめきの中へ紛れると、かえって自分だけが不自然に感じられた。 花嫁であるはずなのに、偽物だ。 娘であるはずなのに、影だ。 セレフィアは暖炉から少し離れた席へ座らされ、湯気の立つスープを前にした。白い湯気が顔へ当たる。匙を取ると、指先へ金属の冷えが残っていて、そのあとで温かい液が舌へ触れた。塩気のある、野菜のよく煮えた味。旅の途中の食事としては十分においしいはずだったが、二口ほどで喉が塞がる。「少しでよろしいので」 ミレナがそっと囁く。 セレフィアは頷き、言われるままにもう一口だけ飲み込んだ。そのあいだ、窓の外では北向きの風が宿の看板を鳴らしている。「寒いですね」 ふいに口をついて出た言葉に、ミレナが頷く。「はい。まだ本格的な北ではございませんのに」 そう。まだ本格的な北ではない。これでさえ、北辺へ近づくにつれてほんの序の口にすぎないのだろう。ゼルヴァンが何度も手紙で寒さを気づかった理由が、少しずつ体へわかりはじめている。「辺境伯様は、いつもこんなところで過ごしていらっしゃるのでしょうか」 ミレナの問いは、ごく自然なものだった。花嫁の侍女なら気にしておかしくない。だがセレフィアの胸は、その一言でかすかに強張った。「……もっと北でしょうから、さらに厳しいのだと思うわ」「お優しい方だと、お手紙では」 ミレナが慎重に言う。きっと、昨夜までのやり取りのいくつかを彼女も知っている。セレフィアが返書を書き、封を整え、時に読み返していたことも。「ええ……」 セレフィアは匙を置いた。「お優しい、という言い方が合っているのかはわからないけれど……」 そこで言葉が途切れる。 どう表せばいいのだろう。華やかな甘さではなく、実際の冷えを知ったうえで毛布を一枚多く寄越すような人だと。言葉数は少ないのに、気づかいが地に足をついていて、それゆえに逃げ場がないと。返ってくる文の一つひとつが、見せかけではなく本当に考えた痕跡を残しているから、かえって読むほうも誤魔化せなくなるのだと。「……まっすぐな方、なのだと思うわ」 結局それだけしか言えなか
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第5話 グランザイアの城門で①

 北辺の城が見えたのは、空が午後の薄い銀色へ沈みはじめた頃だった。 旅に出て何日目だったのか、もう数えるのも曖昧になっていた。朝と夜のあいだに、宿場町の暖炉の匂いと、馬車の揺れと、車輪が踏み砕く土の音ばかりが積もっていって、その上へ冷えが一層ずつ重なっていった。王都を離れた頃はまだ春の顔をしていた景色も、北へ進むたびに色を失い、枝は細く黒く、野は乾いた褐色へ、空気は喉の奥を細く裂くような温度へ変わっていった。 そして今、馬車の窓の向こうに見えているのは、春の名残よりもむしろ冬の残骸だった。 遠く連なる丘の背には白いものが長く残り、林の陰には溶けきらなかった雪がまだらに沈んでいる。道の脇へ寄せられた雪の塊は灰色に汚れてかたく縮み、その上を吹き抜ける風は、土の匂いではなく石と氷の匂いを運んでくる。空は高く薄いのに、陽はほとんど熱を持たない。世界全体が、冷えた刃の腹で撫でられているみたいに静かで、硬かった。「……見えてまいりました」 向かいの席で窓の隙間から外を窺っていたミレナが、小さく息を呑んだ。 セレフィアもカーテンをほんのわずかに持ち上げる。 最初は、灰色の岩山かと思った。けれど目を凝らすと、それは城だった。北辺の高い台地へ張りつくように築かれた石造の城塞。王都の館のように塔や飾り窓で美しさを競うのではなく、重い壁と厚い塔で、風と雪と敵意を押し返すためにそこにある城。石の色は空と同じように冷たい灰で、ところどころへ黒ずんだ雨筋が走っている。高く掲げられた旗は濃い紺地に銀の紋章で、風に叩かれるたび鋭く翻っていた。 グランザイア辺境伯家の城。 手紙の向こうにいた人の、現実の住まい。 その事実が胸の内へ落ちた途端、旅の疲れとは違う硬い緊張が背骨を這い上がった。 ここまで来てしまった。 王都から遠ざかる間、馬車の揺れとともに薄く現実感を失っていたものが、城の輪郭を見た瞬間、一気に重みを持つ。これから会う。実際に。紙の向こうの人に。けれど自分はセレフィアではなく、オルフィーヌとして降りなければならない。 喉が渇いた。「お水を」 頼むと、ミレナがすぐに小瓶を差し出してくれる。口をつけた水は冷えすぎてはいなかったが、それでも口内の乾きを完全には消してくれなかった。水を飲み下しても、胸の奥のざらつきだけが残る。「お顔色が……」「平気よ」 言いな
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第5話 グランザイアの城門で②

 扉が外から開かれた。 冷気が一気に流れ込む。薄い雪の匂い、鉄の匂い、石の冷たさ。外の光は王都よりもずっと白く、まるで色の少ない刃のように目へ入った。 まず見えたのは、濃紺とも黒ともつかない外套の裾だった。毛皮の縁に雪の粒が小さく残り、長靴の先には白い粉がついている。その向こうに立つ人影が、ゆっくりと視界へ収まる。 ゼルヴァン・グランザイア。 セレフィアは、その名を心の中だけで呼んだ。 手紙の筆跡より先に、現実の輪郭が目へ飛び込んでくる。 高い。 それが最初の印象だった。高身長だとは知っていた。王都で遠く見かけた時にもそう思った。けれど実際に馬車の高さから見下ろす形で対すると、その体躯はさらに大きく感じられる。肩幅は広く、外套の下に無駄なく鍛えられた線がある。黒髪は風に乱されても不思議とだらしなく見えず、額から眉へかかるあたりで冷たい光を返している。左の眉尻からこめかみにかけて、薄く走る古傷。王都の照明の下では気づきにくかったその傷が、ここでははっきり見えた。 そして目。 銀鉄色だった。青でも灰でもなく、冷えた鋼そのものみたいな色。人を暖めるための火を含まない代わりに、見たものを曖昧にしない光を持つ目。 噂どおり冷たく、鋭い男。 それが最初の一瞬の印象だった。 けれどその鋭さは、王都の令息たちが持つ「値踏み」の鋭さとは違う。もっと静かで、もっと深く、人の表面をひと撫でするだけで済ませない視線。必要なものを見定める目だと、なぜかすぐわかった。 ゼルヴァンは馬車の中のセレフィアを見た。 ほんの一瞬だった。 だがその一瞬で、何かが起きた。 目元がかすかに細められる。驚きではない。怒りでもない。ましてや歓迎の柔らかさでもない。何かを見つけた人間だけが持つ、ごく微かな確信が、冷たい瞳の底にひとつ灯った。 セレフィアの背中に、細い氷の針が何本も刺さったような感覚が走った。 わかった。 理由はない。証拠もない。ただ、その目を見た瞬間に、本能のように理解してしまった。 この人は、何かを知った。 あるいは、確かめた。 手紙の向こうにいた人の、あまりにも静かな鋭さが、現実の視線として自分へ落ちてきたのだと思った途端、息が詰まった。 けれどゼルヴァンは何も言わない。 ほんのわずかな間を置いてから、彼は片手を差し出した。手袋をした大きな手。
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第5話 グランザイアの城門で③

「風が強い」「……はい」 セレフィアは頷き、執事に案内される形で城門をくぐった。門の内側はさらに冷えていた。分厚い石壁に囲まれた中庭には、風が回り込んで細く鳴る。足元には踏み固められた雪がまだらに残り、その上を荷を運ぶ下働きたちが慣れた足取りで行き交っていた。桶からは水ではなく薄く凍った何かの気配がし、井戸の金具には白い霜がついている。王都の館の中庭とは、同じ「庭」という名でもまるで別物だった。 見上げると、塔の窓は小さく狭く、外へ向かって開いているのではなく、風を拒むために閉じているように見える。ここでは美しさよりまず生きることが優先なのだと、壁も階段も無言で語っていた。 手紙の中にあった世界だ、とセレフィアは思う。 雪解けの遅れ。備蓄。冷え。風。無駄な飾りを削ぎ落とした言葉たち。その現実の匂いが、石と雪と鉄の匂いになって周囲に満ちている。 そのことに妙な現実感を覚えると同時に、胸の奥では別の不安がさらに膨らんだ。 本当にこの人は、何かに気づいたのではないか。 城門の前での、あの一瞬の眼差しが、何度も思い返される。もしそれが自分の思い込みならまだいい。けれど、紙の上で交わしたあの往復を思えば、彼がただの鈍い男であるとはどうしても思えなかった。自分の言葉の芯へ返してくる人だ。相手の文の温度や考えを拾う人だ。そんな人が、目の前に立った「花嫁」のどこにも違和感を持たないだろうか。 いや、違和感どころではなく、もう確信しているのでは。 考えた瞬間、喉の奥がまた乾いた。「お部屋は東翼にご用意しております」 老執事が告げる。声は落ち着き、無駄がない。「まずはお荷をほどかせ、温かいものをお持ちいたします。長旅でお疲れでしょう」「ありがとうございます」 母に教え込まれたとおりの笑みを浮かべ、セレフィアは返す。けれどその声がちゃんとオルフィーヌらしく聞こえたか、自分ではもう判断がつかない。緊張で耳の奥がうるさく、風の音と心臓の音ばかりが重なる。 ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所でゼルヴァンがこちらを見ていた。 ただ見ているだけだ。表情はない。だがその無表情が、かえって鋭い。 視線が合った瞬間、セレフィアは反射的に浅く微笑んだ。花嫁らしく。慎ましく。母が支度部屋で何度も直した、あの角度で。 ゼルヴァンの目が、ほんのかすかに細くなる。
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第5話 グランザイアの城門で④

 椅子へ座ったまま、セレフィアはゆっくり手袋を外した。指先が白くなっている。そこへ自分の爪の跡が、薄く赤く残っていた。城門の前で無意識に強く握っていたのだろう。「お嬢様」  ミレナがさらに声を落とす。 「もしかして……」 言いかけて、口を噤む。 何を言おうとしたのかは、聞かなくてもわかった。 もしかして、見抜かれたのではないか。 セレフィアは暖炉の火を見つめた。赤い火は揺れているのに、なぜか温かく見えない。心臓の音がまだうるさい。「わからないわ」 やっとそれだけ答える。「でも……」「でも?」 ミレナの問いに、セレフィアはすぐには続けられなかった。 あの目の奥に灯ったものを、どう言葉にすればいいのかわからなかったからだ。驚きではない。疑いでもない。もっと静かな、冷たい確信。まるで、ずっと考えていた答えを、目の前の一瞬でようやく拾い上げたような。「……あの方は、ただの噂どおりの冷たい人ではないわ」 それは答えになっていないかもしれない。けれどセレフィアには、それが今いちばん確かな感覚だった。 ミレナは眉を寄せる。「お手紙の印象と違いましたか」「違わないの」  セレフィアは首を振る。 「むしろ……同じだった」 そう言った瞬間、自分の胸が少し痛んだ。 そうなのだ。違わない。あの冷えた鋼のような目も、言葉の短さも、余計な飾りのなさも、むしろ手紙そのままだった。紙の上で感じていた誠実さは、そのまま、曖昧なごまかしを許さない鋭さでもあったのだと、今さら理解した。 だから怖い。 紙の上でなら救いだったものが、現実の前では逃げ場のない刃にもなる。 扉の外で控えめにノックがした。二人とも小さく肩を揺らす。ミレナがすぐに応じ、侍女から銀盆に載せた茶器を受け取る。湯気の立つ茶は、北辺のものらしく王都よりも香りが鋭く、乾いた草と少し樹皮のような苦味を含んでいた。「どうぞ」 差し出されたカップを、セレフィアは両手で包んだ。熱い。けれどその熱だけは、馬車の旅のあいだに何度もゼルヴァンの手紙から想像していた「北辺の温かいもの」に近い気がして、一瞬だけ胸が揺れる。 薬草茶がお好きだとありました。 あの追伸がよぎる。紙の上でだけ救いだった時間が、また苦い甘さを伴って戻ってくる。こんな時に思い出すことではないのに。 ひと口飲む。舌へ少し苦味が
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第4話 北へ向かう花嫁馬車⑤

 自分の書いた言葉が、誰かの心に残る。 たったそれだけのことを、どうしてあんなにも嬉しいと思ってしまったのだろう。 車窓の外では、遠くの丘に白いものが見え始めていた。最初は岩かと思った。けれど目を凝らすと、それはまだ消え残った雪だった。春なのに、北へ向かうほど冬が戻ってくる。 セレフィアはそっと指を絡め直した。 自分の書いた言葉をまっすぐ受け止めて返してくる人。そんな相手に会いに行くのに、名乗るのは自分の名前ではない。偽りの花嫁として。姉の名を纏って。 それはどんな罰よりも居心地が悪い。軽蔑される未来のほうがまだましだと思うくらいには。 もし彼が、本当に手紙に書かれていたような人なら。 もし彼が、自分の言葉をああして受け止めてきた人なら。 会った瞬間に、何かを見抜いてしまうのではないか。 その恐れが、王都を出てからずっと薄く胸へ貼りついている。父は「黙っていれば通る」と言った。母も「顔立ちは十分似ている」と言った。けれど紙の上で言葉を見てきた相手に、それだけで本当に通じるのだろうか。 たとえ通ったとしても、自分は自分でいられるのだろうか。 夕方、空が次第に灰へ沈みはじめた頃、馬車は小さな峠道へ差しかかった。道はさらに荒れ、片側には痩せた林、もう片側には斜面が落ちている。御者が速度を落とし、護衛の騎士たちの声も慎重になる。風ははっきり冷たく、窓の隙間から頬へ当たると細い刃のようだった。「閉めましょうか」 ミレナがカーテンへ手を伸ばす。「……いいえ、少しだけ開けておいて」 そう答えると、彼女は手を止めた。 冷たい空気を吸いたかった。姉の香りがまだ薄く残る衣服の内側へ、別の匂いを入れたかった。土と石と、遠い雪の匂い。それが実際にそういう匂いなのかはわからない。けれど北へ向かう空気には、王都にはない乾いた冷たさがあった。 道の先、木々の隙間から、遠く山並みのような影が見えた。青でも黒でもない、重い灰。そこに白い筋がいくつも走っている。あれも雪なのだろう。まだ遠いのに、その景色だけで温度がさらに落ちた気がした。 セレフィアはその山影を見つめながら、胸の奥へ静かに問いかける。 どうして、あの手紙の時間があんなにも救いだったのだろう。 答えはもう、半分わかっている。 ゼルヴァンが優しかったからだけではない。誠実だったからだけでもない。た
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第6話 あなたは姉ではない①

 夜は、驚くほど静かに降りてきた。 北辺の城の夜は、王都の夜とは違う音でできていた。王都の館なら、遠くどこかでまだ馬車の車輪が石を鳴らし、遅く帰った主人のために玄関が開き、使用人たちが囁きながら片づけをし、舞踏会の余韻を引きずるような笑い声が窓の向こうを横切ることもある。だがこの城の夜は、そういう余分なものをほとんど持たない。風が石壁を撫でる音と、時折どこかで鳴る戸口の軋み、見回りの靴が遠く硬い床を踏む音。それだけだった。必要な音だけがあり、それらは鳴り終えたあとすぐに厚い闇の中へ溶けていく。 セレフィアは東翼に用意された部屋で、一人、暖炉の火を見つめていた。 火は安定していた。太い薪が赤く割れ、その奥で橙の舌が小さく揺れている。薪が弾けるたびに、乾いた音がひとつだけ部屋に生まれ、すぐ静けさへ吸い込まれていく。窓は厚いカーテンで閉ざされ、外の闇はほとんど入ってこない。けれどわずかな隙間からでも、北辺の夜の冷えが確かに壁の向こうにいることがわかった。石造りの城は暖められていても、どこか芯に冷たさを抱えている。その冷たさが、部屋の隅々へ静かに沈んでいた。 旅装は解かれ、今は客間用に用意された深い青の室内着へ着替えている。王都の夜着より布が厚く、袖口も詰まっていた。首元へは薄いレースがあるだけで、装飾はほとんどない。だがその実用的な温かさが、かえってこの城らしかった。 髪はミレナがほどいてくれた。旅のあいだきつくまとめられていたせいで、頭皮がまだ少し痛い。香りは一度洗い流したものの、母に塗り込まれた白百合と琥珀の残り香は完全には消えなかった。とくに耳の裏と、手首の薄い皮膚のあたりへ、甘く冷たい匂いがまだかすかに残っている。それが自分のものではない気がして、何度も手首を擦ってしまったが、擦れば擦るほど、その香りが肌の熱で微かに立ち上がるだけだった。 夕餉は部屋で取るよう言われた。長旅の疲れを慮って、という名目だった。銀盆に載せられて運ばれてきたのは、体を温めるための濃い煮込みと、黒いパン、やわらかく蒸した根菜、それから淡い琥珀色の薬草酒をほんの少し。どれも香りはよかったし、空腹でないわけでもなかった。けれど匙を動かすたび、喉の奥がわずかに締まって、味はほとんどわからなかった。ミレナが気づかわしげに何度も「もう少しだけ」と勧めるので、どうにか半分ほどは口へ運んだ
last updateLast Updated : 2026-07-07
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