All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 11 - Chapter 20

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第2話 私の文字、姉の名④

 そこまで思い返したところで、扉が控えめに叩かれた。 セレフィアの肩がわずかに跳ねる。ミレナがすぐ応対し、扉の向こうと短く言葉を交わしたあと、戻ってきた。「オルフィーヌ様がお呼びです」 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。 セレフィアは便箋をゆっくり卓上へ置く。「……お姉様が」「はい。お部屋でお待ちとのことでした」 姉は失踪した。今、この屋敷にはいない。 当たり前のはずなのに、その名前を耳にした瞬間、記憶の中の声が不意に鮮やかになりすぎて、ミレナの言葉がまるで時を間違えたように聞こえたのだ。セレフィアは自分の混乱を悟られぬよう、ひとつ息を整える。「……いいえ、違うわね。おそらく、母が私に思い出させたいのでしょう」 そう呟くと、ミレナは困ったように目を伏せた。 セレフィアは立ち上がった。机の上の手紙はそのままにしておけない気がして、丁寧に重ね直す。指先が紙の端へ触れるたび、そこに残るゼルヴァンの気配を惜しむような、自分でもわからない感情が胸の奥を掠めた。「少し歩くわ」 ミレナへそう告げると、彼女は心配そうに眉を寄せた。「ご一緒いたしましょうか」「いいえ、一人で」 今は誰かの視線があると息が詰まる。そう言わずとも、ミレナは察したらしかった。「では、廊下の先までお見送りします」 結局そうなった。拒める気力もなく、セレフィアは頷く。 廊下へ出ると、午後の屋敷は朝ほどの騒がしさを失っていた。けれど静けさは本来のものではない。使用人たちは足音を抑え、囁き声もさらに低くしている。何か大きなひびが入った家で、人々がその割れ目を踏まぬよう慎重に歩いているような静けさだ。 窓辺を通ると、春めいた陽射しが頬に当たる。午前中よりも少しだけ温かい。けれどそれが、逆に現実感を薄めた。 セレフィアは屋敷の西棟へ向かった。そこには小さな書庫がある。オルフィーヌは滅多に来ない場所だが、セレフィアは時折そこで一人になる。父の正式な蔵書室ほど重厚ではなく、個人的な随筆や旅行記、古い詩集、薬草図鑑などが置かれた、半ば忘れられたような部屋だ。陽の傾く時間には窓から庭の端が見え、静かで落ち着く。 鍵はかかっていなかった。扉を押すと、木が擦れる低い音が鳴る。中には紙と革装丁の匂いが満ち、空気は少し冷たかった。暖炉は小さいが、今は火が入っていない。壁一面の書棚に並
last updateLast Updated : 2026-06-25
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第2話 私の文字、姉の名⑤

 それがたまらなくやさしく感じられた。 あの夜、セレフィアは手紙を胸元へ抱き寄せそうになって、寸前でやめた。そんなことはしてはいけない、とわかっていたからだ。代わりに便箋をそっと机へ置き、両手で自分のカップを包んだ。薬草茶の湯気が上がり、目元へやわらかく触れた。 その湯気の向こうで、紙の上の文字だけが妙に鮮やかに見えた。 顔もよく知らない相手だった。王都で見かけた時の印象も、遠く冷たいものにすぎない。それなのに、文面の中では彼は奇妙なほど近かった。近くにいるわけではなく、むしろちゃんと距離を保っているのに、その距離の向こうから誠実さだけがまっすぐ届いてくる。 それが、セレフィアには救いだった。 屋敷の中で誰も見てくれないもの。姉の陰に隠れて消えていく小さな好みや、言葉の癖や、実務のやり方。そういうものが、紙の上でだけは、どこかの誰かに拾われているような気がしたから。 もちろん、それは錯覚だ。 拾われているのはオルフィーヌの言葉として送られたものだ。自分が見つけられているわけではない。そんなのは最初からわかっている。 それでも、返書を書く間だけは、自分が少しだけましな人間になれた気がした。誰かのためにうまく整えられた文章を書くのではなく、真面目な相手へ誠実に返したいと思って言葉を選ぶ、その時間が。 だからこそ、苦しかった。 その小さな時間さえ、姉の名の下にしか持てなかったから。 書庫の窓辺で、セレフィアは指を組み直した。爪先が掌へ少し食い込む。無意識に力が入っていたのだと気づき、ゆっくり息を吐いた。 そして今、その手紙の相手のもとへ、自分が姉のふりをして嫁ぐ。 机の上の便箋たちは、その事実を知っているように静かだった。 扉の外で、控えめな靴音がした。ミレナではない。もっと重く、慎重な歩き方。やがてノックの音が二度。「セレフィア様、こちらにいらっしゃいますか」 家令の声だった。「……ええ」 返すと、扉がわずかに開き、白髪混じりの家令が中へ入ってきた。年齢のせいで背は少し丸くなっているが、衣服は隙なく整えられている。彼は一礼し、表情を変えぬまま言った。「奥様より、花嫁衣装の仮合わせを本日中に一度済ませるようにとのことです」「わかりました」 それだけ答えると、家令は一瞬だけ目を伏せた。そこに何か感情があったのかどうか、セレフィアには
last updateLast Updated : 2026-06-25
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第2話 私の文字、姉の名⑥

 その事実が妙に空虚だった。 仮合わせは、オルフィーヌのために作られた衣装をセレフィアの体へ合わせ直す作業だった。針子たちの指先が忙しく動き、布の擦れる音が続く。深い真珠色の絹、胸元を飾る細かなレース、長いヴェール。鏡の前に立たされ、ウエストを詰められ、肩線を少し直される。針子たちは仕事に徹していたが、その沈黙の薄さから、事情を察している者もいるのだろうとわかった。「こちら、少し細くなさいますね」「はい」「袖丈はそのままでよろしいかと」「……ええ」 返事だけが機械みたいに出ていく。 オルフィーヌのための花嫁衣装は、セレフィアにはわずかに大きかった。姉のほうが胸も肩も華やかで、立つだけで衣装に負けない。セレフィアの体はそれより薄く、細い。針子が背中の布を摘まむたび、余り布が集まり、鏡の中の輪郭が別のものへ変わっていく。 まるで自分自身まで、誰かの型に合わせて縫い縮められていくようだった。 仮合わせが終わった頃には、外はもう夕方へ傾いていた。西の窓が赤く染まりはじめ、廊下の空気も少し冷える。セレフィアは自室へ戻り、今度こそ机の前へ座った。 白い便箋を新たに広げる。ペン先を整え、インク壺の蓋を開く。鉄の匂いが微かに立った。 礼状を書かなければならない。 ゼルヴァン・グランザイアへ。 手が止まる。 いつもなら、まず姉の声を頭の中で作る。どの程度やわらかく、どの程度曖昧に、どこで少し無邪気さを添えるか。そうやってオルフィーヌの返書を組み立ててきた。 だが今は違う。 三日後、その相手の前に立つのは自分だ。 だからといって、自分のまま書けるわけでもない。書いてはいけない。最後まで姉の名で整えなければならない。 胸が苦しいほど静かだった。暖炉の火の弾ける音も、時計の針の進む音も、いつもよりはっきり聞こえる。ミレナが新しいランプへ灯を入れる気配がし、その柔らかな明かりが机上へ落ちる。便箋の白が淡く黄味を帯びた。 セレフィアはようやくペンを取った。『このたびは細やかなご配慮を賜り、ありがとうございます。ご多忙の折にもかかわらず、旅支度や到着後のことまでお心にかけてくださること、深く感謝しております』 そこまで書いて、インクが乾くのを待つ。手首の角度を変える。紙の上に落ちる影が少し揺れた。『王都では春の気配が濃くなってまいりましたが、そちらには
last updateLast Updated : 2026-06-26
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第2話 私の文字、姉の名⑦

 姉の名を借りて、姉の婚約者へ書く文字。許されない場所にある安らぎだった。けれどこの屋敷で、自分の言葉がどこかへ届く感覚を持てたのは、その時だけだった。見てもらえないものが、せめて紙の中では無視されない。そんな錯覚を持てたのは、その時間だけ。 それがもう終わる。 終わるどころか、もっとひどい形で現実になる。 ゼルヴァン本人の前に立ち、姉の名で微笑み、花嫁として手を取られる。そこに待つものは救いではない。嘘だ。恐怖だ。破綻だ。 それでも、手紙の中のまっすぐさだけは偽りではなかった。 セレフィアはそっと目を閉じた。まぶたの裏に、見たこともない北辺の空が浮かぶ。まだ雪の残る石造りの城。冷たい風。薬草茶の湯気。そんなものを本当に用意しようとする男の、簡潔で無駄のない文字。 どうしてよりにもよって、その相手だったのだろう。 もっと軽薄な男ならよかったのに、とさえ思う。口先だけの優男なら、欺くことへの罪悪感ももう少し鈍かったかもしれない。けれど紙の向こうにいたのは、現実の温度を知っている誠実な人だった。 だから苦しい。 だから、返書を読む時間は救いだったのに、今はその救いごと胸を刺してくる。 セレフィアはゆっくり目を開けた。便箋の下へ手を差し込み、立ち上がる。「お父様のところへ持っていくわ」 声は思いのほか静かだった。 ミレナが盆を持ち上げる。二人で廊下へ出ると、夜の支度が始まった屋敷は昼間よりもいっそう沈んでいた。燭台の灯りが壁へ揺れ、遠くで食器の触れ合う音がかすかにする。夕餉の匂いも漂いはじめていたが、セレフィアには食欲の気配がまるでない。 父の執務室の前で、一度だけ立ち止まる。 自分の手で書いた文を、父が読み、オルフィーヌの返書として認める。そして三日後、自分はその延長線上に立たされる。 すべてがつながっている。 昔、姉に押しつけられた一通目の返書から、もうずっと。 セレフィアはそっと息を吸い、扉を叩いた。 返事があり、中へ入る。父は机の向こうで書類を見ていたが、セレフィアの手元の便箋を見ると、顎を上げた。「できたか」「はい」 差し出すと、父は受け取り、ざっと目を通した。沈黙の数秒が長い。暖炉の火が低く鳴る。窓の外では、日が完全に落ちたのか、もう庭の輪郭が見えない。 やがて父は言った。「問題ない」 それだけだった。 褒め
last updateLast Updated : 2026-06-26
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第3話 偽物の花嫁支度①

 翌朝、セレフィアは目を覚ます前に、自分が誰の名で呼ばれるのかを先に思い出した。 まぶたの裏にはまだ眠りの薄暗さが残っている。けれど意識のいちばん浅いところに、昨夜の冷たい事実が沈殿していて、目が開ききるより先に胸の奥を重くした。三日後。偽りの婚礼。オルフィーヌの代わり。辺境伯の花嫁。 天蓋越しの朝の光は白く、静かだった。窓辺の薄布の向こうで、まだ早い時間の空が青みを帯びている。遠くで鳥が鳴き、下の階からは、銀器を並べる澄んだ金属音が小さく上がってくる。いつもの屋敷の朝だ。昨日あれほど空気が割れたのに、世界は何事もなかったように整え直されている。庭師は庭を歩き、メイドは廊下を磨き、厨房ではパンが焼かれ、伯爵家の朝はきちんと朝のかたちをしている。 そのことが、かえってひどく残酷だった。 セレフィアは掛布の上で指を動かした。指先は冷えている。春の訪れが近いとはいえ、明け方の空気はまだ細く肌を刺した。胸の前で寝衣の襟を引き寄せたところで、扉が叩かれる。「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか」 ミレナの声だった。やわらかく抑えられてはいるが、その向こうにいつもより張りつめた気配がある。「ええ」 返事をすると、扉が開き、ミレナが入ってきた。後ろにはもう一人、母付きの年嵩の侍女までいる。その時点で、ただの朝の支度では済まないのだとわかった。 侍女は深く礼をしたまま言った。「奥様より、本日は朝食の後ただちに西棟の支度部屋へお越しくださるようにとのことです。衣装係、髪結い、香料師が待機しております」 香料師まで。 セレフィアの胸の奥が、ひやりと冷たくなる。「……そんなに急いで?」「婚礼まで日がございませんので」 声は丁寧だが、感情は薄い。伝言を運ぶだけの声音だった。 わかっている。日がないからこそ、今日から徹底的に「オルフィーヌ」を身につけさせるのだ。髪型も、立ち居振る舞いも、香りも、笑みの深さも。辺境へ送るまでに、妹ではなく姉へと塗り替える。 昨夜、礼状の封を閉じた時から、もうこうなることは決まっていたのだろう。「承知しました」 そう答えるほかなかった。 侍女が去ったあと、ミレナが心配そうに近づいてくる。「お顔色が……」「大丈夫」 大丈夫ではなかった。けれどもう、その言葉の中身を考える気力がない。大丈夫かどうかを決めるのは自分ではな
last updateLast Updated : 2026-06-27
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第3話 偽物の花嫁支度②

「もっと額を出して」 母が言う。「オルフィーヌは目元の華やかさを見せるほうが映えるもの」 髪結いが手早く髪を巻き、上げ、横へ流す。姉の髪型はいつも少しだけ計算されていた。ふんわりして見えて、崩れない。可憐に見えて、隙ではない。首筋の見せ方も、耳元に垂らす後れ毛の量も、すべて「よく見える」ように整えられている。 それをセレフィアは知っている。 知っているどころか、何度も見てきた。何度もそばで整えさせられた。どの巻き方だと母に褒められ、どの結い上げだと父に品があると言われ、どの角度だと夜会で令息たちの視線が集まるのか。セレフィアは、それをオルフィーヌ本人よりよく知っていた。 鏡の中で、髪が少しずつ姉の輪郭へ近づいていく。「目を伏せる時はもう少しゆっくり」 母の声が飛ぶ。「お前はすぐ考え込んだ顔になる。オルフィーヌはそんなふうに沈まない。伏せても、まつ毛の影が落ちるだけで十分なのよ。憂いではなく、可憐さとして見せなさい」 言われたとおりに、セレフィアは一度目を伏せた。鏡の中で、まつ毛が頬へ影を落とす。「違うわ」 すぐに母が言う。「力が入りすぎている。もっと、何も知らない娘のように」 何も知らない娘。 その言葉が皮肉にしか聞こえなかった。 セレフィアはもう一度やり直す。肩から余計な力を抜き、視線をやわらかく下へ流す。頭の中を空っぽにするように。自分の考えを、感情を、いったん外へ置くように。「そう。それに近いわ」 母の声に、うっすら満足が混じる。 髪の次は姿勢だった。背筋の伸ばし方、首の角度、扇の持ち方、歩幅。衣装係が床に白い紐で線を引き、その上を歩かせる。右足の出し方、爪先の向き、裾を引きずらない速度。オルフィーヌは少しだけ歩幅が狭い。急がず、追わせる歩き方をする。セレフィアはつい実務的な速さで歩いてしまうため、そのたびに母の声が飛んだ。「速い」 「視線を上げすぎ」 「肘が硬い」 「そんなにまっすぐ歩かないで。もっと、風に押されるように」 風に押されるように。 命じられても、セレフィアにはその曖昧さがうまく掴めなかった。オルフィーヌの動きは一見ふわりとしているが、実際にはよく計算されている。腰の位置、足の運び、肩の揺らし方。少しでも崩れると、ただだらしなく見える。それを再現するには、結局、細部を知らなければならない。 そ
last updateLast Updated : 2026-06-28
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第3話 偽物の花嫁支度③

 母付きの侍女が椅子へ座り、仮の相手役になる。季節の挨拶を振る。旅路の話を振る。北辺の印象を尋ねる。舞踏会の音楽や、王都の流行りの色、神殿への献花。どんな話題にも、オルフィーヌらしく返さなければならない。「声が低い」 「答えが早すぎる」 「言葉が真面目すぎる」 「そんなに相手の話を受け止めなくていいの。少し浮かせなさい」 浮かせる。 それは責任を持たない話し方だった。相手に不快感を与えない程度に柔らかく、けれど核心には触れない。曖昧で、それでいて好ましく響く返答。セレフィアはそれを知っていた。知っているからこそ、口にすると苦かった。「北辺はお寒いのでしょうね」 「ええ、でも、辺境伯様がいろいろと教えてくださいましたの。ですからきっと、大丈夫だと思います」 「まあ、お優しいこと」 そこまで言って、母が手を上げる。「違うわ。『大丈夫だと思います』ではなく、『少し不安ではありますけれど、きっと素敵なのでしょうね』のほうがあの子らしい」「……はい」「お前はすぐに結論へ着地しようとする。オルフィーヌはもっと、空中で言葉を揺らすの」 空中で言葉を揺らす。 その表現に、セレフィアは喉の奥で乾いたものを飲み下した。自分はいつも地へ足をつけて言葉を置こうとしてしまう。誰に向けるのか、何が伝わるのか、失礼はないか、曖昧すぎて誤解を招かないか。そう考える。けれどオルフィーヌは違う。相手に受け取らせる印象だけを残し、自分の責任になるものは曖昧なまま漂わせる。 それができるから、姉は王都の花でいられたのだ。 昼を回る頃、香料師が前へ出た。 年配の女で、指先に色のついた液体の入った小瓶を幾つも載せた盆を持っている。支度部屋に香りがひろがった。白い花、柑橘の皮、少し甘い樹脂、粉香。どれも濃すぎず、けれど体温でほどけると強く残るよう調整された匂い。「オルフィーヌ様は、こちらを基調になさっておいででした」 香料師が細い紙片へ液をひと滴落とし、セレフィアへ差し出す。 嗅いだ瞬間、頭がくらりとした。白百合と、熟れきる前の洋梨、それからごく薄い琥珀。甘いのに冷たい。花嫁らしい無垢を装いながら、その下に人を酔わせる湿り気がある。まさしくオルフィーヌの香りだった。「少し強くありませんか」 思わず口にすると、母がすぐに言った。「強いくらいでちょうどいいのよ。残ら
last updateLast Updated : 2026-06-28
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第3話 偽物の花嫁支度④

 セレフィアは鏡から一歩下がり、窓辺の椅子へ腰を下ろした。深く息を吸おうとして、姉の香りが肺へ入り込み、かえって苦しくなる。外の空気がほしかった。春先の湿った風。土と若葉の匂い。けれど窓は閉ざされている。支度部屋の中は暖かく、香水と粉と絹の匂いが混ざり合い、甘く濃い。 手のひらを膝の上で握る。自分の指先の骨ばった感触だけが、まだ少し自分のものだった。「お水を」 ミレナがすぐに差し出してくれた。銀のグラスは冷たく、水は喉を細く滑り落ちた。その冷たさにようやく少しだけ意識が戻る。「大丈夫ですか」 彼女の問いは囁きに近かった。「……わからない」 思わず本音がこぼれた。ミレナは目を見開いたが、すぐに俯く。「申し訳ありません、私などが」 「違うの」  セレフィアは首を振る。 「あなたに言ったのではなくて……本当に、わからないの。どこまでなら私で、どこからがそうではなくなるのか」 その言葉を聞いたのはミレナだけではなかったらしい。離れた場所で帳面を見ていた母が、扇を閉じる音を立てた。「愚かなことを言わないで」 静かな声だった。「何をどう装おうと、お前はお前です。ただ役目を果たすために形を整えるだけでしょう」 役目を果たすために形を整えるだけ。 その整然とした言い方に、セレフィアは胸の奥をぞくりと冷やされた。「形を整えるだけで済むなら、苦しくありません」  思わずそう返していた。 部屋の空気が止まる。 髪結いたちが顔を伏せ、衣装係が手を止める。母だけがゆっくりこちらを見た。「苦しい?」「……はい」 ここで黙ればよかったのかもしれない。けれど、鏡の中で少しずつ自分が削られていく感覚に、もう何か言わずにはいられなかった。「髪も、香りも、話し方も……全部、お姉様になぞらせるのでしょう。私はただでさえ、お姉様の代わりに文字を書き、礼を整え、影のように使われてきました。それなのに、今度は顔まで……」「顔まで、何だというの」 母の声に熱はない。ただ冷たい。「役に立つのであれば結構なことです」 言葉を失う。「お前が自分自身に執着するほど、この家に余裕があるとでも思うの?」  母は続けた。 「どんな家でも娘には役割があります。オルフィーヌは正面に立つ役。お前は支える役。たまたま今回は、その境目が少し動いただけのことよ」 たまたま
last updateLast Updated : 2026-06-29
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第3話 偽物の花嫁支度⑤

 夕方近くになって、父が支度部屋へ現れた。 部屋の空気が変わる。女たちは一斉に頭を下げた。父はいつものように隙なく整った服装で、昼の執務を終えたばかりらしい書類の匂いと外気の冷たさをまとっていた。彼は部屋の中央へ立つセレフィアを一瞥し、しばらく何も言わなかった。 その沈黙が妙に長く感じられる。「……どうでしょう」 母が問うと、父はごく短く答えた。「見られる」 それだけだった。 褒め言葉ではない。評価だ。馬の歯並びや、仕立て直した家具の具合を確かめる時のような。「もう少し話し方を整えれば、近くで知らぬ者にはまずわからんだろう。」「近くで知らぬ者には」 セレフィアはその言葉を繰り返しそうになった。つまり、よく知る者にはわかるのだ。わかっていて、それでも押し通すつもりなのだ。 父はセレフィアへ歩み寄った。まっすぐ視線を合わせる。その眼差しに、昨日と変わらぬ冷たさがある。「大げさな顔をするな」 何も言っていないのに、そう言われた。「お前は辺境に着けば、黙っていれば通る」 父の声は低く、断定的だった。「余計なことを喋らず、笑っていればいい。旅の疲れと寒さを理由に、必要以上に人前へ出るな。向こうは北辺の実務で忙しい。花嫁の些細な違和感など、いちいち詮索している暇はない」 黙っていれば通る。 その言葉が、ずしりと胸へ落ちた。 自分の口を閉ざしていれば、この嘘は進められる。何も言わず、何も訴えず、ただ姉の名で整えられた人形として座っていれば、通る。そう父は言う。 どこまで人を侮っているのだろう、と一瞬だけ思った。辺境伯を。北辺の人々を。あるいは自分自身を。「……もし、通らなければ」 気づけば、口が動いていた。 母がすぐ眉を寄せる。だが父は平然としている。「その時はその時だ」 まるで大した問題ではないように言った。「まずは婚姻を成立させるのが先決だ。成立してしまえば、後のことはいくらでも動かせる」 その言葉の冷たさに、支度部屋の温かい空気が急に遠く感じられた。窓の外に雪でも降り出したような錯覚さえした。 父はセレフィアの肩の線、髪、立ち姿をざっと見てから、母へ向き直る。「署名の練習も続けろ。あと、辺境の地理と主要人物の名を今夜中に頭へ入れさせろ。口をつぐんでいるだけでは不自然な場面もある」「承知しました」「食事量も少し増
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第3話 偽物の花嫁支度⑥

 しばらくそうしてから、椅子へ腰を下ろした。足が重い。肩も、首も、まるで見えない糸で引きつられているみたいに張っていた。 ミレナがそっと温かい湯を差し出す。「お飲みになりますか」「ええ、ありがとう」 湯気が立つ。カップを持つと指先に熱が戻る。ひと口含むと、今度は薬草ではなくただの白湯だった。それがかえってよかった。何の意味づけもない、ただ温かいだけの水。「……そんなに似ていましたか」  不意に尋ねると、ミレナは返事に迷った。「お嬢様」「正直に言って」 ミレナは視線を少し泳がせたあと、静かに言った。「遠目には……似ておいででした」「そう」「けれど」  彼女は続ける。 「私は、お嬢様とオルフィーヌ様を見間違えません」 その一言に、胸の奥が細く震えた。「どうして」「……お顔立ちだけではありませんもの」 ミレナはそれ以上多くを言わなかった。だがその短い言葉の中には、セレフィアが自分でも見失いかけていたものが、まだどこかに残っているという意味が含まれている気がした。 顔立ちだけではない。 では何が違うのだろう。目の奥か。呼吸の間か。人の話を聞く時のまなざしの深さか。物へ触れる手つきか。そうしたものまで、母は全部削ろうとしているのだろうか。いや、削れると思っているのだろうか。 考え始めると、頭の奥が重く痛んだ。「今夜はお早めにお休みくださいませ」  ミレナが言う。 「明日も、きっと……」 きっと長い。きっと同じことの繰り返しだ。 セレフィアは頷いたが、すぐには立てなかった。鏡台の前へ行く気力がなかった。髪を完全にほどき、香りを洗い流し、いつもの寝衣へ着替える。その一つひとつをするだけでも、今日はひどく疲れそうだった。 けれど、いつまでもこのままではいられない。 ようやく立ち上がり、鏡台の前へ向かう。卓上の燭台の火が、鏡の中で二重に揺れている。セレフィアは自分の姿を見た。 髪は半ばほどけて波打ち、姉の香りが残り、頬には疲れが薄く影を落としている。完全にオルフィーヌではない。けれど完全にセレフィアでもない。昼の支度の痕が、表面のあちこちに残っている。 鏡の中の自分と目が合った瞬間、胸がひどく苦しくなった。 これは誰だろう。 唇を少し動かしてみる。自分の顔が動く。なのに、その動きさえ借り物のように見える。「セレフィア
last updateLast Updated : 2026-07-01
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