「私だけ捨てられて、拓哉さんは奥さんのところへ帰るの? そんなの許すわけないじゃん」 拓哉は答えません。 閉じた傘の先が、路面へ触れました。 一度 二度 短い音が鳴ります。 「消した方がいい」 拓哉が言いました。 「これは麻里亜のためでもある」 「まだそれ言うんだ」 「冷静になれば分かる」 「分からないよ」 「今はな」 拓哉の声は、また静かになっていました。 さっき麻里亜の手首を押さえた時とは別人のように、平らな声です。 「今日は帰れ。明日になったら、もう一度話そう」 「明日になったら、また無視するでしょ」 「しない」 「信じられない」 「じゃあ、どうしたいんだよ」 麻里亜の視線が、建物の角へ走りました。 すぐに拓哉へ戻ります。 唇が開いても、言葉は出ませんでした。 拓哉も目の動きに気づきました。 顔がゆっくり横へ向きます。 「誰かいるのか?」 麻里亜の爪が、鞄の縁を押しました。 「いないよ」 「さっきから、そっち見てるだろ」 「見てない」 「誰に話した?」 「誰にも」 拓哉が麻里亜へ一歩近づきました。 「写真、誰かに送ったのか?」 「送ってない」 「じゃあ何で隠すんだよ」 「隠してないってば」 麻里亜の声がわずかに上ずりました。 拓哉はもう麻里亜を見ていません。 建物の角 細い影 街灯から外れた暗がり そこへ向けて、目を凝らしています。 「麻里亜」 低い声でした。 電話で聞かせたやさしさはありません。 「誰がいる」 「誰もいない」 「嘘つくな」 「嘘じゃない」 「だったら、こっち見ろよ」 麻里亜は顔を上げました。 視線がまた、建物の角へ揺れます。 「聖は、最初から私を悪い方に決めつけなかった」 言ってから、麻里亜の唇が閉じました。 拓哉の眉が寄ります。 「聖?」 返事はありません。 拓哉は暗がりへ向き直りました。 「誰だよ、それ」 麻里亜は黙っています。 拓哉が建物の角へ近づこうとしました。 その時 靴底が路面を擦る音がしました。 聖が暗がりから出てきます。 古いパーカーのポケットに片手を入れたまま、麻里亜と拓哉の間へ目を向けました。 「麻里亜の知り合いです」 拓哉の視線が、聖の顔へ移ります。 「知り合い?」 「そうです」
Last Updated : 2026-07-15 Read more