All Chapters of あなたの罪まで愛してる: Chapter 41 - Chapter 50

66 Chapters

Part4

「私だけ捨てられて、拓哉さんは奥さんのところへ帰るの? そんなの許すわけないじゃん」 拓哉は答えません。 閉じた傘の先が、路面へ触れました。 一度 二度 短い音が鳴ります。 「消した方がいい」 拓哉が言いました。 「これは麻里亜のためでもある」 「まだそれ言うんだ」 「冷静になれば分かる」 「分からないよ」 「今はな」 拓哉の声は、また静かになっていました。 さっき麻里亜の手首を押さえた時とは別人のように、平らな声です。 「今日は帰れ。明日になったら、もう一度話そう」 「明日になったら、また無視するでしょ」 「しない」 「信じられない」 「じゃあ、どうしたいんだよ」 麻里亜の視線が、建物の角へ走りました。 すぐに拓哉へ戻ります。 唇が開いても、言葉は出ませんでした。 拓哉も目の動きに気づきました。 顔がゆっくり横へ向きます。 「誰かいるのか?」 麻里亜の爪が、鞄の縁を押しました。 「いないよ」 「さっきから、そっち見てるだろ」 「見てない」 「誰に話した?」 「誰にも」 拓哉が麻里亜へ一歩近づきました。 「写真、誰かに送ったのか?」 「送ってない」 「じゃあ何で隠すんだよ」 「隠してないってば」 麻里亜の声がわずかに上ずりました。 拓哉はもう麻里亜を見ていません。 建物の角 細い影 街灯から外れた暗がり そこへ向けて、目を凝らしています。 「麻里亜」 低い声でした。 電話で聞かせたやさしさはありません。 「誰がいる」 「誰もいない」 「嘘つくな」 「嘘じゃない」 「だったら、こっち見ろよ」 麻里亜は顔を上げました。 視線がまた、建物の角へ揺れます。 「聖は、最初から私を悪い方に決めつけなかった」 言ってから、麻里亜の唇が閉じました。 拓哉の眉が寄ります。 「聖?」 返事はありません。 拓哉は暗がりへ向き直りました。 「誰だよ、それ」 麻里亜は黙っています。 拓哉が建物の角へ近づこうとしました。 その時 靴底が路面を擦る音がしました。 聖が暗がりから出てきます。 古いパーカーのポケットに片手を入れたまま、麻里亜と拓哉の間へ目を向けました。 「麻里亜の知り合いです」 拓哉の視線が、聖の顔へ移ります。 「知り合い?」 「そうです」
last updateLast Updated : 2026-07-15
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33話 灰庭 聖 Part1

「ずっと見てたんですか?」 拓哉の声は静かでした。 聖は麻里亜の前へ半歩出たまま、すぐには答えません。 「最初からじゃないですよ」 「途中からなら、隠れて聞いてもいいと?」 「よくはないです。でも、出ていくか迷ってる間に、あんたが麻里亜の手首を押さえたんですよね。」 「スマホを見せてもらおうとしただけですよ」 「見せてもらう側の行動じゃなかっただろ?」 拓哉は目を細めました。 「一部だけ見て、全部分かったように言うんですね」 「全部は分かりませんよ。だから見たことだけ言ってますがね。」 聖は麻里亜の手首へ目を向けました。 「嫌だと言って、痛いって言ってるのに、それでも離さなかったじゃないですか?」 「麻里亜が逃げようとしたからです」 麻里亜が顔を上げました。 「逃げたんじゃなくて、スマホを取られたくなかったの!」 「中身を確認するだけだっただろ?」 「確認って言えば、勝手に触っていいの?」 「写真に俺が写ってるんだ。関係ないとは言えないだろ」 「だからって、私のスマホは拓哉さんの物じゃないよ」 拓哉は短く息を吐きました。 「また話をそらすのか?」 「そらしてるのはそっちじゃん。写真を消せって話から、私が逃げたから悪いって話に変えたの誰?」 「麻里亜」 「その呼び方、もう効かないから」 麻里亜の声が細い道へ響きました。 聖が横から言います。 「少し声落とせ」 麻里亜がすぐに睨みました。 「聖まで言うの?」 「こいつのためじゃない。お前が明日、ここで怒鳴ったことまで後悔するだろ?」 「また昔みたいに分かった顔するの」 「分かってたら、もっと早く出てきてる」 「出てこなくてよかったのに」 「それは無理だった」 「何で?」 聖の視線が、麻里亜の袖口へ向きました。 赤い跡が少しだけ見えています。 「それ、見たから」 麻里亜は手首を袖の中へ引きました。 「これくらい何でもないよ」 「じゃあ隠すなよ」 「聖に見せたくないだけ」 「何で」 「心配してる顔されると腹立つから」 「してるよ」 「だから嫌なの!」 聖は何も返しませんでした。 拓哉が二人の会話を切るように口を開きます。 「元彼な
last updateLast Updated : 2026-07-16
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Part2

「私が勘違いしたんじゃなくて、拓哉さんが勘違いさせたんじゃん」 「同じことを何度話せば気が済むんだよ……」 拓哉の声が少し低くなりました。 麻里亜の唇が、ゆっくり閉じます。 聖が拓哉を見ました。 「今の言い方、あんたが来る前から何回もしてるんですか」 「何の話です?」 「麻里亜が同じこと聞くたびに、面倒そうに返してたのかって聞いてます」 「あなたは何なんですか。相談員か何かですか?」 「違いますよ」 「なら口を挟まないでもらえますか?」 「麻里亜が一人で話せてる間は黙りますよ」 聖は拓哉の足元に転がる缶を見ました。 「また手を出したら、その時は黙ってられませんから」 拓哉の目が細くなります。 「脅してるんですか?」 「先に言ってるだけです」 「それを脅しって言うんですよ」 「じゃあ警告でいいです。あんたもさっき使ってたから」 麻里亜が小さく息を漏らしました。 笑ったのか、呆れたのか分かりません。 拓哉はその音を聞き逃しませんでした。 「随分、仲がいいんだな」 「今その話、関係ある?」 麻里亜が返します。 「俺の写真を見せた相手なら関係あるだろ」 「聖に見せたなんて言ってない」 「さっき言ったじゃないか」 「全部見せたとは言ってない」 聖が麻里亜へ顔を向けました。 「昨日送ってきたやつ以外にもあるのか」 「聖まで聞かないでよ」 「俺が見たのは一部なんだろ」 「だから何?」 「他にも誰かに送ってないか確認してるんだよ」 「送ってない」 「保存は?」 麻里亜は答えませんでした。 拓哉の視線が、麻里亜の鞄へ落ちます。 「何をした?」 「言わない」 「麻里亜」 「消してほしい人に、どこにあるか教えると思う?」 「それ、脅迫だぞ」 「またその話?」 「写真とメッセージを使って俺を呼び出して、会社と妻に知らせると言ってる。十分そう見えるだろ」 「警察に行けば?」 麻里亜は一歩も引きませんでした。 「ホテルの写真も、拓哉さんから来たメッセージも全部見せて。私も手首を見せるから」 「大げさにするなって言っただろ」 「大げさかどうか、警察に決めてもらえばいいじゃん」 拓哉の目が聖へ移りました。 「あなたも証人になるつもりですか」 「見たことなら話しますよ」 「途中からしか見てな
last updateLast Updated : 2026-07-16
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Part3

「あなたが近くにいるなら、連れて帰ってもらえませんか?」 拓哉が聖へ言いました。 麻里亜がすぐに割って入ります。 「だから、私を荷物みたいに渡さないで」 「そういう意味じゃない」 「じゃあどういう意味?」 「今の麻里亜は冷静じゃない。誰かがそばにいた方がいいと言ってるんだ」 「その誰かが拓哉さんじゃないのは、よく分かった」 「話をすり替えるなよ」 「すり替えてる訳じゃなくない?私にはもう連絡しない。でも聖には連れて帰れって頼む。面倒なところだけ押しつけてるじゃん」 「俺は押しつけられて来たわけじゃないっすよ」 聖が言いました。 麻里亜が横を向きます。 「聖は黙ってて」 「今、俺の話してただろ」 「だからって入ってこないで」 「じゃあ俺を使って喧嘩するな」 「使ってない」 「使ってる。こいつが俺に押しつけるって言って、お前も俺を押しつけられる側にしてるだろ」 麻里亜は口を閉じました。 聖は続けます。 「帰るかどうかはお前が決めればいい。俺が決めることじゃない。でも一人で帰らせる気はない」 「それも勝手じゃん」 「うん。勝手」 「認めるんだ」 「認めない方が腹立つだろ」 麻里亜は何か言い返そうとして、やめました。 拓哉は二人の間を見ています。 「写真はどこまで見たんです?」 聖の顔が拓哉へ向きました。 「それ、俺に聞くんですか」 「麻里亜が答えないので」 「本人が言いたくないなら、俺から言うことじゃないです」 「俺が写ってるんですよ?」 「だったら、写ってることした自分に聞けばいいでしょう」 拓哉の口元が引きつりました。 「ずっとそんな調子なんですか?」 「何がです?」 「人の事情も知らずに、正しい側へ立ったつもりになって」 「俺が正しいとは言ってませんよ」 「なら、どうして今ここに居座るんです?」 聖は麻里亜の前から動きませんでした。 「こいつが一人でいるよりは、俺が居た方がマシだからです」 「聖」 麻里亜が低く呼びました。 「何」 「そういうの、私の前で言わないで」 「何で」 「惨めになるからだよ」 「どこが?」 「拓哉さんに会いに来て、元彼に庇われてるところが」 「庇ってない」 「じゃあ何」 「近くにいるだけだよ」 「同じじゃん」 「違う。お前が自分で喋
last updateLast Updated : 2026-07-17
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Part4

ホテルの看板が、三人の横顔を赤く照らしています。 拓哉は視線を外しませんでした。 聖も動きません。 「灰庭です」 聖が言いました。 拓哉の眉がわずかに動きます。 「灰庭さん」 「灰庭聖」 麻里亜が聖を見上げました。 「言わなくていいのに」 「隠すことでもないからな」 拓哉は一度だけ頷きました。 「灰庭聖さん」 確かめるように、その名前を口にします。 愛梨沙は胸の中で繰り返しました。 灰庭聖 灰庭聖 麻里亜が泣いた夜を知る男 拓哉の指が作った跡を見た男 見ていないことまで見たとは言わない男 (灰庭聖 そんな名前なんだ 拓哉さんの苦いところを見た目 麻里亜さんの赤い跡を見た目 何を覚えて どこまで誰かに話すの? 教えて あなたの目の奥へ指を入れて 拓哉さんが映っているところだけ 私がそっと取り出してあげたい) 「今日は帰ります」 拓哉が言いました。 麻里亜の顔が上がります。 「逃げるの?」 「この状況で何話しても意味がないだろ」 「写真は消さないよ」 「好きにすればいい」 「さっきまで消せって言ってたじゃん」 「もう頼んでも無駄だと分かったからだ」 「じゃあ奥さんに送ってもいいんだ?」 「送ったら、こっちも対応する」 「脅すの?」 「警告だよ」 「また言葉を変えた」 「麻里亜がどう受け取るかまでは知らない」 「そうやって全部、受け取った私のせいにするんだね」 拓哉は答えませんでした。 黒い傘を持ち直し、麻里亜の横を通り過ぎようとします。 聖が少しだけ道を空けました。 拓哉はその前で止まります。 「元彼なら、ちゃんと見てた方がいいですよ」 聖が聞き返しました。 「何をです?」 「彼女が何をするか」 「自分が何したかは見ないんですか」 「あなたも、そのうち分かりますよ」 「何がです?」 拓哉の口元に、やさしさのない笑みが浮かびました。 「彼女がどういう人か」 麻里亜が拓哉の背中へ言葉を投げます。 「自分がどういう人か、奥さんに教えてあげようか?」 拓哉の足が一度だけ止まりました。 振り返りません。 「やればいい」 「本当に送るよ」 「好きにしろ」 「あとで泣いて謝っても消さないから」 「謝らないよ」 拓哉はそのまま歩き出しました。 黒い
last updateLast Updated : 2026-07-17
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34話 消えない場所 Part1

検索結果の中に、見覚えのある顔がありました。 灰庭聖 SNSのアイコンには、今より少し髪の短い聖が写っています。 愛梨沙はプロフィールを開きました。 投稿は多くありません。 食べかけの弁当 曇った空 擦れた靴の先 安い缶コーヒー 誰かの反応を待って撮ったというより、その日に目へ入ったものを記録しただけの写真ばかりでした。 紹介文には、住んでいる地域と生まれた年だけが書かれています。 仕事も 家族も 恋人も そこからは分かりません。 最後の投稿は半年前でした。 〈眠れないから歩く〉 夜道の写真が一枚 街灯の下に、聖の影だけが伸びています。 愛梨沙は古い投稿へ指を滑らせました。 三年前の写真に、赤い爪が写っていました。 テーブルへ伸びた女の手 濃い赤のネイル 甘いカフェオレ 黒い缶コーヒー 〈甘いの買ったのに、またそっち取るのかよ〉 その下に、麻里亜の返信がありました。 〈聖が飲んでると欲しくなるんだもん〉 たった二行です。 けれど今夜よりも、二人の距離が近く見えました。 赤い爪が、聖の缶へ伸びていた頃 愛梨沙の胸の奥が痛みました。 (こんな前から その指を知ってるんだ 拓哉さんへ触る前の まだ何も知らない赤い指を 聖さんは見てたの? 嫌 昔の麻里亜さんまで 拓哉さんのそばへ連れてこないで その赤は 拓哉さんに触れてから 濃くなったことにしてよ) 愛梨沙は画面を消しました。 麻里亜と聖は、ホテル裏から離れ始めていました。 拓哉の姿はありません。 麻里亜が先を歩き、聖は少し離れてついていきます。 愛梨沙も距離を空けたまま、その後を追いました。 「もう帰っていいよ」 麻里亜は前を向いたまま言いました。 「帰る方向、こっちだから」 「聖の家、反対でしょ。そんな嘘ついてまで来なくていいよ」 「嘘じゃなくて、今日はこっちから帰ることにしただけだよ」 「それは屁理屈じゃん?」 「お前が一人で帰りたいなら、そう言えばいいだろ。」 麻里亜の足が少し遅くなりました。 「一人で帰りたいって言ったら、本当に帰るの?」 「帰ってほしいなら帰る。ただ、家に入ったって連絡
last updateLast Updated : 2026-07-18
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Part2

「怒ったら消したのか?」 麻里亜は答えません。 聖は少し間を空けました。 「消さないだろ?言い合いになって、もっと悪く書かれるだけだと思った」 「そこまで私のこと分かってたなら、傷つかなかった?」 「分かってたって、傷つくよ」 返事があまりに早くて、麻里亜の足が止まりかけました。 「どのくらい?」 「それを聞いて、今さらどうするんだよ?」 「知らないままなのが嫌だから聞いてるの」 聖は数歩後ろで立ち止まりました。 「かなり傷ついた。家の前に行ったことだけ切り取られて、怖い男みたいに書かれたのも嫌だった」 麻里亜は振り返りません。 「でも、何回も来たのは本当でしょ」 「そりゃ、三日連絡がつかなくて心配になって行ったからな」 「心配でも来ないでって言ったのに、来たのは聖じゃん」 「それも本当だ。だから全部嘘だとは思ってない」 麻里亜の指が鞄の縁へ触れました。 「じゃあ、どうして今もついてくるの?」 「今夜のお前を見て、一人で帰らせたくないと思ったからだよ。昔と同じことをしてるように見えるなら、それは否定できないよ」 「また私が投稿したら?」 「何を書かれても、今夜はお前を一人で帰せない」 「そういうこと言われると、悪いのが私みたいになる」 「悪いなんて言ってない。俺が勝手に心配して、勝手についてきてるんだよ。」 麻里亜はしばらく黙りました。 やがて歩き出します。 「勝手って認めれば許されると思ってる?」 「許されるとは思ってない。お前が嫌がってることまでは、善意だから正しいとは言いたくない」 麻里亜の肩から、少しだけ力が抜けました。 「そういう言い方、ずるいよ」 「何がずるいんだよ」 「私が怒り続けにくくなるから」 「怒りたいなら怒ってていいよ。俺が言ったことまで変える気はない」 麻里亜の声には、泣いたあとのかすれがまだ混じっていました。 愛梨沙は歩きながら、もう一度スマホを開きました。 麻里亜の名前と、灰庭聖の名前を並べて検索します。 古い投稿がいくつか表示されました。 その中に、八か月前の写真がありました。 建物の入口付近に立つ男の背中 古いパーカー 少し丸まった肩 顔は見えません。 けれど聖だと分
last updateLast Updated : 2026-07-18
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Part3

麻里亜は唇を尖らせました。 「聖、言い返すの上手くなったね」 「お前と付き合ってたら、少しはな」 「嫌味?」 「経験談だよ」 麻里亜の口元が一瞬だけ緩みました。 すぐに消えます。 「誰にも見せないでね」 「見せないよ」 「でも、何かあった時は出してほしい」 聖の足が止まりました。 麻里亜も数歩先で立ち止まり、振り返ります。 「何かって、具体的には何だ」 「分からないけど、拓哉さんがまた今日みたいになった時とか」 「今日みたいになった時じゃ遅い。もう二人では会うな」 「それを聖が決めるの?」 「決めてない。会うなら誰かに言ってから行けって話をしてるんだよ」 「さっきは会うなって言ったじゃん」 「本音では会ってほしくない。でも、お前が聞かないのも分かってるから、せめて一人では行くなよと言ってるんだよ」 麻里亜は右手首へ左手を添えました。 赤い跡は袖の中に隠れています。 「拓哉さんも混乱してたんだと思う。写真のことが急に怖くなって、少し強くなっただけかもしれないじゃん」 「それは理由にならないだろ?」 「理由にはならなくても、あの人が最初から私を傷つけようとしたわけじゃないってことだよ」 「傷つけるつもりがなければ、傷つけてもいいのか?」 「そんなことは言ってないよ……」 「なら、あいつの代わりに理由を探すのはやめろよ。痛いって言った時に離さなかった。それだけで十分だろ」 麻里亜の顔が強張りました。 「私だって最低だと思ったよ。でも、さっきまで好きだった人を、急に全部悪い人だったって思えるわけないじゃん」 聖はすぐに返しませんでした。 麻里亜の声が続きます。 「好きって言われたことまで嘘だったって認めたら、私が一人で勘違いして、一人で騒いでるみたいになるじゃん。それが嫌なの」 「だったら、今すぐ全部決めなくていいんじゃない?」 「会うなって言ったくせに?」 「会わないことと、嫌いになることは別だよ。好きなまま離れることだってできるだろ?」 麻里亜は聖を見ました。 「聖はできたの?」 「それは…。できてないから、今ここにいるんだろ」 二人の間に沈黙が流れました。 麻里亜の視線が、聖の顔から足元へ落ちます。 「そうい
last updateLast Updated : 2026-07-19
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Part4

住宅の多い道へ入ると、麻里亜の歩幅がさらに狭くなりました。 やがて、低い柵のあるマンションが見えてきます。 「もうここで大丈夫だよ」 麻里亜が足を止めました。 「部屋に入ったのを見たら帰る」 「そこまで来られると、昔と同じに見えるんだけど?」 聖の足が止まりました。 八か月前の投稿にあった言葉が、二人の間へ戻ってきたようでした。 「そうだな。じゃあ、柵の外から見る」 「急に離れないでよ」 「近づくなって言っただろ」 「近づかないでほしいけど、ちゃんと帰ったかは見ててほしいの!」 「どっちなんだよ」 「私だって分かんないよ…」 麻里亜は苛立ったように髪へ触れました。 「今日は一人で部屋に入るのが嫌。でも、聖に入口まで来られるのも嫌なの」 「だったら、ここから見てる。お前が建物へ入ったら、明かりがつくまで動かない」 「それ以上は来ない?」 「行かないよ」 「暗証番号も押さない?」 「番号はもう覚えてない」 「三年前のコーヒーは覚えてるのに?」 「毎日飲んでたものと、使ってない番号を一緒にすんなよ?」 麻里亜の唇が少しだけ緩みました。 「写真、本当に消さないでね」 「何度聞かれても消さない」 「拓哉さんから連絡が来ても返さないで」 「連絡先知らないよ」 「名前を教えたから、向こうが調べるかもしれないでしょ?」 「連絡が来たら、まずお前に知らせる。それでいいか?」 「勝手に会おうとしない?」 「会わない。返事も、お前に見せるまではしない」 「見せたあとも返さないでよ」 「分かった。返さない」 麻里亜はようやく建物へ向かいました。 ガラスの扉の前で振り返ります。 「聖」 「何?」 「さっきの、かなり傷ついたって話」 「今それをするのか?」 「今じゃないと聞けないから」 聖は麻里亜を見ました。 「忘れていいよ」 「忘れられる言い方じゃなかったもん」 「じゃあ、今度ちゃんと話す」 「今度っていつ?」 「お前が拓哉の話をしなくても平気なときかな」 麻里亜の表情が少し曇りました。 「そんな時、来るのかな…」 「来なくても待つよ」 麻里亜は何も返しませんでした。 ガラスの扉を開き、建
last updateLast Updated : 2026-07-19
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35話 妻からの願い part1

麻里亜の投稿が消えました。 〈見てるなら、何か言えばいいのに〉 瑠璃子の名前が映った閲覧者一覧も、画面を更新すると見えなくなっています。 投稿されてから、まだ数分しか経っていません。 愛梨沙はマンションを見上げました。 上の階では明かりがついたままです。 カーテンの向こうを、人影が何度か横切りました。 それから二十分ほどして、ガラスの扉が開きます。 麻里亜が出てきました。 さっきと同じ服 袖の中へ隠した右手首 スマホへ目を落としたまま進む足 画面を消した直後に、また開いています。 短い文章を、何度も読み返しているようでした。 聖の姿はありません。 麻里亜は道路へ出ると、停まっていた車の後部座席へ乗りました。 愛梨沙も配車アプリを開きます。 到着した車へ乗り、前方を走り始めた車を指しました。 「少し離れたまま、あの車と同じ方向へ進んでください」 運転手は短く返事をしました。 二台の車は住宅街を抜け、大きな通りへ入ります。 愛梨沙は麻里亜のアカウントを何度も更新しました。 新しい投稿はありません。 瑠璃子のアカウントにも変化はありませんでした。 朝食 花 白いカップ 夫婦二人分の食器 静かな暮らしだけが並んでいます。 夫の愛人へ連絡を送った女の画面には見えません。 (何を送ったの? 拓哉さんの奥さん 麻里亜さんへ 怒った言葉? 泣いた声? それとも いつもの唇で 会いませんかって誘ったの? 妻の口の中にいる拓哉さん 朝に触れる頬も 眠る前に聞く息も 全部、私の知らない味がする 舌の裏まで開いて あなたの中の拓哉さんを 私へ流して) 前方の車が、駅から少し離れたファミリーレストランの駐車場へ入りました。 麻里亜は車を降り、入口へ向かいます。 愛梨沙も少し遅れて店へ入りました。 「1名です」 店員に案内されながら、店内を見渡します。 麻里亜は奥のボックス席に座っていました。 向かい側にいるのは、髪を低い位置でまとめた女です。 淡い色のブラウス 細い首 左手の結婚指輪 鴻上瑠璃子 愛梨沙は二人のすぐ後ろにあるボックス席へ入りました。 背中合わせになる
last updateLast Updated : 2026-07-20
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