All Chapters of あなたの罪まで愛してる: Chapter 21 - Chapter 30

66 Chapters

21話 残されたもの

検索欄には、麻里亜の名前が残っていました。 愛梨沙はそれを消さないまま、スマホを持つ指を少しずらしました。 maria_melt1 赤いものと甘い夜がすき その文字の下に、さっき聞いた声が沈んでいる気がしました。 ちゃんと考えてる 一度聞いただけではありません。 二度も三度も戻して聞きました。聞くつもりではなかったのに、拓哉の声が入るところで、どうしても指が止まりました。 白いテーブルの上には黒い缶があります。朝の手すりで汚れた白い手袋も、指先を少し曲げたまま置かれていました。 (考えてるのよね あんな声で言わされたのね 赤い爪のすぐそばで 水の音まで一緒に録られて かわいそう 拓哉さんの声、あんな夜に残されたままじゃだめよ 麻里亜さんが眠れない夜に開いて、またあなたの声を聞くもの) 愛梨沙は保存した動画を開きました。 暗い天井、白いシーツ、赤い爪。 画面の端はぼやけていて、何度見ても場所は分かりません。けれど音だけは妙にはっきりしています。 水の音 布の擦れる音 遠くで鳴る電子音 ぴん 愛梨沙は再生位置を戻しました。 ぴん また戻します。 ぴん 耳にイヤホンを入れると、部屋の静けさが少し遠のきました。白いコードが手袋のない指に絡まり、胸元で一度跳ねます。 「ほんとに別れるの?」 「ちゃんと考えてる」 そこで止めました。 拓哉の声を聞きたいわけではありません。いま確かめたいのは、声ではなく、その周りに残っている音でした。 愛梨沙は息を浅くして、少し前まで戻します。 氷が鳴る音。足音。低い機械の音。どこかの扉が閉まる音も混じっています。ホテルなのか、カフェなのか、それとも別の場所なのか。 愛梨沙はスマホを耳に近づけました。 (入ってこないで 今はだめ 拓哉さんの声を聞いたら、またそこだけ舐めちゃう 違うの あなたを聞きたいんじゃないの あなたを隠す場所を探してるの) 動画を止めて、画面を切り出しました。 天井 白いシーツ 赤い爪 それだけでは何も分かりません。 次に、カフェかホテルのロビーで撮られた動画を開きます。 テーブルの上にグラスがありました。氷が溶けかけ、麻里亜の赤い爪が縁を
last updateLast Updated : 2026-07-01
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22話 四つ花の紙

駅前の時計へ戻る頃、水たまりの白は半分ほど濁っていました。 愛梨沙はその横を踏まないように歩きました。 踏まなかったのに、靴の先には小さな水の粒がついていました。 白い封筒は、鞄の中で少し重くなっています。 自分で買った黒い缶のレシート 雨を吸った赤い端の紙 封筒の口が、少しだけ波打っていました。 鞄を持つ腕が、自然と内側へ寄ります。 (入ってる まだ何でもないものなのに 私の中へ来たみたい 捨てないよ 見せないよ ちゃんと、しまっておくから) 駅前の時計の下で、愛梨沙はもう一度スマホを開きました。 地図の上には、いくつかの印がありました。 コンビニ 喫煙所 ホテル裏 タクシー乗り場 駅前時計 そして、まだ名前の分からない店 四つ花の紙 愛梨沙は写真フォルダを開きました。 動画から切り出した画面を拡大します。 グラスの下にある丸い紙 ぼやけた文字 四つの花びら 紫陽花ではありません 薔薇でもありません ありふれているくせに、どこかで見たら忘れにくい印でした。 愛梨沙は駅前を見回しました。 カフェは三つあります 改札横のチェーン店 ビルの二階にある古い喫茶店 ホテルの向かい側に、硝子張りの小さな店 麻里亜の動画に映っていたテーブルは木目でした。 グラスは少し丸く、氷がよく鳴りそうでした。 照明は暗すぎず、明るすぎない 愛梨沙は、ホテルの向かい側の店へ向かいました。 入り口の前で、一度止まります。 立て看板の端に、小さな花の印がありました。 四つの花びら 白い手袋の指先が、鞄の持ち手を押さえました。 (ここだ) ドアを開けると、鈴が鳴りました。 からん 店内には、昼を少し過ぎた匂いがありました。 コーヒー 濡れた傘 焼いた砂糖 窓際の席に、女の人がひとり 奥の席に、スーツの男がふたり レジのそばに、若い店員がいました。 愛梨沙は入り口で少しだけ止まり、テーブルを見ました。 木目 丸いグラス 白い紙 白い紙の端に、四つ花の印がありました。 (ここにいたのね 赤い爪でグラスをなぞって 拓哉さんに、今ここで話すことじゃないだろ、って言わせたのね こんな普通の店で 誰かが隣でコーヒーを飲んでる場所で あなたは拓哉さんの声を録ったのね) 「お好きな席
last updateLast Updated : 2026-07-02
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23話 呼ぶ白

カサッ 鞄の奥で紙が鳴りました。 愛梨沙は改札の手前で足を止めたまま、その音を聞いていました。 人の流れは止まりません。駅員の声、改札機の電子音、靴音、誰かの笑い声。いくつもの音が重なっているのに、鞄の中の白い封筒だけが、愛梨沙の内側で鳴ったように聞こえました。 黒い缶のレシート 赤い端の紙 四つ花の紙 カフェのレシート どれも拓哉の名前ではありません。麻里亜の名前でもありません。けれど、拓哉が困るものの近くにあったものです。麻里亜の赤いスマホから外へこぼれた場所にあったものです。 (大丈夫 ちゃんと入ってる 見えないところにある 誰にも触らせない) 愛梨沙は鞄の持ち手を握り直しました。 改札の向こうには、別の人の流れがあります。電車から降りてくる人、階段へ急ぐ人、券売機の前で立ち止まる人。駅の中は、誰かの朝と誰かの夜が何度もすれ違う場所でした。 拓哉も、ここを通るのでしょうか。 朝、会社へ向かう時 夜、家へ帰る時 麻里亜に呼び出された時 それとも、誰にも言えない場所へ向かう時。 愛梨沙は改札機の黒い面を見つめました。誰かのカードが触れるたび、青い光が短く点きます。人は次々に通り抜けていきます。通ったあとは、何も見えなくなります。 消えていくものが、多すぎると思いました。 声も 視線も 言いかけた言葉も 困った時の沈黙も 放っておけば、みんな駅の床に流れていきます。誰かの靴に踏まれ、誰かの傘の先に押され、なかったことになってしまいます。 (だから私が持ってる 封筒に入るものは封筒に 入らないものは、私の中に) その時、改札の外にある柱のそばで、白いものが動きました。 愛梨沙は、そちらへ目を向けました。 白いニットでした。 ふわりとした袖。薄いピンクのタンブラー。小さなバッグ。髪の横で揺れる白いイヤホン。 画面の中で何度も見た女が、駅の中にいました。 宵宮すず音 本当にいる 愛梨沙は、鞄を握る手に力を入れました。 すず音は改札から少し離れた柱のそばに立っていました。電車に乗るつもりなのか、それとも誰かを待っているのか分かりません。人の邪魔にならない位置で、薄いピンクのタンブラーを両手で包むように持っています。 画面の中のすず音は、いつも少し上から撮られていました。白いニットの袖、甘い飲み物
last updateLast Updated : 2026-07-03
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24話 鴻上さん

駅舎を出ると空は白く曇っていました。雨はもう降っていません。それでも歩道には昨日の水が薄く広がり、ビルの窓や信号の赤をぼんやり揺らしていました。人の靴がそこを踏むたび、街の色が少しだけ崩れます。愛梨沙は人の流れから半歩だけ外れて立ちました。すず音の白いニットは駅前の人波にまぎれて、もう見えません。薄いピンクのタンブラーも黒い缶も、人の肩や鞄に隠れて見えなくなりました。追いません。今はまだ、その白を追う時ではありません。白は呼びます。赤は脅します。青は黙って水を替えます。では、昼の拓哉はどこにいるのでしょう。愛梨沙はスマホを開きました。何度も見た採用ページをもう一度開きます。明るい会議室。笑っている社員たち。首から下がる青いストラップ。その端に拓哉がいました。ジュエリーショップで白い箱を選んでいた時とも、ホテル裏で麻里亜に責められていた時とも違います。そこにいる拓哉は、誰かの夫でも、誰かの恋人でもありません。会社の人たちの中で、少しだけ口元を上げています。愛梨沙は写真を拡大しました。営業二課小さく映った文字を見た瞬間、胸の奥で知らない扉が開いた気がしました。(会社の拓哉さん苗字で呼ばれる拓哉さん誰にも甘くしなくていい場所本当に、そうなの?)会社名を押すと地図が開きました。駅から歩いて十二分。ホテルのある通りとは反対側です。瑠璃子の朝へ帰る道とも、麻里亜の赤い夜へ向かう道とも、すず音の白が消えた方とも違いました。愛梨沙はスマホを鞄へしまいました。奥で白い封筒が鳴ります。カサッその音に促されるように、愛梨沙は歩き出しました。駅前から離れると街の音が変わりました。改札機の電子音は遠くなり、車の低い走行音と信号の短いメロディが近くなります。昼前の通りには、会社員たちがゆるい速度で歩いていました。紙袋を持つ人弁当を抱える人片方だけイヤホンを入れている人誰も誰かを待っているようには見えません。誰も誰かを脅しているようにも見えません。ただ昼の中を歩いています。愛梨沙はその中を、白い手袋の指先を鞄の持ち手にそわせたまま進みました。信号が青に変わり、人がいっせいに動きます。横断歩道の白い線は、雨上がりの光を薄く含んでいました。あの日、愛梨沙は拓哉と同じ白線を踏みました。けれど今日は、同じ道をなぞっているのではありませ
last updateLast Updated : 2026-07-04
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25話 私にはまだ届いていない

大丈夫だから 駅の方角とは違う道へ入っても、拓哉の唇の動きは愛梨沙の中から離れませんでした。 声は聞こえていません。 硝子の向こうでした。人の出入りもありました。受付の女性が頭を下げ、エレベーターの扉が開きかけていて、拓哉は電話を耳に当てていただけです。 本当に何を言ったのかは分かりません。 でも愛梨沙には、あの唇がひとつの言葉を作ったように見えました。 大丈夫だから たぶん、そうです。 (今の唇 私に向いてないのに どうしてこんなに中まで入ってくるの 声は聞こえなかったのに 拓哉さんの言葉だけ 喉の奥に触ったみたい) 手の中の水のボトルが少しだけ指に食い込みます。 まだ開けていません。 飲めないわけではありません。喉は乾いていました。さっきからずっと胸の奥が細くなっているせいで、息を吸うたびに水がほしくなります。 それでもふたを開ける気になれませんでした。 飲んでしまえば、今見たものまで喉の奥へ入り込んでくる気がしました。 硝子一枚向こうの拓哉 鴻上さん、と呼ばれた拓哉 電話の向こうへ言葉を渡していた拓哉 全部が水と一緒に、愛梨沙の中へ流れてしまいそうでした。 通りの端に、小さな花壇がありました。 雨に濡れた土の匂いがします。白い小さな花が車の風に細く揺れていました。誰が植えたのか分かりません。会社の人かもしれません。ビルの管理人かもしれません。通る人のほとんどは、その花を見ません。 愛梨沙も、いつもなら見なかったかもしれません。 けれど今日は白いものが目に入るたび、すず音の袖を思い出しました。 白いニット 薄いピンクのタンブラー 黒い缶 声聞けたから帰れる。たぶん 苦いの買った。飲めないけど すず音は大丈夫と言える女でした。 大丈夫だよ、と先に言う女でした。 本当は大丈夫ではない場所に立っていながら、相手にその場所を見せる女でした。 拓哉が電話で言ったかもしれない言葉は、すず音に向けたものだったのでしょうか。 帰って 待ってて 泣かないで その後ろに何が続くのか、分かりません。 けれど愛梨沙の中では、いくつもの続きを勝手に作ってしまいます。 (その声 白い袖の中へ入れないで 甘いふりをした耳に 拓哉さんを入れないで 私だってまだ 一度も聞いてないのに) 角を曲がると人
last updateLast Updated : 2026-07-05
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26話 見せたくなる

赤い画面を閉じても、麻里亜の文字は愛梨沙の中から離れませんでした。 大丈夫って言えば終わると思ってる? それは拓哉へ向けた怒りのようで、泣き声のようにも見えました。 泣き声 そう思った瞬間、愛梨沙は眉を寄せました。 麻里亜が泣くところなんて見ていません。 赤い爪でグラスのふちをなぞる女です。薔薇のルビーを耳につけて、奥さんには内緒、と笑える女です。ホテルの部屋で、拓哉の声を画面に入れられる女です。 そんな女が泣くはずがありません。 泣くならもっと汚く泣けばいい それなのに画面の中の麻里亜は、いつも赤いまま痛がっていました。 赤いまま、拓哉を呼んでいました。 (泣かないで 赤い爪のまま痛がらないで 拓哉さんに触った手で そんなところまで見せないで 痛いなら 私の知らないところで痛がって) 愛梨沙は歩く速度を落としました。 駅へも会社へも戻らないまま、知らない通りへ入っています。昼の人波は少しずつ薄くなり、店の看板や自動販売機の音が近くなりました。 手の中のスマホが、妙に重く感じます。 画面を閉じればいいのに、閉じられません。 @maria_melt1 もう一度、麻里亜のページを開きました。 最新の赤い輪は見終えています。 愛梨沙は投稿を下へ滑らせました。 赤いネイル 赤いリップ 半分だけ写ったグラス ホテルの照明 白いシーツ 甘そうなケーキ どれも少しずつ、誰かに見せるための角度でした。 自分は大事にされている 自分は選ばれている そう言いたくて並べた赤。 けれど文字は、いつも少しだけ崩れていました。 「待ってる女って、ほんとださい」 「来るって言ったのに。来れないなら最初から言わなきゃいいじゃん」 「ちゃんと考えてるって、都合良すぎない?」 愛梨沙は足を止めました。 ちゃんと考えてる 拓哉が言いそうな言葉でした。 優しそうで、何も渡さない言葉 待たせるための言葉 逃げるための言葉 それを麻里亜は何度も飲んだのでしょうか。 赤い爪で画面を叩きながら 怒ったふりをしながら 次の連絡を待ちながら (拓哉さん その声で この人を待たせたの? 来るって言ったの? ちゃんと考えてるって その唇で言ったの? 私にはまだ何も言わないのに) 胸の奥がチクっとしました。
last updateLast Updated : 2026-07-06
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27話 赤い人の手の中

言葉を胸の奥で何度も触りながら、愛梨沙は麻里亜の画面を見ていました。消してって言われると、見せたくなる黒い背景に浮かんだ赤い文字は、もう赤い輪の中にはありません。けれど愛梨沙の写真フォルダには入っています。消して、と言われたもの見せたくなるもの拓哉が来なければ消えないものそれが何なのか、愛梨沙はまだ知りませんでした。知らないままでいられるほど、もう遠くにもいませんでした。(赤い人あなたの手の中何が入ってるの拓哉さんの声?拓哉さんの指?拓哉さんの困った息?私がまだ触れないところをあなたは画面の中に隠してるの?)雨はまだ降っていません。けれど空は低く、雲の影がビルの窓を鈍くしていました。愛梨沙はドラッグストアの庇から離れ、細い道を歩きながら麻里亜の投稿を下へ送りました。赤い爪グラスホテルの照明文字だけの黒い投稿どれも同じように見えて、少しずつ違いました。麻里亜は肝心なところだけ隠していました。赤い布を一枚ずつめくるように、端だけを見せていました。見せたいのに、見せない見せないまま、拓哉を呼んでいる。愛梨沙はそれが嫌でした。拓哉がその赤い端を見て、また困るのかと思うと、喉の奥が細くなりました。投稿の中に、見慣れない写真がありました。赤い爪の先に、紙の端が写っています。白い紙黒い文字そのほとんどはグラスの影で隠れていました。読めるのは、ほんの少しだけです。営業二そこまで営業二課、とは読めません。でも愛梨沙の中では、その欠けた文字が勝手に足りていきました。営業二課鴻上さん青い社員証硝子の向こうで電話をしていた拓哉全部が細い線でつながっていきます。(いやそこまで持っていかないで拓哉さんの昼に赤い爪をかけないで会社の紙にあなたの指を乗せないで)愛梨沙は写真を拡大しました。画面が粗くなります。紙の端グラスの水滴赤い爪その奥に、青い線のようなものが見えました。社員証の紐なのか店の照明なのかただの影なのか分かりません。でも、青でした。会社で見た社員証の紐の青に似ていました。あの会社の入口受付の電話来客用端末鴻上さん、と呼ぶ知らない女拓哉の首から下がるはずの昼の名前愛梨沙は画面に顔を近づけました。息が画面にかかり、ほんの少し曇ります。慌てて手袋の
last updateLast Updated : 2026-07-07
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28話 ほめて

白い通知は、赤い文字の上に落ちてきました。 泣かなかったから、ほめて その一文を見た時、愛梨沙はすぐに画面を消せませんでした。 麻里亜の赤い文字は、拓哉の生活を壊そうとしていました。 会社の方に送る その上に、すず音の白い言葉がふわりとかぶさったのです。 泣かなかったから、ほめて 赤い人は拓哉の首に爪をかける 白い人は首に触れないまま言葉で絞める 愛梨沙は鞄の中へしまいかけたスマホを、また取り出しました。 雨はまだ降っていません。 空の低さだけが、道の上に広がっています。 (白い人 泣かなかったの? それを拓哉さんに言うの? 泣かなかったから ほめてって そんな声で 拓哉さんの喉を甘くさせるの?) @suzune_room7 愛梨沙はすず音のページを開きました。 白いニット 白いカーテン ミルクティー 小さなぬいぐるみ 丸いライト 赤はありません。 青もありません。 ただ、やわらかい白と薄い桃色ばかりが画面に並んでいました。 麻里亜の赤い画面を見たあとでは、その白が余計にいやらしく見えました。 何も持っていないふりをしている白 誰も傷つけませんと言いたげな白 でも、拓哉を呼ぶ力だけはちゃんと持っている白 愛梨沙はゆっくり画面を下へ送りました。 最新の投稿は、白いカップの写真でした。 ミルクティーの表面に、丸い光が映っています。 添えられた文字は短いものでした。 「今日はちゃんと泣かなかったよ」 愛梨沙はその文字を見つめました。 ちゃんと また、その言葉です。 麻里亜の画面にもありました。 ちゃんと考えてる ちゃんと来てよ 麻里亜の「ちゃんと」は、赤い爪で胸を叩く音に見えました。 すず音の「ちゃんと」は、撫でてもらうために差し出した手に見えました。 (ちゃんと 泣かなかったよ って そんなふうに言えば 拓哉さんは困らないの? 赤い人みたいに 消してなんて言わなくていいの? ただ ほめてって言えば 声が返ってくるの?) 次の投稿には、白い袖口だけが写っていました。 指先は少し丸く曲がっています。 爪は短く、色はほとんどありません。 麻里亜の赤い爪とは違います。 何かを掴むための指ではなく、袖の中で丸まるための指でした。 本文には、こうありました。
last updateLast Updated : 2026-07-08
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29話 一番赤い女

白い声を閉じても、耳の奥にはまだ甘い息が入っていました。ほめてその言葉は画面から消えたあとも、愛梨沙の中で小さく揺れていました。けれど指は、麻里亜の画面へ戻っています。@suzune_room7その白い名前を閉じて、愛梨沙はもう一度、麻里亜のページを開きました。@maria_melt1今日中に返事して無視したら、会社の方に送る灰色の背景に浮かぶ文字は、さっきよりも濃く見えました。文字そのものは白いはずなのに、目の奥でじりじり焼けます。投稿の中に、メッセージ画面の一部が写っていました。画面の下に、小さな添付マークが見えます。それだけで、愛梨沙の喉が詰まりました。(ひとつたったひとつで拓哉さんの生活が汚れるの?たったひとつで鴻上さんって呼ばれる声が違うものになるの?だめそんなのまだ開けちゃだめ)愛梨沙はスマホを握る手に力を入れました。白い手袋のしわが指の根元に寄りました。白い声は、拓哉の耳の奥で甘くほどけるだけでした。でも麻里亜の指先は違います。会社へ奥さんへ知らない人たちの目へ拓哉が普通の顔で立っている場所へ、爪の先が伸びていく。愛梨沙はその想像だけで、喉の奥が狭くなりました。(白い人はあと青い人もあと会社の女たちもあと今は麻里亜さん今すぐ拓哉さんの生活に触る人)画面の上で、麻里亜のアイコンの輪がもう一度光りました。新しい投稿です。愛梨沙は息を止めました。開く前から、濃い匂いがする気がしました。指が少し迷います。それでも開きました。最初に映ったのは、赤いネイルでした。暗いテーブル飲みかけの水黒いスマホケース爪がその黒を、トンッと叩きます。音は小さく入っていました。氷が崩れる音遠くの話し声麻里亜の息文字が出ます。「既読無視ってなんなの?」愛梨沙は瞬きをしました。既読無視拓哉は見たのでしょうか。あの言葉を。会社の方に送るという文字を。見たのに返していないのでしょうか。拓哉の指が麻里亜の画面を開いた。それなのに返さなかった。拓哉らしいと思いました。優しい顔で、相手に何も渡さない。困った顔で、答えを先へ延ばす。何も選ばないまま、相手の手だけ熱くさせる。(だめだよ既読だけじゃ麻里亜さんは止まらないよ拓哉さん見たなら返して違う返さな
last updateLast Updated : 2026-07-09
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30話 古いパーカーの男 Part1

古いパーカーの男は、麻里亜の前から動きませんでした。 駅前時計の下 赤いパンプス 黒いスマホケース くたびれた袖口 安い缶コーヒー 人の流れだけが、二人の横を早く通り過ぎていきます。 愛梨沙は白い手袋の中で指を握ったまま、少し離れた場所から見ていました。 麻里亜の爪は、まだ画面の上にあります。 聖と呼ばれた男の目も、その爪から動きません。 「麻里亜」 男がもう一度呼びました。 声は低いのに、乱暴ではありません。 人混みの音に半分ほど消されても、その呼び方だけは愛梨沙の耳に届きました。 麻里亜は唇の端を上げます。 笑ったように見せただけでした。 「なに。偶然とか言うつもり?」 「偶然でこの時間に駅前まで来るほど暇じゃねえよ」 聖は缶コーヒーを持った手を下げたまま、麻里亜のスマホを見ました。 「昨日あんなの送ってきて、朝になったら全部なかったことにできると思ってたのか?」 麻里亜の爪が止まりました。 ほんの一瞬です。 でも愛梨沙には見えました。 赤い爪の先が、画面の上でぴたりと止まる。 「何の話?」 麻里亜は軽く言いました。 けれど声の底が少しだけ擦れていました。 聖はため息をつきませんでした。 怒った顔もしません。 ただ、麻里亜をまっすぐ見ています。 「会社に送るとか、奥さんに見せるとか。そういうやつ」 「見たんだ」 「送ってきただろ。夜中に三つも四つも」 「聖に送ったんじゃないし。間違えただけ」 「間違えて送る量じゃねえよ」 麻里亜は舌打ちしそうな顔をしました。 「そういうとこほんと嫌い。何年も前のことまで覚えてるくせに、肝心な時だけ他人のふりするくせに!」 「他人になりたかったら、今ここにいないだろ」 「じゃあ何。保護者?」 「違う」 「元カレ?」 「それも違うって言いたいけど、お前がそう呼ぶならそうでいいよ」 「都合いいね」 麻里亜の声が少し尖りました。 「聖っていつもそう。嫌われる覚悟してますよーってフリして、ほんとは自分が傷つかない場所から見てるだけじゃん」 聖は缶コーヒーの側面を親指でこすりました。 古いパーカーの袖口が、少しだけ伸びています。 「傷つかない場所なんか知らねえよ」 「嘘」 「嘘じゃない」 「じゃあなんで今さら来るの?」 「送る前に止めたい
last updateLast Updated : 2026-07-10
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