All Chapters of あなたの罪まで愛してる: Chapter 1 - Chapter 5

5 Chapters

1話【Y.COCO】

これは、白い手袋をした女が、薄紅色の男を見つけた日の話です。その日からちょうど1年後、男は死にます。女の手の中で。けれど2025年6月17日、男はまだ生きていました。ジュエリーショップ【Y.COCO】の硝子ケースの前で、薔薇の形をした小さなルビーのピアスを見下ろしていました。それは、真紅の薔薇の女へ贈られるはずの赤でした。けれど白い手袋の女は、まだそのことを知りません。知らないまま、男の横顔を見つめていました。誰かのために迷う顔を、愛だと思ってしまったのです。雨は降っていませんでした。けれど駅前の空気は、濡れた布を胸に押し当てられているみたいに重く、歩道の端に咲く紫陽花は、青にも紫にもなりきれないまま湿った光の中で滲んでいました。朝方まで降っていた雨の匂いが、アスファルトに残っていました。濡れた土。青い葉。傘袋の古い水。人の服に移った冷房の匂い。そういうものの中を、女は白い手袋をはめたまま歩いていました。女の名は、御厨愛梨沙。26歳。衣食住には困らず、綺麗な部屋も、柔らかな服も、空腹にならないだけの金もありました。けれど、誰かに大事にされた記憶だけがありませんでした。泣いても、誰も来ませんでした。熱を出しても、誰も額に触れませんでした。誕生日には、箱だけが届きました。箱の中身はいつも高価で、綺麗で、冷たく、愛梨沙が本当に欲しかったものだけが入っていませんでした。だから愛梨沙は、誰かが誰かのために迷っている姿に弱かったのです。それが、たとえ不実な男の買い物だったとしても。【Y.COCO】の店内には、白い光が落ちていました。指輪。ネックレス。小さなピアス。どれも硝子の中で、誰かに選ばれるのを静かに待っていました。愛梨沙は店の外で足を止めました。その時、男がいました。濃紺のスーツを着た男でした。背が特別高いわけではありません。けれど人混みの中で、そこだけ少し光が薄くなるような立ち方をしていました。袖口からのぞく手首は白く、指は長く、何かを乱暴に扱うことを知らないように見えました。男は硝子ケースを覗き込み、店員の説明を聞いていました。「こちらは小ぶりですが、薔薇の細工が入っておりますので、華やかに見えますよ」店員の声が、冷房の効いた空気にやわらかく落ちました。男は少しだけ首を傾げました。「大きすぎないですか
last updateLast Updated : 2026-06-24
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2話 同じ道

第2話 同じ道そして愛梨沙は、その男の後を追いました。男は早足ではありませんが、立ち止まることもしませんでした。駅ビルの出口へ向かう人の流れの中で、濃紺の背中は何度か見えなくなり、また現れます。白い小箱の入った紙袋が、男の手の中で小さく揺れていました。愛梨沙は、その揺れを見ていました。近づきすぎてはいけません。声をかけてはいけません。肩に触れてもいけません。恋というものは、最初から触ってしまうと壊れるのだと、愛梨沙は思っていました。触れられたことのない女ほど、触れることを怖がるものです。けれど不思議なことに、見ることだけは怖がりません。見ることは、まだ罪ではない。少なくとも、その時の愛梨沙はそう思っていました。駅ビルの出口を抜けると、冷房で冷えた肌に六月の湿気が貼りつきました。空は低く、雨になる少し前の匂いがして、誰かの傘の先がまだ開かれないまま足元で揺れています。タクシー乗り場には水を含んだ風が流れ、車道の向こうの紫陽花は、さっきよりも青く見えました。男は駅前の横断歩道を渡り、革靴が白い線を踏みました。愛梨沙は少し遅れて、同じ白線を踏みます。ただの横断歩道で、誰のものでもない、誰でも踏める、汚れた白い線です。それでも愛梨沙には、そこだけが男の残していった小さな道しるべのように見えました。(同じところを歩いてる。偶然じゃないよね? だって、こんなに人がいるのに、私だけがちゃんとあなたの後ろを歩けてるんだもん。あなたが右へ行けば私も右へ行けるし、あなたが止まれば私も止まれる。ねえ、これって少しだけ、一緒に帰ってるみたいだね)男は振り返りません。それが、愛梨沙にはありがたいことでした。振り返られたら、きっと何もできません。目が合えば、息の仕方を忘れてしまいます。だから今は、背中だけでよかったのです。知らない男の背中。まだ名前も知らない男。けれど、さっきまでより少し近い男。男は駅前の小さな広場を抜け、ビルの脇にある自動販売機の前で足を止めました。愛梨沙は街路樹のそばで止まります。白い手袋の内側が、急に熱くなりました。男は紙袋を片手に持ったまま財布を出し、硬貨を入れました。ちゃり、と小さな音。男が選んだのは、黒い缶でした。銀色の文字で、BLACK COFFEEとだけ書かれています。甘くなさそうで、冷たそうで、少し寂しそうな缶
last updateLast Updated : 2026-06-24
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3話 指輪

男が角を曲がったあとも、愛梨沙の目の奥には銀色の輪が残っていました。細い指輪で大きな宝石も派手な模様もありません。ただそこにあるだけで、その男には帰る場所があるのだと知らせる輪でした。白い手袋の女はしばらく角の手前で立ち止まりました。追いかける足はあるのに、足の裏だけが湿った地面に貼りついたように動きません。黒い缶の冷たさが指先から手首へ上がってきます。それでも缶を捨てることはできませんでした。男と同じものを、まだ手放したくなかったのです。結婚している人奥さんがいる人誰かの家へ帰る人その言葉は愛梨沙の中でひとつずつ沈みました。沈むたび、胸の奥が少し重くなります。けれど沈んだものは底で消えませんでした。むしろ底の方で、白く光り始めたのです。ここで帰ればいいだけでした。知り合いでもない男既婚者たまたま見かけただけの人そうやって自分に言い聞かせ、黒い缶を捨て、駅へ戻り、夜には別のことを考えればよかったのです。けれど愛梨沙は、そうしませんでした。(奥さんがいるんだね。じゃあ、あの白い箱は奥さんのものなのかな。白いリボンを選ぶ時、少し困ったみたいに笑ってた。……いいな。毎日名前を呼べる人が、あんな顔まで持っていくんだ)愛梨沙は角の向こうを見ました。男の背中はまだ見えました。濃紺のスーツ白い小箱黒い缶左手の銀色それらが人混みの中で、小さな印のように動いています。愛梨沙は歩き出しました。さっきよりも少しだけ距離を置きます。近づきすぎると、自分の中の熱が男に気づかれてしまいそうでした。白い手袋の中では指が汗ばんで、缶を持つ布がわずかに湿っています。男は大通り沿いを進みました。駅前の店が途切れ、ガラス張りのビルが増えていきます。昼下がりの街は雨の前なのに妙に白く、車の窓もビルの壁も信号機も、全部が薄いベールをかぶっているようでした。男は途中で一度立ち止まり、スマホを見ました。画面を見た男の口元が、ほんの少し緩みます。それは笑顔と呼ぶには短すぎるものでした。けれど愛梨沙には分かりました。彼は画面の向こうの誰かに、少しだけ気を許したのです。その小さな緩みが、鋭く刺さりました。自分には向けられていない顔まだ名前も知らない女が、勝手に傷つくには早すぎるのにそれでも愛梨沙は、ちゃんと傷つきました。(誰?)声にはしませんで
last updateLast Updated : 2026-06-24
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4話 白い箱

ホテルの自動ドアが閉まったあとも、愛梨沙は入口の前に立っていました。硝子の向こうに、濃紺の背中はもう見えません。赤い爪の女も、白い小箱も、結婚指輪の細い光も、全部ホテルの中へ吸い込まれてしまいました。外に残されたのは、白い手袋の女だけでした。湿った風が頬に触れます。愛梨沙は手の中の黒い缶を見下ろしました。もう中身はほとんど残っていません。ぬるくなった缶は、さっきまで男と同じものだったはずなのに、今はただ重いだけでした。捨てる場所を探しました。けれど、捨てられませんでした。男と同じものを手放したら、今日の午後まで手の中から消えてしまう気がしたのです。ホテルの自動ドアが開きました。中から年配の夫婦が出てきて、冷たい空気と花の匂いが少しだけ外へ流れます。外の湿気とは違う、よく冷えた空気でした。愛梨沙は、その空気に誘われるように一歩踏み出しました。入ってはいけない場所のように見えました。けれど男は入っていきました。赤い爪の女も入りました。勿論、自分も外で待つ気はありません。ロビーは静かでした。床には厚い絨毯が敷かれ、靴音はほとんど吸い込まれます。花の匂い、磨かれた木の匂い、誰かの香水。雨の前の街の匂いは、ここでは少し遠くなっていました。愛梨沙は黒い缶をバッグへしまいました。その缶だけがこの場所に似合っていなかったからです。男と赤い爪の女は、ロビー奥のラウンジへ向かっていました。黒い制服のスタッフがふたりに軽く頭を下げます。「鴻上様、お連れ様がお揃いですね」男が小さく頷きました。鴻上様その名前が、愛梨沙の耳に残りました。鴻上。男には名字がありました。当たり前のことなのに、愛梨沙の胸は少し高鳴りました。名前のない背中だったものが、急に意味を持ったように思えました。赤い爪の女は、男の隣で笑っていました。声は高すぎず、けれど甘さを作るのが上手でした。笑うたびに唇の端が少しだけ濡れたように光ります。愛梨沙は少し遅れて、ラウンジの入口へ向かいました。スタッフが声をかけてきます。「おひとり様ですか」愛梨沙は一瞬だけ息を止めました。「はい」声は思ったより普通に出ました。「お好きなお席へどうぞ」愛梨沙は、男たちから離れた観葉植物の陰に近い席へ座りました。そこからなら男の横顔が見えます。赤い爪の女の手も、テーブルの上の白い小箱も
last updateLast Updated : 2026-06-25
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5話 検索窓

鴻上拓哉検索窓に並んだその名前を、愛梨沙はしばらく見ていました。画面に映っているのは、ただの名前です。けれど愛梨沙には、その4文字が男の輪郭そのもののように見えました。濃紺のスーツを着て、白い小箱を持ち、結婚指輪をしたまま赤い爪の女の隣で困ったように笑っていた男。拓哉くん麻里亜はそう呼んでいました。けれど、画面の中では鴻上拓哉でした。漢字になると、急に遠い人になる気がしました。声に出せば甘く崩せる名前なのに、文字にすると冷たく整って、手の届かない場所へ置かれたみたいでした。それでも、その字を知っていたのは偶然ではありません。愛梨沙はラウンジへ入る時、入口の小さな台を見ていました。黒い革のバインダー白い予約表細い罫線そこに、いくつかの名前が並んでいました。スタッフが案内のためにページを開いた、ほんの一瞬です。見るつもりなんてありませんでした。けれど、見えてしまった文字は目の奥に残りました。15時00分鴻上拓哉様2名窓側席その文字は、すぐにスタッフの手で隠れました。けれど遅かったのです。鴻上拓哉拓哉くんではなく、鴻上拓哉。男の名前は、ちゃんと漢字を持っていました。名字があって、予約があって、誰かに「様」をつけて呼ばれる人でした。愛梨沙は検索ボタンに触れました。画面が白く切り替わります。ほんの少しの待ち時間でした。それだけなのに、胸の奥が小さく詰まります。知ってはいけないものへ手を伸ばしている気がしました。けれどもう遅く、白い手袋の指先はすでに画面へ触れていました。検索結果が並びました。最初に出てきたのは、同じ名前の別人らしいページでした。どこかの大会記録、古い告知、読み方も違うかもしれない人。愛梨沙は、すぐに指で送りました。次に、会社名らしい文字が出てきました。株式会社営業部社内報愛梨沙は息を小さくしました。男は本当に、昼の世界にいる人でした。会社があって、部署があって、名刺があって、誰かに「鴻上さん」と呼ばれる人でした。ラウンジで甘く名前を呼ばれるだけの人ではありませんでした。鴻上さん拓哉くん鴻上拓哉同じ男なのに、呼び方が変わるたび少しずつ別の顔になります。愛梨沙は検索結果をひとつ開きました。会社のイベント写真がありました。画質はよくありません。人が何人も並んでいて、どの顔も小さく
last updateLast Updated : 2026-06-25
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