これは、白い手袋をした女が、薄紅色の男を見つけた日の話です。その日からちょうど1年後、男は死にます。女の手の中で。けれど2025年6月17日、男はまだ生きていました。ジュエリーショップ【Y.COCO】の硝子ケースの前で、薔薇の形をした小さなルビーのピアスを見下ろしていました。それは、真紅の薔薇の女へ贈られるはずの赤でした。けれど白い手袋の女は、まだそのことを知りません。知らないまま、男の横顔を見つめていました。誰かのために迷う顔を、愛だと思ってしまったのです。雨は降っていませんでした。けれど駅前の空気は、濡れた布を胸に押し当てられているみたいに重く、歩道の端に咲く紫陽花は、青にも紫にもなりきれないまま湿った光の中で滲んでいました。朝方まで降っていた雨の匂いが、アスファルトに残っていました。濡れた土。青い葉。傘袋の古い水。人の服に移った冷房の匂い。そういうものの中を、女は白い手袋をはめたまま歩いていました。女の名は、御厨愛梨沙。26歳。衣食住には困らず、綺麗な部屋も、柔らかな服も、空腹にならないだけの金もありました。けれど、誰かに大事にされた記憶だけがありませんでした。泣いても、誰も来ませんでした。熱を出しても、誰も額に触れませんでした。誕生日には、箱だけが届きました。箱の中身はいつも高価で、綺麗で、冷たく、愛梨沙が本当に欲しかったものだけが入っていませんでした。だから愛梨沙は、誰かが誰かのために迷っている姿に弱かったのです。それが、たとえ不実な男の買い物だったとしても。【Y.COCO】の店内には、白い光が落ちていました。指輪。ネックレス。小さなピアス。どれも硝子の中で、誰かに選ばれるのを静かに待っていました。愛梨沙は店の外で足を止めました。その時、男がいました。濃紺のスーツを着た男でした。背が特別高いわけではありません。けれど人混みの中で、そこだけ少し光が薄くなるような立ち方をしていました。袖口からのぞく手首は白く、指は長く、何かを乱暴に扱うことを知らないように見えました。男は硝子ケースを覗き込み、店員の説明を聞いていました。「こちらは小ぶりですが、薔薇の細工が入っておりますので、華やかに見えますよ」店員の声が、冷房の効いた空気にやわらかく落ちました。男は少しだけ首を傾げました。「大きすぎないですか
Last Updated : 2026-06-24 Read more