冬馬は誰よりも知っていた。香織が渉のもとを去ってからの5年間、渉がどんな風に生き、苦悩してきたかをー。彼女が渉と暮らした家に、彼女の痕跡は何も残されていなかった。でも会社には、至る所にそれが残っていたのだ。彼女が渉の為に用意したコーヒー豆や茶葉、彼女用のカップ。彼女のデスクはいつも綺麗に整えられていたが、彼女が使いやすいと気に入って使っていた筆記具もそのままだった。そして社長室にはー。渉のデスクに貼られた、注意書きが書かれた付箋。〝昼食の時間は必ず守ること〟そして、胃の調子がいつも悪い渉の為の〝胃薬は一番上の引き出し〟や、〝必ずコップ一杯のぬるま湯で飲むこと〟といった細かいものまであった。そんな些細なものたちを、渉は一つも処分しなかった。いつだったか、気を利かせようと勝手にこの色褪せた付箋を新しくしようとした新人の秘書は、その場でクビになった。誰もが皆、触らぬ神に祟りなし、と渉のものには手を触れることも、余計な口出しをすることもなくなった。そんなある日ー。雪の降る深夜、冬馬は渉からの電話で急いで書類を届ける為、会社に向かった。シン…とした廊下を抜けて社長室をノックしたが反応がなく、そっとドアを開けると、そこに渉はいた。彼は疲れたように椅子にもたれ、その目を閉じていた。眠っているのかと静かに部屋の中に身体を滑り込ませ、冬馬は持ってきた書類を置いた。何か上掛けを…と近づくとー。彼はその手に一本のマフラーを大事そうに握りしめていた。淡いベージュ色の、暖かそうなマフラーだった。お気に入りだったのか、何度も洗われたことがわかる、少しくたびれたものだった。冬馬は覚えていた。あれは、香織が使っていたものだ。彼女は冬になると毎年あれを使っていた。冬馬がじっと見つめていると、渉の手がふいにそれを優しく撫でた。「
Última atualização : 2026-07-28 Ler mais