LOGIN山内香織は都月渉の秘書であり、契約上の恋人だ。やむにやまれぬ事情で結んだ契約だったが、香織はいつしか本当に渉を愛し始めていた。だが妊娠に気づいた彼女は同時に、自分たちに未来などないと知る。彼女は彼の前から姿を消した。 5年後、思わぬところで再会した彼らだったが、香織の態度は不審者に対するそれだった。 渉は彼女が自分のもとを去った理由を求め、そして彼女と、彼女の子供を取り戻すことを決意した。 何に対しても、誰に対しても冷徹で温情等とは縁のなかった渉が、彼女たち母子に対してはとろけるほどの愛情と執着を向ける。彼女の側にいる男を牽制し、失った時間を取り戻そうと躍起になる渉に、香織は戸惑うばかりだった。
View More「……嘘…でしょう…?」
目の前の現実が受け入れられない。
山内香織(やまうちかおり)の顔色は青ざめ、その手は細かく震えていた。
*
「おめでとうございます。妊娠9週です。しかも、双子ですよ」
診察を終えて医師の前に座った途端、そんな風に言われた。
双子…。本当ならすごく嬉しい。
香織は子供が好きだ。自分の子供ができたら絶対に甘やかして、ちょっと我儘で、でも可愛らしい、誰からも愛される子に育てる。ずっとそう思っていた。
でも…。
香織の胸は痛みに張り裂けそうだった。
恋愛感情は持たない。妊娠をしてはならない。
それは、彼との約束だった。
香織は唇を噛み締め、俯いていた。
そんな彼女を見た医師は、彼女がこの妊娠を望んでいないと誤解した。
「お相手の方とよく話し合われてみてください。こんなおめでたいことはないのですから」
「…はい」
そう答えるしかなかった。
どうしよう…。どうしたらいいの…?
診察室を出て、待合室で料金の精算を待っている間、香織の頭の中は迷いが渦巻いていた。
彼女は、直属の上司であり、秘密の契約恋人でもある都月渉(とつきわたる)の子を身ごもってしまった。
しかし〝妊娠してはならない〟というのは、彼と交わした絶対の約束だった。
あと1週間で終える契約を、こんなことで破棄する訳にはいかない。自分にはまだお金が必要なのだから。でも…。この子たちを諦めたくないっ…。
どうして…なんでよりによって、このタイミングで…。
*
香織は、都月渉の秘書だった。
3年前のあの夜、彼は宴会で薬を盛られ、彼女はホテルへ呼び出された。
300万円ー。
一夜限りの対価だった。
彼女にはお金が必要だった。
祖母の療養費が重くのしかかり、他に選択肢はなかった。
翌日、渉は彼女にある提案をした。
「月給500万円で、恋人契約を結ばないか?」
同居、日常の世話、夜の相手。契約期間は3年。
条件は、冷徹に明記されていた。
〝恋愛感情は抱かないこと〟〝妊娠しないこと〟
違反した場合、契約は即時解除。
「お受けします」
彼女は迷うことなく署名した。
恋愛は必要ない。ただ、お金だけが必要だった。
でも香織は気づかなかった。
3年間、彼は優しく、丁寧で、何よりも彼女を大切に扱った。
彼女は徐々に、まるで粉雪が降り積もるように、渉を愛してしまっていた。
香織は期待した。
もしかしたらこの妊娠をきっかけに、自分たちは本物になれるかもしれない…。
「…そうだわ」
もしかしたら、彼は受け入れてくれるかもしれない。
やがて彼女は一つの決意を胸に顔を上げ、静かに病院を後にしたのだった。
*
その日の夜。
香織がまんじりともせずに渉の帰りを待っていると、微かに酔った彼が玄関の扉を開けた。
「お帰りなさい」
「……ああ」
酔いで若干トロンとした目を向けてくる彼に、香織は苦笑してひとまずシャワー室に押し込んだ。
その間彼女は妊娠のことをどう切り出そうかと胸を高鳴らせて悩み、一人唇を笑みの形にしていた。
そしてー。
渉がシャワーを終えて寝室に戻って来ると、仄かに香るボディーソープの香りが彼女の鼻を刺激した。
気持ち悪くはならない。けれど、胸の高鳴りが異常で、お腹の子らに影響しそうだ。
そう思って、香織は顔を上げた。
渉のプロポーションは完璧だった。
引き締まった上半身に見事なシックスパック。滑らかな肌を滑る水滴が、あらぬ妄想を掻き立てる。
香織は顔を赤くして、目を逸らした。
「どうした?」
笑いを含んだ渉の言葉と、緩く背中に回された腕に閉じ込められて、香織の耳までが赤く色づいていた。
チュ…
耳に落とされた軽いキスに、胸がときめく。
「いいか…?」
掠れた声が、彼の情欲を示していた。
香織はその瞬間、ハッとして身じろいだ。
「ごめんなさい…今日は…」
「ん…?」
その間も、彼女の耳や首筋に彼の唇が触れている。
香織は思い切って渉の腕を何度か叩き、その行為を止めさせる。
「今日は…気分じゃないの…」
「……」
そう言うと、渉は仕方なさそうに息を吐き、身支度を整える為にクローゼットに向かった。
香織は、ふと思いついたように口を開いた。
「…営業部の田中さん、妊娠したらしいですよ。産休を取るって、社内でも噂になっててー」
できるだけ世間話のように聞こえるよう、さり気なく言った。
だが渉の反応は淡々としていて、「そうか」と一言返しただけだった。
香織は唇を噛み、もう一言だけ付け加えた。
「ご主人がすごく喜んでるみたいで…。ご夫婦でずっと望んでいたらしくてー」
「香織」
渉は、冷たく彼女の言葉を遮った。
「…はい」
「避妊薬、きちんと飲んでいるよな?」
「……」
その瞬間、香織は見えない手に心臓を掴まれたような気がした。……理解してしまった。
彼女は視線を落とし、無理やり口元に笑みを浮かべた。
「ええ…もちろん、飲んでます」
「それならいい」
背を向けたまま話す彼の姿を見つめながら、香織の胸に灯っていた微かな灯火は、音もなく消えていった。
渉は、彼女の落胆に気づかないまま、あるいは気づいていても気に留めることなく、話し続けた。
「明日、パーティーがあるから参加して」
「…うん」
香織は彼の機嫌を損ねただろうかと窺ってみたが、特にそういう感じでもなかった。
彼女は彼の第一秘書として、パーティーなどにはいつもついて参加する。だから今回もそのつもりだった。
だが続けて言った彼の言葉に、思わず目を見開いた。
「両親も来るから、そのつもりで」
「え……」
「なんだ?」
「あ、…ううん…なんでもない」
3年…。この3年間、彼女は彼と共に数えきれないほどの場に同席してきた。
外部のレセプション、ビジネスの接待、取引先との会合…。
だが、彼の両親が出席する家族の集まりにだけは、一度も同行を許されたことがなかった。
これが、初めてだった…。
もしかして…。もしかして、私を…?
彼女は、渉が自分を恋人として両親に紹介するつもりだろうか…?と思い、興奮した。
そう考えて、香織はベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった。
今日の午後、予定していた会議はとても重要なもので、まず観光地域経営の中核法人となるDMOの代表者を筆頭に、自治体や各所の文化施設の代表者が一堂に会して、今後の各役割などを明確にしていく話し合いをする為のものだった。この場において代表的な立場にある、DMOから参加した上田治彦(うえだはるひこ)は、なぜか会議の始まる一時間も前から兼悟の会社に来ており、一人応接室でふんぞり返っていたのだが、彼の来社に合わせて香織を除く全員が開始時間前にも拘らず、急いで集まってきていた。気まずい時間を過ごしていた彼らは、だが会議開始時間十分前になって突如として苛立ちを爆発させたかのような治彦に、驚きと共に半ば呆れ、半ば不満げな顔をしていた。「いったいどれだけ待たせたら気が済むんだ!」顔を赤くして怒鳴る彼は、椅子を倒す勢いで立ち上がり、兼悟や渉を指差して口汚く罵った。それを聞いて顔を青ざめさせている社員もいたが、兼悟はため息をつくだけだった。一方で渉は、心理的に優位に立とうと企むこの男の底の浅さを心中嗤っていた。「上田さん。ずいぶんと早い時間からお越しいただいたのは結構ですが、だからといってこちらにも都合というものがあります。何もかも、あなたに合わせることはできませんよ」「なんだとー!?」渉の皮肉げな言葉に、治彦は唾を飛ばして怒鳴り返した。「なんだ、貴様は!それが協力を求める態度か!?」「いいえ。ただ、私は当初の予定時間にはまだ早い、と言いたいだけです」「っ…」ムキになる治彦と、あくまでも冷静に指摘する渉の言い争いに、周りの人々は首を竦め、兼悟は眉をひそめていた。今日の会議には兼悟も渉も、香織の出席は無理だろうと思い、その対策を朝から立てていた。だが少し前に彼女から兼悟にメッセージがきて、出席する意向を伝えてきたのだ。だから彼らは待っていた。出席者のメンバーにも、「体調を崩していた担当者も参加する為に今こちらに向かっている。開始時間まで待ってほしい」と伝えていた。だから、治彦がどんなに「会議を早めろ」とゴネても、彼らは待っていたのだ。そしてー。ただケチをつけたいだけの治彦は案の定大声で喚き散らし、責め立ててきた。「その女たった一人の為に、ここにいる全員が待たないといけないのか!?どれだけご立派な立場なんだ!」その言葉に、兼悟の秘書がそっと、本
翌日ー。香織は病院から出された朝食を食べ終えて、退院の準備をしていた。コンコン…ノックの音がして、頭を上げるとそこに、昨日救急車に乗り込む前に会った女性が立っていた。「あ…」香織は目を僅かに見開いて、片付けに動かしていた手を止めた。「身体の調子はどう?」彼女は親しげにそう言うと、病室の中に入って勝手に椅子をベッド脇に置いた。「おかげさまで…」何も考えずに答えると、彼女はふふっと笑った。綺麗な人……。香織はぼうっと女性を見つめ、そしてハッと気がついた。「あのっ…あなたは誰、ですか…?」「……」その言葉に、女性は虚を突かれたように一瞬口籠った。そしてー。はぁ…と一つため息をついて、「やっぱり、覚えてないのね…」と俯いた。「?」それは、小さな声だった為に香織には聞き取れなかったが、女性が困惑していることはわかった。やがて、彼女は気を取り直したように顔を上げると、にっこりと微笑んだ。「高橋美華よ。よろしく」差し出された手を見て、香織も自己紹介をした。「篠原香織…です」おずおずとその手を握ると、彼女…美華は「篠原…ね」とボソリと呟いた。香織がそれに首を傾げると、美華は「ううん」と苦笑した。そして続けた。「都月渉の婚約者よ。昨日、彼から助けを求められたの」「っ…」それに、香織の顔がピシッと強張った。婚約者……。香織の胸の中に、ズン…と重い何かが投げ込まれた気がした。そして、自嘲するように彼女はフッ&hell
しばらく、躊躇うように名乗ることを渋っていた男はやがて、「隼斗(はやと)」とボソリと答えた。渉はそれに頷くと、自分のことは好きに呼べと言い、スマホを取り出した。「何を…?」隼斗が不安げに問うのに、渉はメッセージを打ちながら「まぁ、待ってろよ」そう言って、意味ありげに口角を上げた。*香織は、龍牙と一緒に正面ロビーに出ていき、そこで連絡を受けて待っていた警備の男と共に、待ち構えていた警官のところへ行った。そこへー「香織っ」人混みをかき分けて、兼悟が現れた。彼は痛ましい顔をして、ふらつく香織を龍牙の代わりに支え、待機していた救急車へと連れていった。龍牙はそのまま香織の服の裾を掴み、置いて行かれないようにと足早について行った。その時ー。「香織さん」自分を呼ぶ声に香織が振り向くと、そこには凛とした立ち姿の一人の女性がいた。龍牙はその女性の顔を見た瞬間、ピタッと足を止めた。高橋美華ーー。それは、ネットで見た、渉の婚約者の顔だった。「お久しぶりね」「?」香織が美華の言葉に眉を寄せると、彼女は苦笑した。そして小さな声で、「噂は本当のようね…」と呟いた。龍牙には、その全てが聞こえていた。アイツ……。龍牙の胸は、渉への嫌悪に黒く染まった。ここにまでこの人を連れてきてるのか…?じゃあなんで、ママにちょっかいをかけるんだ?彼は唇をきゅっと噛みしめた。ほんの少し前、渉が香織を助けたことが、まるでただの茶番のようだった。香織は、「あの…?」と美華に物言いたげな視線を向けた。彼女が言った「お久しぶり」という言葉の意味が、分からなかったのだ。
あれは、香織が自分に借金を頼んできたのを素っ気なく断わった、数日後のことだった。その日、渉はとある会合の帰りで、運転手が車を回してくるのを待っていた。突然ー。キャーッ!と女性の叫び声が響き渡り、振り向くと、初老にさしかかった頃の一人の男が、包丁を片手に息を切らして立っていた。彼の頭髪は見苦しく乱れ、ネクタイは首にぶら下がっているだけ。シャツはよれよれで、無精髭すら生えていた。渉はその姿に嫌悪感を募らせ、自然と距離を取った。男はそれを見て激昂した。「お前も親父と同じだ!」「…なんだと…?」渉の低い声は、男の耳には届かなかった。「お前も親父と同じで、俺みたいな生まれの悪い人間をそうやって見下してるんだろう!」「……」その言葉に、渉は身体ごと向きを変えて男を正面から見据えた。そして、気がついた。「ああ…。あなたは確か…小林さん?でしたか」「そうだ!お前の親父が、理由のわからん言いがかりをつけて潰した、小林建材だ!」「……」渉は思った。要するに、この男は父親に恨みを持っている、ということだ。だから言った。「それと俺が、何の関係がある?」「なー!」その言い草に、小林は言葉を失った。手に持つ包丁をグッと力を込めて握りしめ、その目は、渉を射殺したいというように赤く血走っていた。その時ー。「お待たせしました……キャッ!」渉の忘れ物を取りに行っていた香織が、戻ってきた。それに素早く視線を向けた小林が、標的を変えて彼女を捕まえた。そして皮肉げに、「こんな美人を秘書にしてるとは…。やっぱりお前も、親父と同じ穴の狢だよ」と言った。渉は不快げに、そ
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