毎朝、洗面台の鏡の前で身支度を整え、最後に部屋を出る直前。紗良は、湊斗から贈られた真新しいピンクのショルダーバッグを肩にかける。 ほんのりと甘さを感じさせる、上品な桜色。指先でそっとなぞると、上質な革特有の滑らかで吸い付くような手触りと、新調したばかりの微かな匂いが伝わってくる。その重みを右肩に感じる一瞬だけ、どんよりと沈んだ紗良の胸の奥に、ぽっと小さな温かい灯がともるような感覚があった。『さっそく使ってくれて嬉しいです』 鞄を褒めたときの、照れくさそうに頬を染めた湊斗の顔が脳裏に過る。その不器用で真っ直ぐな好意を思い出すだけで、今日一日をやり過ごすための微かな活力が湧いてくるのだった。 チェーン店のイタリアンレストランから無理やり彼のアパートへ連れ込まれたあの忌まわしい夜から、すでに数日が経過していた。 紗良の中で、慎吾と別れるという意思は、もはや揺るぎない確固たるものとして固まっている。長年染み付いた情も、彼を支えなければという歪な使命感も、あの一夜で完全に砕け散った。 あとは、別れの言葉を告げるだけ。 しかし、いざそれを実行に移そうとすると、予想外の壁が立ちはだかっていた。「残業が長引いている」「急な接待が入ったから」と、慎吾が連日のように多忙を理由にして、二人で会う時間を徹底的に避けているのだ。 電話やメッセージという無機質な文字だけで終わらせることは簡単だ。けれど、自分の人生を長年縛り付けてきた相手だからこそ、最後くらいはごまかさずにちゃんと顔を見て、自分の口から明確な拒絶を突きつけたい。その生真面目なけじめが裏目に出て、すれ違いのまま時間だけが虚しく過ぎていく。 湊斗からの不器用で熱を帯びた告白に対する返事も、保留にしたままだった。彼に新しい関係を差し出すのは、過去の泥沼を綺麗に清算し、完全に一人になってからにすると、紗良は自分の中で固く決めている。 だから今はただ、右肩にある桜色の鞄だけを心の支えにして、息を潜めるように日常を繰り返すしかなかった。 蒸し暑くなり始めた空気が、街全体にじっとりとまとわりつく時間帯。定時を迎え、足早に家路につく社員たちの波に紛れるようにして、紗良は会社のエントランスを出た。 自動ドアが静かに背後で閉まった、その直後。 ふと視線を上げた紗良の足が、見えない杭を打ち込まれたようにピタリと止まった。
ปรับปรุงล่าสุด : 2026-07-10 อ่านเพิ่มเติม