Se connecter「俺、ずっと先輩が好きでした。俺のものにしたい」 恋人と義妹の生々しい浮気現場を目撃した紗良。幼い頃から紗良のすべてを奪ってきた狡猾な義妹は、婚約破棄を企て彼女をどん底へ突き落とそうとしていた。 絶望する紗良を救ったのは、高校の後輩で、現在は親会社の御曹司である天才バスケ選手・湊斗。「先輩をおとしにかかる」と宣言した彼は、圧倒的な熱量で紗良を甘く包み込んでいく。 クズな元カレと義妹に決定的な証拠を突きつけて完璧な復讐を果たし、一途で完璧な年下男子に極限まで愛される、痛快・溺愛の大逆転シンデレラストーリー!
Voir plus五月上旬の風は、半袖でも過ごせるほどに心地よい温度を含んでいた。日が落ちかけて、ポツリポツリとオレンジ色の街灯がともり始める時間帯。神崎紗良は、ずっしりと重いエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直した。暮れゆく街の空気は穏やかで、帰路を急ぐ人々の足音には微かな生活の匂いが混じっている。
(最近、慎吾の様子がおかしい)
連絡の頻度が減り、一緒にいてもどこか上の空な態度が気にかかっていた。スマートフォンの画面を見つめては誤魔化すように伏せる仕草や、急な残業が増えたこと。ただの杞憂であればいい。仕事が忙しいだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、不安の種は少しずつ紗良の胸の中で黒い根を張っていた。
心配でたまらず、彼のために身体に良い食材を買い込み、仕事帰りに彼のアパートを訪ねたのだ。柔道整復師の資格を持つ紗良にとって、以前膝を壊した恋人の体調を気遣い、食事でサポートするのは、もはや日常の延長のようなものだった。
エコバッグの中には、消化の良い鶏肉や、彼が好きな彩り豊かな緑黄色野菜が詰まっている。彼の健康を守り、疲れた身体を癒すことが、自分にできる最大限の愛情表現だと信じて疑わなかった。
しかし、見慣れたアパートの共同廊下に足を踏み入れた瞬間、紗良の足がコンクリートの床に縫い付けられたようにピタリと止まった。
(嘘……)
薄暗い廊下の奥から、艶めかしい声が耳に届く。それはどう聞いても、紗良が向かおうとしている慎吾の部屋から漏れ聞こえていた。甘く、ねっとりとした女の嬌声と、それに応えるような低い男の吐息。隙間風に乗って微かに鼻をかすめるのは、他人の体温と汗を思わせる生々しい匂い。
(まさか)
全身の血の気が引き、指先が氷のようにひどく冷たくなる。鼓動が早鐘のように打ち始めた。ドクン、ドクンとうるさいほどに耳の奥で血液が波打つ。頭では「何かの間違いだ」「彼がそんなことをするはずがない」と必死に否定しながらも、真実を確かめなければという抑えきれない衝動に駆られ、紗良は音を立てないように冷たい金属のドアノブに震える手をかけた。確かめたくないのに、逃げ出したいのに、手は勝手に動いてしまう。ゆっくりと、軋む音に細心の注意を払いながら、重い玄関ドアを開ける。
途端に、ひわいな水音と粘着質な声がより鮮明に鼓膜を打った。息を呑む。玄関の靴箱の脇には、見覚えのある女性用の靴が無造作に脱ぎ捨てられていた。華奢なピンヒールに、煌びやかなビジューが輝いている。紗良が選ぶような実用的で地味な靴とは違う、自らを飾るためだけの靴。さらに、ワンルームへと続く短い廊下には、脱ぎ散らかされた服が点在している。柔らかな素材のブラウス、短いスカート、そしてレースの下着。
視界の端に映ったそのブラウスの柄に、紗良は絶句した。それは紛れもなく、義理の妹である美波に「これ可愛い、貸して」と無理やり奪われた紗良自身の服だった。一度貸せば二度と返ってくることのない、幼い頃から幾度となく繰り返されてきた「奪われた」記憶の象徴が、そこにあった。ここまで来てしまえば、相手が誰なのかは痛いほどにわかってしまう。
(見たくない。逃げ出したい)
心の中で悲鳴のような声を上げているのに、足は勝手に前へと進んでしまう。自分の目で決定的な瞬間を確かめなければ、この残酷な現実を信じることができなかった。足が小刻みに震え、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。膝が笑い、うまく力が入らない。それでも一歩、また一歩と、紗良は重い足を引きずって奥へと進んだ。空気がひどく澱んでいる。むせ返るような甘い香水の匂いと、男女の混じり合った汗の匂いが壁に張り付いていた。
開け放たれた扉の先。明るい照明の下で、二つの身体が激しく重なり合っていた。慎吾と美波だった。今まで紗良がされたことのないような獣のような体位で、二人は貪るように求め合っている。肌と肌がぶつかり合う生々しい音。乱れたシーツ。快楽に歪んだ慎吾の顔と、彼に縋り付くように腕を回す美波の白い背中。視界がぐらりと揺れた。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。呼吸の仕方を忘れたように、喉がひゅっと鳴った。
「お義姉ちゃんとどっちがいい? どっちが好き?」
肌を重ね合わせ、甘えたような、どこか挑発的な声で美波が問いかける。その声には、姉からすべてを奪い取る優越感がはっきりと滲んでいた。
「お前に決まってるだろ。あいつは人形抱いてるみたいでつまらない」
慎吾が下品に笑いながら答えた。迷いの一切ない、残酷な即答だった。
(人形みたいで、つまらない……)
その言葉が、鋭い刃となって紗良の胸を深く、無惨にえぐった。ずっと自分の感情を押し殺してきた。幼い頃から大切なものを奪われ続けても、波風を立てないように、親を困らせないようにと耐えて生きてきた。感情を殺し、ただ穏やかに微笑むことが、紗良の生きる術だった。慎吾のためにも尽くしてきた。彼が怪我で荒れていた時も、ただ静かに寄り添い、少しでも彼の痛みを和らげようと必死に資格まで取ったのに。彼はそれを「つまらない人形」だと笑ったのだ。自分が必死に押し殺してきた感情の果てを、彼はただの退屈だと切り捨てた。
限界だった。もうこれ以上、一秒たりともここにいたくない。吐き気を堪え、紗良は音を立てずに後ずさった。足がもつれそうになるのを必死に堪え、そのまま静かに部屋を出る。食材の入ったエコバッグの持ち手が指に深く食い込んでいる。彼のために選んだ色とりどりの野菜も、消化に良い肉も、今はただの重い石のようだった。じわじわと広がる手のひらの痛みにすら気づかないまま、紗良はただ足だけを動かし続けた。扉を閉め、外の空気に触れても、肺の奥にはまだあの部屋の濁った空気がこびりついているようだった。
◇◇◇
どこをどう歩いたのか、まったく記憶がなかった。街の喧騒も、すれ違う人々の笑い声も、すべてが分厚いガラスの向こう側の出来事のようだった。足元がふわふわと浮ついているような感覚。信号の光が滲んで見え、車のヘッドライトがやけに眩しい。
頭の中では、何度も先ほどの光景と残酷な言葉がリフレインしている。「お前に決まってるだろ」「つまらない」。その声が響くたびに、胸の奥が冷たく凍りついていく。
気がつけば、見慣れたオフィス街、自分の勤める会社の近くまで戻ってきていた。日がすっかり落ち、夜の帳が下りた街は、冷たい風が吹き抜けている。
「先輩?」
不意に、背後から声をかけられた。びくりと肩を震わせて振り返る。そこには、黒いジャージ姿で汗だくになった一条湊斗が立っていた。会社の体育館でのバスケの練習を終えたばかりなのだろう。首にタオルをかけ、肩で息をしている。ダークブラウンの鋭い瞳が、幽鬼のように力なく立ち尽くす紗良を驚いたように捉えている。
見知った顔。いつもクールで、けれどどこか温かい高校時代からの後輩の顔を見た瞬間――紗良の中で張り詰めていた太い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
(ああ、私……)
麻痺していた感情が怒涛のように押し寄せ、堪えていた涙が決壊する。ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い、止めようとしても溢れ出て止まらなかった。声を殺そうとしても、喉の奥からヒックと情けない音が漏れる。視界が涙で完全に歪み、立っていることすらままならなくなる。
湊斗は目を丸くして驚きながらも、すぐに長い足で距離を詰め、崩れ落ちそうになる紗良の身体を力強く抱きしめた。硬い胸板。大きな腕。彼は理由も聞かず、ただ静かに、大きな手で紗良の背中をさすってくれる。優しく、慈しむような手つきだった。
「汗臭くてすみません」
頭の上から降ってきた少し掠れた声。湊斗の体温と、体育館特有の熱気、そして汗の匂いが鼻をくすぐった。それは、先ほどの部屋で嗅いだ不快な香水と体液の生々しい匂いとは違う、健全で嘘のない真っ直ぐな温度だった。彼の汗ばんだシャツ越しに伝わる心音は、力強く、規則正しい。その確かな命の響きが、紗良の凍りついた心を少しずつ溶かしていくようだった。
「練習後の匂いは、好きだから」
涙声でそう答えると、背中を撫でていた湊斗の手がほんの少しだけ止まった。彼の身体が微かに強張ったのがわかる。
「それは今、言っちゃまずいですよ。俺も一応男なんで」
飄々とした、けれどどこか真剣な響きが混じる声。その過剰に慰めることのない、彼らしい不器用な優しさに触れ、紗良は胸に顔を埋めたまま、震える声を絞り出した。言いたくない。けれど、誰かに聞いてほしかった。
「浮気してた。義理の妹と。今、見ちゃって」
口に出すことで、事実が完全に確定してしまうのが怖かった。声に出した途端、ひどい喪失感が襲いかかり、膝の力が完全に抜ける。立っていられなくなる紗良の身体を、湊斗の腕がしっかりと支える。彼は言葉を返す代わりに、少しだけ腕の力を強めてくれた。安っぽい同情の言葉も、適当な慰めも口にしない。紗良の嗚咽が落ち着くまで、ただ確かな熱を持って、そこにいてくれた。夜の冷たい風から守るように、大きな体で包み込んでくれる。
やがて、紗良のしゃくりあげるような呼吸が少し落ち着いたのを見計らい、湊斗はゆっくりと身体を離す。そして、紗良の白くなった指先が痛いほど握りしめていたエコバッグに視線を落とした。
「先輩、腹減ったんで何か作ってもらえます? 家、近いんで」
同情でも哀れみでもない、日常へと引き戻すような当たり前のトーンだった。湊斗の長い指先が、エコバッグから覗く食材を真っ直ぐに指さしていた。
(優しい――。どうしてこんなに)
彼なりの気遣いだとわかった。一人で帰せば、またあの部屋の光景を思い出して泣き崩れてしまうと見抜いているのだ。悲しみの淵から掬い上げてくれるような温かさに、紗良はただ小さく、こくりと頷くことしかできなかった。手の中にあるエコバッグの重みが、今は少しだけ、違う意味を持って感じられた。
五月上旬のうららかな陽光が、会社の敷地内に整備された遊歩道を明るく照らしていた。 初夏を思わせる少し強めの風が、青々と茂る街路樹の葉を揺らし、木漏れ日が足元で不規則な模様を描いている。 体育館へ向かう道すがら、紗良はふと立ち止まり、自分の両手を目の高さに掲げてじっと見つめた。 華奢で、決して大きくはない手。手のひらを返すと、そこには薄くタコができている。トレーナーとして、柔道整復師として、数え切れないほど人の身体に触れ、圧をかけ、癒してきた証だった。(あのころは、必死だった) 紗良の脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇ってくる。 慎吾が大学の試合中に膝に致命的な怪我を負い、深く絶望していたあの時期。少しでも彼の力になりたくて、彼の痛みを和らげたくて、紗良は柔道整復師の資格を取ることを決意した。 昼間は大学に通い、夜は眠い目をこすって分厚い参考書に齧りついた。専門用語が羅列されたページを何度もめくり、自分の身体でツボや筋肉の付き方を確認しながら、頭に叩き込んだ。それと並行して、高額な治療費やリハビリ費用を工面するために、身を粉にしてアルバイトに明け暮れた。 疲労で倒れそうになった日も、自分の時間がまったく取れなくて泣きそうになった夜も、すべては彼のためだった。彼の膝が少しでも良くなるなら、彼が再びコートで笑顔を見せてくれるなら、どんな苦労も厭わなかった。 同じ資格、同じ手。 あのころの自分は、自分のすべてを懸けて彼のために走り回っていたのに。 今の自分は――あの夜に見た惨めな彼の姿や、甘ったるい香水の匂いを思い出し、まだ彼との関係を完全に断ち切れないでいる。それなのに、別の男の身体を癒す場所へと足を踏み入れようとしているのだ。 自分の不甲斐なさに、紗良は唇を噛んだ。 手のひらに残る過去の重みと、これから向かう未知の場所への戸惑いが、紗良の胸の奥で静かに渦を巻いていた。それでも、立ち止まっているわけにはいかない。紗良は一つ大きく深呼吸をして、体育館へと歩みを進めた。 ◇◇◇ 重厚な金属製の扉に手をかけ、力を込めて押し開ける。 その瞬間、むっとした熱気とともに、汗と床のワックス、そして微かな湿り気を帯びたスポーツ特有の匂いが鼻を突いた。 ダム、ダム、と床に激しく弾むバスケットボールの重低音。キュッ、キュキュッ、とゴム底のシューズが軋む
五月上旬の夜。 外気は半袖でも過ごせるほどに暖かく心地よいというのに、案内された高級レストランの個室は冷房が効きすぎていて、肌を刺すような冷たい空気が満ちていた。 高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられたテーブルの表面に冷たい光を落としている。防音の効いた室内は、外の喧騒を一切遮断しており、しんと静まり返っていた。紗良はその不自然なほどの静寂と冷気に、無意識のうちに腕をさすった。 今日は、数ヶ月に一度の家族での食事会だった。 あの浮気発覚の夜、そして湊斗からの突然の告白の夜から、数日が経過していた。慎吾への気持ちの整理はつかないまま、関係は宙吊りになっている。湊斗の「全力でおとしにかかる」という熱を帯びた言葉も、答えを出せないまま保留にしていた。 心が二つの極端な感情の間で揺れ動き、疲労困憊している状態での家族との食事会は、紗良にとってひたすらに気が重いだけの行事だった。 先に到着して個室の椅子で待っていた紗良のもとへ、ノックの音もなく不意に扉が開いた。一足先に姿を現したのは、義妹の美波だった。 紗良と視線がぶつかるなり、美波は美しい顔をあからさまに醜く歪めた。「ださっ。ブランド物できなさいよ。ボロボロの鞄によれよれの服で最悪」 開口一番、挨拶の代わりに美波が吐き捨てた毒が、冷え切った個室の空気をさらに凍らせる。 美波の視線は、紗良の足元に置かれた使い古した鞄と、地味な色合いのブラウスをねっとりと舐め回すように見下ろしていた。彼女自身は、流行の最先端をいくハイブランドのワンピースに身を包み、完璧なメイクを施している。その対比は残酷なほど明確だった。「ああでも、お姉ちゃんはそういうの似合わないから。これくらいがちょうどいいかあ」 くすくすと、人を小馬鹿にしたような笑い声が静かな個室に響く。 美波は幼い頃から、紗良が大切にしているもの、気に入っているものを次々と奪ってきた。可愛いぬいぐるみ、お気に入りの洋服、そして、長年付き合ってきた恋人でさえも。少しでも目立つものを持てば、あるいは少しでも幸せそうにしていれば、必ず彼女の標的になり、完膚なきまでに奪い取られる。 だから紗良は、美波の興味を惹かない「ボロボロの鞄」と「よれよれの服」を身に纏うことで、自分を守るしかなかった。美波の視界に入らないように、価値のない人間であるかのよう
夜十時を過ぎたころ、玄関の重い金属扉が開く音が室内に響いた。 シンクの前に立ち尽くしていた紗良は、ゆっくりと顔を上げる。ダイニングテーブルの上には、完全に冷めきった鶏肉の治部煮が手つかずのまま置かれている。表面には薄い膜が張り、立ち昇っていたはずの出汁の温かい香りもすっかり消え失せていた。 彼を待つ間にコトコトと煮込んでいた時間は、ひどく虚無的で、紗良の心を少しずつ冷ましていくには十分だった。 リビングに姿を現した慎吾は、ネクタイを緩めながらいつものように人当たりの良い笑みを浮かべていた。「遅くなってごめん。残業、長引いちゃってさ」 少し疲れたような、それでいてどこか浮ついた足取り。紗良は「おかえり」と平坦な声で返し、彼が脱ぎかけたスーツの上着を受け取った。 その瞬間だった。 鼻先を、微かな――けれど確実に知っている甘ったるい匂いがかすめた。(ああ、やっぱり) 身体の芯から、じわじわと血の気が引いていく。残業というのは嘘だ。彼はついさっきまで、美波と会っていたのだ。あの夜、部屋中に充満していたのと同じ香水の匂いが、スーツの繊維の奥にしっかりと染み付いている。「悪い、飯の前にさ……ちょっと足が痛くて。先にマッサージ頼める?」 顔をしかめながら、慎吾がソファに腰を下ろす。紗良は無言のまま彼の足元にひざまずき、長年繰り返してきたように、柔道整復師としての手つきで彼の膝に触れた。 固くなった筋肉をほぐし、関節の可動域を確認する。プロとしての的確で無駄のない指の動き。けれど、紗良の心はかつてないほど冷え切っていた。 私が資格を取ってまで、支えた膝。 治ってほしいと願い、アルバイトを掛け持ちしてまで治療費を工面した膝。その膝で、彼は美波の元へと通い、彼女を抱いていたのだ。 静寂の中、布擦れの音だけが響く。室内の照明は、明るすぎず暗すぎない、中途半端な光で二人の輪郭を照らし出していた。逃げ場のない密室のような空間で、紗良は指を動かしながら静かに口を開いた。「私たち別れようか」 自分の声とは思えないほど、平坦で冷たい響きだった。 マッサージをしていた手が止まる。慎吾の身体が、びくりと不自然に硬直した。「……え? 紗良、急にどうしたの。仕事で疲れてるんだろ?」 引き攣った笑いを浮かべ、彼は紗良の言葉を冗談として処理しようとする。顔を覗き込ん
あの日から、紗良の時間はひどく曖昧なまま流れ続けていた。 オフィスのデスクでパソコンのモニターに向かっていても、文字はただの記号の羅列にしか見えない。キーボードを叩く指先は冷たく、意識はすぐに別の場所へと飛んでいってしまう。(人形みたいで、つまらない) 慎吾の残酷な響きが、不意に耳の奥で蘇る。あの薄暗い部屋、脱ぎ散らかされた自分の服、混じり合う汗の匂い。そのたびに胸の奥が冷たく凍りつき、息が詰まりそうになる。(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから) かと思えば、湊斗の地を這うような真っ直ぐな声が、冷えた胸の奥に火傷しそうなほどの熱を落としていく。掴まれた手首の体温。退路を断つような強い瞳。 裏切りと、思いがけない熱。二つの相反する記憶がぐるぐると頭の中で交錯し、紗良の思考を麻痺させていた。 許すべきなのか、終わらせるべきなのか。 五年という月日は、簡単には切り捨てられない重さを持っている。けれど、あの光景を見なかったことにはもうできない。湊斗の告白に対する答えも出せないまま、心の中の天秤はどちらにも傾かず、ただギシギシと嫌な音を立てて揺れ続けていた。「紗良」 不意に、頭上から声が降ってきた。 びくりと肩を震わせて顔を上げると、いつの間に営業から戻ったのか、スーツ姿の慎吾がデスクの脇に立っていた。人当たりの良い、いつもの完璧な笑顔。周囲の目を気にすることなく、ごく自然にパーソナルスペースへと入り込んでくる。「最近、様子が変じゃないか」 覗き込むような距離。甘く、軽薄な響きを含んだ声。心配している風を装っているが、その瞳の奥には紗良に対する確固たる所有感が滲んでいる。 紗良は小さく息を呑み、キーボードから手を離して膝の上で固く握りしめた。「……別に、普通だけど」「そう? ならいいけどさ。心配で早く帰れそうだから手料理が食べたい、それと膝が痛いからマッサージも」 悪びれもせず、当然の権利のように彼は要求を口にする。 本来なら、ここで「浮気していたくせに」と突き返すべきなのだ。あんなおぞましい現場を見たのだから。それなのに、紗良の口からは全く違う言葉が漏れ出ていた。「わかった。……合鍵、使って入ってるね」(私、何を言ってるんだろう) こくりと頷いた自分の身体に、激しい嫌悪感が込み上げる。長年染み付いた「世話焼きな彼女」とし