登入休日の朝。東向きに大きく設けられたガラス窓から、薄金色の柔らかな朝の光が湊斗の家のキッチンへとたっぷりと差し込んでいた。 木目の美しい真新しいアイランドカウンターには、色違いのマグカップが二つ並んでいる。深いネイビーのものは湊斗の、そして淡い桜色のものは彼が「先輩に似合うから」と選んでくれたものだ。 紗良は胸元でエプロンの紐をきゅっと結び直し、朝ごはんの支度を始めていた。 トントントン、と一枚板の重厚なまな板の上で、リズミカルに包丁が鳴る。赤く熟れたトマトを均等に切り分け、シャキッとしたみずみずしいレタスを冷たい水で洗い、手で丁寧にちぎって透明なガラスボウルへ移す。指先に触れる冷水が心地よく、葉先から滴る水滴が朝日に反射して、きらきらと小粒の宝石のように輝いていた。 隣のコンロでは、熱したフライパンの上で厚切りのベーコンがパチパチと軽快な音を立てている。跳ねる油の音に混じって、食欲をそそる香ばしい肉の匂いがふわりと立ち上り、甘い部屋の空気を塗り替えていった。空いたスペースに新鮮な卵を割り入れると、ジュッとひときわ派手な音が鳴り、透明な白身がふっくらと縁を焦がしながら純白へと変わっていく。 背後のカウンターに置かれたガラス製のコーヒーメーカーからは、ぽたぽたと琥珀色の雫が落ちるたびに、深く苦みのある豆の香りが部屋の隅々まで満たし始めていた。 五感を優しく撫でるような、満ち足りた朝の風景。 フライパンの取っ手を握り、軽く揺すりながら、紗良は細く、長い息をついた。 穏やかで、優しさに満ちた時間だった。胸を締めつける不安に怯えることも、誰かの不機嫌な顔色を窺うこともない。何よりも、自分が大切にしているものを理不尽に壊される心配がどこにもないのだ。ただ純粋に、これから共に食卓を囲む愛しい人のためだけに料理をする。そんな当たり前の日常が、これまでの人生を思えば、紗良にとってはひどく特別で、奇跡のように尊く感じられた。(ずっと、息を潜めて生きてきたな……) ふと、過去の暗い記憶が脳裏を過る。 幼いころから、何度も何度も大切なものを奪われてきた。お気に入りの服、大切にしていた鞄、ささやかな小物、そして最後には恋人までも。 継父の連れ子である義妹・美波に狙われ、奪われることに慣れすぎてしまった紗良は、いつしか自分の感情を心の奥底に押し殺すようになっていた。
夜の帳が完全に下りた頃、ビル群の間をすり抜ける夜風が、紗良の火照った頬を心地よく撫でていった。 オフィスビルが立ち並ぶ大通りから一本入った裏道。アスファルトの上を、家路を急ぐ人々の乾いた靴音が等間隔に響いている。街灯のオレンジ色の光が路上に長い影を落とし、疲労を滲ませた会社員たちが次々と駅の改札へと吸い込まれていく時間帯だ。 仕事を終えたばかりの紗良もまた、最寄り駅へ向かって歩幅を広げていた。副社長に就任した湊斗の秘書兼専属トレーナーとしての日々は、目が回るほど忙しい。膨大なスケジュール管理に加え、彼のコンディションを整えるためのメニュー作成など、息をつく暇もない。 それでも、胸の奥には常に温かい火が灯っているような、充実感に満ちた心地よい疲労だった。彼の傍で、彼を支えるために立てているという確かな実感が、紗良の足取りを羽のように軽くしている。(早く帰って、夕食の準備をしないと) 明日の朝食の献立に思考を巡らせながら、交差点の角を曲がろうとした、その時だった。 ガシッ。 背後から、乱暴な力で右腕を掴まれた。「……っ!」 息を呑む。あまりの強い力に、骨が軋むような痛みが走った。(誰――) 恐怖で背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立つ。すれ違う数名の通行人が、不穏な気配にチラリと視線を向けてくる。 強引に引き止められ、紗良は怯えながら振り返った。 そこに立っていたのは、見知らぬ暴漢などではない。しかし、紗良の知っている人物とも到底思えなかった。 焦点の定まらない、不気味に血走った目。落ち窪み、影の落ちた頬。無精髭が汚らしく伸び、かつては隙なくセットされていたはずの髪は脂じみて額にべったりと張り付いている。サイズの合わなくなったヨレヨレのスーツからは、ツンとした饐えたような汗の匂いと、鼻を突く強いアルコールの臭いが混ざり合って漂ってきた。 かつて同社の営業課エースとして華やかなオーラを纏い、自信に満ち溢れていた男の面影は、もはや欠片も残っていない。 そこには、会社を解雇され、全てを失って惨めに痩せこけた佐伯慎吾が、幽鬼のように立っていた。「放して。大声で叫ぶよ?」 紗良は必死に喉の奥から声を振り絞った。震えそうになる膝にグッと力を込め、通行人の目があるこの状況を最大限に利用する。大声を出せば、間違いなく周囲の人が集まってくる。その緊張感が
夜の静寂が包み込む、湊斗のマンションのリビング。 広い室内には間接照明の柔らかい橙色の光だけが落ち、静かな空調の駆動音と、二人の落ち着いた呼吸音だけが心地よく重なり合っていた。 シャワーを浴び終えたばかりの湊斗は、薄手の黒いTシャツとグレーのハーフパンツという無防備な格好で、ゆったりとしたローソファに深く背を預けている。紗良はその足元、毛足の長い厚手の絨毯の上に膝をつき、彼のがっしりとした右の足首を両手で包み込んでいた。 マッサージオイルを手のひらに取り、両手を擦り合わせて人肌に温める。それを、アスリート特有の硬く引き締まったふくらはぎから膝裏にかけて、ゆっくりと滑らせていった。 疲労の溜まった滑らかな筋肉の筋を親指の腹で捉え、じんわりと体重をかけて押し上げていく。皮膚の下で脈打つ、力強い血液の巡り。 彼の濡れた髪から漂う爽やかなシャンプーの香りと、彼特有のシトラスとムスクが入り混じった甘い体臭が、熱気を帯びて鼻腔をくすぐる。皮膚を通して直接伝わってくる彼の生々しい熱量に、紗良の胸の奥はじんわりと甘く痺れていた。「……そこ、すごく気持ちいいです」 頭上から降ってきたのは、すっかり気の抜けた、掠れた低い声だった。 昼間の会社で見せる、隙一つない冷徹な副社長の顔も、コートの上で見せる獰猛で闘争心剥き出しのアスリートの顔もない。ただ、自分にだけ全てを委ねて甘える、途方もなく愛おしい男がそこにいた。 指先に少しだけ力を込めながら、紗良はずっと胸の奥で温めていた疑問を、ふと口にした。「ねえ、湊斗くん。……高校のころ、なんで私を好きになったの?」 特別な意図があったわけではない。ただ、この甘く穏やかな空気に背中を押されただけの、何気ない問いかけだった。 紗良の指先を見下ろしていた湊斗は、少しも淀むことなく、ぽつりと口を開いた。「捻挫してるのを忘れて、優勝が嬉しくて走り回ってたときですかね」 即答だった。 思いがけない具体的な記憶に、紗良は思わず手を止めて彼を見上げた。 それは、紗良が高校時代にバスケ部のマネージャーをしていた頃の出来事だ。数日前に不注意で足を挫いて湿布を貼っていたにもかかわらず、男子バスケ部の地区優勝が決まった瞬間、自分の怪我の痛みすら忘れて、誰よりも跳びはねて喜んでいたという、今思い出しても顔から火が出そうな失態。「それ、
重厚なマホガニー材の扉の向こう側は、いつも冷たく張り詰めた空気に満ちていた。 一条グループの副社長室。足音を吸い込む分厚い高級絨毯が敷き詰められたその空間には、静かな空調の駆動音と、万年筆が紙を滑る硬質な音だけが響いている。 紗良は手元のスケジュール帳を胸元で抱え直し、深呼吸をしてから、コンコンと二度ノックをした。「どうぞ」 低く、一切の感情を削ぎ落とした声が聞こえ、紗良は静かに扉を押し開けた。 広い室内の奥、黒いレザーデスクに向かっているのは一条湊斗だった。 仕立ての良いダークネイビーのスーツを完璧に着こなした彼は、手元の分厚い決裁書類の束を鋭い眼差しで見下ろしている。端整な眉間には深いシワが刻まれ、その横顔は人を寄せ付けない冷徹な経営者のそれだった。 新体制の立ち上げから数週間。多忙を極める彼のスケジュールは分単位で埋め尽くされ、息をつく暇すらなさそうだった。「一条副社長。今夜の取引先との会食の件で、最終確認にお伺いしました。……それと、十五時からの会議の前に、温かいコーヒーをお淹れしましょうか?」 紗良が静かに声をかけ、デスクへと近づく。 その声が鼓膜に届いた瞬間だった。書類に落ちていた湊斗の視線がサッと上がり、紗良を捉える。 ピタリと、万年筆の動きが止まった。 眉間に刻まれていた険しいシワが嘘のようにふっと解けていく。氷のように冷たかったダークブラウンの瞳に眩いほどの熱が灯り、彼の美しい唇が、紗良だけに向けられた愛おしげで艶やかな笑みを描いた。「ありがとう、紗良さん」 低く滑らかな声。 紗良が「では、確認を――」と言いかけたその時だった。 湊斗が万年筆を置くと同時に立ち上がり、長い脚でデスクを回り込んできた。そのまま紗良の後ろへと回り込むと、スッと手を伸ばして副社長室の扉の鍵をカチャリと内側から施錠した。 金属の重い音が静かな室内に響く。「湊斗く――んっ!?」 驚いて振り返る間もなく、手頸を強く引かれた。 前傾姿勢になった紗良の身体はそのまま彼の腕の中へと引き寄せられ、硬く鍛え抜かれた胸元に吸い寄せられるようにぴったりと密着した。 上質なスーツの生地越しに伝わる強烈な体温。ふわりとシトラスとムスクの甘い香りが鼻腔を満たした。「……あ……っ、待って、ここ会社……っ」「鍵、かけましたから大丈夫です」 低いかすれ
空調の効いた社内の大会議室は、いつもとは違うピンと張り詰めた緊張感に包まれていた。 一条グループによる買収が正式に完了し、今日が新しい経営陣による新体制発表の場だった。ずらりと並べられたパイプ椅子には、不安と期待の入り混じった顔つきの社員たちが座り、前方を見つめている。 紗良は最後列の壁際に立ち、壇上へと進み出る見慣れた、けれどどこか見違えるような広い背中を見つめていた。 マイクの前に立ったのは、仕立ての良いダークネイビーのスーツに身を包んだ一条湊斗だった。 バスケットボールで鍛え上げられた長身にしなやかに沿う、上質な生地。首元には誠実さを感じさせる深い青のネクタイが結ばれている。照明を受けて微かに艶めく黒髪の下、彼のダークブラウンの瞳は、威風堂々と社員たちを見据えていた。 彼が一条グループ会長の孫であり、親会社からの出向という形で新体制の副社長に就任すること。そして、プロのバスケ選手としてのキャリアも続行することが発表されると、会議室には静かなどよめきが広がった。 低い、しかしよく通る落ち着いた声で、湊斗が就任の挨拶を紡いでいく。 その立派な姿を見つめながら、紗良の胸の奥は不思議な温かさで満たされていた。(本当に、副社長になっちゃったんだな……) 数日前、彼のマンションの静かな寝室で、湊斗から打診を受けた日のことを思い出す。『俺の秘書兼専属トレーナーとして、一番近くで俺を支えてくれませんか』 真剣な瞳で、真っ直ぐに乞われた。 新副社長からの直接の指名。それは明らかに異例の人事だった。これまでの紗良であれば、「私なんかにそんな大役は務まらない」「周囲の目が気になる」と怯え、波風を立てないように逃げていたかもしれない。 だが、紗良はもう、自分を低く見積もって安全な場所に隠れるのはやめたのだ。 彼が守り抜いてくれた「奪われない場所」で、本当の自分を取り戻した。だからこそ、今度は誰かに流されたり、世話焼きの延長でしぶしぶ引き受けるのではなく、自らの明確な意志で彼を支えたいと強く願った。 柔道整復師としての知識と、総務で長年培ってきた事務処理能力。そのすべてを使って、彼と共に歩んでいきたいと、自分の足でその道を選び取ったのだ。 拍手に応えて深く頭を下げる湊斗を見つめていると、胸の奥がキュッと締め付けられる。 誇らしさと、眩しさ。 体育
キーボードを叩く乾いた音が、静かなオフィスに規則正しく響き渡っている。 空調から吹き出す冷たい風が、うなじを撫でた。コピー機から漂ってくる微かなオゾン臭と、紙の匂い。いつもと変わらない、平和で無機質な会社の昼下がり。 紗良はパソコンのモニターから視線を外し、凝り固まった肩を小さく回した。キャビネットからファイルを取ろうと、キャスター付きの椅子から腰を浮かせた瞬間だった。「いたっ」 下腹部から腰の奥にかけて、電気が走ったような鋭い痛みが突き抜ける。 思わず短い悲鳴を漏らし、紗良は腰をさすりながら中腰の姿勢でピタリと固まった。筋肉の奥深くが軋み、熱を持っている。昨夜の、激しく終わりの見えなかった情事の生々しい記憶が、鈍い痛みに乗って脳裏に鮮やかに蘇った。(もう、足までガクガクしてる……) ふと強い視線を感じて横を向くと、パーテーションを隔てた隣のデスクでキーボードを叩いていたはずの湊斗が、こちらを見ていた。顔の角度だけをこちらに向け、身体はパソコンに向かったままだが、その端整な顔の口元はだらしなく、たまらなく嬉しそうに歪んでいる。「つらそうですね」 周囲の社員には聞こえない程度の、低く掠れた囁き声。その響きには、自分がいかに彼女を愛し抜いたかという、隠しきれない優越感が滲んでいた。「誰のせいよ」 紗良は顔の輪郭がカッと熱くなるのを感じながら、小声で彼を睨みつけた。「本当に朝までって……あり得ない」「体力だけはあるんで」 反省の色など微塵もない、爽やかで無邪気な笑顔だった。プロのバスケットボール選手としての無尽蔵のスタミナを、まさかあんな形で一晩中見せつけられるとは思ってもみなかった。「ありすぎ!」 頬を膨らませて文句を言うものの、くすくすと嬉しそうに笑う彼の顔を見ると、どうにも本気で怒ることができない。むしろ、彼が自分にそれほどまでの執着と熱情を向けてくれた事実が、胸の奥を甘い痺れで満たしていく。 呆れと、深く甘い愛しさ。相反する感情が胸の中で心地よく混ざり合い、紗良の唇から自然と笑みがこぼれた。 その時、机の上の内線電話がけたたましいコール音を鳴らした。 ビクッと肩を震わせ、受話器を取る。『紗良さん、下の受付にお客様です』「わかりました」 短い返事を返し、受話器を置く。来客の予定など入っていなかったはずだ。不思議に思いな