五月上旬の風は、半袖でも過ごせるほどに心地よい温度を含んでいた。日が落ちかけて、ポツリポツリとオレンジ色の街灯がともり始める時間帯。神崎紗良は、ずっしりと重いエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直した。暮れゆく街の空気は穏やかで、帰路を急ぐ人々の足音には微かな生活の匂いが混じっている。(最近、慎吾の様子がおかしい) 連絡の頻度が減り、一緒にいてもどこか上の空な態度が気にかかっていた。スマートフォンの画面を見つめては誤魔化すように伏せる仕草や、急な残業が増えたこと。ただの杞憂であればいい。仕事が忙しいだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、不安の種は少しずつ紗良の胸の中で黒い根を張っていた。 心配でたまらず、彼のために身体に良い食材を買い込み、仕事帰りに彼のアパートを訪ねたのだ。柔道整復師の資格を持つ紗良にとって、以前膝を壊した恋人の体調を気遣い、食事でサポートするのは、もはや日常の延長のようなものだった。 エコバッグの中には、消化の良い鶏肉や、彼が好きな彩り豊かな緑黄色野菜が詰まっている。彼の健康を守り、疲れた身体を癒すことが、自分にできる最大限の愛情表現だと信じて疑わなかった。 しかし、見慣れたアパートの共同廊下に足を踏み入れた瞬間、紗良の足がコンクリートの床に縫い付けられたようにピタリと止まった。(嘘……) 薄暗い廊下の奥から、艶めかしい声が耳に届く。それはどう聞いても、紗良が向かおうとしている慎吾の部屋から漏れ聞こえていた。甘く、ねっとりとした女の嬌声と、それに応えるような低い男の吐息。隙間風に乗って微かに鼻をかすめるのは、他人の体温と汗を思わせる生々しい匂い。(まさか) 全身の血の気が引き、指先が氷のようにひどく冷たくなる。鼓動が早鐘のように打ち始めた。ドクン、ドクンとうるさいほどに耳の奥で血液が波打つ。頭では「何かの間違いだ」「彼がそんなことをするはずがない」と必死に否定しながらも、真実を確かめなければという抑えきれない衝動に駆られ、紗良は音を立てないように冷たい金属のドアノブに震える手をかけた。確かめたくないのに、逃げ出したいのに、手は勝手に動いてしまう。ゆっくりと、軋む音に細心の注意を払いながら、重い玄関ドアを開ける。 途端に、ひわいな水音と粘着質な声がより鮮明に鼓膜を打った。息を呑む。玄関の靴箱の脇には、見覚えのある女性用の靴が無造
Dernière mise à jour : 2026-06-28 Read More