Tous les chapitres de : Chapitre 1 - Chapitre 8

8

第一話「残酷な現実から逃げ出した先で」

 五月上旬の風は、半袖でも過ごせるほどに心地よい温度を含んでいた。日が落ちかけて、ポツリポツリとオレンジ色の街灯がともり始める時間帯。神崎紗良は、ずっしりと重いエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直した。暮れゆく街の空気は穏やかで、帰路を急ぐ人々の足音には微かな生活の匂いが混じっている。(最近、慎吾の様子がおかしい) 連絡の頻度が減り、一緒にいてもどこか上の空な態度が気にかかっていた。スマートフォンの画面を見つめては誤魔化すように伏せる仕草や、急な残業が増えたこと。ただの杞憂であればいい。仕事が忙しいだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、不安の種は少しずつ紗良の胸の中で黒い根を張っていた。 心配でたまらず、彼のために身体に良い食材を買い込み、仕事帰りに彼のアパートを訪ねたのだ。柔道整復師の資格を持つ紗良にとって、以前膝を壊した恋人の体調を気遣い、食事でサポートするのは、もはや日常の延長のようなものだった。 エコバッグの中には、消化の良い鶏肉や、彼が好きな彩り豊かな緑黄色野菜が詰まっている。彼の健康を守り、疲れた身体を癒すことが、自分にできる最大限の愛情表現だと信じて疑わなかった。 しかし、見慣れたアパートの共同廊下に足を踏み入れた瞬間、紗良の足がコンクリートの床に縫い付けられたようにピタリと止まった。(嘘……) 薄暗い廊下の奥から、艶めかしい声が耳に届く。それはどう聞いても、紗良が向かおうとしている慎吾の部屋から漏れ聞こえていた。甘く、ねっとりとした女の嬌声と、それに応えるような低い男の吐息。隙間風に乗って微かに鼻をかすめるのは、他人の体温と汗を思わせる生々しい匂い。(まさか) 全身の血の気が引き、指先が氷のようにひどく冷たくなる。鼓動が早鐘のように打ち始めた。ドクン、ドクンとうるさいほどに耳の奥で血液が波打つ。頭では「何かの間違いだ」「彼がそんなことをするはずがない」と必死に否定しながらも、真実を確かめなければという抑えきれない衝動に駆られ、紗良は音を立てないように冷たい金属のドアノブに震える手をかけた。確かめたくないのに、逃げ出したいのに、手は勝手に動いてしまう。ゆっくりと、軋む音に細心の注意を払いながら、重い玄関ドアを開ける。 途端に、ひわいな水音と粘着質な声がより鮮明に鼓膜を打った。息を呑む。玄関の靴箱の脇には、見覚えのある女性用の靴が無造
last updateDernière mise à jour : 2026-06-28
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第二話「助手席での甘い宣戦布告」

 案内された湊斗のマンションは、会社から歩いてすぐの場所にあった。 玄関の扉を開けると、ほのかに爽やかな柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。一人暮らしの二十代男性の部屋にしては、驚くほど整理整頓されていた。靴箱の脇には湊斗の大きなスニーカーが一足だけ、きちんと揃えられて置かれている。 先ほど見た、見知らぬ女の華奢な靴が脱ぎ捨てられていたあの雑然とした玄関と、むせ返るような香水の匂いが記憶の底でフラッシュバックし、紗良は小さく息を吐き出した。「適当に座っててください。シャワーだけ浴びてきます」 汗だくのジャージ姿のまま、湊斗が洗面所へと向かう。パタンと扉が閉まる音を聞いて、紗良はリビングの隅にあるオープンキッチンへと足を向けた。 清潔に磨かれたシンク。必要最低限の調理器具だけが並ぶ台所に立ち、紗良は指に食い込むほど握りしめていたエコバッグを、ようやくカウンターへと下ろした。 ガサリと音を立てて、中から食材を取り出す。 大葉、鶏の胸肉、色鮮やかなトマト、それから出汁のパック。 並べられた食材を見つめ、胸の奥がチクリと痛んだ。(これ、慎吾のために買ったのに) 消化に良く、タンパク質が豊富な鶏肉。最近膝の調子が悪いと言っていた彼を労り、少しでも回復の助けになればと、仕事の合間にスーパーへ寄って真剣に選んだものだった。 彼の身体を思い、彼の口に入るものを考えていたはずの食材が、今、まったく別の男の家のキッチンに並べられている。 矛盾した状況に足元が揺らぐような感覚を覚えながらも、紗良はゆっくりと包丁を手に取った。 まな板の上で、野菜を刻み始める。トントン、トントンと、リズミカルな音が静かな部屋に響く。 鍋に湯を沸かし、出汁をとる。コンロの火がぼうっと青く燃える音。換気扇の低い唸り。少しずつ立ち昇る、醤油とみりんの甘じょっぱい匂い。 手を動かし、料理の音と匂いに包まれているうちに、麻痺していた紗良の感覚が少しずつ、確かな輪郭を持って現実へと引き戻されていく。(私、なんで料理なんて作ってるんだろう) 恋人の裏切りと、義妹の嘲笑。あんな残酷な現実を突きつけられたばかりなのに、こうして他人の家のキッチンに立ち、出汁の香りに安堵している自分が不思議でならなかった。 けれど、ただぼんやりと座っているよりも、こうして手を動かし、誰かのために「日常」を紡ぐ作業を
last updateDernière mise à jour : 2026-06-29
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第三話「悲しみを上書きする、生意気な後輩」

 薄暗い部屋の中で、チクタクという時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。 ベッドの上に身を投げ出したまま、紗良はただぼんやりと見慣れた寝室の天井を見つめていた。エアコンの微かな駆動音。肌に触れるシーツの冷たさが、体温を容赦なく奪っていく。 目を閉じれば、裏切りの光景が否応なしにフラッシュバックする。 乱れたシーツ。男女の混じり合う汗の匂い。美波の甘えた声と、慎吾の残酷な響き。(人形抱いてるみたいでつまらない) あの言葉が、鋭い棘となって胸の奥に深く突き刺さったまま抜けない。五年間の献身をあっさりと否定された喪失感。足元が音を立てて崩れ落ちるような絶望。 それに直面し、これからどうすべきか、一人で静かに考えなければならないはずだった。自分は捨てられたのだという現実を、冷たい暗闇の中で噛み締めなければならないはずだった。 それなのに。(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから) 低く、地を這うような湊斗の声が、思考の隙間に滑り込んでくる。(佐伯先輩が先輩を悲しませてるなら、俺――全力で先輩をおとしにかかりたいと思います) 車内で掴まれた手首が、じんじんと熱を持っていた。火傷しそうなほどの彼の体温が、衣服越しに直接肌へ伝わってきたあの感覚が、どうしても消えない。冷たいシーツに包まれているのに、掴まれた箇所だけが熱を帯びているようだった。 冷たい絶望と、火傷しそうなほどの熱。 まったく違う矛盾した二つの感情が、狭いベッドの上でぐるぐると交錯する。慎吾の裏切りという現実に向き合わなければならないのに、気づけば湊斗の真っ直ぐな瞳と、宣戦布告のような告白ばかりが頭の中を支配していく。 紗良は小さく息を吐き出し、ベッドの中で寝返りを打った。 右を向いても、左を向いても、思考は晴れない。目を閉じても眠りは訪れず、ただ時間だけが無情に過ぎていく。 大きく、分厚い手。シャワー後の石鹸の爽やかな匂い。退路を断つような真っ直ぐな言葉。 高校時代から、ずっと好きだった? あの生意気で、バスケにしか興味がないと思っていた後輩が。長い時間、そんな想いを隠し持っていたなんて。(どうして、今更……) 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。パジャマの胸元を強く握りしめ、再び寝返りを打った。シーツが擦れる音が、静寂の部屋に響く。 考えれば考えるほど、頭の中は
last updateDernière mise à jour : 2026-06-30
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第四話「窓を開けても薄まらない裏切りの匂い」

 あの日から、紗良の時間はひどく曖昧なまま流れ続けていた。 オフィスのデスクでパソコンのモニターに向かっていても、文字はただの記号の羅列にしか見えない。キーボードを叩く指先は冷たく、意識はすぐに別の場所へと飛んでいってしまう。(人形みたいで、つまらない) 慎吾の残酷な響きが、不意に耳の奥で蘇る。あの薄暗い部屋、脱ぎ散らかされた自分の服、混じり合う汗の匂い。そのたびに胸の奥が冷たく凍りつき、息が詰まりそうになる。(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから) かと思えば、湊斗の地を這うような真っ直ぐな声が、冷えた胸の奥に火傷しそうなほどの熱を落としていく。掴まれた手首の体温。退路を断つような強い瞳。 裏切りと、思いがけない熱。二つの相反する記憶がぐるぐると頭の中で交錯し、紗良の思考を麻痺させていた。 許すべきなのか、終わらせるべきなのか。 五年という月日は、簡単には切り捨てられない重さを持っている。けれど、あの光景を見なかったことにはもうできない。湊斗の告白に対する答えも出せないまま、心の中の天秤はどちらにも傾かず、ただギシギシと嫌な音を立てて揺れ続けていた。「紗良」 不意に、頭上から声が降ってきた。 びくりと肩を震わせて顔を上げると、いつの間に営業から戻ったのか、スーツ姿の慎吾がデスクの脇に立っていた。人当たりの良い、いつもの完璧な笑顔。周囲の目を気にすることなく、ごく自然にパーソナルスペースへと入り込んでくる。「最近、様子が変じゃないか」 覗き込むような距離。甘く、軽薄な響きを含んだ声。心配している風を装っているが、その瞳の奥には紗良に対する確固たる所有感が滲んでいる。 紗良は小さく息を呑み、キーボードから手を離して膝の上で固く握りしめた。「……別に、普通だけど」「そう? ならいいけどさ。心配で早く帰れそうだから手料理が食べたい、それと膝が痛いからマッサージも」 悪びれもせず、当然の権利のように彼は要求を口にする。 本来なら、ここで「浮気していたくせに」と突き返すべきなのだ。あんなおぞましい現場を見たのだから。それなのに、紗良の口からは全く違う言葉が漏れ出ていた。「わかった。……合鍵、使って入ってるね」(私、何を言ってるんだろう) こくりと頷いた自分の身体に、激しい嫌悪感が込み上げる。長年染み付いた「世話焼きな彼女」とし
last updateDernière mise à jour : 2026-07-01
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第五話「シーツに染み付いた絶望の匂い」

 夜十時を過ぎたころ、玄関の重い金属扉が開く音が室内に響いた。 シンクの前に立ち尽くしていた紗良は、ゆっくりと顔を上げる。ダイニングテーブルの上には、完全に冷めきった鶏肉の治部煮が手つかずのまま置かれている。表面には薄い膜が張り、立ち昇っていたはずの出汁の温かい香りもすっかり消え失せていた。 彼を待つ間にコトコトと煮込んでいた時間は、ひどく虚無的で、紗良の心を少しずつ冷ましていくには十分だった。 リビングに姿を現した慎吾は、ネクタイを緩めながらいつものように人当たりの良い笑みを浮かべていた。「遅くなってごめん。残業、長引いちゃってさ」 少し疲れたような、それでいてどこか浮ついた足取り。紗良は「おかえり」と平坦な声で返し、彼が脱ぎかけたスーツの上着を受け取った。 その瞬間だった。 鼻先を、微かな――けれど確実に知っている甘ったるい匂いがかすめた。(ああ、やっぱり) 身体の芯から、じわじわと血の気が引いていく。残業というのは嘘だ。彼はついさっきまで、美波と会っていたのだ。あの夜、部屋中に充満していたのと同じ香水の匂いが、スーツの繊維の奥にしっかりと染み付いている。「悪い、飯の前にさ……ちょっと足が痛くて。先にマッサージ頼める?」 顔をしかめながら、慎吾がソファに腰を下ろす。紗良は無言のまま彼の足元にひざまずき、長年繰り返してきたように、柔道整復師としての手つきで彼の膝に触れた。 固くなった筋肉をほぐし、関節の可動域を確認する。プロとしての的確で無駄のない指の動き。けれど、紗良の心はかつてないほど冷え切っていた。 私が資格を取ってまで、支えた膝。 治ってほしいと願い、アルバイトを掛け持ちしてまで治療費を工面した膝。その膝で、彼は美波の元へと通い、彼女を抱いていたのだ。 静寂の中、布擦れの音だけが響く。室内の照明は、明るすぎず暗すぎない、中途半端な光で二人の輪郭を照らし出していた。逃げ場のない密室のような空間で、紗良は指を動かしながら静かに口を開いた。「私たち別れようか」 自分の声とは思えないほど、平坦で冷たい響きだった。 マッサージをしていた手が止まる。慎吾の身体が、びくりと不自然に硬直した。「……え? 紗良、急にどうしたの。仕事で疲れてるんだろ?」 引き攣った笑いを浮かべ、彼は紗良の言葉を冗談として処理しようとする。顔を覗き込ん
last updateDernière mise à jour : 2026-07-03
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第六話「美しき妹の残酷な微笑み」

 五月上旬の夜。 外気は半袖でも過ごせるほどに暖かく心地よいというのに、案内された高級レストランの個室は冷房が効きすぎていて、肌を刺すような冷たい空気が満ちていた。 高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられたテーブルの表面に冷たい光を落としている。防音の効いた室内は、外の喧騒を一切遮断しており、しんと静まり返っていた。紗良はその不自然なほどの静寂と冷気に、無意識のうちに腕をさすった。 今日は、数ヶ月に一度の家族での食事会だった。 あの浮気発覚の夜、そして湊斗からの突然の告白の夜から、数日が経過していた。慎吾への気持ちの整理はつかないまま、関係は宙吊りになっている。湊斗の「全力でおとしにかかる」という熱を帯びた言葉も、答えを出せないまま保留にしていた。 心が二つの極端な感情の間で揺れ動き、疲労困憊している状態での家族との食事会は、紗良にとってひたすらに気が重いだけの行事だった。 先に到着して個室の椅子で待っていた紗良のもとへ、ノックの音もなく不意に扉が開いた。一足先に姿を現したのは、義妹の美波だった。 紗良と視線がぶつかるなり、美波は美しい顔をあからさまに醜く歪めた。「ださっ。ブランド物できなさいよ。ボロボロの鞄によれよれの服で最悪」 開口一番、挨拶の代わりに美波が吐き捨てた毒が、冷え切った個室の空気をさらに凍らせる。 美波の視線は、紗良の足元に置かれた使い古した鞄と、地味な色合いのブラウスをねっとりと舐め回すように見下ろしていた。彼女自身は、流行の最先端をいくハイブランドのワンピースに身を包み、完璧なメイクを施している。その対比は残酷なほど明確だった。「ああでも、お姉ちゃんはそういうの似合わないから。これくらいがちょうどいいかあ」 くすくすと、人を小馬鹿にしたような笑い声が静かな個室に響く。 美波は幼い頃から、紗良が大切にしているもの、気に入っているものを次々と奪ってきた。可愛いぬいぐるみ、お気に入りの洋服、そして、長年付き合ってきた恋人でさえも。少しでも目立つものを持てば、あるいは少しでも幸せそうにしていれば、必ず彼女の標的になり、完膚なきまでに奪い取られる。 だから紗良は、美波の興味を惹かない「ボロボロの鞄」と「よれよれの服」を身に纏うことで、自分を守るしかなかった。美波の視界に入らないように、価値のない人間であるかのよう
last updateDernière mise à jour : 2026-07-04
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第七話「年下エースの不器用な独占欲」

 五月上旬のうららかな陽光が、会社の敷地内に整備された遊歩道を明るく照らしていた。 初夏を思わせる少し強めの風が、青々と茂る街路樹の葉を揺らし、木漏れ日が足元で不規則な模様を描いている。 体育館へ向かう道すがら、紗良はふと立ち止まり、自分の両手を目の高さに掲げてじっと見つめた。 華奢で、決して大きくはない手。手のひらを返すと、そこには薄くタコができている。トレーナーとして、柔道整復師として、数え切れないほど人の身体に触れ、圧をかけ、癒してきた証だった。(あのころは、必死だった) 紗良の脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇ってくる。 慎吾が大学の試合中に膝に致命的な怪我を負い、深く絶望していたあの時期。少しでも彼の力になりたくて、彼の痛みを和らげたくて、紗良は柔道整復師の資格を取ることを決意した。 昼間は大学に通い、夜は眠い目をこすって分厚い参考書に齧りついた。専門用語が羅列されたページを何度もめくり、自分の身体でツボや筋肉の付き方を確認しながら、頭に叩き込んだ。それと並行して、高額な治療費やリハビリ費用を工面するために、身を粉にしてアルバイトに明け暮れた。 疲労で倒れそうになった日も、自分の時間がまったく取れなくて泣きそうになった夜も、すべては彼のためだった。彼の膝が少しでも良くなるなら、彼が再びコートで笑顔を見せてくれるなら、どんな苦労も厭わなかった。 同じ資格、同じ手。 あのころの自分は、自分のすべてを懸けて彼のために走り回っていたのに。 今の自分は――あの夜に見た惨めな彼の姿や、甘ったるい香水の匂いを思い出し、まだ彼との関係を完全に断ち切れないでいる。それなのに、別の男の身体を癒す場所へと足を踏み入れようとしているのだ。 自分の不甲斐なさに、紗良は唇を噛んだ。 手のひらに残る過去の重みと、これから向かう未知の場所への戸惑いが、紗良の胸の奥で静かに渦を巻いていた。それでも、立ち止まっているわけにはいかない。紗良は一つ大きく深呼吸をして、体育館へと歩みを進めた。    ◇◇◇ 重厚な金属製の扉に手をかけ、力を込めて押し開ける。 その瞬間、むっとした熱気とともに、汗と床のワックス、そして微かな湿り気を帯びたスポーツ特有の匂いが鼻を突いた。 ダム、ダム、と床に激しく弾むバスケットボールの重低音。キュッ、キュキュッ、とゴム底のシューズが軋む
last updateDernière mise à jour : 2026-07-05
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第八話「歪む独占欲、崩れる均衡」

 無機質な蛍光灯の白々しい光が、総務課のオフィス全体を均等に照らし出している。 午後四時。フロアにはキーボードを叩く乾いた音と、複合機が紙を吐き出す規則的な機械音だけが、波のように寄せては返していた。微かに肌寒い空調の風が足元を通り抜けていく中、紗良は自席のパソコンモニターと、デスクの上に広げた分厚いファイルとを交互に見比べていた。 そのすぐ隣には、キャスター付きの椅子を引き寄せて座る湊斗がいる。「ここの項目なんですけど、昨年度のフォーマットのままで大丈夫ですか?」「ええ。ただ、備考欄に今年の新しい規定を追記しておいて。ここからここまでの数値を、別のシートにリンクさせる形になるから」 画面を指差しながら、ごく事務的な会話を交わす。 紗良の声も、湊斗の相槌も、周囲の社員に聞かれて何ら不自然のない、完璧な先輩と後輩のやり取り。 しかし、二人の間には、机の境界線をいとも簡単に越えるほどの物理的な近さがあった。書類の数字を追うために湊斗が少し前傾姿勢になるたび、スーツ越しにも分かるがっしりとした肩のラインや、引き締まった長い腕が、紗良の視界の端に否応なく入り込んでくる。 体育館での出来事から、まだ数時間しか経っていなかった。 指先に残る彼の足首の硬い感触。微かに汗ばんでいた肌の熱。「本気なんで」と告げたときの、あの真剣な漆黒の瞳。そして、容赦なく抓った頬の弾力。 それらの生々しい記憶の余韻が、紗良の胸の奥で微かに燻り続けている。仕事に集中しようとすればするほど、隣から伝わってくる彼の体温が気になってしまい、紗良は無意識のうちに少しだけ背筋を強張らせていた。「――紗良、ちょっと」 不意に、頭上から硬く低い声が降ってきた。 ビクッと肩を揺らして振り向くと、デスクの横に慎吾が立っていた。外回りから戻ってきたばかりなのだろう、仕立ての良いネイビーのスーツを隙なく着こなしている。いつもなら、すれ違う女子社員たちが思わず振り返るような、人当たりの良い爽やかな笑みを浮かべている。 だが口元こそ微かに弧を描いているものの、目はまったく笑っていなかった。冷たく険しい光を宿した瞳が、紗良と、その隣に座る湊斗とを交互にねめつけている。 周囲の視線を気にする素振りもなく、慎吾は顎で廊下の方をしゃくった。 胃の奥が、ずんと重く沈む。 紗良は小さく息を吐き、隣の湊斗
last updateDernière mise à jour : 2026-07-06
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