《隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる》全部章節:第 21 章 - 第 30 章

196 章節

第21話:新しい連絡先

「管理会社から、回答来ました」翔太が、手にした封筒を軽く上げる。マンションのエントランス前。夜の冷たい空気の中で。私は足を止めた。「説明会の時の?」「そうです」「思ったより早かったね」「一応、急いでもらったので」自動ドアが開く。翔太が先に中へ入り。私も後へ続いた。エントランスには誰もいない。翔太は封筒から数枚の紙を取り出した。「追加費用の範囲は、前より分かりやすくなってます」「見てもいい?」差し出された紙を受け取る。説明会で曖昧だった宅配ロッカーの交換費用。工事の基本料金。設備の状態によって追加される金額。項目ごとに分けて書かれていた。「本当だ。ちゃんと直ってる」「まだ上限は分からないですけど」翔太が私の横から紙を覗く。肩が近づく。コート越しでも分かる距離に。少しだけ身体が固くなった。けれど。翔太は気づいた様子もなく、該当する行を指した。「この検査が終わるまで、最終金額は出せないみたいです」「じゃあ、追加になるかもしれないのは変わらないんだ」「そうですね。でも、何にいくらかかるかは分かるようになったので」「説明会で翔太が聞かなかったら、そのままだったかもね」「ほかの誰かが聞いたと思いますよ」「誰も気づいてなかったじゃん」「愛子も?」名前を呼ばれ。紙から顔を上げる。翔太は少しだけ口元を緩めていた。今までのような。愛子さん、ではない。「今、さん付けしなかったね」私が言うと。翔太の眉が僅かに上がる。「嫌でした?」「嫌ではないけど」五年前は。最初から愛子と呼ばれていた。再会してからは、ずっと愛子さん。隣人として線を引くための呼び方なのだと思っていた。翔太は少し考えるように私を見る。「愛子でいいよね」「急だね」「最近よく喋るし」翔太は何でもないことのように続ける。「さん付けしてるの、やっぱり変な感じがして」その言い方が自然すぎて。拒む理由が浮かばなかった。「じゃあ、いいよ」「愛子も、最初から翔太って呼んでますしね」「今さら島原さんとは呼べないでしょ」「俺も同じです」翔太が小さく笑う。呼び方が戻っただけ。五年前へ戻ったわけではない。それでも。愛子さんと呼ばれるたびに感じていた薄い壁が。一つだけなくなった気がした。「これ、各部屋にも届くんだよね?
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第22話:大丈夫になってきた

土曜日の昼前。さやかから、突然電話がかかってきた。「生きてる?」開口一番。失礼な確認だった。「生きてるよ」『本当に? 最近、連絡少なくない?』「仕事してた」『それはいつもでしょ』言い返せない。私はスマホを耳に当てたまま、冷蔵庫を開けた。卵。きのこ。半分残った玉ねぎ。昨日買った鶏肉。一人分にしては、以前より中身が増えている。「今から料理するところ」電話の向こうが静かになった。『愛子が?』「何、その反応」『だって、あの愛子が?』「どの愛子よ」『冷蔵庫に水とヨーグルトしか入ってなかった愛子』「それは前の話」エプロンをつける。引っ越してから買ったものだった。シンプルな黒。誰かに見せるためではない。服を汚さないために、自分で選んだ。『何作るの?』「鶏肉ときのこのクリーム煮」『急にちゃんとしてる』「簡単だよ」『簡単でも、作ろうと思うのが進歩なの』さやかの声が少し嬉しそうだった。鍋へ油を入れる。火をつけ。切った玉ねぎを入れると、静かな音が広がった。「一人分って、難しいけどね」『余ったら次の日食べればいいじゃん』「そうしてる」『本当に生活できるようになったんだ』「前からできてたって」『仕事しかできてなかったでしょ』また言い返せなくなる。玉ねぎを混ぜながら。私は少しだけ笑った。***『で』さやかの声が、少しだけ変わった。『拓也は?』手が止まりかける。でも。以前ほど、胸は重くならなかった。「連絡は来てない」『愛子からもしてない?』「してないよ」『会いたいと思う?』すぐには答えなかった。鍋の中で。玉ねぎが少しずつ透き通っていく。拓也と暮らしていた頃。料理はほとんどしなかった。私の帰りが遅い日は、拓也が何かを買っていた。休日も。外で食べることの方が多かった。二人の生活だったのに。私は、そこへいるだけだったのかもしれない。「もう、あんまり思わない」口にすると。自分でも少し驚いた。『あんまり?』「全然って言ったら嘘だけど」鶏肉を鍋へ入れる。表面の色が変わるまで、ゆっくり混ぜる。「たまに思い出すよ」『うん』「三年一緒にいたし。部屋にも物にも、まだ記憶はあるから」でも。思い出すことと。戻りたいことは違う。前は。一人で部屋にいるだけで、拓
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第23話:普通のメッセージ

火曜日だった。朝から会議が続いていた。ようやく終わったと思ったら、別の案件のチャットが飛んでくる。気づけば時計は十六時を回っていた。ランチも食べていない。デスクへ戻る気力もなくて、私は会議室の机に突っ伏した。冷えた天板が頬に当たる。そのまま動かずにいると、不意に目の前へ缶コーヒーが置かれた。顔を上げる。正人だった。「生きてる?」私はもう一度机に突っ伏した。「死んでる」「昼食べた?」「カフェラテ」間髪入れずに返すと、正人が呆れたように笑った。「その回答、もう聞き飽きた」少しだけ笑ってしまう。最近、こういうやり取りが戻ってきた。失恋直後みたいな沈んだ空気じゃない。何を話しても拓也に繋がってしまうような時期は、少し過ぎた。もちろん完全に平気になったわけじゃない。でも、ようやく呼吸がしやすくなった気がする。正人は向かいの椅子へ腰掛けると、私の資料をちらりと見た。「今日も遅くなる?」「たぶん」「またコンビニ?」私は少しだけ胸を張る。「最近ちょっとちゃんとしてる」正人が眉を上げた。疑いの目だった。失礼だ。「料理もしてるし」「本当?」「本当」私は缶コーヒーを受け取りながら言う。「翔太にも言われた」言った瞬間だった。正人の手がほんの少しだけ止まる。資料をめくろうとしていた指先。本当に一瞬だった。気のせいかもしれないと思うくらい短い間。でも、何となく目に残った。「隣の?」「そう」正人は缶コーヒーを開けた。小さな金属音が響く。「へえ」それだけだった。それ以上は聞いてこない。正人らしいと思う。聞こうと思えば聞けるのに。踏み込めるのに。私が面倒くさがると分かっているから、聞かない。その代わり、ちゃんと覚えている。「最近普通に話すんだよね」何気なく続ける。自分でも少し不思議だった。正人が顔を上げる。「元カレなのに?」「元カレだから、かな」言いながら少し考える。恋愛じゃない。もう終わった。ちゃんと。だから期待もしない。期待されることもない。そういう意味では気が楽だった。「何て言うんだろ」私は少し視線を落とす。うまく言葉が見つからない。「気を遣わなくていいんだよね」正人は少しだけ目を細めた。「それ、結構珍しいな」「何が?」「愛子が人のこと気楽って
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第24話:熱

金曜日だった。朝から少しおかしかった。喉の奥がひりつく。身体が重い。頭の芯に薄い膜が張ったみたいに、思考がどこか鈍い。それでも私は会社へ行った。大型案件のピッチ(提案)当日だった。今週ずっと準備してきた案件だ。ここまで来て休むという選択肢はなかった。朝から二杯目のカフェラテを買う。エレベーターの鏡に映った自分の顔は少し白かった。でも見なかったことにした。栄養ドリンクも飲んだ。効いている気がする。いや。効いていてほしい。そんな感じだった。昼前。会議室で資料を見直していると、向かいから呆れた声が飛んできた。「それで生きようとするの、本当にやめな」顔を上げる。正人だった。私はパソコンから目を離さないまま返す。「気合いでいける」「その声で?」言われて初めて、自分の声が思った以上に掠れていることに気づいた。私は咳払いをする。失敗だった。余計に酷く聞こえる。正人が眉を上げる。「ほら」「気のせい」「熱あるだろ」「ない」即答だった。正人はしばらく私を見る。責めるわけでもなく。呆れるわけでもなく。ただ静かに観察するような視線だった。「今日早く帰れ」「無理」「うん」予想通りだったらしい。正人は小さく息を吐いた。「終わったら帰る」「帰って寝なって」「気合いでいける」「それ、病人しか言わないから」私は少し笑った。正人も笑う。張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。最近こういうやり取りが戻ってきていた。失恋直後みたいに、何を話しても気を遣われる感じじゃない。少しずつ普通。その普通がありがたかった。***でも。帰宅した頃には完全に駄目だった。マンションのエントランスを抜けたところで、一度立ち止まる。身体が重い。私はため息を吐いた。今日一日、よく持った方だと思う。玄関で靴を脱ぐ。その瞬間、全身から力が抜けそうになった。壁へ手をつく。熱。寒気。だるさ。全部揃っている。なんとか寝室へ向かう。ブラウスのボタンを外す。それだけで妙に疲れた。ベッドへ腰を下ろす。柔らかいマットレスが気持ちよくて、そのまま倒れ込みたくなる。でも、この格好で寝たら明日の自分が嫌になる。私は小さく唸りながら立ち上がった。グレーのスウェットへ着替える。髪も適当にまとめる。結び損
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第25話:少しだけ、気になる

月曜日だった。久しぶりの出社だった。朝の支度をしながら、私は鏡の前で少し立ち止まった。熱でぼんやりした顔しか見ていなかった数日ぶりに、ちゃんと化粧をした。髪も軽く巻く。最後に鏡の中の自分を見る。まだ少し喉は痛い。でも熱はない。顔色も戻っている。私は小さく息を吐いた。やっと人間。そんな言葉が頭に浮かんで、少しだけ笑ってしまう。風邪は思ったよりしんどかった。一人暮らしの風邪は、地味に堪える。薬を飲んで。ゼリーを食べて。寝て。また薬を飲んで。部屋は静かで。静かすぎて、気づけば時計ばかり見ていた。でも。さやかもいた。正人もいた。思ったより近くにいてくれた。そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。そして。ふと別の声が浮かんだ。何かあったら連絡してください。翔太の声だった。私はバッグを肩へ掛けながら苦笑する。変わらないな、と思う。昔から意外と世話焼きだった。放っておくように見えて、ちゃんと見ている。でも。今はそれだけだ。元彼。隣人。それ以上でも、それ以下でもない。そう考えて、私は部屋を出た。***昼休み。会議室で資料を開いていると、向かいから視線を感じた。顔を上げる。正人だった。「何」私が聞くと、正人は少しだけ目を細めた。「戻ったな」「何が」「愛子が人間に」思わず吹き出した。「失礼」正人も笑う。「熱は?」「下がった」「よし」それだけだった。大丈夫だった?とも。無理してない?とも聞かない。正人は昔からそうだ。確認して。納得して。それで終わる。不思議と、その一言で十分だった。「あのさ」「ん?」「ありがとう」正人が首を傾げる。「何が」「ポカリ」一本指を立てる。「ゼリー」二本目。「薬」三本目。正人が少し肩を竦めた。「病人放置すると仕事増えるから」私は笑う。「最低」「本当だろ」「本当だけど」その返しが正人らしい。重くしない。恩着せがましくしない。でも必要なことはちゃんとやる。だから長く友達でいられるんだろうなと思う。「そういえば」正人が資料を閉じながら言った。「隣の人」私は顔を上げる。「何?」正人は少し考えるような顔をした。「心配してたな」その言い方は、探るというより、ただ思い出したことを置いた
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第26話:少しずつ戻る

火曜日だった。久しぶりに、ちゃんと朝ごはんを食べた。スープの湯気がゆっくり立ち上る。ヨーグルトを開けて、バナナを切る。特別な朝食ではない。でも、ゼリーだけで数日過ごしていた先週を思えば十分だった。私はスプーンを置いて、小さく息を吐く。風邪は地味にしんどかった。熱が高かったわけじゃない。寝込むほどでもなかった。それなのに、何をするにも少しずつ身体が重かった。三十代の風邪ってこんなに長引くんだ。そんなことを考えながらスマホへ視線を落とす。通知はない。開いたままになっていたチャット画面だけが目に入る。翔太。数日前のやり取り。生きてますか。その文字を見て、少しだけ笑ってしまう。昔から心配の仕方が雑だった。大丈夫?より先に、生きてる?と聞くタイプだった。私は画面を閉じる。元彼。隣人。それだけだ。そう思う。でも最近、普通に話せるようになった。それは少しだけ不思議だった。***昼休み。会議室にはコーヒーの匂いが漂っていた。モニターには修正だらけのラフ。赤字。コメント。差し戻し。見慣れた光景だった。「これ、また戻ると思う?」私が聞くと、正人はコーヒーを机へ置いた。「戻る」即答だった。私は思わず笑う。「言い切るじゃん」「クライアントまだ不安そうだった」「やっぱり?」「たぶんもう一回ある」私は椅子へ身体を預ける。正人は昔からこうだ。感覚じゃなくて観察で話す。相手が何を言ったかより、どんな顔をしたかを覚えている。五年前。大型案件で一緒になった。終電。修正。差し戻し。終わらない資料。夜中の二時に、これ本当に出すの?と二人で笑ったこともある。気づけば仕事の話をするようになって。飲みに行くようになって。そこへさやかも混ざって。今では三人で飲みに行くことが当たり前になっていた。仕事仲間というには長い。親友というには少し変だ。でも説明しなくても成立する関係だった。「木曜どうする?」正人が資料を閉じながら言う。「あー」私は予定表を思い出す。ピッチ前だ。「家?」「会社だと追い出される」それは本当だった。最近は会議室が全然取れない。「いいよ」私が頷くと、正人は当然みたいな顔をした。それが少し可笑しい。「飯ちゃんと食えよ」私は思わず笑う。「
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第27話:知らない五年

木曜日の夜だった。ローテーブルの上には、資料が広がっていた。私の部屋なのに、空気だけが完全に仕事場になっている。正人は床に座り、ノートパソコンを開いたまま眉を寄せていた。私もソファにもたれたまま、天井へ視線を逃がした。こういう夜は、昔から何度もあった。大型案件の前。提案前日。終わらない修正。終わらない確認。五年前、一緒に大きな案件を担当してから。正人はただの仕事相手ではなくなった。友達。戦友。その言葉が一番近い。ペン先で資料の余白を叩いた。その時、スマホが震えた。仕事用のメッセージアプリだった。外資系のクライアントは、メールよりチャットの方が早い。時間帯なんてあまり関係ない。夜でも普通に連絡が来る。私は反射的に画面を見た。宮沢さん。クライアント側のマーケティング部長。仕事の確認かと思って、少しだけ背筋が伸びる。けれど、開いた瞬間に手が止まった。【今日も遅くまでお疲れさまです。体調はもう大丈夫ですか?】そこまでは普通だった。その次の一文で、私は瞬きをする。【もしよければ、落ち着いたタイミングで一度ご飯でもどうですか。快気祝いということで】「……あ」思わず声が漏れた。正人が顔を上げる。「何」「宮沢さんから」「修正?」「違う」私は画面を見たまま、少しだけ笑ってしまった。仕事だと思って急いで開いたのに。違った。「ご飯誘われた」正人の手が、ほんの少しだけ止まる。でもすぐに視線を画面へ戻した。「行くの?」探るような言い方ではなかった。ただ確認しただけ。そう聞こえた。「まあ」私はスマホを伏せる。「断る理由もないし」正人は小さく頷いた。「いい人だもんな」「うん」宮沢さんは良い人だ。落ち着いていて、距離感も上手い。仕事もしやすい。普通に考えれば、こういう人と食事に行くのは自然なことだと思う。でも、その自然さがどこか他人事みたいでもあった。私は返信画面を開きかけて、少しだけ指を止める。「何て返そう」「普通に行けば」「雑」「断る気ないんだろ」「まあ」「じゃあ普通でいい」正人らしい答えだった。私は短く返信を打つ。ありがとうございます。ぜひ。送信してから、スマホをテーブルへ置いた。画面が暗くなる。その黒い画面に、散らかった資料と、私の少し疲れた顔が映っ
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第28話:普通になる

金曜日だった。大型案件の提案当日。会社の会議室は、朝からずっと落ち着かなかった。モニターには最終版の資料。今日は、出すだけだ。それなのに、出す直前が一番落ち着かない。私は参加者リストを見ながら、ペン先で名前をなぞった。「先方、今日誰が入るんだっけ」正人はノートパソコンの画面を見たまま答える。「宮沢さん、ブランド担当、営業責任者。あと途中から部長が入る」「途中から?」「十五分遅れ」「一番嫌な入り方」「だから冒頭で全部説明しきらない方がいい」私は進行表へペンを走らせる。「部長入ってから、もう一回戦略の前提だけ戻す?」「戻す。ただし長くしない」正人は淡々と言う。こういう時の正人は本当に頼りになる。焦らない。浮かれない。最悪のパターンから逆算する。五年前、大型案件で一緒になった時もそうだった。先方の重役が急に入ったり、資料の順番を変えさせられたり、夜中にコピーが全部ひっくり返ったり。メディアプランを預かる部署にいる正人は、いつも全体の進行やリスクを見ている。一方で私は、企画や表現を考え、提案の場ではその意図を言葉にする。担当は違う。でも、不思議と噛み合う。だから今も、隣にいると呼吸が整う。「あと」正人が私の手元を見る。「水飲め」「またそれ」「声戻ってない」即答だった。私は渋々ペットボトルを取る。正人はそれを見届けてから、再び画面へ視線を戻した。過保護だなと思う。でも、不思議と鬱陶しくはなかった。***提案は、予定より少し長引いた。途中から入ってきた部長は、案の定、最初の戦略前提から聞き直した。でも想定内だった。終わった時には、身体の中から一気に力が抜けた。会議室を出る頃には、夕方の光がビルの窓に反射していた。「終わった」私が呟くと、正人が隣で息を吐く。「まだ返事待ち」「余韻くらい味わわせて」「一分だけ」「短い」でも笑えた。久しぶりに、ちゃんと仕事をやり切った感覚があった。それでも、悪くない疲れだった。***夜。さやかと電話した。『声、ちょっと戻ったね』「みんなそれ言う」『そりゃ言うよ。前ひどかったもん』私はソファにもたれながら笑った。窓際には観葉植物がある。最近、少し葉が上を向いてきた。翔太に言われた通り、たまに霧吹きをしている。ちゃんと効いてい
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第29話:少しずつ戻る夜

金曜日。提案が終わった。終わった、というより、一旦出した。修正はきっと来る。先方の返答次第では、また来週から同じように資料と向き合うことになる。それでも今日だけは、少し息ができた。会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。窓の外はもう暗い。ビルの明かりがガラスに反射して、夜なのに妙に眩しい。私は肩を回しながら、小さく息を吐いた。「飲む?」後ろから正人が聞いた。振り返ると、正人はノートパソコンを片手に、いつもの調子でこちらを見ていた。疲れているはずなのに、顔にはあまり出ていない。こういうところも昔から変わらない。「行く」即答すると、正人が少し笑う。「さやか呼ぶ?」「呼ぶ」その流れは、あまりにも自然だった。仕事が終わったあと。正人がいて。さやかを呼んで。三人で飲む。いつからそうなったのか、もう思い出せないくらいには、当たり前になっていた。***会社近くの店は、金曜の夜らしく賑わっていた。少し暗めの照明。カウンターの奥に並ぶ瓶。仕事帰りの人たちの声。グラスが触れ合う音。その全部が、ようやく一週間が終わったことを教えてくれる。「お疲れー!」先に来ていたさやかが、奥の席から手を上げた。大学時代からの友達。遠慮がない。でも、その遠慮のなさに何度も救われてきた。「顔戻ったね」席に着くなり、さやかが言う。「またそれ」「だって戻ったもん」さやかは私の顔を遠慮なく見る。「先週は本当にひどかった」「みんな正直すぎる」「友達だからね」その言い方に、少し笑ってしまう。正人がビールを置きながら、私の前に小皿も寄せた。「先に何か食え」「飲む前から?」「病み上がり」「まだ言う」「しばらく言う」私はため息をつく。でも、箸は取った。言い返す気力より、空腹の方が勝った。さやかがそのやり取りを見て、ほんの少しだけ眉を上げる。「へえ」正人が嫌そうな顔をした。「何」「別に」「絶対別にじゃないだろ」「別にー」さやかは笑ってごまかした。私は二人を見比べる。「何なの」「愛子はご飯食べて」「雑」正人が焼き魚の皿を少し私の方へ押す。その動作があまりにも自然で、私は何も考えずに箸を伸ばした。さやかはそれを見て、グラスに口をつける。その目だけが少し笑っていた。二杯目に入る頃、
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第30話:恋愛リハビリ

「あの、クライアントの人は?宮沢さん、だっけ」さやかが聞いた。私は少し息を吐く。「あー」「ご飯行くんでしょ」「行く」「嫌?」「嫌じゃない」これは本当だった。嫌ではない。宮沢さんは良い人だ。穏やかで、気遣いができて、仕事もできる。一緒にいて疲れなさそうな人だと思う。「でも?」さやかが促す。私はグラスの水滴を指でなぞる。「いい人だな、って感じ」「それは大事じゃん」「うん」「でも、今すぐ好きになる感じではない?」私は少し笑った。「そこまで行ってない」「まあ、そんなもんでしょ」さやかは軽く言う。でも、その声は優しかった。「恋愛リハビリくらいでいいんじゃない」「リハビリ」「だって、いきなり全力疾走しなくていいじゃん」その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。拓也と別れて。ちゃんと痛んで。ようやく少しずつ日常に戻ってきた。その途中で、誰かとご飯に行ってみる。それくらいなら、許してもいいのかもしれない。自分に。「そうだね」私は小さく頷いた。「それくらいなら」さやかは何も言わずに笑った。その笑顔が、少しだけ温かかった。***二十三時を少し過ぎた頃、店を出た。夜の空気は思ったより冷たかった。提案が終わった疲れと、少しだけ飲んだお酒のせいで、身体がふわっと軽い。正人はタクシーを拾う前に、私を見る。「帰れる?」「帰れる」「本当に?」「本当に」「明日、変な時間まで寝るなよ」「それは無理」「じゃあ寝ろ」私は笑った。「命令が雑」「雑じゃない。正論」さやかが隣でそのやり取りを見ていた。少しだけ目を細めている。「正人、ほんとお母さんみたい」正人が眉をひそめる。「やめろ」「でも合ってる」「合ってない」私は笑う。タクシーが停まる。正人は乗り込む前に、もう一度こちらを見た。ほんの少しだけ。何か言いかけたような顔だった。でも、言わなかった。「じゃあな」「お疲れ」タクシーのドアが閉まる。車が走り出す。さやかはそれを見送りながら、小さく笑った。「大人だねえ」「誰が?」「正人」「どこが?」「今はいい」「何それ」さやかは答えず、私の肩を軽く叩いた。「帰って寝な」「さやかまで」「病み上がり」「もう禁止、その単語」そう言いながらも、笑って別れた。***マ
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