隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

41 チャプター

第21話:生活は続く

正人と別れた帰り道。夜風は思ったより涼しかった。駅からマンションまでの道を歩きながら、私は小さく息を吐く。拓也の話をした。ちゃんと。逃げずに。思っていたより苦しくなかった。もちろん平気になったわけじゃない。思い出せばまだ胸は痛む。でも。少なくとも数週間前のように呼吸が止まりそうになることはなかった。正人の言葉を思い出す。三年は長い。ちゃんと失恋したってことだろ。あの言葉は妙にしっくりきていた。失敗したわけじゃない。間違っていたわけでもない。ただ終わった。そして私はちゃんと傷ついた。それだけだ。マンションへ入る。エントランスは静かだった。平日の夜はいつもこんなものだ。エレベーターのボタンを押す。しばらくして扉が開いた。その中にいた人を見て、私は思わず瞬きをした。翔太だった。「あ」ほぼ同時だった。翔太もこちらを見る。「こんばんは」「こんばんは」自然に言葉が出る。前より少しだけ。本当に少しだけ。自然に。エレベーターへ乗る。扉が閉まる。以前ほど緊張しないことに、自分で少し驚いた。正人と話したからだろうか。それとも時間が経ったからだろうか。分からない。ただ。前より呼吸が楽だった。「遅かったね」翔太が言う。「そっちも」私が返す。翔太は少しだけ笑った。「確かに」その横顔を見ながら思う。五年前もこんな風に笑っていた気がする。変わった部分もある。でも。変わらない部分もある。そのことに最近よく気づく。「説明会どうだった?」私が聞くと。翔太は少しだけ首を傾けた。「思ったより長かったです」その言い方が少し可笑しくて、私は笑った。「出なくて正解だったかも」「かもしれないですね」翔太も少し笑う。静かな箱の中。以前ほど居心地の悪さはなかった。話すことがあるわけじゃない。でも無理に沈黙を埋めようともしない。そんな距離だった。「積立金の件は?」私は思い出したように聞く。「ああ」翔太が頷く。「結局その場では分からなくて」少し肩を竦めた。「後日回答になりました」「そうなんだ」「返信来たら連絡しようと思ったんですけど」そこまで言って。翔太がふとこちらを見る。「愛子、番号変えたよね?」私は思わず瞬きをした。番号って、スマホの番号のことか。その
last update最終更新日 : 2026-07-02
続きを読む

第22話:隣人の距離

土曜日の午後。私はさやかとカフェにいた。窓際の席には、午後の光が斜めに差し込んでいる。私はストローをくるりと回しながら、ぼんやりと通りを眺めていた。「顔戻ったね」不意にさやかが言った。私は思わず笑う。「最近それ正人にも言われた気がする」「だって本当に戻ったもん」さやかは迷いなく言う。「前はひどかった」「そこまで?」「そこまで」即答だった。私は苦笑する。たぶん否定はできない。拓也と別れて。引っ越して。翔太が隣に住んでいて。しばらく、正直あまり余裕がなかった。朝起きて、仕事へ行って、帰ってきて、眠る。生活はしていた。でも、自分の気持ちを置いていかないようにするだけで精一杯だった。「最近は?」「気持ちの整理、少しはついた?」私は少し考える。窓の外を眺めながら、拓也のことを思い出す。観葉植物。「ちゃんと持ち主に返そうと思って」と言った声。思い出せば、まだ胸は少し痛む。でも、前とは違った。痛みがなくなったわけじゃない。ただ、息が止まるほどではなくなった。「あの時よりは」そう答えると、さやかは小さく頷いた。「そっか」それ以上は聞いてこなかった。さやかはいつも、私が自分で言葉にするまで待ってくれる。「植物どうなったの?」さやかが思い出したように聞いた。私は少し笑う。「生きてる」「よかった」「今のところはね」「枯らさないでよ」さやかが笑う。私もつられて笑った。笑ってから、ふと思い出す。「そういえば」「うん?」「昔も植物置いてたな」「誰が?」「翔太」名前を口にした瞬間。不意に昔の部屋を思い出した。翔太の部屋。窓際に置かれた白い棚。その上に、小さな鉢植えがいくつか並んでいた。名前は覚えていない。でも、休日の昼間にカーテン越しの光を受けていた緑だけは、妙に記憶に残っている。「へえ」さやかはそれ以上何も言わなかった。でも少しだけ口元が緩んでいる。私は見なかったことにした。***夕方。スーパーで買い物をしてから帰った。今日は、ちゃんと食べようと思った。そう思えるだけでも、少しは戻ってきているのかもしれない。エントランスへ入ると、宅配ボックスの前に人影が見えた。翔太だった。黒いシャツに、ラフなパンツ。片手には段ボール箱。休日らしい格好なのに、だらし
last update最終更新日 : 2026-07-02
続きを読む

第23話:普通のメッセージ

火曜日だった。朝から会議が続いていた。ようやく終わったと思ったら、別の案件のチャットが飛んでくる。気づけば時計は十六時を回っていた。ランチも食べていない。デスクへ戻る気力もなくて、私は会議室の机に突っ伏した。冷えた天板が頬に当たる。そのまま動かずにいると、不意に目の前へ缶コーヒーが置かれた。顔を上げる。正人だった。「生きてる?」私はもう一度机に突っ伏した。「死んでる」「昼食べた?」「カフェラテ」間髪入れずに返すと、正人が呆れたように笑った。「その回答、もう聞き飽きた」少しだけ笑ってしまう。最近、こういうやり取りが戻ってきた。失恋直後みたいな沈んだ空気じゃない。何を話しても拓也に繋がってしまうような時期は、少し過ぎた。もちろん完全に平気になったわけじゃない。でも、ようやく呼吸がしやすくなった気がする。正人は向かいの椅子へ腰掛けると、私の資料をちらりと見た。「今日も遅くなる?」「たぶん」「またコンビニ?」私は少しだけ胸を張る。「最近ちょっとちゃんとしてる」正人が眉を上げた。疑いの目だった。失礼だ。「料理もしてるし」「本当?」「本当」私は缶コーヒーを受け取りながら言う。「翔太にも言われた」言った瞬間だった。正人の手がほんの少しだけ止まる。資料をめくろうとしていた指先。本当に一瞬だった。気のせいかもしれないと思うくらい短い間。でも、何となく目に残った。「隣の?」「そう」正人は缶コーヒーを開けた。小さな金属音が響く。「へえ」それだけだった。それ以上は聞いてこない。正人らしいと思う。聞こうと思えば聞けるのに。踏み込めるのに。私が面倒くさがると分かっているから、聞かない。その代わり、ちゃんと覚えている。「最近普通に話すんだよね」何気なく続ける。自分でも少し不思議だった。正人が顔を上げる。「元カレなのに?」「元カレだから、かな」言いながら少し考える。恋愛じゃない。もう終わった。ちゃんと。だから期待もしない。期待されることもない。そういう意味では気が楽だった。「何て言うんだろ」私は少し視線を落とす。うまく言葉が見つからない。「気を遣わなくていいんだよね」正人は少しだけ目を細めた。「それ、結構珍しいな」「何が?」「愛子が人のこと気楽って
last update最終更新日 : 2026-07-02
続きを読む

第24話:熱

金曜日だった。朝から少しおかしかった。喉の奥がひりつく。身体が重い。頭の芯に薄い膜が張ったみたいに、思考がどこか鈍い。それでも私は会社へ行った。大型案件のピッチ(提案)当日だった。今週ずっと準備してきた案件だ。ここまで来て休むという選択肢はなかった。朝から二杯目のカフェラテを買う。エレベーターの鏡に映った自分の顔は少し白かった。でも見なかったことにした。栄養ドリンクも飲んだ。効いている気がする。いや。効いていてほしい。そんな感じだった。昼前。会議室で資料を見直していると、向かいから呆れた声が飛んできた。「それで生きようとするの、本当にやめな」顔を上げる。正人だった。私はパソコンから目を離さないまま返す。「気合いでいける」「その声で?」言われて初めて、自分の声が思った以上に掠れていることに気づいた。私は咳払いをする。失敗だった。余計に酷く聞こえる。正人が眉を上げる。「ほら」「気のせい」「熱あるだろ」「ない」即答だった。正人はしばらく私を見る。責めるわけでもなく。呆れるわけでもなく。ただ静かに観察するような視線だった。「今日早く帰れ」「無理」「うん」予想通りだったらしい。正人は小さく息を吐いた。「終わったら帰る」「帰って寝なって」「気合いでいける」「それ、病人しか言わないから」私は少し笑った。正人も笑う。張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。最近こういうやり取りが戻ってきていた。失恋直後みたいに、何を話しても気を遣われる感じじゃない。少しずつ普通。その普通がありがたかった。***でも。帰宅した頃には完全に駄目だった。マンションのエントランスを抜けたところで、一度立ち止まる。身体が重い。私はため息を吐いた。今日一日、よく持った方だと思う。玄関で靴を脱ぐ。その瞬間、全身から力が抜けそうになった。壁へ手をつく。熱。寒気。だるさ。全部揃っている。なんとか寝室へ向かう。ブラウスのボタンを外す。それだけで妙に疲れた。ベッドへ腰を下ろす。柔らかいマットレスが気持ちよくて、そのまま倒れ込みたくなる。でも、この格好で寝たら明日の自分が嫌になる。私は小さく唸りながら立ち上がった。グレーのスウェットへ着替える。髪も適当にまとめる。結び損
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第25話:少しだけ、気になる

月曜日だった。久しぶりの出社だった。朝の支度をしながら、私は鏡の前で少し立ち止まった。熱でぼんやりした顔しか見ていなかった数日ぶりに、ちゃんと化粧をした。髪も軽く巻く。最後に鏡の中の自分を見る。まだ少し喉は痛い。でも熱はない。顔色も戻っている。私は小さく息を吐いた。やっと人間。そんな言葉が頭に浮かんで、少しだけ笑ってしまう。風邪は思ったよりしんどかった。一人暮らしの風邪は、地味に堪える。薬を飲んで。ゼリーを食べて。寝て。また薬を飲んで。部屋は静かで。静かすぎて、気づけば時計ばかり見ていた。でも。さやかもいた。正人もいた。思ったより近くにいてくれた。そのことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。そして。ふと別の声が浮かんだ。何かあったら連絡してください。翔太の声だった。私はバッグを肩へ掛けながら苦笑する。変わらないな、と思う。昔から意外と世話焼きだった。放っておくように見えて、ちゃんと見ている。でも。今はそれだけだ。元彼。隣人。それ以上でも、それ以下でもない。そう考えて、私は部屋を出た。***昼休み。会議室で資料を開いていると、向かいから視線を感じた。顔を上げる。正人だった。「何」私が聞くと、正人は少しだけ目を細めた。「戻ったな」「何が」「愛子が人間に」思わず吹き出した。「失礼」正人も笑う。「熱は?」「下がった」「よし」それだけだった。大丈夫だった?とも。無理してない?とも聞かない。正人は昔からそうだ。確認して。納得して。それで終わる。不思議と、その一言で十分だった。「あのさ」「ん?」「ありがとう」正人が首を傾げる。「何が」「ポカリ」一本指を立てる。「ゼリー」二本目。「薬」三本目。正人が少し肩を竦めた。「病人放置すると仕事増えるから」私は笑う。「最低」「本当だろ」「本当だけど」その返しが正人らしい。重くしない。恩着せがましくしない。でも必要なことはちゃんとやる。だから長く友達でいられるんだろうなと思う。「そういえば」正人が資料を閉じながら言った。「隣の人」私は顔を上げる。「何?」正人は少し考えるような顔をした。「心配してたな」その言い方は、探るというより、ただ思い出したことを置いた
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第26話:少しずつ戻る

火曜日だった。久しぶりに、ちゃんと朝ごはんを食べた。スープの湯気がゆっくり立ち上る。ヨーグルトを開けて、バナナを切る。特別な朝食ではない。でも、ゼリーだけで数日過ごしていた先週を思えば十分だった。私はスプーンを置いて、小さく息を吐く。風邪は地味にしんどかった。熱が高かったわけじゃない。寝込むほどでもなかった。それなのに、何をするにも少しずつ身体が重かった。三十代の風邪ってこんなに長引くんだ。そんなことを考えながらスマホへ視線を落とす。通知はない。開いたままになっていたチャット画面だけが目に入る。翔太。数日前のやり取り。生きてますか。その文字を見て、少しだけ笑ってしまう。昔から心配の仕方が雑だった。大丈夫?より先に、生きてる?と聞くタイプだった。私は画面を閉じる。元彼。隣人。それだけだ。そう思う。でも最近、普通に話せるようになった。それは少しだけ不思議だった。***昼休み。会議室にはコーヒーの匂いが漂っていた。モニターには修正だらけのラフ。赤字。コメント。差し戻し。見慣れた光景だった。「これ、また戻ると思う?」私が聞くと、正人はコーヒーを机へ置いた。「戻る」即答だった。私は思わず笑う。「言い切るじゃん」「クライアントまだ不安そうだった」「やっぱり?」「たぶんもう一回ある」私は椅子へ身体を預ける。正人は昔からこうだ。感覚じゃなくて観察で話す。相手が何を言ったかより、どんな顔をしたかを覚えている。五年前。大型案件で一緒になった。終電。修正。差し戻し。終わらない資料。夜中の二時に、これ本当に出すの?と二人で笑ったこともある。気づけば仕事の話をするようになって。飲みに行くようになって。そこへさやかも混ざって。今では三人で飲みに行くことが当たり前になっていた。仕事仲間というには長い。親友というには少し変だ。でも説明しなくても成立する関係だった。「木曜どうする?」正人が資料を閉じながら言う。「あー」私は予定表を思い出す。ピッチ前だ。「家?」「会社だと追い出される」それは本当だった。最近は会議室が全然取れない。「いいよ」私が頷くと、正人は当然みたいな顔をした。それが少し可笑しい。「飯ちゃんと食えよ」私は思わず笑う。「
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第27話:知らない五年

木曜日の夜だった。ローテーブルの上には、資料が広がっていた。私の部屋なのに、空気だけが完全に仕事場になっている。正人は床に座り、ノートパソコンを開いたまま眉を寄せていた。私もソファにもたれたまま、天井へ視線を逃がした。こういう夜は、昔から何度もあった。大型案件の前。提案前日。終わらない修正。終わらない確認。五年前、一緒に大きな案件を担当してから。正人はただの仕事相手ではなくなった。友達。戦友。その言葉が一番近い。ペン先で資料の余白を叩いた。その時、スマホが震えた。仕事用のメッセージアプリだった。外資系のクライアントは、メールよりチャットの方が早い。時間帯なんてあまり関係ない。夜でも普通に連絡が来る。私は反射的に画面を見た。宮沢さん。クライアント側のマーケティング部長。仕事の確認かと思って、少しだけ背筋が伸びる。けれど、開いた瞬間に手が止まった。【今日も遅くまでお疲れさまです。体調はもう大丈夫ですか?】そこまでは普通だった。その次の一文で、私は瞬きをする。【もしよければ、落ち着いたタイミングで一度ご飯でもどうですか。快気祝いということで】「……あ」思わず声が漏れた。正人が顔を上げる。「何」「宮沢さんから」「修正?」「違う」私は画面を見たまま、少しだけ笑ってしまった。仕事だと思って急いで開いたのに。違った。「ご飯誘われた」正人の手が、ほんの少しだけ止まる。でもすぐに視線を画面へ戻した。「行くの?」探るような言い方ではなかった。ただ確認しただけ。そう聞こえた。「まあ」私はスマホを伏せる。「断る理由もないし」正人は小さく頷いた。「いい人だもんな」「うん」宮沢さんは良い人だ。落ち着いていて、距離感も上手い。仕事もしやすい。普通に考えれば、こういう人と食事に行くのは自然なことだと思う。でも、その自然さがどこか他人事みたいでもあった。私は返信画面を開きかけて、少しだけ指を止める。「何て返そう」「普通に行けば」「雑」「断る気ないんだろ」「まあ」「じゃあ普通でいい」正人らしい答えだった。私は短く返信を打つ。ありがとうございます。ぜひ。送信してから、スマホをテーブルへ置いた。画面が暗くなる。その黒い画面に、散らかった資料と、私の少し疲れた顔が映っ
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第28話:普通になる

金曜日だった。大型案件の提案当日。会社の会議室は、朝からずっと落ち着かなかった。モニターには最終版の資料。今日は、出すだけだ。それなのに、出す直前が一番落ち着かない。私は参加者リストを見ながら、ペン先で名前をなぞった。「先方、今日誰が入るんだっけ」正人はノートパソコンの画面を見たまま答える。「宮沢さん、ブランド担当、営業責任者。あと途中から部長が入る」「途中から?」「十五分遅れ」「一番嫌な入り方」「だから冒頭で全部説明しきらない方がいい」私は進行表へペンを走らせる。「部長入ってから、もう一回戦略の前提だけ戻す?」「戻す。ただし長くしない」正人は淡々と言う。こういう時の正人は本当に頼りになる。焦らない。浮かれない。最悪のパターンから逆算する。五年前、大型案件で一緒になった時もそうだった。先方の重役が急に入ったり、資料の順番を変えさせられたり、夜中にコピーが全部ひっくり返ったり。メディアプランを預かる部署にいる正人は、いつも全体の進行やリスクを見ている。一方で私は、企画や表現を考え、提案の場ではその意図を言葉にする。担当は違う。でも、不思議と噛み合う。だから今も、隣にいると呼吸が整う。「あと」正人が私の手元を見る。「水飲め」「またそれ」「声戻ってない」即答だった。私は渋々ペットボトルを取る。正人はそれを見届けてから、再び画面へ視線を戻した。過保護だなと思う。でも、不思議と鬱陶しくはなかった。***提案は、予定より少し長引いた。途中から入ってきた部長は、案の定、最初の戦略前提から聞き直した。でも想定内だった。終わった時には、身体の中から一気に力が抜けた。会議室を出る頃には、夕方の光がビルの窓に反射していた。「終わった」私が呟くと、正人が隣で息を吐く。「まだ返事待ち」「余韻くらい味わわせて」「一分だけ」「短い」でも笑えた。久しぶりに、ちゃんと仕事をやり切った感覚があった。それでも、悪くない疲れだった。***夜。さやかと電話した。『声、ちょっと戻ったね』「みんなそれ言う」『そりゃ言うよ。前ひどかったもん』私はソファにもたれながら笑った。窓際には観葉植物がある。最近、少し葉が上を向いてきた。翔太に言われた通り、たまに霧吹きをしている。ちゃんと効いてい
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第29話:少しずつ戻る夜

金曜日。提案が終わった。終わった、というより、一旦出した。修正はきっと来る。先方の返答次第では、また来週から同じように資料と向き合うことになる。それでも今日だけは、少し息ができた。会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。窓の外はもう暗い。ビルの明かりがガラスに反射して、夜なのに妙に眩しい。私は肩を回しながら、小さく息を吐いた。「飲む?」後ろから正人が聞いた。振り返ると、正人はノートパソコンを片手に、いつもの調子でこちらを見ていた。疲れているはずなのに、顔にはあまり出ていない。こういうところも昔から変わらない。「行く」即答すると、正人が少し笑う。「さやか呼ぶ?」「呼ぶ」その流れは、あまりにも自然だった。仕事が終わったあと。正人がいて。さやかを呼んで。三人で飲む。いつからそうなったのか、もう思い出せないくらいには、当たり前になっていた。***会社近くの店は、金曜の夜らしく賑わっていた。少し暗めの照明。カウンターの奥に並ぶ瓶。仕事帰りの人たちの声。グラスが触れ合う音。その全部が、ようやく一週間が終わったことを教えてくれる。「お疲れー!」先に来ていたさやかが、奥の席から手を上げた。大学時代からの友達。遠慮がない。でも、その遠慮のなさに何度も救われてきた。「顔戻ったね」席に着くなり、さやかが言う。「またそれ」「だって戻ったもん」さやかは私の顔を遠慮なく見る。「先週は本当にひどかった」「みんな正直すぎる」「友達だからね」その言い方に、少し笑ってしまう。正人がビールを置きながら、私の前に小皿も寄せた。「先に何か食え」「飲む前から?」「病み上がり」「まだ言う」「しばらく言う」私はため息をつく。でも、箸は取った。言い返す気力より、空腹の方が勝った。さやかがそのやり取りを見て、ほんの少しだけ眉を上げる。「へえ」正人が嫌そうな顔をした。「何」「別に」「絶対別にじゃないだろ」「別にー」さやかは笑ってごまかした。私は二人を見比べる。「何なの」「愛子はご飯食べて」「雑」正人が焼き魚の皿を少し私の方へ押す。その動作があまりにも自然で、私は何も考えずに箸を伸ばした。さやかはそれを見て、グラスに口をつける。その目だけが少し笑っていた。二杯目に入る頃、
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む

第30話:恋愛リハビリ

「あの、クライアントの人は?宮沢さん、だっけ」さやかが聞いた。私は少し息を吐く。「あー」「ご飯行くんでしょ」「行く」「嫌?」「嫌じゃない」これは本当だった。嫌ではない。宮沢さんは良い人だ。穏やかで、気遣いができて、仕事もできる。一緒にいて疲れなさそうな人だと思う。「でも?」さやかが促す。私はグラスの水滴を指でなぞる。「いい人だな、って感じ」「それは大事じゃん」「うん」「でも、今すぐ好きになる感じではない?」私は少し笑った。「そこまで行ってない」「まあ、そんなもんでしょ」さやかは軽く言う。でも、その声は優しかった。「恋愛リハビリくらいでいいんじゃない」「リハビリ」「だって、いきなり全力疾走しなくていいじゃん」その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。拓也と別れて。ちゃんと痛んで。ようやく少しずつ日常に戻ってきた。その途中で、誰かとご飯に行ってみる。それくらいなら、許してもいいのかもしれない。自分に。「そうだね」私は小さく頷いた。「それくらいなら」さやかは何も言わずに笑った。その笑顔が、少しだけ温かかった。***二十三時を少し過ぎた頃、店を出た。夜の空気は思ったより冷たかった。提案が終わった疲れと、少しだけ飲んだお酒のせいで、身体がふわっと軽い。正人はタクシーを拾う前に、私を見る。「帰れる?」「帰れる」「本当に?」「本当に」「明日、変な時間まで寝るなよ」「それは無理」「じゃあ寝ろ」私は笑った。「命令が雑」「雑じゃない。正論」さやかが隣でそのやり取りを見ていた。少しだけ目を細めている。「正人、ほんとお母さんみたい」正人が眉をひそめる。「やめろ」「でも合ってる」「合ってない」私は笑う。タクシーが停まる。正人は乗り込む前に、もう一度こちらを見た。ほんの少しだけ。何か言いかけたような顔だった。でも、言わなかった。「じゃあな」「お疲れ」タクシーのドアが閉まる。車が走り出す。さやかはそれを見送りながら、小さく笑った。「大人だねえ」「誰が?」「正人」「どこが?」「今はいい」「何それ」さやかは答えず、私の肩を軽く叩いた。「帰って寝な」「さやかまで」「病み上がり」「もう禁止、その単語」そう言いながらも、笑って別れた。***マ
last update最終更新日 : 2026-07-03
続きを読む
前へ
12345
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status