All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 191 - Chapter 200

254 Chapters

第190話:相性の良さってあるし

映画は、思った以上に面白かった。エンドロールが流れても、しばらく席を立てなかった。余韻がある。怖いというより、考えさせられる怖さ。主人公が最後に選んだこと。途中で出てきた意味深な部屋。誰が本当に見えていたのか。頭の中で、いくつもの場面がつながっていく。ロビーに出てから、私は珍しくパンフレットを買った。久しぶりの映画。久しぶりに、映画の余韻をちゃんと持ち帰りたいと思った。ページをめくる。その時、後ろから影が落ちた。少しだけ近い。翔太が自然に覗き込む。「え、俺こいつ死ぬと思ったのに」指差したキャラクター。私は思わず笑う。「私も同じこと思った」「でしょ?」自然に盛り上がる。考察。伏線。演出。話が止まらない。「あの鏡のシーン、絶対二回目見ると違うよね」「分かる。あれ、あの時点で入れ替わってるっぽい」「でも音だけ先に変わってなかった?」「変わってた。だからたぶん、あの部屋に入る前からおかしい」「だよね」翔太の目が、少し楽しそうに細くなる。こういう時の翔太は、話を合わせているというより、ちゃんと同じ場所で面白がっている。それが伝わる。だから会話が軽い。無理がない。一緒に同じものを見て、同じところで引っかかっている感じ。楓が呆れた顔をした。「なに?」私が聞くと、楓はポップコーンの空箱を持ったまま肩をすくめた。「二人ともなんか似てるね」少し間。「考え方」私は止まる。楓が続ける。「愛子の感性に合うこと、光栄に思いな?」謎のシスコン目線。翔太が少し笑った。「うん、まあ」少しだけ間を置く。それから、私を見る。「貴重だよね。相性の良さってあるし」からかっている。少しだけ。でも、目線がちゃんとこっちを見ている。冗談にして逃がしているのに、言葉の中身は軽くない。私は思わず視線を逸らした。なんで。そんな言い方をするんだろう。少しだけ、照れる。楓がまた空気を読まない。「なんかアートバー前に食べたくない?」「楓さっきポップコーン食べてたよね」「別腹」翔太が少し考える。「美味しいおにぎり屋あるけど行く?」「え、知ってんの?」「近いんで」「最高」楓が即答した。私は翔太を見る。「詳しいね」「この辺、映画のあとによく歩くので」「一人で?」聞いてから、少しだけしま
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第191話:あれ、愛子好きそう

アートバーへ着いた頃には、夕方に近かった。ビルの二階。ガラス扉の向こうに、キャンバスと絵具が並んでいる。説明を受ける。絵具。筆。エプロン。小さめのキャンバス。少しだけ懐かしい匂いがした。油絵ではない。もっと気軽なアクリル絵具。それでも、筆を手に取った瞬間、指先が少しだけ緊張した。楓が急に言う。「テーマ決めようよ」無茶振り。私は少し考える。さっきの映画を思い出す。暗い廊下。鏡。水音。見えているものが本当か分からない感じ。「じゃあ……」少しだけ笑う。「あのワンシーン」楓が頷く。「いいね」翔太もキャンバスを見ながら言う。「鏡のやつ?」「うん」「あれ、愛子好きそう」また。当然みたいに言う。私は筆を持ったまま、少しだけ睨む。「なんでも分かった顔しないで」「してない」「してる」「じゃあ、ちょっとだけ」悪びれない。その顔がまた、腹立つほど綺麗だった。久しぶりだな。本当に。筆を持つの。ぼんやり構図を考えていると、翔太がさりげなく聞いた。「どれくらいぶり?」「……しばらくかな」少し笑う。「描けない時の方が長かったし」諦めてから。ずっと。翔太は何も言わなかった。ただ、私の手元を見ている。楽しそうに。でも、茶化さずに。その視線が気になる。何かを評価する目ではない。昔の私を知っている目でもない。今、筆を持ち直そうとしている私を見ている目。その静けさに、少しだけ胸が詰まる。「いや、一番下手だった人の奢りだから」私は誤魔化すように言った。「集中して」翔太が少し笑う。割と本気で。「それ、勝ち目なくない?」その笑顔に、一瞬止まった。あ。久しぶりに見た。こういう顔。少し無邪気で。少し悪い。ちゃんと、好きだった頃の翔太。不意打ちみたいな、ときめきだった。五年前のカフェ。ホラー映画の帰り道。夜のコンビニ。少し生意気に笑う翔太。その記憶が、今の大人になった顔に一瞬だけ重なる。私は慌てて視線をキャンバスへ戻した。「勝ち目ないかは描いてから言って」「はいはい」翔太は笑ったまま、筆を取る。その仕草が、どこか楽しそうで。少しだけ、少年っぽかった。楓が隣で言う。「俺、普通にセンスあるから」「言う人ほど怪しい」「愛子、見てろよ」「見てない」「
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第192話:知らない顔

白いキャンバスに向き合う。久しぶりすぎて、一瞬だけ手が止まった。何から描いてたっけ。どう始めてたっけ。昔はもっと迷わなかった気がする。映画の余韻がまだ身体に残っている。テーマはもう決まっていた。さっき観たホラー映画の中で印象的だった、あの鏡のシーン。暗い廊下。水音。見えているものが本当かどうか分からない、不穏な空気。でも、少しずつ色を選び始めると、不思議と身体が覚えていた。輪郭。空気。感情。気づけば、ただ映画のワンシーンを描くつもりだったのに、頭の中で勝手に意味を足してしまう。暗い青。少し濁った白。細い黒。鏡の中の影。色の置き方も、構図も、少し抽象的になる。結局、自分の絵ってこうなるんだよな。そう思いながら、筆を動かしていた。「久しぶり?」不意に、隣から声が落ちる。翔太だった。グラスを片手に持っている。でも、ちゃんとこちらを見ていた。私は少し考えた。「……かなり」筆を止める。「描けない時間の方が、もう長いかも」諦めてから。本当に、しばらく描いていなかった。好きだったものを、自分から離した感覚。正人に見せた倉庫のことが、少しだけ頭をよぎる。あの白い蛍光灯。積まれたキャンバス。正人の腕。胸の奥が、ほんの少しだけ静かに揺れた。翔太は何も急がない。ただ、少しだけ目を細める。「でも楽しそう」その言い方が、妙に自然だった。観察しているみたいな。昔から、翔太はこうだった。好きなことをしている時の顔を、よく見ていた。自分でも気づいていない変化を、先に見つける。そういう目。「……見すぎ」誤魔化すように言うと、翔太が少し笑った。「バレた?」その笑い方に、少しだけ落ち着かなくなる。ワインが少し進んでいた。店の空気のせいか。久しぶりに描く感覚のせいか。思っていたより気持ちが緩んでいる。一時間くらい経って、それぞれの絵がなんとなく形になり始めた。私は少し離れて、自分の絵を見る。映画のワンシーン。のはずなのに。気づけば感情の比重が強すぎて、抽象画みたいになっている。なんか、上手くない。そう思って少し眉を寄せていると、楓が覗き込んできた。「終わった?」そのまま、自分の絵も見せてくる。雑だった。驚くほど雑。線が勢い任せで、途中から絶対面倒くさくなっている。「パ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第193話:また描いてよ

翔太の目元が、ほんの少しだけ緩む。「じゃあ今度」その顔が、やけに優しかった。押してこない。でも、ちゃんと嬉しそう。その表情に、また胸が落ち着かなくなる。なんで、普通に答えたんだろう。どうして、翔太と次の予定が増えることに、こんなに抵抗がないんだろう。分からない。でも、嫌じゃない。それが一番困る。「愛子、小さい頃も宇宙好きだったよ」楓が急に口を挟んだ。「え?」「覚えてないの? プラネタリウム行って、帰りに星の図鑑買ってもらってたじゃん」「……そんなことあったっけ」「ある。俺、その図鑑ずっと読まされた」楓は自分の雑な絵を眺めながら言う。「愛子、あの頃から急にハマるとしつこい」「楓に言われたくない」「俺は合理的に深掘りするタイプ」「どの口が言ってるの」翔太が少し笑った。「楓くん、理系?」「エンジニア」楓が軽く言った。翔太が少しだけ目を上げる。「へえ」「大学もアメリカ。コンピューターサイエンス」翔太が一瞬だけ、楓を見る目を変えた。ただの明るくて距離感のおかしい弟を見る目ではなくなる。ちゃんと、相手の中身へ焦点が合う。「そうなんだ」「意外でしょ」楓がにっと笑う。「見た目がこれだから、だいたい遊んでそうって言われる」「まあ、第一印象は強い」翔太が正直に返す。楓が笑った。「でも数字とか構造とか好きなんだよね。アートはダメだった」楓は自分のキャンバスを指差す。「これ見れば分かるでしょ」「本当にダメだね」私が言うと、楓は楽しそうに笑う。「愛子とパパが描ける人だったから、そこはまあまあコンプレックスだった」少しだけ、声の温度が変わった。軽いままなのに、ほんの少しだけ本音が混ざる。私は楓を見る。楓は目を合わせない。代わりにワインを少し飲んだ。「でも、数字は好きだったから」それから、翔太を見る。「コードとか、アルゴリズムとか。ちゃんと答えが出るのが好き」翔太が頷いた。「分かる」「でしょ」「自分は今、数字が仕事になってる感じですね」「金融?」「まあ、そう」翔太は筆を置いた。「市場も数字だけど、数字だけじゃないじゃないですか。感情も混ざるし、人が過剰反応するし」楓の目が少し明るくなる。「それ面白い」「面白いですよ。綺麗なモデル通りにいかないところが」「分かる。コード
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第194話:次、何観る?

楓は、見事に飲みすぎていた。「……いや、早くない?」帰りのタクシーに乗って十五分もしないうちに、すでに肩から力が抜けている。後部座席に深く沈み込みながら、半分眠りかけている顔。さっきまで、アートバーで「俺の絵、タイトルで勝つ」と言い張っていた人とは思えない。「楽しすぎた……」そう言った数分後には、完全に寝ていた。頭が少し横へ傾いて、口元がゆるんでいる。私は呆れた声を出した。「子どもか」翔太が隣で少し笑う。「時差もあるんじゃない?」「時差って便利な言い訳だね」「まあ、楓くんの場合は本当にありそう」窓の外を、東京の夜景が流れていく。映画館の灯り。信号待ちの赤。閉まりかけた店の明かり。ワインの熱が、まだ少し身体に残っている。今日一日。思っていたより、ずっと楽しかった。映画。アートバー。久しぶりに絵を描く時間。楓と翔太が、思った以上に自然に仲良くなっていたこと。それが少し可笑しかった。そして、少しだけ困った。翔太は楓の扱いがうまい。近づきすぎる楓を、嫌がらずに受け止める。でも、全部は受け入れない。軽く笑って、流すところは流す。人懐っこいようで、ちゃんと距離を保っている。そのくせ、私には時々、その距離をすっと詰めてくる。映画館で肩にかけられたパーカー。怖いシーンで視界を隠した手。アートバーで、私の筆が止まった時に落ちてきた言葉。――愛子、考えすぎると手が止まるから。あれがまだ、耳の奥に残っていた。私は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。「久しぶりだったな」翔太がこちらを見る気配がする。「映画?」「うん」少し間があく。「ちゃんと観たの」翔太は隣で頷いた。「俺も最近あんま行ってなかった」低い声。少しだけ酔いの抜けた、落ち着いた声だった。タクシーの中は暗い。街灯が時々、翔太の横顔を薄く照らす。キャップはもう外していて、少し乱れた髪が額に落ちている。ラフな格好なのに、夜になるとまた少し雰囲気が変わる。昼間より静かで。少し影がある。その横顔に、つい目がいきそうになって、私はすぐに視線を戻した。「でもなんか、また観たくなるね」そう言うと、翔太はすぐに返した。「なる」短い。でも、迷いがない。少し間。それから、当たり前みたいな顔で言う。「次、何観る?」私は少し止まっ
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第195話:気づかないふり

少し間。それから、意味を含ませるでもなく。でも、なんとなく分かっている人の顔で。「昨日、なんか違ったのって、これ?」胸が少しだけ詰まる。正人。ペンギン。青い水槽。お好み焼き屋。倉庫。正人の腕の熱。全部、一瞬だけ頭をよぎる。でも、咄嗟に言葉を閉じた。「……関係ないじゃん」少し早口になった。誤魔化すみたいに。翔太は少しだけ笑う。でも、目は逸らさなかった。責めるわけではない。問い詰めるわけでもない。ただ、私が閉じた扉の前に、静かに立っているみたいな目だった。「まあ」翔太は楓をソファへ寝かせながら、低く言う。「関係あるかどうかは、確かに愛子が決めることだね」その言い方に、少しだけ胸がざわつく。分かっている。でも、言わない。気づいている。でも、押さない。それなのに、逃がしきらない。そういう距離。私は楓に薄手のブランケットをかけた。翔太も手を貸してくれる。楓の靴を脱がせる時、翔太の指が少しだけ止まった。「楓くん、ちゃんと寝たら多分いいやつですね」「起きてても悪いやつではないよ」「知ってる」翔太は小さく笑う。「愛子に似てるし」「似てない」「似てる」「どこが」「人の懐に入るのが早いところ」私は顔をしかめた。「私は楓ほどじゃない」「方向性は違うけど」翔太はそう言って、少しだけ私を見る。「愛子も、気を許すと急に近いですよ」心臓が、少しだけ嫌な動きをした。「……そう?」「うん」翔太の声は静かだった。「だから、勘違いする人もいると思う」勘違い。その言葉が、妙に引っかかった。翔太はすぐに目を逸らし、楓のスーツケースを壁際へ寄せた。言いすぎた、と思ったのかもしれない。あるいは、そこまで言うつもりはなかったのかもしれない。「まあ、俺も人のこと言えないけど」小さく笑う。それは冗談みたいだった。でも、冗談だけではなかった。私は返事に迷う。何か聞いたら、何かが出てきそうな気がした。翔太の中から。自分の中からも。だから、気づかないふりをした。「今日はありがとう」柔らかく。でも、踏み込ませないように。翔太は、少しだけ止まった。何か言いかけたように見えた。喉元がわずかに動く。視線が、私の顔から少し下がって、また戻る。言葉を探している。でも、結局、それ以上は聞
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第196話:長い一日

火曜日。思ったより、ずっと長い一日になった。新商品のローンチ。修正。媒体確認。入稿前チェック。いつも以上に細かい調整が多くて、気づけば夕方の時点で二人とも完全に作業モードに入っていた。本当なら。七時くらいには終わらせて、ご飯へ行くはずだった。でも、現実はそんなに綺麗に進まない。商談が終わってからも、結局近くのカフェでそれぞれパソコンを開き、作業を続けていた。隣の席との距離が近い、チェーンのカフェ。小さな丸テーブル。二人分のノートパソコン。飲み切れないまま冷めたコーヒー。お互い、ほとんど言葉を交わさない。でも、気まずくはなかった。「ここ、明日朝イチで先方確認だよね」「うん。今夜入れると事故る」「じゃあ、その前提でメモ残す」「お願い」そんな短い会話だけで、作業が進む。仕事の呼吸が合う。そのことに、今さら少しだけ安心する。正人とは、恋愛でどうなっていくのかまだ分からない。でも、仕事の場ではやっぱり信頼できる。必要な時に、必要な温度で言葉が返ってくる。その安定感が、今日はありがたかった。気づけば、外はもう暗い。窓の向こうには、仕事終わりの人たちが駅へ流れていく。時計を見る。八時を回っていた。私は画面を見ながら、深く息を吐いた。「……これ、一旦入稿前に確認しないとダメだと思う」正人も画面を見たまま頷いた。「うん。明日朝イチで確認入れてからの方がいい」少し沈黙。ようやく。二人とも手が止まった。長かった。本当に。私は椅子の背にもたれ、少しだけ天井を見た。「これ」思わず笑う。「同業とか、仕事忙しい人じゃなかったら今日予定飛んでたね」正人が顔を上げる。少しだけ申し訳なさそうな顔だった。「……まだあり?」「え?」「本当は七時くらいにはちゃんと締めて行きたかったんだけど」声が少し低い。自分の段取りが崩れたことを気にしている顔。私は首を振った。「いや、約束してたから」それだけだった。でも、正人の表情が少しだけ緩む。「なら、そうだな」パソコンを閉じながら、正人は少し考えた。「今からかー」少し間。「本当はこの辺だし、焼肉連れてきたかったんだけど」それから、自然に言葉が続く。「ちょっと胃重くない?」さらっと。「あんまり遅いと愛子、すぐ体調崩すし。ちょっと心配」少し止
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第197話:お隣の彼のこと

料理が来る。白い湯気の立つフォー。透ける生春巻き。甘酸っぱいタレ。香草の青い匂い。温かくて、優しい匂いだった。正人が自然に小皿へ取り分ける。「多分多いから」フォーも少しよそってくれる。当たり前みたいに。私は笑ってしまった。「なんか餌付けされてる気分になるね」「ここまでされると?」「うん」正人が普通に返す。「別に普通でしょ」少し考えてから、笑う。「あ、でも確かに。妹には過保護って言われたことある」なんとなく想像できる。仕事でも、後輩の面倒見は良い。ただ甘やかすのではなく、困る前に道を作る。迷っているなら、選択肢を減らしてくれる。兄なんだろうな。ちゃんと。「いいお兄ちゃんそう」正人が少し首を傾げる。「普通だと思う」少し笑う。「妹気強いから。子どもの頃から喧嘩にならないように立ち回ってただけ」「それがもう、いいお兄ちゃんなんじゃない?」「どうだろう。こっちは生存戦略だったけど」その言い方に、思わず笑ってしまった。なんでもない会話。なのに、こういう時間が少し心地いい。安心する。ちゃんとご飯が美味しい。忙しかった疲れが、少しずつ抜けていく。フォーの湯気で、目元の強張りまでほどけていく感じがした。その時。正人が何気ない顔で聞いた。「映画、楽しかった?」少し止まる。ちゃんと、二人の話題になる。ぎこちなくもなく。探る感じもなく。ただ、自然に確認してくる。気を遣っているのも、なんとなく分かった。土曜日の映画。翔太。楓。パーカー。視界を塞いだ手。アートバー。プラネタリウムの約束。一瞬で、いくつもの断片が頭の中をよぎる。でも私は、できるだけ自然に頷いた。「楽しかったよ」少し笑う。「ホラー映画好きだし」正人が頷く。「媒体で試写会案内くることあるんだよね」少し間。「今度から誘う」自然だった。当たり前みたいに。未来の話。その言い方に、また少し胸が動く。今度から。正人の中にも、私と行く予定が自然に増えている。映画。ご飯。出張かもしれないタイ。まだ形になっていない、これからの予定。そこに私がいることを、正人は静かに前提にしてくれる。そのことが嬉しい。なのに、同時に怖い。昨日の夜を思い出す。翔太の低い声。――次、何観る?そして。――心配くら
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第198話:平気なふりは、そんなに上手くない

正人は言葉を選ぶように、一度視線を落とす。でも、すぐに戻した。「俺は、愛子に答えを急がせたいわけじゃない」「うん」「でも、待つって言ったからって、何も聞かないのが誠実なのかは、ちょっと分からなくなった」その声は穏やかだった。責める温度ではない。でも、ちゃんと痛みがある。「土曜、映画に行ったんだよね」私は頷く。「楓も一緒にだよ」「うん」「それは分かってる」正人はすぐに言った。分かろうとしている人の声だった。「楓くんがいたから大丈夫、とか。そういう話をしたいわけじゃない」心臓が少しだけ速くなる。正人は、ちゃんと見ている。そこじゃないことを。自分でも、分かっている。「俺が聞きたいのは」正人の声が、少しだけ低くなる。「愛子にとって、お隣の彼は今、どういう存在?」息が止まった。店の音が、一瞬遠くなる。どういう存在。隣人。元彼。昔好きだった人。今、自然に予定が増えていく人。私の変化に気づく人。怖いシーンで視界を塞いでくれる人。絵を見て、感情強め、と言う人。プラネタリウムに、今度行く? と自然に誘ってくる人。言葉が、出ない。正人は、黙って待っていた。急かさない。でも、逃がさない。その目の優しさが、今は少し苦しい。私は湯呑みを両手で包んだ。熱が、手のひらに移る。「……まだ」声が小さくなる。「ちゃんと言葉にできない」正人の表情が、ほんの少しだけ動いた。痛み。でも、それをすぐに隠す。「うん」私は続けた。「隣人で、元彼ではあるけど」少し息を吸う。「楽しい人で、友だちに近い感じで」自分で言って、胸が痛む。「色々自分のことを分かってくれるところも、ある人なんだけど」正人は黙って聞いている。「でも」私は正人を見る。「それをどうしたいのかは、考えたことない」言葉にした瞬間、喉が少し詰まった。ずるい答えだ。曖昧で。逃げ道があって。でも、今の私には、それ以上嘘のない言葉がなかった。正人はしばらく何も言わなかった。それから、静かに頷いた。「分かった」その一言が、あまりにも穏やかで、胸が痛くなる。「ごめん」思わず言った。正人は首を振る。「謝らせたくて聞いたんじゃない」「でも」「うん」正人は少しだけ笑う。でも、その笑いは柔らかいのに、少し寂しかった。「でも
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第199話:試しに付き合ってみない?

フォーは、少し冷めていた。それでも、湯気の残ったスープを口に含むと、香草の匂いが鼻に抜けた。優しい味だった。今の胸には、少し優しすぎるくらい。正人は何事もなかったように箸を動かしている。でも、完全に戻ったわけではないことは分かる。視線の置き方。水を飲む時の指先。ふとした瞬間に、言葉を飲み込むように唇が閉じる。さっき、正人は聞いた。私にとって、お隣の彼は今、どういう存在なのか。私は、ちゃんと答えられなかった。隣人で、元彼で。楽しい人で。分かってくれるところもある人。それをどうしたいのかは、まだ分からない。そう言うのが精一杯だった。正人は怒らなかった。責めなかった。ただ、受け止めた。それが余計に、胸に残っている。しばらく無言で食べたあと、私は湯呑みに手を添えた。もう熱くはない。でも、両手で包んでいると、少しだけ落ち着いた。「……聞きたいことって言うから」ぽつりと出た。正人が顔を上げる。「うん」私は少しだけ苦笑いした。「ちょっと焦ったよ」思ったより、正直な声だった。「この関係、終わるのかなって」言ってから、自分で驚いた。そんなふうに思っていたんだ。終わるのが怖い。この曖昧で、苦しくて、申し訳なくて、それでも少しずつ大事になっている関係が。正人の表情が、ほんの少し動いた。目元が柔らかくなる。でも、すぐには笑わない。私が今、何を言ったのかを、ちゃんと受け取っている顔だった。「それは」正人は少しだけ息を吐いた。「……ちょっと嬉しい」「嬉しいの?」「うん」正人は苦笑した。「終わるのが怖いって思ってくれたなら」少しだけ目を伏せる。「俺だけじゃないんだなって思うから」胸が、静かに痛くなる。私は何も言えなかった。正人は湯呑みの縁に指をかけたまま、少しだけ視線を落とした。何かを選んでいる。言うか。言わないか。今か。もう少し後か。その迷いが、顔に出ていた。正人は、仕事ではもっと迷わない。必要な判断をして、必要な言葉を選ぶ。でも今は違う。私にぶつける言葉を、ひとつひとつ手で触って確かめているみたいだった。「でも」正人が静かに言った。「本当にお願いしたいことは、まだ言ってなくて」心臓が、また少し強く鳴った。「……お願い?」声が小さくなる。正人は頷いた。表情
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