All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話:一人目のマッチ

木曜日。早速使ってみると、面白いほど順調にマッチングが出来た。話がサクサク進んで、早速一人目と会う約束をして。今日、初めて会ってみることに。マッチングアプリの出会いの速度は早くて、まだ少しだけ慣れない。この速度が、ユーザーにとっては魅力的なんだろう。そう思うと同時に、出会いを目的とした人とこれから会うという事実に。まだ少しだけ、ぎこちなさが残ると同時に。新しい人に会い始めるという、その新鮮さに。胸の奥が、不安と緊張と期待で少し高鳴っているのを感じた。仕事終わりの、落ち着いたカフェラウンジ。窓際の席。相手は、業界が近い人だった。広告主側。三十代前半。話し方が穏やかで、距離感が上手い。「音楽系案件、僕も前にやってました」「あ、分かります。アーティスト側との調整、大変ですよね」会話は普通に楽しかった。仕事の話。音楽。ライブ。最近のアプリ。話題は自然に続く。居心地も悪くない。ちゃんとしている。大人だ。私の飲み物が減ると、「何か頼みます?」と自然に聞いてくれる。帰りも、「駅まで送ります」と言う。嫌じゃない。むしろ、ちゃんと良い人だった。本当に。駅前。改札の近くで、その人が少し笑った。「今日、楽しかったです」まっすぐ目を見る。「もしよかったら、今度は普通にご飯行きません?」自然だった。下心を押しつける感じはない。でも、好意はちゃんとある。「連絡先交換しません?」私の指が、少し止まった。久しぶりだった。こういう空気。仕事相手ではなく、女性として見られる感じ。悪くない。怖くもない。ただ、胸の奥は思ったより静かだった。「あ、はい」チャットアプリは交換した。笑って別れる。感じよく。ちゃんと。大人として。でも、電車に乗って、窓に映る自分を見ながら少し考えた。悪くなかった。むしろ、かなり良かった。良い人。ちゃんとしていた。会話も合う。優しい。安心感もある。でも。——次、すごく会いたいかと言われると。少し違う。スマホが震えた。さっきの人からだった。『今日はありがとうございました。またご飯行けたら嬉しいです』画面を見る。嫌じゃない。でも、すぐ返したい感じでもない。少し考えてから、『こちらこそありがとうございました!』だけ返す。その短さに、
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第52話:知っている側の距離

「無理」火曜日、二十一時。私は会議室の机に、ほとんど倒れ込むようにして額をつけた。「終わらない」隣で正人がPCを見たまま言う。「まだ始まったばっか」「それが怖い」顔を上げる気力もなく、ホワイトボードを横目で見る。会場導線。DJ構成。プレイリスト企画。参加者体験。事前マッチング導線。PR設計。SNS投稿導線。イベント後のアプリ再訪設計。白いボードは、もうほとんど余白がなかった。やることが多い。多すぎる。しかもローンチまで一ヶ月。代理店案件としては、普通に死亡確定だった。「今日帰れる?」机に突っ伏したまま聞くと、正人が時計を見る。「二十三時コース」「終わった」「まだ始まったばっか」「二回言った」正人が少し笑った。「人って本当にきつい時、同じこと言うから」「最低」そう言いながら、私も少しだけ笑ってしまった。疲れている。かなり疲れている。でも、不思議と前みたいな空っぽさはなかった。最近、また仕事が楽しい。正確には、楽しいというより、ちゃんと頭が動いている感じがする。誰かの感情を考えて。場の空気を設計して。人が自然に動く導線を作る。プロフィールを作る時の迷い。音楽を選ぶ時の少し照れた感じ。初対面の人に話しかける前の緊張。共通の曲が見つかった時の、ふっと距離が縮まる瞬間。そういう小さな感情の動きを想像して、形にしていく。やっぱり私は、こういう仕事が好きなのだと思う。その代わり、生活は少し崩れている。ジムには二回行けていない。ピラティスも一回飛ばした。最近、家はほとんど寝る場所だ。でも、それでも。しんどいのに、生きている感じがした。「愛子」正人が横から言う。「何」「その顔で企画考えると、だいたい良いやつ出るよいつも」私は顔だけ上げた。「褒めてる?」「褒めてる」「にしては顔が真顔」「疲れてるから」「それはそう」正人は少しだけ笑って、私の前にコンビニで買ったらしい小さなチョコを置いた。「糖分」「いつ買ったの」「さっき」「過保護」「放置すると倒れるから」私は小さく笑って、チョコを一つ取った。正人はもう画面に視線を戻している。その横顔はいつも通りだった。でも最近、こういう小さな差し入れが増えた気がする。水。おにぎり。チョコ。缶コーヒー。私
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第53話:深夜のコンビニ

二十三時半。マンションに着く頃には、さすがに身体が重かった。コンビニ袋を片手に、私は部屋の鍵を開ける。正人は後ろでPCと資料を持っている。「入って」「お邪魔します」「今さら?」「一応」正人は靴を揃えて、部屋に入った。私はテーブルの上にコンビニ袋を置く。サラダ。スープ。おにぎり。チョコ。全部、正人が選んだ。「健康管理されてる」「今さら気づいた?」「正人、ずっと言ってるけど。本当に親みたいだよ」「それは嫌だって言ってるんだけど」「じゃあ何?」「友達だし」正人はさらっと言う。「あと、同僚として。倒れられると困る」「理由が仕事寄り」「仕事もある」「他は?」「普通に心配」あまりにも自然に言われて、私は少しだけ笑った。こういうところが正人だった。近い。でも、ちゃんと逃げ場がある。重くしない。でも、ちゃんと見ている。安心できる距離。私はその距離を、何の疑いもなく受け取っていた。そのまま、資料を広げる。イベント参加者がアプリを開くタイミング。音楽を選ぶ瞬間。誰かとマッチした後、最初に何を話せばいいか。初対面でも会話が止まらない導線。プレイリストカードの使い方。二人で話しながら、ペンを走らせる。「ここ、最初から恋愛に寄せすぎない方がいい」私が言うと、正人が頷く。「音楽で話す方がハードル低い」「そう。恋愛しに来ました、って構えると重いから」「友達でも恋愛でも、まず会話が始まる方がいい」「うん」私はスープを飲みながら、資料へ書き込む。温かいものが胃に落ちて、少しだけ生き返る。「だから食べろって言っただろ」正人が言う。「はいはい」「はいは一回」「はい」そう返すと、正人が少しだけ笑った。作業は続いた。疲れているはずなのに、頭は動いている。正人も同じだった。いつも通り、必要なところで的確に突っ込んでくる。話が逸れたら戻してくれる。私が感覚で言ったことを、構造に直してくれる。こういう時、正人は本当に頼りになる。同僚で。友達で。同じ修羅場を何度も越えてきた、戦友。その言葉が、しっくりくる。「正人がいてよかった」何気なく言うと、正人のペン先が少し止まった。「何、急に」「いや、普通に。私一人だったら今ごろ死んでたと思う」「まだ死んでない」「死ぬ手前」「じゃ
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第54話:平らな心

水曜日、二十二時。「これ、入口の動線が弱い」私はPC画面を見ながら、眉を寄せた。会議室には、もう私と正人しか残っていない。窓の外は暗くて、ビルの明かりだけがぽつぽつ浮いている。ホワイトボードには、イベント当日の流れがぎっしり書かれていた。受付。プレイリスト診断。マッチングカード。DJスペース。会話エリア。アプリ登録導線。SNS投稿企画。一応、形にはなっている。参加者が会場に来て、音楽診断をして、自分の好きな曲や気分に合うプレイリストを作る。その結果をもとに、近い価値観の人と話せる仕掛けもある。でも、弱い。イベントとしては成立している。でも、人が最初に動く理由がまだ薄い。「好きな曲を選んでください、だけだと浅いんだよね」私は画面をスクロールしながら呟いた。「それだけだと、へえ、いい曲ですね、で終わる」隣で正人がPCを覗き込む。最近、こういう距離が増えた。会議。深夜作業。資料修正。コンビニ飯。仕事だから。それだけ。そういう顔をして、正人は隣にいる。「“何が好きか”じゃなくて、“なんで好きか”まで行かないと会話続かないな」「だよね」私は頷く。「たとえば、失恋した時に聴く曲とか、朝の通勤で絶対聴く曲とか、誰にも言ってないけど好きな曲とか」「その方が人柄出る」「そう。音楽って、曲名よりも聴いてる場面の方が、その人が出るんだよ」言いながら、少しだけ頭が冴えてくる。こういう瞬間は嫌いじゃない。ただのイベントを、ちゃんと人の感情が動く場所にしていく作業。人が話したくなる入口を作る。誰かのことを少し知りたくなる空気を作る。それができなければ、いくら会場をおしゃれにしても意味がない。「やっぱ、会わないと分かんないんだよな」ぽつりと言う。正人の指が、キーボードの上で止まった。私は気づかず、資料を見たまま続ける。「アプリの中で人がどう選ぶのかとか、何を見て安心するのかとか、会ってみないと分からない」「今日だっけ」正人が言った。「うん。二人目」私は画面から目を離さずに答える。「頑張って」少し遅れて、正人が付け足した。「市場理解頑張ってるね」その言い方が妙に仕事っぽくて、私は笑った。「言い方」「婚活じゃないんでしょ」「違う」即答だった。本当に、そこは違う。今はまだ、恋愛を
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第55話:二人目の感想

日曜日。さやかとカフェに入った。「二人目、どうだった?」さやかが聞く。私はストローを指で回しながら、少し考える。「面白い人だった」「お」「良い人だった」「おお」「でも、平ら」さやかが笑いそうになって止まる。「平ら?」「うん。心が」私は真面目だった。「嫌じゃないの。好意も持ってくれてるんだろうなって分かるし、ありがたいとも思う」少しだけ言葉を探す。「でも、次会いたいって自分から思うほどじゃない」さやかは少しだけ目を細めた。「まあ、まだ二人目だしね」「そうなのかな」「というか、会えてる時点でかなり前進じゃん」その言葉に、私は少し黙った。確かに。少し前の自分なら、会うことすらできなかった。誰かに好意を向けられることが、重かった。期待されるのも、期待するのも、全部疲れていた。今は、会える。好意も受け取れる。でも、まだ動かない。それでも、止まったままよりはいい。そう思えた。「前よりは、怖くない」ぽつりと言う。さやかは少し笑った。「それ、大事」「でも、動かない」「動く時は勝手に動くよ」「また雑な恋愛論」「でも本当」私は少し笑った。窓の外では、春物の服を着た人たちが通りを歩いている。季節はちゃんと進んでいる。私もたぶん、少しずつ進んでいる。ただ、その先に何があるのかは、まだ分からなかった。***日曜の夜。二十三時過ぎ。マンションのエレベーター前で、久しぶりに翔太と会った。「あ」私が先に声を出す。翔太は少し疲れた顔をしていた。ネクタイが緩んでいて、手にはコンビニ袋。最近、見かけていなかったからか、その姿が少しだけ久しぶりに感じる。「生きてた?」そう聞くと、翔太はほんの少し止まってから、小さく笑った。「そっちこそ」半分タメ語。半分、まだ距離のある声。その混ざり方が、最近の翔太らしい。「最近見なかったですね」「死んでた」私は肩を落とす。「イベント案件」「忙しそう」「一ヶ月でローンチ」翔太の眉が少し動いた。「それは大変そう」「でしょ」エレベーターが来る。二人で乗り込む。少し前は、こういう時間がしょっちゅうあった。ジム帰りに会って、どうでもいい話をして、少し笑って、それぞれの部屋に戻る。でも最近は、仕事に追われてその時間が減っていた。会っていな
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第56話:考えないようにしていること

木曜日、二十三時前。私の部屋のローテーブルには、PCと資料と、コンビニで買った軽い夜食が広がっていた。音楽マッチングアプリのローンチイベント。一ヶ月で企画して、集客して、会場を作って、当日の体験まで成立させる。改めて考えても、正気じゃない。「入口、もうちょっと分かりやすくしたい」私はPC画面を見ながら、眉を寄せた。正人は床に座り、別の資料を開いている。「入口?」「うん。参加者が会場に入ってすぐ、“何すればいいか”が分かる感じ」イベントの全体像は、だいぶ見えてきていた。受付でアプリ登録。好きな音楽や気分を選ぶ簡単な診断。結果に合わせたプレイリストカード。そのカードをきっかけに、近い感性の人と話せるエリア。DJスペース。会話エリア。アプリ内でのマッチング導線。それぞれのパーツはある。でも、初めて来た人が、恥ずかしがらずに一歩目を踏み出せる空気がまだ足りない。「好きな曲を選んでください、だけだと浅いんだよね」私は画面をスクロールしながら言った。「それだけだと、へえ、いい曲ですね、で終わる」正人が頷く。「“何が好きか”じゃなくて、“なんで好きか”まで行かないと会話続かないな」「そう。音楽って、曲名よりも聴いてる場面の方がその人出るじゃん」私は資料にメモを足す。たとえば。朝の通勤で聴く曲。落ち込んだ時に戻ってくる曲。誰かにすすめたいけど、少し恥ずかしい曲。昔の恋を思い出す曲。そういう方が、人柄が出る。「最初にそれをカード化したい」「質問を軽くする?」「うん。重すぎないけど、ちゃんとその人が出るやつ」「コピーは?」「そこは私がそれっぽく作る」「雑」「雑じゃない。まず方向性」私は少し笑いながら、仮の文言を打ち込んだ。〈あなたの今の気分に近い一曲は?〉〈誰かにすすめたい、でも少しだけ秘密にしたい曲は?〉〈この曲を好きな理由を、ひとことで〉正人が画面を覗き込む。「三つ目、いいけど少し硬い」「あとで直す」「出た」「今は導線が先」「クリエイティブ営業っぽい」「ちゃんと褒めて」「褒めてる」私は小さく笑った。疲れている。かなり疲れている。でも、頭は動いていた。こういう仕事は、やっぱり嫌いじゃない。人がどう感じるか。どこで止まるか。どこなら少しだけ心を開けるか。それを考えて
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第57話:深夜の作業と挨拶

正人も自然に会釈する。「こんばんは」「こんばんは」二人は普通だった。大人同士の、ただの挨拶。それ以上でも、それ以下でもない。ただ、深夜の自分の部屋の前で、正人と翔太が同じ空間にいる光景は、少しだけ不思議だった。正人は私の方へ軽く振り返る。「じゃ、行ってくる」「お願いします」正人がエレベーターの方へ歩き出す。翔太は通路を空けるように、少しだけ壁側へ寄った。すれ違いざま、二人はもう一度だけ軽く会釈した。本当に、それだけ。自然で、丁寧で、何の引っかかりもないやり取り。正人がエレベーターに乗るまで見送ってから、私はふと翔太の方を向いた。「翔太も最近遅いね」「仕事です」「生きてる?」「そっちこそ」半分タメ語で返ってきて、少し笑ってしまった。久しぶりに聞くその感じが、妙に自然だった。「私は死んでる」「見れば分かります」「そんなに?」「だいぶ」翔太の視線が、一度だけ私の顔を見る。目元。髪。たぶん、疲れ方を見ているのだと思った。でも、その見方が少しだけ長かった気がして、私は首を傾げる。「何?」翔太はすぐに視線を外した。「いや」それから、いつもの軽さで言う。「ちゃんと寝た方がいいと思って」「みんな保護者になる」「必要だからじゃないですか」「否定できない」少し笑う。久しぶりに会ったはずなのに、話し始めるとすぐにいつもの調子に戻った。そのことに、私は少しだけ安心した。最近、仕事に追われて、ジムにも行けず、エレベーター前で話すことも減っていた。でも、こうして会えば普通に話せる。それが何だか、日常の一部が戻ってきたみたいだった。「そういえば」私はふと思ったまま聞いた。「翔太って仕事、何してるの?」言ってから、自分でも少しだけ不思議だった。探りたいわけじゃない。踏み込みたいわけでもない。ただ、今さら普通に聞けるくらいには、翔太が日常に馴染んでいた。五年前は、ちゃんと聞かなかったこと。再会したばかりの頃は、重くなりそうで聞けなかったこと。それが今は、廊下で立ち話をするついでに口から出てくる。そのくらいの軽さだった。翔太は少しだけ目を上げた。「急ですね」「いや、最近いつも遅いなと思って」「外資の、金融系で働いてます」「へえ」「ざっくり言うと、数字見て、資料作って、詰められてま
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第58話:顔は、タイプ

木曜日、二十一時半。「で?」さやかがストローをくるくる回した。「四人目」私は少しだけ笑った。仕事終わり。駅近くのカフェで、軽くご飯。最近、こういう時間がまた増えてきた。イベント案件は、順調に地獄だった。ローンチまでの時間はないし、決めることは多いし、毎日どこかしらで火がついている。それでも、少し前みたいに全部が嫌なわけではなかった。忙しい。疲れている。でも、ちゃんと前を向いている感じがする。仕事も、生活も、人に会うことも。少しずつ、自分の中に戻ってきている。「で、四人目は?」さやかが身を乗り出す。私は少しだけ考えてから言った。「顔、すごいタイプだった」さやかの目が丸くなる。「え」「珍しいでしょ」「かなり珍しい」私は少し笑った。今回の相手は、二十代後半。背が高くて、清潔感があって、少し無口。シンプルな服が似合う人だった。顔も整っていた。正直、かなりタイプだった。会った瞬間に、あ、顔好きかも、と思った。そういう感覚は久しぶりだった。女性として見られることに慣れてきたとはいえ。自分の方から相手の見た目に反応することは、ここ最近ほとんどなかったから。だから、少しだけ驚いた。まだ、そういう部分もちゃんと残っているんだなと思った。でも。私は水を一口飲んでから、少しだけ遠い目をした。「……話が、面白くなかった」さやかが吹き出す。「早い」「いや、普通に良い人なの」「でも?」「何話しても浅いっていうか」私は少し考える。悪い人ではない。むしろ、優しい。ちゃんと褒めてくれる。メッセージもすぐ来る。帰り際には、また会いたいです、とも言われた。でも、盛り上がらなかった。好きな音楽を聞いても、「最近流行ってるやつ聞きます」で終わる。仕事の話をしても、「すごいですね」で止まる。質問はしてくれる。褒めてもくれる。でも、その先に会話が深くならない。沈黙を埋めるために、気づけば私が話を回していた。その感覚が、少し疲れた。「顔タイプなんでしょ?」さやかが聞く。私は少し止まる。それから、ぼそっと言った。「……顔だけなら、翔太が一番タイプなんだよね」さやかが止まった。「え?」「顔だけなら」「いや、今さら?」「昔からだよ」私は水を飲みながら、普通の顔で続ける。「普
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第59話:顔は、大事だろ

「顔はね」私は少し笑う。「でも会話が無理だった」「へえ」正人は平静な顔をしていた。いつものテンション。いつもの友達の距離。でも、カップを持ち上げる指が少しだけ止まった。本当にわずかで、疲れているだけにも見えるくらいの動きだった。「顔、大事だろ」正人が言う。私は少し考える。「大事だけど」「うん」「でも、話つまんないと無理」「まあね」正人は頷いた。声は軽い。いつも通り。けれど、目線が少しだけPCに戻るのが早かった。私はそこに少し違和感を覚えたけれど、深く考えるほどの余裕はなかった。「顔だけなら翔太が一番タイプなんだよね」あっさり言うと、正人の手が止まった。一瞬。本当に一瞬だけ。画面に向いていた目が、ゆっくり私に戻る。「……は?」「顔だけね」私はPCを見たまま続ける。「中身込みだとまた違うんだけど」「……」「最近ちょっと大人っぽくなったし。普通にかっこよくなったし」無意識だった。何でもない話のつもりだった。だって、翔太はもう隣人だ。昔は恋人だったけれど、今は少し違う場所にいる。廊下で会えば話す。エレベーターで一緒になれば、最近どうとか、仕事が忙しいとか、ジム行けてるかとか、そういう話をする。生活の中に、少しだけいる人。その存在が、最近は自然になってきている。だから、顔がタイプだという話も、私の中ではただの事実だった。正人は少しだけ笑った。笑おうとしている、という方が近かった。口元は上がっているのに、目の奥が少しだけ遅れてついてくる。「未練ある感じ?」冗談っぽい声だった。でも、いつもより少し低かった。私は即答する。「ないない」迷いはなかった。「もう終わった人」正人は私を見る。ほんの短い間。それから、何でもないように頷いた。「そっか」「うん」「じゃあ、顔だけね」「そう。顔だけ」私は笑って、資料へ視線を戻す。正人もPCへ向き直った。でも、そのあとしばらく、キーボードを打つ音が少しだけ遅かった。普段の正人なら、私が感覚で言ったことをすぐに拾って、構造に直してくれる。でも、その時だけは、画面を見ているのに文字を打たない時間があった。「正人?」声をかけると、正人はすぐに顔を上げた。「何」「眠い?」「まあ、深夜だし」いつもの返し。いつもの表情。で
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第60話:また会ってもいいかも

水曜日。二十時過ぎ。待ち合わせ場所に着いた瞬間、私は少しだけ足を止めた。「あ」向こうも気づいた。軽く手を上げる。「平原?」少し低い声。懐かしい呼び方。大学のゼミの先輩だった。五人目。まさかだった。アプリのマッチ画面を見た時、最初は普通に笑った。え、嘘でしょ。しかも、相手は昔、一度告白された人だった。当時は、少し年上で。優しくて。落ち着いていて。でも、恋愛としては見られなかった。タイミングも違ったし、何よりその頃の私は、先輩の好意を受け取るほど大人ではなかった気がする。ただ、良い人。話しやすい人。それ以上にはならなかった。それなのに。久しぶりに会うと、印象が少し違った。「久しぶりです」私が笑う。「なんか変な感じですね」「だよな」先輩も笑った。その笑い方が、記憶の中より少し柔らかい。学生時代の頃より、肩の力が抜けているように見えた。店に入る。落ち着いた居酒屋だった。うるさすぎず、照明は少し暗い。テーブル席に案内されて、向かい合って座る。席についた瞬間、先輩が言った。「仕事帰り?」「はい」私は笑う。「今ちょっと修羅場で」「顔に出てる」即答だった。思わず笑ってしまう。「そんな?」「ちょっと疲れてる顔してる」その言い方が、少しだけ自然だった。無理に気を遣う感じではない。でも、ちゃんと見ている感じ。昔より、ずっと話しやすかった。会話も楽だった。音楽。仕事。学生時代の話。最近の生活。無理に盛り上げなくても、空気が止まらない。沈黙があっても、焦らなくていい。私が仕事の愚痴を少し言うと、先輩は小さく笑った。「相変わらず頑張りすぎそう」「そんなことないです」「いや、あるでしょ。昔からそういう顔してた」「どういう顔ですか」「自分では平気なつもりで、全然平気じゃない顔」私は少しだけ言葉に詰まった。否定しようとして、やめる。確かに、最近いろんな人に同じようなことを言われている。さやかにも。正人にも。翔太にも。先輩は続ける。「でも、前より笑ってる感じする」「え?」「昔の平原って、もっとずっと気を張ってた気がする」その言葉に、少しだけ驚いた。そんな昔の自分を、相手が覚えていると思わなかったから。そして。今の自分が、昔より少しだけ柔らかく見えてい
last updateLast Updated : 2026-07-07
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