All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話:ちゃんと休みなよ

正人は少し考えるように首を傾げた。「んー」短い間。それから、小さく笑う。「疲れ、滲んでる」私は眉をひそめた。「そんなに?」「そんなに」即答だった。そのくせ、理由は聞かない。何があったのかも聞かない。正人は昔からそうだった。聞けば私が面倒くさがることを知っている。だから聞かない。でも、気づいていることだけは伝える。それが、正人の距離感だった。「週末休んだんだけど」「身体は休んだんでしょ」「何その言い方」「頭は休んでなさそう」さらっと言われて、言葉に詰まる。図星だった。正人は少し笑う。勝ち誇るわけでもなく。ただ、やっぱりな、という顔だった。その顔を見て、私は小さく息を吐く。不思議だ。二、三言葉を交わしただけなのに、呼吸が少し楽になる。正人はこういう存在だった。困った時に、わざわざ助けを求めなくても隣にいる。でも、こちらが言わないことには無理に踏み込んでこない。近い。けれど、安全な距離がある。だから私は、正人といる時だけはあまり構えなくて済む。「朝ごはん食べた?」「またそれ?」「その反応だと、食べてないなと思って」「食べてない」「やっぱり」満足そうに頷く。少しだけ悔しい。でも少し可笑しい。「コンビニ行く?」「今?」「会議まで十七分ある」「細かい」「買える」「正人ってさ」「うん」「たまに私の母親みたいだよね」「やめて」正人が即答した。その顔が本気で嫌そうで、私は少し笑った。「じゃあ兄?」「それもやめて」「じゃあ何なの」「同期」「便利な言葉」「親友でもいいよ」あまりにも自然に言われて、私はそのまま頷いた。親友。そう。正人は、私の親友だった。五年前からずっと。仕事で一緒に徹夜したこともある。クライアント先で理不尽に詰められた帰り、二人でラーメンを食べたこともある。私が海外赴任前で余裕をなくしていた時も、帰国して仕事の感覚が戻らなかった時も、正人はいつも普通に隣にいた。励ますでもなく。慰めるでもなく。ただ、同じ温度で話してくれる。だから楽だった。だから、異性として考えたことはなかった。考えなくて済む関係だった。「そういえば」正人がコーヒーを持ち直す。「今週金曜、空いてる?」私は予定表へ視線を落とした。夜は空いている。でも正人
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第12話:親友との時間

「寝てるよ」「嘘」即答だった。私は箸を持つ手を止める。「何で決めつけるの」「目の下、メイクで隠せてないよ」「失礼すぎる」正人は淡々と言った。その言い方に、責める響きはない。私は小さく息を吐く。「まあ、ちょっと忙しかった」「仕事?」一瞬、返事が遅れた。本当に、一瞬だけ。でも、正人はその一瞬を見逃さなかった気がした。私はすぐに笑う。「仕事も、引っ越しも。ほら、まだ部屋片付いてないし」「そっか」正人はそれだけ言った。それ以上は聞かれなかった。すぐ、話題を戻した。「で、正人は? 何か相談じゃなかったの?」「相談というか」「何」「最近、愛子がちゃんと休んでなさそうだから」「え?」予想していなかった答えに、私は顔を上げた。正人はいつも通りの顔をしている。でも、目だけは少し真面目だった。「金曜空けといてって言ったの、それ?」「それもある」「何それ」「何かあったなら聞くし、話したくないなら仕事の話でもいいし。」「どっちでもいいから、一回ちゃんと飯食べさせようと思って」あまりにも正人らしい言い方で、私は少しだけ言葉に詰まった。真剣なのに、重くしない。「私、そんなに危なそう?」「危なそうというか」正人は少し考えた。「無理してる時の顔してる」「何それ」正人は少しだけ笑った。「愛子、大体大丈夫じゃないときほど、大丈夫って言うから」私は何も言えなかった。正人は続けない。追い詰めるようなことはしない。代わりに、届いた料理を私の前へ少し寄せた。「食べな」「はいはい」料理を食べながら、私たちは仕事の話に戻った。来週の提案。チームの動き。最近のクライアントの癖。新しく入った後輩の話。正人は、ただ話を聞いているようで、時々私を気遣う。「今週の三本終わったら、どこかで休んだら?」「休む?」「半休でもいいし、有休でもいい。何もしない日を作った方がいい」「でも、今そんな余裕ない」「余裕がない時に休まないと、もっと余裕なくなる」正論だった。でも、正論を押しつけてくる感じではなかった。正人は昔から、私の仕事の癖を知っている。頼まれると断れないこと。自分でやった方が早いと思って抱え込むこと。限界が近くても、まだ平気な顔をすること。「愛子はさ」正人が静かに言った。「ちゃんと仕事で
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第13話:今さら

一週間は、思っていたより早かった。引っ越しの段ボールを少しずつ減らして、正人に言われた通り、ちゃんと食べる日を少しだけ増やしているうちに、気づけばまた金曜日が近づいていた。生活は、少しずつ形になっている。そういう小さなことが、少しずつ身体に馴染んできた。それでも時々、不意に拓也を思い出すことがあった。たとえばスーパーで、二人でよく買っていたヨーグルトを見た時。冷蔵庫の中が一人分の量で足りてしまうと気づいた時。夜の部屋で、誰にも「ただいま」と言わなくていいことに少しだけほっとして、その直後に少しだけ寂しくなる時。戻りたいわけじゃない。もう、あの部屋へ帰りたいわけでもない。ただ、三年分の生活は、そんなに簡単には消えない。それだけだった。***平日の夜は遅い。スーパーを出る頃には、時計は二十三時を回っていた。ヨーグルト、卵、サラダ、炭酸水。相変わらず適当な買い物だなと思う。一人分なんて、こんなものだ。マンションのエントランスへ入ると、自動ドアが閉まる音と一緒に、夜の風が遠ざかった。その時だった。後ろから足音が近づいてくる。振り返ると、翔太だった。黒いパーカーにスウェット。片手にはコンビニの袋。ラフな格好なのに、妙に様になっている。五年前より、身体つきも少し変わった気がした。痩せたわけではない。でも、肩の線や首筋に、大人の男らしい硬さがある。二十一歳だった頃の、どこか中性的で危うい綺麗さとは違う。今の翔太は、ちゃんと年齢を重ねた顔をしていた。それが、余計に目を引く。「こんばんは」私が軽く会釈すると、翔太も同じように返した。それだけ。本来なら、それで終わる会話だった。エレベーターが来る。二人で乗る。静かな箱の中で、階数表示だけが数字を変えていく。もう気まずくはない。でも、落ち着かない。隣に立つ横顔を見ないようにしているのに、視界の端に入ってしまう。「そういえば」不意に、翔太が口を開いた。私は顔だけ向ける。「何?」翔太はスマホをポケットへしまった。考えていたことを、そのまま口にしたような顔だった。「昔のことなんですけど」その言葉だけで、胸の奥が少しだけ硬くなる。翔太はまっすぐ前を見ていた。けれど、次の瞬間、ふと思いついたように淡々と続けた。「俺が大学生だったこと」私は思わず視線を逸らし
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第14話:共有します

あれから数日が過ぎた。仕事は相変わらず忙しかった。朝起きて、会社へ行って、会議に出て、資料を直して、帰ってくる。その繰り返しの中で、一週間なんてあっという間に過ぎていく。翔太が大学生だったこと。隠していたつもりはなかったこと。もう会うこともないと思っていた、と言った時の、まっすぐな目。思い出すことはあった。けれど、考え続けるほどではなかった。そういうことにしていた。今さらだ。五年前のことだし。終わった話だ。何度もそう思った。それなのに、隣の部屋から聞こえる小さな物音に、ふと意識が向いてしまうことがある。朝、玄関の外で鍵の音がする。夜、エレベーターの前で足音が近づいてくる。宅配ロッカーの前で、誰かの背中を見て一瞬だけ身構える。そのたびに思い知る。翔太は、ただ思い出の中にいる元恋人ではない。今、同じ建物で暮らしている人だ。壁一枚向こうに、私の知らない五年間を持ったまま、普通に生活している人なのだ。***その日、帰宅したのは二十二時過ぎだった。提案前の確認が長引いて、会社を出る頃には頭の奥がじんわり重くなっていた。マンションのエントランスへ入ると、外の湿った夜風が自動ドアの向こうへ切り離される。私はエレベーターのボタンを押した。数秒後、扉が開く。中に乗り込もうとして、足を止めた。翔太がいた。「あ」ほとんど同時だった。翔太もこちらを見ている。下の階は駐車場だ。車でも持っているのだろうか。ふと考えて、すぐに余計な思考だと思った。私は翔太の今を、ほとんど知らない。何時に帰ってくるのか。普段、何を食べているのか。休日に何をしているのか。仕事でどんな顔をしているのか。そういうことを、何も知らない。五年前の私は、翔太のことを知っているつもりでいた。でも今思えば、あの頃から私は大事なことをほとんど聞いていなかったのかもしれない。「こんばんは」私が言うと、翔太も軽く頷いた。「どーも」最近、このやり取りばかりしている気がする。でも、不思議と気まずくはなかった。以前ならもっと意識していたと思う。あるいは、意識しないように頑張っていたかもしれない。エレベーターへ乗る。並んで立つ。静かな箱の中で、機械音だけが小さく響いていた。壁の鏡面に、仕事帰りの私と、ラフな格好の翔太がぼんやり映る。
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第15話:説明会の日

「ん?」翔太は一瞬だけ何かを言いかけた。本当に一瞬だった。けれど、その短い間に、空気が少し変わった気がした。今までのような、ただの隣人同士の軽さではない。もっと個人的な何かを、口にしかけたような。そんな気配。でも、翔太はすぐに小さく首を振った。「いや」少し笑う。「やっぱりいいです」私は眉をひそめた。「何それ」「大した話じゃないので」そう言って、翔太は歩き出す。黒い背中が廊下の先へ進んでいく。私はその場に残された。何だったんだろう。別に気にすることじゃない。そう思う。思うのに、部屋へ戻ってからも、なぜか少しだけ引っかかっていた。何を言おうとしたんだろう。本当に、大した話じゃなかったんだろうか。***部屋に入って、鍵を閉める。バッグを置いて、上着を脱ぐ。それだけの動作をしている間も、さっきの翔太の顔が頭の中に残っていた。言いかけて、やめた時の目。少しだけ迷ったような口元。いつもなら、さらっと引く。何もなかったみたいに笑う。でも、あの時だけは違った。何かを飲み込んだように見えた。私は冷蔵庫から水を出し、グラスに注ぐ。一口飲む。冷たい水が喉を通っても、頭の中はあまり冷えなかった。隣の部屋から、小さく扉の閉まる音がした。たぶん、翔太の部屋だ。それから少しして、かすかな生活音が壁の向こうから聞こえた。足音。何かを置く音。水道の音。それだけで、妙に現実感があった。翔太は、ここで暮らしている。私の知らない仕事をして。私の知らない人間関係を持って。私の知らない五年間を過ごして。今、壁一枚向こうで、普通に生活している。ただの元カレなら、思い出さなければ済む。でも隣人は違う。思い出さなくても、そこにいる。私はグラスを置き、スマホを手に取った。管理会社からの説明会通知が、まだ残っている。出るつもりはない。その気持ちは変わらなかった。翔太が共有してくれると言った。それは助かる。ただの親切。ただの隣人同士のやり取り。それだけのはずだった。でも、ふと思う。説明会の内容を共有してもらうということは。また翔太と話す理由ができるということだ。そして、さっき翔太が言いかけてやめた言葉も。きっと、私はその時まで気にし続けてしまう。私はスマホを伏せた。「……やめよう」考え
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第16話:突然の訪問

どうして。反射的にそう思った。ようやく新しい生活にも、慣れてきて。引っ越してから、少しずつ思い出さなくなっていたのに。仕事に追われて。新しい生活に慣れて。朝の動線も、帰り道も、週末の買い物も、少しずつ自分のものになってきて。気づけば、一日中考えない日も増えていた。ちゃんと前を向けている気がしていた。なのに。名前を見ただけで、こんなにも簡単に心が揺れる。呼吸が浅くなる。手のひらが少し冷える。私は無意識にスマホを握り直した。電話だった。着信画面が光っている。翔太が私を見る。でも、何も聞かない。ただ、ほんの少しだけ視線を外した。それから一歩、距離を空ける。その気遣いが、今はありがたかった。「ごめん」小さく言う。翔太は軽く頷いた。私は画面を見つめる。拓也。三年付き合った人。一緒に暮らしていた人。結婚の話もした人。嫌いになって別れたわけじゃない。だから苦しかった。だから、終わったあとも苦しかった。着信音が鳴り続ける。私はゆっくり息を吸った。そして、通話ボタンへ触れる。「……もしもし」『もしもし』久しぶりに聞く声だった。胸の奥が、鈍く痛む。思い出さなくなっていたはずなのに。少しずつ平気になっていたはずなのに。声を聞いた瞬間、三年分の生活が一気に戻ってきそうになる。朝のキッチン。洗面台に並んでいた歯ブラシ。拓也がよく使っていたマグカップ。ソファの端で眠ってしまった横顔。全部、もう置いてきたはずなのに。どうして今なんだろう。さっきまで隣にいた翔太は、何も言わずに少し離れたところで待っていた。近すぎず、遠すぎず。私が困らない距離で。その静かな存在とは対照的に、電話の向こうの拓也の声は、閉じかけていた過去を強引にこじ開けてくる。『あ、ごめん』拓也の声が、少しだけ申し訳なさそうに笑った。『今、大丈夫?』大丈夫。そう言いかけて、言葉が止まる。大丈夫かどうかなんて、自分でも分からなかった。「……何?」私の声は、自分で思ったより硬かった。電話の向こうで、拓也が少し息を吸う気配がした。『実は、今近くにいて』私は目を閉じる。嫌だ。違う。嫌じゃない。でも。会いたくない。会いたい。自分でも分からない。『少しだけ、話せないかなと思って』その言葉に、指先が冷えた。
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第17話:玄関先で

その声は、記憶の中にあるものとほとんど変わらなかった。穏やかで。少し申し訳なさそうで。私を責めない声。だから、余計につらかった。私はようやく、拓也の腕の中にあるものを見る。濃い緑の葉。白い鉢。見覚えのある観葉植物だった。前に、私が一目惚れして買ったもの。でも、引っ越しの日、荷物には入れなかった。入れられなかった。あの部屋に残してきたものは、家具や食器だけじゃない。三年分の生活そのものだった。「これ、持ってきた」拓也は少しだけ鉢を持ち直した。「いつも俺が水やりしてたからさ。今日もあげてて気づいたんだけど」私は観葉植物を見つめたまま、何も言えなかった。拓也は小さく笑う。「買ったの、愛子だし。結構高かっただろ」その言い方が、あまりにも拓也らしかった。責めるわけでもなく。気まずさを誤魔化すわけでもなく。ただ、いつもの穏やかさで。「ちゃんと、持ち主に返そうと思って」その一言で、胸の奥が鈍く痛んだ。嫌いになって別れたわけじゃない。裏切られたわけでもない。ただ、将来の話をしたかった拓也と、目の前の仕事や毎日に精一杯で向き合えなかった私がいて。拓也は、もう待てなかった。それだけだった。それだけなのに、ちゃんと痛い。「……ありがとう」ようやく、それだけ言う。拓也は頷いた。その目は優しかった。優しいから、余計につらかった。その時、隣にいた翔太がほんの少しだけ動いた。私はようやく思い出す。翔太がいた。すぐそばに。けれど翔太は何も言わなかった。拓也を見る。それから、私を見る。ほんのわずかに視線が止まった気がした。私がどんな顔をしているのか、たぶん気づいたのだと思う。でも、聞かない。踏み込まない。ただ静かに、そこにいた。「……同じマンションの人?」拓也が少しだけ視線を向ける。私は息を吸う。何と説明すればいいのか、一瞬分からなかった。元彼。隣人。五年前に私が終わらせた人。そのどれも正しいのに、どれも今ここで言うには重すぎる。「……同じマンションの人」そう答えるのが精一杯だった。翔太は軽く会釈した。「こんにちは」声は落ち着いていた。拓也も会釈する。「こんにちは」それだけ。本当にそれだけだった。男同士の妙な牽制も、探るような会話もない。ただ、大人同士が偶然そこに居
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第18話:観葉植物

拓也はそれ以上踏み込まない。私も、何も聞かない。別れてからどうしていたのか。ちゃんと眠れているのか。私のいない部屋はどうなったのか。聞こうと思えば、いくらでも聞けることはあった。でも聞かなかった。聞いたところで、何かが戻るわけではない。むしろ、戻らないことを確認するだけになる。「元気そうでよかった」拓也が言う。声はいつも通り、穏やかだ。だけれども、少しだけ寂しそうな目をした。私は少しだけ視線を落とした。「元気に見える?」「見える」即答だった。それから少し笑う。「でも、愛子は昔からそういうとこあるから」「何それ」「大丈夫そうに見せるの、上手い」胸の奥を、静かに触られた気がした。責めているわけではない。拓也の声は、最後まで優しい。その優しさが、いちばん逃げ場をなくす。「仕事、相変わらず忙しい?」「うん」「そっか」短いやり取りだった。それだけで、三年分の生活が少しだけ戻ってくる。前の部屋のキッチン。夜遅くに帰った私へ、拓也が温め直してくれたスープ。休日に二人で行ったスーパー。私が仕事のチャットを返している横で、拓也が黙って洗濯物を畳んでいたこと。そういう、何でもない記憶ばかりが浮かんでくる。特別な旅行でもない。記念日でもない。ただの生活。でも、私たちはそういうものを三年分積み重ねていた。「じゃあ、俺行くね」拓也が言った。私は頷く。「うん」「植物、ちゃんと世話してやって」「……できるかな」「できるでしょ」拓也は少しだけ笑った。「愛子が買ったんだから」その言葉に、また胸が痛んだ。私が買った。でも世話をしていたのは拓也だった。私が好きだと言ったものを、拓也がちゃんと生活の中で守ってくれていた。そういう小さなことに、私はどれだけ気づいていたんだろう。「ありがとう」もう一度言う。拓也は軽く手を上げた。それから背を向ける。エレベーターへ向かう後ろ姿を見送りながら、私はしばらく動けなかった。扉が閉まる。機械音が遠ざかる。廊下が静かになる。その音を聞いて初めて、私は観葉植物を抱えて部屋へ入った。***観葉植物は窓際へ置いた。前の部屋と同じような場所だった。自然とそこを選んでいた。白い鉢。濃い緑の葉。思っていたより葉は増えていた。最後に見た時よりも、ず
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第19話:大丈夫じゃなかった

夜になっても、部屋は静かだった。観葉植物は窓際にある。たった一つ物が増えただけなのに、部屋の空気が少し変わった気がする。私はソファでスマホを眺めていた。何かを見ているわけではない。ただ画面を触っていないと、考え込んでしまいそうだった。その時、スマホが震えた。正人だった。『後輩の相談が、結局二時間コースだった』思わず小さく笑う。本当に面倒見がいい。『お疲れ様』そう返すと、すぐに既読がついた。『今度聞いて』 『結構大変な感じ』正人らしい。相談に全力で付き合って。終わった後に少しだけ愚痴る。でも次もきっと同じことをする。そういう人だ。私は少しだけ息を吐いた。さっきまで胸の奥に重く沈んでいたものが、ほんの少しだけ動いた気がする。拓也のことを忘れたわけじゃない。観葉植物がそこにある事実も変わらない。でも、別の誰かの話が入ってくるだけで、少しだけ呼吸が戻る。それが救いなのか、気晴らしなのかは分からない。ただ、今はありがたかった。『また今度ね』そう返してスマホを置こうとした時だった。すぐに既読がつく。けれど。珍しく返信が来なかった。正人にしては少しだけ間があった。画面の上に表示される。入力中。消える。また入力中。消える。私は首を傾げる。何だろう。仕事の連絡でも思い出したのだろうか。そんなことを考えていると、ようやくメッセージが届いた。『というか』短い一文。そのあと、また少しだけ間が空く。入力中。消える。入力中。消える。私は思わず苦笑した。珍しい。正人がこんなに言葉を選ぶのは。しばらくして。ようやく次のメッセージが届く。『最近大丈夫?』私は画面を見つめた。拓也が今日来たことを、正人は知らない。観葉植物が戻ってきたことも知らない。私がさっき、泣きそうになったことも知らない。でも。拓也と別れたことは知っている。引っ越したことも知っている。隣に元彼が住んでいることも知っている。だからきっと。何かを察したわけじゃない。ただ。昔からこういう人だった。私が元気な時も。忙しい時も。落ち込んでいる時も。何も言わなくても、気づけば連絡が来る。特別なことじゃない。昔からずっとそうだった。それなのに。今日はその一言が妙に胸に残った。私は返信画面を開く。大丈夫。そ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第20話:話聞くよ

話したら楽になるのかもしれない。でも、話したところで何が変わるのだろう。そんなことを繰り返し考えているうちに、店の近くまで来ていた。私は小さく息を吐く。結局、会ってから決めればいい。そう自分に言い聞かせながら店へ向かった。新卒で入った会社の同期だった。ただ、本当に距離が縮まったのは四年前だ。一年の海外赴任から帰ってきた私がアサインされたプロジェクトに、正人もいた。そこで毎日のように顔を合わせ、一緒に案件を回し、何度も修羅場を乗り越えた。仕事での相性は驚くほど良かった。言葉にしなくても意図が伝わることが多くて、気づけば一番信頼できる相手になっていた。今も同じ会社で一緒に仕事をしている。親友と呼べる存在になったのも、きっとあの頃からだった。同期になって。部署が変わって。それでも一緒の案件をよく行うから。定期的に会う。恋愛の話もする。仕事の愚痴も言う。気づけば家族より近況を知っている相手かもしれない。店へ入ると、正人は既に来ていた。窓際の席。白いシャツの袖を少しだけまくっている。相変わらず目立つ。整った顔立ちも。高い身長も。仕事ができそうな雰囲気も。きっと普通にモテる。実際モテる。でも。私の中では昔から正人だった。それ以上でもそれ以下でもない。「お疲れ様」私が席へ向かう。正人は顔を上げて少し笑った。「お疲れ」それだけだった。なのに。何となく安心する。注文を済ませる。仕事の話をする。麻衣の相談の話も聞く。転職市場の話。今の会社の話。いつも通りだった。だから。気づかなかった。途中で正人が何度か私を見ていたことにも。私が笑うタイミングを確認するように。疲れが滲んでいないか確かめるように。ほんの少しだけ視線が止まっていたことにも。私は全く気づいていなかった。「それで?」正人がグラスを置く。「最近どう?」私は少しだけ笑った。「雑だな聞き方」「そう?」「そう」正人も笑う。でも。その目だけは少し真面目だった。「最近の愛子の話、聞いてないから」その言葉に。なぜだろう。昨日より少しだけ胸が詰まった。拓也のこと。観葉植物のこと。隣の部屋のこと。話そうと思えば話せる。でも。どこから話せばいいのか分からない。私はグラスへ視線を落とした。そして小さく
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