《隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

196 章節

第11話:一人で帰りたくない

「帰り、時間ある?」言ったあと。正人の目が、ほんの少しだけ止まった。私から帰りの予定を聞くことはあっても。理由も言わずに誘うことは、ほとんどない。けれど正人は。何があったのかとは聞かなかった。「あるよ」それだけだった。「何時頃終わりそう?」「会議が長引かなければ、九時くらい」「じゃあ、終わったら連絡して」「うん」正人は自分のコーヒーを持ち上げる。「それまでに、何か食べて」「カフェラテもらったから」「それは飲み物」少しだけ笑うと。正人の表情も緩んだ。「笑えるなら、まだ大丈夫そうだね」「大丈夫とは言ってない」口にしてから。自分でも驚いた。いつもなら。大丈夫。平気。そう答えていた。正人も一瞬だけ目を見開く。それから。「そっか」と、短く返した。「じゃあ、夜に」それ以上聞かず、席へ戻っていく。私はデスクに置かれたカフェラテを見る。正人は。私が話すと決めるまで待つ。昔から、そうだった。だから。帰りに誘ったのかもしれない。***仕事が終わったのは。二十二時を過ぎてからだった。正人へメッセージを送る。『ごめん。今終わった』すぐに既読がついた。『一階にいる』画面を見て、手が止まる。何時に終わるかも分からなかったのに。待っていたらしい。パソコンを閉じ。急いで一階へ降りる。ロビーのソファに、正人が座っていた。私に気づくと立ち上がる。「お疲れ」「待ってたの?」「近くで仕事してたから」たぶん嘘ではない。でも。すぐに戻れる場所で仕事をしていたのは。私が終わる時間を気にしていたからだと思う。「何食べる?」「温かいもの」「了解」正人が出口へ向かう。手には、小さな紙袋があった。「それ何?」「サンドイッチ」「夕飯?」「愛子が昼食べてないかもしれないと思って」「食べたよ」「何を」「おにぎり一個」正人が振り返る。「それは半分」「一個は一個でしょ」いつもの会話だった。そのことに。少しだけ救われた。***会社の近くの定食屋へ入った。私は雑炊。正人は焼き魚の定食を頼む。料理が来るまで。正人は仕事の話しかしなかった。今日の会議。後輩の資料。クライアントの戻し。私が話し始めるのを待っている。雑炊が届く。一口食べると。思っていた以上に空腹だ
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第12話:自分で育てる

正人は、乗り換え駅まで一緒に来た。電車を降り。改札へ向かう人の流れに入っても。拓也のことを、もう一度聞くことはなかった。「ここで大丈夫」改札の前で立ち止まる。「家まで行かなくていい?」「さすがに遠回りでしょ」「タクシーなら、そこまで変わらないけど」「今日はもう大丈夫」言ったあとで。少しだけ考える。「さっきよりは」正人が私を見る。無理に平気だと言っているわけではなかった。拓也に戻りたいわけではない。それでも。失った生活には傷ついている。その二つが同時にあってもいいと分かっただけで。胸の中が少し軽くなっていた。「そっか」正人は素直に頷く。「じゃあ、着いたら連絡して」「うん」「明日の朝は何か食べて」「分かった」「本当に?」「本当に」疑うように目を細められ。少し笑った。「今日はありがとう」「どういたしまして」正人は。私が頼ったことを、大げさに扱わない。いつもと同じように手を上げ。反対側のホームへ向かっていった。その背中を見送ってから。私は改札を抜けた。一人になっても。もう、さっきまでのような心細さはなかった。***部屋へ戻ると。最初に目に入ったのは、玄関脇の観葉植物だった。大きな白い鉢。伸びた枝。艶のある緑の葉。前の部屋では。リビングの窓際に置いていた。水をやるのも。葉を拭くのも。鉢の向きを変えるのも、拓也だった。私は店で見つけて。欲しいと言っただけだった。バッグを置き。鉢の前へしゃがむ。葉の表面を指で撫でると。埃の取れた部分だけ、緑が濃くなった。『植物、困ったら連絡して』拓也の言葉を思い出す。名前も。水やりの頻度も。置く場所も。聞けば、すぐに分かる。スマホを取り出し。連絡先を開く。【拓也】しばらく名前を見つめた。植物のことなら連絡していい。そう決めたはずだった。けれど。分からないことがあるたびに連絡をしていたら。必要だから話しているのか。寂しいから繋がろうとしているのか。また、分からなくなる。私は画面を閉じた。「自分で調べよう」葉と幹を撮影し。画像検索をする。ゴムの木の仲間らしいことは分かった。けれど。似た植物が多く、種類までは判断できない。明るい場所に置く。直射日光は避ける。土が乾いてから水をやる。書かれ
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第13話:少しずつ、私の部屋

それから数日。拓也から連絡は来なかった。私からも送らなかった。植物のことで分からないことがあれば連絡する。そう伝えたけれど。結局、連絡先を開くことはなかった。朝起きて。仕事へ行き。夜になれば、新しい部屋へ帰る。玄関を開けると。最初に、大きな観葉植物が目へ入った。初めの二日間は。見るたびに拓也を思い出した。窓際で水をやる背中。葉の埃を拭く指。日当たりに合わせ、鉢の向きを変えていたこと。私は店で見つけて。欲しいと言っただけだった。そのあとの世話は。ずっと拓也がしていた。胸の奥は、まだ少し痛んだ。けれど。三日目には、帰宅すると土を見るようになった。表面へ指を触れ。少し中まで確かめる。湿っていれば、何もしない。届いた鉢台へ載せる時は。重すぎて、何度も諦めかけた。鉢を少しずつ傾け。できた隙間へ台を差し込む。床を傷つけないよう、角度を変えながら動かした。額に汗が滲み。腰も痛くなった。それでも最後には。窓から少し離れた場所まで運べた。車輪を止めると。大きな葉が揺れ。やがて静かになった。「できた……」誰もいない部屋に。自分の声が少しだけ誇らしく響いた。拓也へ報告しようとは思わなかった。写真を送りたいとも。褒めてほしいとも思わない。前の部屋にあったものと、同じ植物。拓也が育ててきた事実も。三年間の生活も、なくならない。でも。これから伸びる葉は。私がこの部屋で育てる。そう思うと。少しだけ嬉しかった。***仕事は、相変わらず忙しかった。朝から会議が続き。帰宅が二十二時を過ぎる日もある。それでも。部屋へ帰れば、植物を見る。土へ触れ。必要なら鉢の向きを少し変える。一分もかからない。誰かに頼まれたことでも。評価されることでもない。私が選んで。続けると決めたことだった。段ボールも、一日一箱ずつ減らした。疲れている日は。何も開けずに眠った。以前の私なら。早く終わらせなければと焦ったと思う。睡眠を削り。全部整うまで止まれなかった。今は。今日できなければ、明日やればいい。未完成の部屋で暮らしていてもいい。少しずつ。そう思えるようになっていた。***金曜日。昼休みに、さやかからメッセージが届いた。『生きてる?』コンビニのスープを開けながら返信す
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第14話:説明会の席

翌朝。目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。カーテンの隙間から入る光が、床へ細く伸びている。休日なら。もう少し眠っていたかった。けれど。昨夜見た掲示を思い出す。マンション居住者向け説明会。午前十時。時計を見ると、九時を少し過ぎていた。「……行くって決めたし」翔太と待ち合わせをしたわけではない。出席を義務づけられているわけでもない。それでも。自分の暮らす場所のことだった。顔を洗い。簡単に朝食を済ませる。薄手のニットとパンツに着替え。髪を整えた。説明会へ行くだけなのに。少しだけ身なりを気にした自分へ。マンションの住人に会うからだと、心の中で言い訳する。部屋を出る。隣の扉は閉まっていた。翔太はもう下へ行ったのかもしれない。少しだけ気になったけれど。そのままエレベーターへ向かった。***一階の共用ルームには。すでに十人以上が集まっていた。年配の夫婦。子どもを連れた家族。一人で資料を読んでいる男性。前方には、管理会社の担当者が二人立っている。空いている席を探した時。少し前の列に、見慣れた横顔を見つけた。翔太だった。白いシャツに黒いパンツ。休日らしい簡単な服装なのに。人の中にいると、やはり目に入る。派手なわけではない。大きな声を出しているわけでもない。ただ。周囲より少しだけ輪郭がはっきりして見える。翔太は資料へ目を落としていた。隣の席は埋まっている。私は少し後ろの空席へ座った。近くへ行こうとしたわけではない。他に座りやすい場所がなかっただけだ。開始時間になる。管理会社の担当者が前へ立った。宅配ロッカーの点検。駐輪場の一時移動。廊下の照明交換。工事期間中の騒音。生活へ直接関係する話も多く。出ておいてよかったと思う。けれど。修繕費の説明へ入ると。急に分かりにくくなった。工事の総額。修繕積立金から出す金額。設備の状態によって追加される可能性のある費用。資料を読んでも。どこまでが見積もりに含まれているのか、はっきりしない。周囲の住人も。少し困った顔で紙を見ていた。その時。翔太が手を上げた。「はい。どうぞ」担当者に促され。翔太は資料を確認してから口を開く。「三ページの工事費には、宅配ロッカーの交換費用も含まれてますか」「はい。基本的には、こちらの金
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第15話:歳を重ねていた人

部屋へ戻ってからも。翔太の言葉が、少しだけ頭に残っていた。外資の金融。大学を卒業してから、ずっと同じ業界。今の会社は二社目。分かったことは、それだけだった。それなのに。私の中に残っていた二十一歳の翔太が、急に遠くなった気がした。コーヒーショップのカウンター。黒いエプロン。閉店間際に駆け込む私へ、好みのコーヒーを淹れてくれた人。大学生で。私より六歳若くて。これから何にでもなれると思っていた人。でも。翔太は、私がいなくなったあとも普通に生きてきた。大学を卒業し。就職し。会社を変え。今は、私の知らない場所で働いている。当たり前のことだった。五年も経っている。それでも私は。翔太の時間を、二十一歳のところで止めたままにしていた。***昼を過ぎた頃。冷蔵庫を開けると、ヨーグルトと卵しか入っていなかった。一人分の生活にも、少しずつ慣れてきた。けれど。自分で買わなければ、何も増えない。エコバッグを手に取り、部屋を出る。鍵を閉めたところで。隣の扉が開いた。翔太だった。午前中の白いシャツではなく。黒いニットに、ラフなパンツ。片手に財布とスマホを持っている。「出かけるんですか」「スーパー」「俺も、この辺まで行きます」翔太が先にエレベーターへ向かう。私も少し遅れて続いた。一緒に出かけるわけではない。出る時間と方向が、たまたま重なっただけだった。エレベーターへ乗る。翔太が一階のボタンを押す。「さっきの質問」私が口を開く。「管理会社への?」「仕事でも、ああいう資料を見るの?」「似たようなものは見ます」翔太は正面を向いたまま答える。「数字の前提とか。内訳が合ってるかとか」「金融って、もっと株を売ったり買ったりする仕事だと思ってた」「そういう仕事もありますけど」翔太が少し笑う。「全員が一日中、画面を見て売買してるわけじゃないので」「海外とのやり取りも多い?」「それなりに」「朝早かったり、夜中に会議したり?」「相手の国次第ですね」「大変そう」「愛子さんに言われたくないです」すぐに返された。「私は夜中に会議はしない」「夜中まで仕事はしてるでしょ」「毎日じゃないよ」「五年前もそう言ってました」「また五年前の話」翔太の口元が少しだけ緩む。「変わってないので」エレベー
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第16話:いつもの距離

週が明けても。仕事は、何事もなかったように続いていた。朝から会議が並び。昼前には、来週の提案資料を一度すべて組み直すことになった。忙しさは変わらない。それでも。少し前より、身体は軽かった。朝、何かを食べてから家を出る。夜は、帰宅したら植物の土を見る。シャワーを浴びて。ベッドで眠る。大したことではない。けれど。生活が少しずつ、自分の手へ戻ってきていた。***午前の会議を終え。席へ戻ると、正人が私のデスクの横に立っていた。「お疲れ」「何?」「確認してほしいところがある」正人がノートパソコンをこちらへ向ける。私は隣の椅子へ座り、画面を見る。数字を確認し。表現を二か所直した。「ここ、去年のデータが混ざってる」「やっぱり?」「うん。こっちが正しい」「助かる」正人はすぐに修正を始めた。横顔を見る。正人とは。こういう時間が長かった。同じ年に入社して。研修で顔を合わせ。少しずつ仕事の相談をするようになった。私が海外赴任していた間も。連絡は途切れなかった。時差を考えずに仕事の愚痴を送り。向こうの朝に返事が来る。帰国してからは。また同じ東京のオフィスで働いている。私の働き方も。忙しくなる時の顔も。無理をしている時の癖も。正人は、ほとんど知っていた。「何?」正人が顔を上げる。「別に」「その顔で別には信用できない」「最近、みんな同じこと言うね」口にしてから。少しだけ余計だったと思った。正人の指が止まる。「みんな?」「さやかとか」正人は画面へ視線を戻す。「ほかは?」何でもないことのような聞き方だった。「翔太」正人の手が。ほんの少しだけ止まった。「隣の?」「うん」「結構話すようになったんだね」「会った時に、少しだけ」私は机の端に置いていたスマホを手に取る。今朝撮った植物の写真を開いた。「拓也が持ってきた植物、育て方が分からなくて。翔太が詳しかったから、少し聞いただけ」画面には。まだ開ききっていない新芽が映っている。正人が覗き込む。「元気そうだね」「新しい葉が出そうなの」「嬉しそう」「育ててるから」答えると。正人の表情が、少しだけ緩んだ。「ちゃんと続いてるんだ」「失礼だね」「最初だけ張り切ることあるから」「翔太にも同じこと言われた」正人
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第17話:二度目の対面

仕事を終えたのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。予定していた修正に加えて。クライアントから、新しい確認が入った。自分の席で最後のメールを送り。パソコンを閉じる。肩を回したところで。少し離れた席から、正人が立ち上がった。「終わった?」「今」「じゃあ、行こう」「どこに?」「ご飯」当然のように言われる。「今日行くって決めてたっけ」「昼に話したでしょ」「そうだっけ」「忘れてた?」「仕事が増えたから」正人は呆れたように笑った。「だから、今から食べるんでしょ」断る理由もなかった。昼に食べてから。まともなものは口にしていない。二人で会社を出た。***遅い時間でも開いている店へ入り。簡単に夕食を済ませた。仕事の話。後輩の話。最近変わった社内の制度。特別な話はしなかった。正人とは。そういう時間が多い。相談するほどではないことも。誰かへ説明するほどでもないことも。正人には、そのまま話せた。店を出た頃には。電車の本数も少なくなっていた。「今日はタクシーで帰る」私がスマホを出すと。正人が画面を見る。「俺も乗ってく」「方向違うでしょ」「途中までは同じ」「マンションまで来たら、遠回りじゃない?」「今日はいいよ」「何で?」正人は少し考えるように、私を見る。「遅いから」それだけだった。以前なら。一人で帰れると断っていたと思う。けれど。今は、正人がそうしたいなら、それでいいと思えた。タクシーを呼ぶ。二人で後部座席へ乗り込んだ。***マンションの前へ着く。タクシーを降りると。夜の空気が思ったより冷たかった。「ありがとう」「部屋に入るまでいる」「そこまでしなくていいよ」「エントランスまで」正人はそう言って。私より先に自動ドアへ向かった。昔から。送り届けると決めた時は、こうだった。私ができるかどうかとは関係なく。自分が安心するところまで、見届ける。エントランスへ入る。深夜に近い時間で。中には誰もいなかった。そう思った時。宅配ロッカーの方から、人影が出てきた。翔太だった。黒いスウェットに。薄いジャケットを羽織っている。片手には、小さな封筒と郵便物。向こうも、すぐに私たちへ気づいた。足が、僅かに止まる。最初に私を見る。それから。隣にいる正人へ視線
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第18話:もう終わったこと

翌日の夜。仕事を終えてマンションへ戻ると。エレベーターの前に、翔太が立っていた。片手にコンビニの袋を持ち。スマホを見ている。私に気づくと。画面を消し、少しだけ身体をこちらへ向けた。「おかえりなさい」「ただいま」隣に並ぶ。昨夜。正人をマンションまで見送ったあとのことが、少しだけ頭をよぎった。翔太は。正人が昔から優しいと知っていた。五年前。二人が会う機会はほとんどなかったけれど。会社の同期として、正人の存在くらいは知っていたのだと思う。それでも。翔太は昨夜のことには触れなかった。私も、わざわざ話すことではないと思った。エレベーターが到着する。二人で乗り込む。「今日は昨日より早いんですね」翔太が言う。「昨日が遅すぎたの」「正人さんに送ってもらうくらい?」「たまたま一緒に食事してたから」答えてから。説明する必要はなかった気もした。けれど。翔太は深く追及しなかった。「そうですか」それだけ言い。階数ボタンを押す。以前なら。正人とはどこへ行ったのか。どうして送ってもらったのか。もっと分かりやすく気にしたかもしれない。今は。聞かないことまで、自分で決めているように見えた。扉が閉まる。数字が一つずつ上がっていく。鏡面の壁に。並んで立つ私たちの姿が映った。その横顔を見ながら。ふと思い出す。説明会で知った、今の仕事。大学を卒業してから金融業界へ入り。転職もして。私の知らない五年間を生きてきた。「翔太」「何ですか」「大学を卒業してから、ずっと金融なんだよね」「はい」「学生の頃から、そういう仕事を考えてたの?」翔太が一度、こちらを見る。「途中からです」「コーヒーの仕事じゃなくて?」「それは趣味で十分だったので」何でもないことのように答える。私は少しだけ迷ってから、続けた。「私、最初は大学生だって気づかなかった」「そうでしたね」「店で働いてるって聞いてたから」「嘘は言ってないです」翔太が、僅かに笑う。咎めるような笑いではなかった。「わざと隠してたわけではないんでしょ」「隠してないですよ」翔太はすぐに答えた。「聞かれなかっただけです」「大学の話もしなかったよね」「別に、最初に言うことでもないと思ってました」翔太の口調は穏やかだった。昔のことを蒸し返さ
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第19話:聞きかけたこと

***その日の仕事は、予定より長引いた。夕方に届いたクライアントからの修正が。思っていたより大きかったからだ。数字を差し替えるだけでは足りない。資料の順番を変え。前提から説明を組み直す必要があった。「今日中って、本気かな」画面を見ながら呟く。隣の席で。正人が小さく息を吐いた。「本気だろうね」「見なかったことにしたい」「返信したの、愛子でしょ」「確認しますって返しただけ」「それは、やりますって意味になる」「日本語って難しいね」正人が笑う。それから、私の画面を覗いた。「前半、俺が直す」「正人の担当じゃないでしょ」「後半は愛子がやった方が早いから」「自分の仕事は?」「終わってる」本当に終わっているのかは分からなかった。でも。正人はもう、自分のパソコンで資料を開いている。昔からこうだった。必要な時だけ、自然に手を出す。恩着せがましくもしない。断る隙をなくすほど強引でもない。「ありがとう」私が言うと。正人は画面を見たまま頷いた。「終わったら、何か食べよう」「まだ食べること考えてるの?」「愛子が考えないから」言い返せなかった。***すべて終わった頃には。二十二時半を過ぎていた。最後のメールを送り。パソコンを閉じる。背もたれへ身体を預けると。一気に力が抜けた。「終わった……」「お疲れ」正人が立ち上がる。「温かいもの食べて帰ろう」「コンビニでもいいよ」「今日は駄目」「何で?」「手伝った人の権限」「そんな権限ないでしょ」そう言いながらも。私はバッグを持ち、後へ続いた。***会社の近くにある定食屋へ入った。私は雑炊。正人は焼き魚の定食を頼む。料理が来るまで。今日の修正について話した。クライアントの曖昧な指示。後輩の資料。来週の会議。正人とは。前提を説明しなくても話が通じる。同じ会社へ入り。私が海外へ行っていた間も連絡は続き。帰国後は、また同じオフィスで働いている。仕事の癖も。忙しい時の顔も。大体、知られていた。「そういえば」正人が水を飲みながら言う。「植物、どうなった?」「新芽が開いた」「本当に?」スマホを取り出し。今朝撮った写真を見せる。柔らかな緑の葉が、一枚開いている。正人が画面を覗いた。「ちゃんと育ってる」「最初から
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第20話:何もなくても

それから数日。仕事は、少しだけ落ち着いていた。会議が減ったわけではない。クライアントからの連絡も。後輩からの確認も、相変わらず続いている。それでも。日付が変わるまで会社に残る日は減った。部屋の段ボールも、もうない。朝は簡単でも何かを食べる。夜は、帰宅したらシャワーを浴びて眠る。一人分の生活が。ようやく、特別なことではなくなってきていた。金曜日の夕方。会議室から席へ戻ると。正人が、私のデスクの横へ立った。「今日、何時に終わる?」「八時くらい」「本当に?」「追加が来なければ」「じゃあ、来ないことを祈ろう」正人が言う。「何かあるの?」「ご飯」「今日?」「嫌なら別の日でもいいけど」先日の帰り道。もう少し落ち着いたら、またご飯へ行こう。正人は、そう言っていた。日にちまでは決めていなかった。私も、いつものように頷いただけだった。「別に嫌じゃないけど」「じゃあ、八時」「仕事が増えたら連絡する」「了解」それだけ言い。正人は自分の席へ戻った。仕事の相談があるわけでも。落ち込んだ私を慰めるためでもない。ただ、食事へ行く。正人とは何度もしてきたことだった。だから。特に意識する理由もなかった。***珍しく。仕事は予定通りに終わった。八時を少し過ぎた頃。正人と一緒に会社を出る。「どこ行くの?」「決めてある」「珍しい」「何が?」「正人が店を決めてること」「いつも何もしてないみたいに言わないで」歩いて十分ほどのところにある、小さな和食店だった。以前。昼休みに店の前を通った時。一度入ってみたいと、私が言った店。そんな会話をしたことさえ、忘れていた。「ここ、覚えてたんだ」「愛子が行きたいって言ってたから」「いつ?」「少し前」正人は何でもないことのように扉を開けた。「どうぞ」「ありがとう」店内は落ち着いていた。照明は少し暗く。カウンターと、小さなテーブル席が並んでいる。向かい合って座る。温かいお茶が置かれた。「それで」メニューを開きながら聞く。「何か話あるの?」「ないよ」正人はすぐに答えた。「本当に?」「本当に」「じゃあ、何で誘ったの?」正人の視線が、メニューから上がる。「理由がないと駄目?」「駄目じゃないけど」「最近、落ち着いて話す時間なか
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