「帰り、時間ある?」言ったあと。正人の目が、ほんの少しだけ止まった。私から帰りの予定を聞くことはあっても。理由も言わずに誘うことは、ほとんどない。けれど正人は。何があったのかとは聞かなかった。「あるよ」それだけだった。「何時頃終わりそう?」「会議が長引かなければ、九時くらい」「じゃあ、終わったら連絡して」「うん」正人は自分のコーヒーを持ち上げる。「それまでに、何か食べて」「カフェラテもらったから」「それは飲み物」少しだけ笑うと。正人の表情も緩んだ。「笑えるなら、まだ大丈夫そうだね」「大丈夫とは言ってない」口にしてから。自分でも驚いた。いつもなら。大丈夫。平気。そう答えていた。正人も一瞬だけ目を見開く。それから。「そっか」と、短く返した。「じゃあ、夜に」それ以上聞かず、席へ戻っていく。私はデスクに置かれたカフェラテを見る。正人は。私が話すと決めるまで待つ。昔から、そうだった。だから。帰りに誘ったのかもしれない。***仕事が終わったのは。二十二時を過ぎてからだった。正人へメッセージを送る。『ごめん。今終わった』すぐに既読がついた。『一階にいる』画面を見て、手が止まる。何時に終わるかも分からなかったのに。待っていたらしい。パソコンを閉じ。急いで一階へ降りる。ロビーのソファに、正人が座っていた。私に気づくと立ち上がる。「お疲れ」「待ってたの?」「近くで仕事してたから」たぶん嘘ではない。でも。すぐに戻れる場所で仕事をしていたのは。私が終わる時間を気にしていたからだと思う。「何食べる?」「温かいもの」「了解」正人が出口へ向かう。手には、小さな紙袋があった。「それ何?」「サンドイッチ」「夕飯?」「愛子が昼食べてないかもしれないと思って」「食べたよ」「何を」「おにぎり一個」正人が振り返る。「それは半分」「一個は一個でしょ」いつもの会話だった。そのことに。少しだけ救われた。***会社の近くの定食屋へ入った。私は雑炊。正人は焼き魚の定食を頼む。料理が来るまで。正人は仕事の話しかしなかった。今日の会議。後輩の資料。クライアントの戻し。私が話し始めるのを待っている。雑炊が届く。一口食べると。思っていた以上に空腹だ
最後更新 : 2026-07-02 閱讀更多