隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる

last update最終更新日 : 2026-07-03
作家:  Sunnyたった今更新されました
言語: Japanese
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概要

友情

現代

元カレ

モテモテ

失恋

年の差

三角関係

32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日に同棲中の恋人から別れを告げられた。仕事に全てを捧げるうちに、人との距離の縮め方さえ忘れていた愛子。そんな彼女の隣の部屋に住んでいたのは、5年前に自分から音信不通にして別れた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も距離も匂いも、身体だけが覚えている。一方、失恋をきっかけに距離が縮まったのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから付き合わない?」穏やかな恋に救われ始めたはずなのに。捨ててしまった恋は、隣の部屋に住んでいる。

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第1話

第1話:隣の男は、最悪の元カレ

段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。

白い壁。

まだ何も掛かっていないカーテンレール。

大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。

ほんの少し背伸びして契約した、職場からタクシーで十分の築浅マンション。

家賃は安くない。

でも、今の私にはそれくらい必要だと思った。

仕事から帰ってきて、誰にも気を遣わずに眠れる場所。

同棲していた部屋の記憶を、少しずつ剥がしていける場所。

三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度ちゃんと自分を立て直すための場所。

そのはずだった。

「……よし」

小さく呟いてみたものの、声は思ったより頼りなかった。

引っ越し初日。

本来なら、新しい生活に胸を躍らせる日なのかもしれない。

けれど私の身体は、鉛を流し込まれたみたいに重かった。

朝から引っ越し業者の対応をして。

前の部屋の退去立ち会いをして。

不動産会社で鍵を受け取って。

電気とガスを確認して。

ネットの設定で一時間格闘した。

そのあいだにも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。

『確認お願いします』

『今日中に戻せますか?』

『先方が急ぎで見たいそうです』

急ぎじゃない仕事なんて、この世の中に存在するのだろうか。

私はスマホを裏返し、段ボールの上に置いた。

画面が見えなくなっただけで、ほんの少し息がしやすくなる。

本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。

失恋して。

同棲を解消して。

三十二歳の誕生日に、人生の予定表を真っ白に戻された女には。

それくらい許されてもいいはずだった。

元恋人の拓也は、最後まで穏やかだった。

責めもしなかった。

泣きもしなかった。

ただ、少し疲れた顔で言った。

「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」

その言葉を思い出すと、胸の奥がきゅっと縮む。

生きていける。

たしかに、そうかもしれない。

仕事はある。

収入もある。

重い荷物だって業者に頼めるし、家具も家電も自分のカードで買える。

けれど。

生きていけることと、寂しくないことは違う。

泣くほどではないのに、すごく疲れているせいで、涙の輪郭だけが薄く滲む。

そういう自分が嫌だった。

強くなりたくて、強くなったわけじゃない。

ただ、仕事を落とさないようにして。

誰かの期待に応えて。

無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか誰にも頼れない女になっていた。

「……最悪」

小さく吐き出して、私は立ち上がった。

コンビニで買った缶のハイボールを開ける。

プシュ、と小気味いい音がした。

その音だけが、少しだけ生活の始まりらしかった。

窓の外には、夜の東京がある。

オフィスの明かり。

走る車のライト。

どこかの部屋に灯る、誰かの生活。

どれも綺麗で、少し遠い。

私は缶に口をつけた。

冷たいアルコールが喉を通る。

その瞬間、ようやく呼吸が少し深くなった。

この部屋で、やり直そう。

仕事以外の自分を、少しずつ取り戻す。

恋愛は、しばらくいい。

誰かに合わせることも。

期待することも。

期待されることも。

今はもう、少し疲れていた。

ただ、静かに暮らしたい。

そう思った、その時だった。

――ドン。

壁の向こうから、鈍い音がした。

私は缶を持ったまま、眉をひそめる。

隣。

続いて、くぐもった笑い声。

それから、女性の甘い声が聞こえた。

最初は聞き間違いだと思った。

築浅の、それなりにいいマンションだ。

壁が薄いなんて、考えてもいなかった。

けれど数秒後、また音がした。

ベッドが軋むような音。

男の声が聞こえる。

そして、明らかに親密な距離の女の声。

私は缶を持ったまま動きを止めた。

「……嘘でしょ」

引っ越し初日。

失恋直後。

同棲解消したばかり。

一人で立て直そうと決めた夜。

その最初のBGMが、隣人の、たぶん夜の営み。

神様がいるなら、センスが悪すぎる。

私は大きく息を吸った。

落ち着け。

大人なんだから。

たまたま今日だけかもしれない。

隣人にも生活がある。

恋人が泊まりに来る日くらいある。

そう自分に言い聞かせ、イヤホンを耳に入れた。

雨音のBGMを流す。

音量を上げる。

さらに上げる。

それでも、壁の向こうの気配は消えなかった。

むしろ、意識してしまったせいで余計に気になる。

女の声。

男の笑い声。

何かが床に落ちる音。

私は無言で缶を飲み干した。

***

そして翌朝。

寝不足のまま出社した。

当然、仕事は容赦なかった。

午前中からクライアントミーティングが三本。

昼休みは十五分。

夕方には炎上しかけた案件の火消し。

夜九時を過ぎても、チームチャットは止まらない。

帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。

パンプスを脱ぐ気力もなく、玄関に座り込む。

「……もう無理」

誰に言うでもなく呟いた。

部屋はまだ段ボールだらけ。

カーテンも仮のまま。

冷蔵庫には水とヨーグルトしかない。

でも、今日は眠れる。

そう思った。

シャワーを浴びて、髪も乾かさずにベッドへ倒れ込む。

その直後。

――コン、コン。

――ドン。

私は目を開けた。

嫌な予感がした。

数秒後、また聞こえた。

女の笑い声。

昨日とは違う声だった。

私はゆっくり身体を起こす。

昨日の女性より、少し高い声。

笑い方も違う。

甘え方も違う。

そんなこと、分かりたくもないのに分かってしまう。

二日連続。

しかも、相手が違う。声から分かる。

つまりこれは、たまたまではない。

この部屋の隣には、女を連れ込むことを日課にしている男が住んでいる。

私は枕を抱えて、壁を睨んだ。

文句を言うべきか。

いや、でも入居早々トラブルは避けたい。

管理会社に言う?

でも、具体的に何と説明するのか。

隣の夜の音がうるさいです。

言える。

言えるけれど、言いたくない。

三十二歳で失恋して、同棲を解消して、引っ越し初日から隣人の情事に悩まされている。

惨めすぎて笑えない。

私は布団を頭までかぶった。

それでも、音は遠慮なく届く。

なぜ私が我慢しなければならないのか。

こちらは高い家賃を払っている。

静かに眠る権利がある。

仕事で消耗しきったあとに、他人の恋愛事情を壁越しに聞かされる義理はない。

怒りが、じわじわと疲労を押しのけていった。疲れた。

***

三日目。

また違う声が聞こえ始めた。

その瞬間、私の中で何かが切れた。

時計を見ると、午前一時過ぎ。

明日も朝から会議がある。

クライアントへの提案前で、資料の最終確認も残っている。

なのに、眠れない。

壁の向こうから聞こえてくる無遠慮な音に、私はゆっくり立ち上がった。

部屋着の上にカーディガンを羽織る。

髪は乱れていたけれど、もうどうでもよかった。

怒っている女は、身だしなみよりも正当性を優先する。

玄関でスリッパを脱ぎ、廊下に出た。

深夜のマンションの廊下は、妙に静かだった。

足音が床に小さく響く。

その静けさの中で、隣の部屋だけが現実から少し浮いているように思えた。

私は隣室の前に立つ。

表札はない。

この時間にチャイムを押すのは非常識かもしれない。

でも、非常識なのはどっちだ。

私はインターホンに指を伸ばした。

ピンポーン。

音が鳴った。

数秒、沈黙。

中で慌てたような気配がした。

足音。

何かを小声で言う音。

私は腕を組み、唇を引き結んだ。

ドアの向こうで鍵が開く。

ガチャリ。

扉が少しだけ開いた。

「……はい?」

現れた男を見た瞬間。

私は、言おうとしていた言葉を忘れた。

最初に目に入ったのは、目だった。

少しだけ気怠げで。

それなのに、人を真っ直ぐ見抜くような視線。

濡れたような黒い髪。

昔より少し骨張った輪郭。

ゆるく開いた黒いシャツの襟元。

五年。

たった五年。

でも、人はこんなにも変わるのかと思った。

いや。

違う。

変わっていない。

その奥にいる人間を、私は知っている。

知ってしまっている。

だから厄介だった。

忘れたと思っていた。

名前も。

声も。

全部。

ちゃんと忘れたと思っていたのに。

目の前に立たれた瞬間、身体だけが勝手に思い出す。

島原翔太 (しまばらしょうた)

二十一歳だった元恋人。

最後まで、ちゃんと別れられなかった人。

置いてきたと思っていた恋だった。

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第1話:隣の男は、最悪の元カレ
段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。白い壁。まだ何も掛かっていないカーテンレール。大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。ほんの少し背伸びして契約した、職場からタクシーで十分の築浅マンション。家賃は安くない。でも、今の私にはそれくらい必要だと思った。仕事から帰ってきて、誰にも気を遣わずに眠れる場所。同棲していた部屋の記憶を、少しずつ剥がしていける場所。三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度ちゃんと自分を立て直すための場所。そのはずだった。「……よし」小さく呟いてみたものの、声は思ったより頼りなかった。引っ越し初日。本来なら、新しい生活に胸を躍らせる日なのかもしれない。けれど私の身体は、鉛を流し込まれたみたいに重かった。朝から引っ越し業者の対応をして。前の部屋の退去立ち会いをして。不動産会社で鍵を受け取って。電気とガスを確認して。ネットの設定で一時間格闘した。そのあいだにも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。『確認お願いします』『今日中に戻せますか?』『先方が急ぎで見たいそうです』急ぎじゃない仕事なんて、この世の中に存在するのだろうか。私はスマホを裏返し、段ボールの上に置いた。画面が見えなくなっただけで、ほんの少し息がしやすくなる。本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。失恋して。同棲を解消して。三十二歳の誕生日に、人生の予定表を真っ白に戻された女には。それくらい許されてもいいはずだった。元恋人の拓也は、最後まで穏やかだった。責めもしなかった。泣きもしなかった。ただ、少し疲れた顔で言った。「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」その言葉を思い出すと、胸の奥がきゅっと縮む。生きていける。たしかに、そうかもしれない。仕事はある。収入もある。重い荷物だって業者に頼めるし、家具も家電も自分のカードで買える。けれど。生きていけることと、寂しくないことは違う。泣くほどではないのに、すごく疲れているせいで、涙の輪郭だけが薄く滲む。そういう自分が嫌だった。強くなりたくて、強くなったわけじゃない。ただ、仕事を落とさないようにして。誰かの期待に応えて。無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか誰にも頼れない女になって
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第2話:誰かと思えば
翔太もまた、私を見ていた。驚きは、ほんの一瞬だけだった。すぐに彼は口元だけで笑う。懐かしさではない。喜びでもない。意地の悪い、綺麗な笑みだった。「……へえ」その声は、私の記憶にあるものより少し低かった。夜の廊下に、静かに落ちる。「誰かと思えば」喉が乾いた。言いたいことはあった。夜中にうるさい。非常識だ。静かにしてほしい。けれど、そのどれもが一瞬で形を失った。翔太は扉にもたれたまま、私を上から下まで眺める。その視線が、昔よりずっと大人びていた。「久しぶりですね、愛子さん」その呼び方に、胸の奥が嫌な音を立てた。昔はもっと甘かった。愛子、と呼ぶたび、まるで名前を大事に包むみたいだった。今の声には棘がある。わざとらしく、昔はしなかったさん付けで。名前を自然に愛子さん、と呼んだ。私はようやく唇を動かした。「……翔太?」「覚えてたんだ」彼は笑った。「音信不通にした元カレのことなんて、とっくに忘れてるかと思ってた」その言葉が、まっすぐ刺さった。反射的に顔をしかめる。「そんな話をしに来たわけじゃないんだけど」「じゃあ何?」翔太の背後から、女の声がした。「翔太くん、誰?」私は彼の肩越しに室内を見た。見知らぬ女の影。甘い香水の匂い。乱れた空気。そこでようやく、現実に戻される。そうだ。私は文句を言いに来たのだ。背筋を伸ばす。「夜、もう少し静かにしてもらえませんか」翔太の眉がわずかに動いた。「静かに?」「隣まで聞こえてます。正直、かなり迷惑です」言いながら、自分の声が少し震えていることに気づいた。怒りのせいか。疲れのせいか。それとも、目の前にいるのが翔太だからか。翔太はしばらく黙って私を見ていた。その目に、昔の柔らかさはない。代わりに、何かを押し隠すような薄い笑みだけが残っている。「だってさ」翔太は部屋の中へ視線を戻した。「俺たち、うるさかったみたい」こめかみが、ぴくりと動いた。昔の翔太なら、絶対にこんな言い方はしなかった。すぐに謝って、困ったように笑って、私の機嫌を取ろうとしたはずだ。すみません、とか。気をつけます、とか。愛子、怒ってる? とか。あの頃の翔太は、真っ直ぐで、少し眩しかった。だからこそ、怖くなった。まだ二十一歳だった彼に、自分の忙しさや不安定
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第3話:忘れたはずだった
次の日は寝不足だった。それは、鏡を見た瞬間に分かった。オフィスビルのエレベーターの壁に映る自分を見ながら、私は小さく息を吐いた。肌のくすみは、コンシーラーでどうにか隠した。目尻の疲れは、いつもより少しだけ長めに引いたアイラインでごまかした。リップは血色がよく見える色を選んだ。最低限、仕事に出られる顔にはなっている。けれど、目元だけはどうにも重い。昨日の睡眠時間は、三時間。原因は仕事ではない。そこが、何より腹立たしかった。三十二歳にもなって。失恋したばかりで。ようやく新しい部屋で立て直そうとしていたのに。五年前の元恋人と再会したくらいで。何を動揺しているんだろうと思う。エレベーターの扉が開いた。オフィスフロアには、いつも通りの朝があった。誰かの電話の声。慌ただしくすれ違う足音。いつもと同じ場所。いつもと同じ時間。それなのに、自分だけが少しだけ世界からズレている気がした。***午前中は、忙しかった。会議、資料確認、クライアント対応。社内チャット、メール、電話。次から次へと仕事が流れ込んでくる。本来なら、ありがたいはずだった。余計なことを考えなくて済むから。なのに。ふとした瞬間に、昨夜の光景が頭をよぎる。深夜の廊下。少しだけ開いたドア。目が合った、あの数秒。少し長めの黒髪。昔よりシャープになった輪郭。ゆるく開いたシャツの襟元。気怠そうなのに、妙に人の目を引く立ち方。そして、声。『久しぶりですね、愛子さん』その呼び方だけで、胸の奥が変なふうに揺れた。昔からそうだった。翔太は顔が良かった。腹が立つくらいに。一緒に歩いていると、知らない女の人が振り返ることがあった。飲みに行けば、私が少し席を外しただけで声をかけられていた。そういう種類の男だった。でも、昨日見た翔太は、ただ顔がいいだけではなかった。余裕があった。視線も、声も。こちらの動揺を分かっていて、わざと逃がさないような間も。私の知っている二十一歳の翔太とは違った。そこまで考えて、私は慌ててパソコンへ視線を戻した。違う。正確には、私が知らなかっただけなのかもしれない。五年ちょっと前。私たちは半年だけ付き合っていた。あの頃の翔太は、私よりずっと若かった。年下だとは思っていた。けれど、ある日テーブルの上に置かれ
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第4話:親友の同期
結城正人(ゆうきまさと)だった。会社の同期で、五年来の親友。ジャケットを肩に掛け、ネクタイは少しだけ緩んでいる。仕事帰りなのだろう。それでも、不思議と疲れて見えない。正人はとても整った顔をしている。仕事もできる。性格もいい。社内でも、ちゃんと人気がある。モテない理由がない。でも私は、なぜか正人を異性として意識したことがなかった。一緒にいて楽だからだと思う。変に格好つけない。変に距離も詰めてこない。こちらが黙っていても、無理に踏み込んでこない。だから、気を遣わなくて済む。「疲れてる?」席に着くなり聞かれた。私は少し笑う。「そんなに?」「少し」即答だった。正人はビールを注文しながらも、一瞬だけ私の顔に視線を戻した。確認するみたいに。何かを測るみたいに。「寝不足?」その言い方が、妙に自然だった。大丈夫?とも、無理してない?とも言わない。ただ、気づいたことだけを言葉にする。昔からそうだ。正人は、人をよく見ている。「聞いてよ正人」さやかが口を挟んだ。嫌な予感がした。「やめて」遅かった。「愛子、引っ越したらさ。隣に元カレ住んでたんだって」正人の手が止まった。ビールへ伸ばしかけた指先が、ほんの少しだけ。たぶん、私が見ていなかったら気づかなかったくらい。そのあと、何事もなかったみたいにグラスを持つ。「それは大変だね」いつも通りの声。変わらない。でも、その一瞬だけ、何かを考えた気がした。「しかも騒音クレーム言いに行ったら本人だったの」さやかが楽しそうに付け足す。「本当にやめて」「いや、これは言うでしょ」正人は少しだけ眉を上げた。「騒音?」「夜、いろいろうるさかったんだって」さやかが濁しながら言う。正人は一瞬黙ったあと、真面目な顔でグラスを置いた。「それは普通に嫌だね」その言い方が真面目すぎて、私は少し笑ってしまった。「でしょ」「管理会社案件じゃない?」「それはそうなんだけど」「入居早々言いづらい?」「そう」「続くなら言った方がいいよ。でも、今すぐ無理に動かなくてもいいと思う」正論だ。でも、押しつけない。ちゃんと、私が自分で決める余白を残してくれる。そういうところが正人だった。***店を出る頃には、二十三時近かった。さやかは反対方向だった。「じゃあ
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第5話:生活圏
元カレが隣に住んでいる。——という事実は、思っていた以上に日常へ入り込んでくる。三日目にして、私はそれを痛感していた。理由は単純だった。遭遇する。普通に。驚くくらい普通に。朝のゴミ出し。夜のエントランス。コンビニ。宅配ロッカー。エレベーターホール。同じマンションの、同じ階。しかも隣同士。生活圏が重なっているのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。実際に経験すると、想像以上に落ち着かなかった。そして何より。翔太が普通だった。会えば挨拶する。必要以上に話しかけてこない。昔の話もしない。変に気を遣ったりもしない。本当に、ただの隣人みたいな顔をしている。その態度が妙に完成されていて、私は未だに距離感を測りかねていた。もっと気まずそうにしてくれた方が楽だった。怒っているなら怒っているでよかった。あからさまに避けてくれたなら、それはそれでこちらも避ければいい。なのに翔太は、何事もなかったみたいに普通だった。それが一番、腹立たしい。こっちはまだ、拓也と別れたばかりなのに。恋愛なんて、しばらく考えたくないのに。五年前にちゃんと終われなかった人が、平然と日常の中に立っている。それだけで、心の置き場が分からなくなる。好きとか。未練とか。そういう単純な話ではない。ただ、忘れたつもりだったものが、自分の意思とは関係なく反応してしまう。それが面倒だった。***金曜日。仕事は案の定、長引いた。会議。資料修正。確認。確認の確認。終わらない社内チャット。終わらないメール。十八時を過ぎたあたりから、今日中という言葉が急に増え始める。今日中。念のため。軽く確認。その軽さに何度も殺されながら、会社を出た頃には二十二時半を回っていた。ビルの外へ出た瞬間、夜風が頬に当たる。少し冷たい。その冷たさで、ようやく自分の肩がずっと上がっていたことに気づいた。スマホを見る。不在通知。宅配便だった。「ああ……」思わず顔を覆う。今日受け取る予定だった水と日用品。別日に回してもいい。でも、それはそれで面倒だった。明日の自分に押し付けるのも嫌だ。私は駅前のコンビニでおにぎりとお茶を買い、マンションへ戻った。エントランスは静かだった。金曜の夜なのに、住人の気配は少ない。宅配ロッカーの前
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第6話:コンビニ袋
「別に」「見てましたよね」「見てない」即答すると、翔太が小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。でも、顔は見なかった。見たら負けな気がしたから。「そうですか」それ以上は追及してこない。その引き方が腹立たしい。昔なら、もう少し面倒だった。もっと笑って、もっとからかってきた。今は違う。だから余計に分からない。今の翔太が。***部屋の前へ着く。翔太は荷物を下ろした。玄関の開閉の邪魔にならない場所へ。少し横へ寄せて、綺麗に揃える。そういうところだ。昔から。妙なところで丁寧だった。「ここでいいですか」「あ、うん」「じゃあ」本当にそれだけだった。あまりにも普通で。あまりにも隣人で。私は思わず呼び止めていた。「あの」翔太が振り返る。黒いコートを持つ手が少しだけ止まる。「この前は、ごめん」言葉を探しながら続ける。「深夜に、あんな言い方して」数秒。短い沈黙。翔太は少しだけ視線を落とした。怒っているのかと思った。でも、次に顔を上げた時、そこにあったのは困ったような表情ではなく、少しだけ力の抜けた顔だった。「いや」それから、肩を竦める。「最近、人が来ること多かったし」淡々としていた。責めるわけでもない。許すわけでもない。ただ事実を話すみたいに。「うるさかったと思うんで」穏やかな声だった。だから困る。怒ってくれていた方が楽だった。「……あと」気づけば言っていた。「別に、女の人が来ること自体に対して....言ったわけじゃないから」言った瞬間、何を説明しているんだろうと思った。翔太が少しだけ目を細める。それから、堪えるみたいに笑った。その表情に、少しだけ昔の面影が戻る。「心配しなくても」視線が私へ落ちる。「毎日連れ込んでるわけじゃないですよ」「いや、普通にそんな感じするよね」反射的に返していた。翔太が吹き出す。ほんの一瞬。昔のままみたいな笑い方だった。その笑い方を覚えている自分が嫌だった。「偏見ひどいですね」「実績があるから」「三日見ただけで?」「三日連続なら十分でしょ」言ってから、会話が続いていることに気づく。こんなふうに話すつもりはなかった。もっと距離を取るつもりだった。普通の隣人として。昔の知り合いとして。それくらいで終わらせるつもり
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第7話:コーヒー飲みます?
結局。コンビニ袋は、そのまま一晩テーブルの上に置かれた。返そうとは思った。思ったけれど、二十二時四十分という時間は妙に中途半端だった。今さらインターホンを押すほどでもない気がしたし。押さない理由を探している自分も、少し嫌だった。だから、明日でいい。そう結論を出した。そのくせ、寝る前に一度。朝起きてから一度。私はテーブルの上のコンビニ袋を見ていた。白いビニールが、部屋の照明を鈍く反射している。ただの忘れ物。ただ返すだけ。それなのに、部屋の中で妙な存在感を放っている。我ながら、面倒くさい。***土曜日。珍しく目覚ましをかけなかった朝だった。カーテンの隙間から差し込む光で目が覚める。薄いベージュの布越しの陽射しが、床に細長い帯を作っていた。時計を見る。十時半。久しぶりによく寝た気がした。洗濯機を回す。顔を洗う。寝癖を手ぐしで軽く整える。鏡の中の自分は、仕事の日より少しだけ気が抜けた顔をしていた。それが嫌ではなかった。スマホを見る。仕事の通知は思ったより少ない。平和な休日だった。そう思ったところで、視界に入る。テーブルの上のコンビニ袋。「……返すか」深くため息を吐く。返すだけだ。本当に。ただ、それだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は玄関を出た。隣。たった数歩。それなのに、インターホンを押す指が少しだけ重い。自分でも理由は分からなかった。いや、分かりたくなかった。数秒後。ドアが開いた。「あ」思わず声が漏れる。翔太だった。黒いスウェット。ラフな部屋着。眼鏡。少しだけ下りた前髪。仕事帰りのスーツ姿とは全然違う。けれど、不思議と違和感はなかった。むしろ、こちらの方が本来の生活に近い気がした。「あー」翔太が私の手元を見る。私も同時に言った。「あー」数秒。沈黙。それから、二人同時に少し笑った。「今さら要らない気がする」私が言うと、翔太も頷く。「うん。要らないですね」「じゃあ捨てる?」「ゆで卵、多分もうだめです」「だよね」また少し笑ってしまう。なんだろう。変な感じだった。気まずくない。むしろ、自然すぎる。それが一番困る。翔太が袋を受け取る。「ありがとうございます」「いや、こっちこそ気づかなくてごめん」そこで終わると思った。本当
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第8話:紺色のタンブラー
私は深くため息を吐く。その時、ふわりとコーヒーの香りがした。苦味の奥に、少し甘さを含んだ香りだった。まだ温かい。淹れたばかりだからだろう。その香りに、昔の記憶が不意に重なる。朝。眠そうな顔でコーヒーを飲む私。マグカップから立ち上る湯気。『だから、ちゃんと寝なって』呆れた声。笑う翔太。私は慌てて首を振った。違う。思い出すな。今さら。そう思うのに、視線はタンブラーへ落ちる。小さな擦り傷。毎日使っていたのだろう跡。そこには、私の知らない五年間があった。私はずっと、翔太のことを知っていると思っていた。でも違った。知らないことの方が多い。それどころか、もしかしたら当時だって。私は翔太をちゃんと見ていなかったのかもしれない。そこまで考えて、私は勢いよくクッションへ顔を埋めた。柔らかな布地が頬に触れ、洗剤のかすかな香りがした。「いやいやいや……」何を考えているんだろう。終わった恋だ。今さらだ。そう思う。本当にそう思う。拓也と別れたばかりで、自分の生活を立て直すだけで精一杯なのに。誰かを好きになるとか。また恋愛を始めるとか。そんな余裕はどこにもない。それなのに、五年前に置いてきたはずの人が隣にいて。普通にドアを開けて。普通に笑って。普通にコーヒーを渡してくる。それだけで、過去が勝手に部屋へ入り込んでくる。その感じが、どうしようもなく落ち着かなかった。***スマホが震えた。通知。さやか。嫌な予感がした。開く。案の定だった。『ねえ』一件。『元カレとはどうなの?』もう一件。私は天井を見上げる。続けて通知が来る。『ちゃんと顔見た?』『やっぱり今も顔いい?』私は反射的に返信を打った。『うるさい』即送信。すぐに既読がつく。早い。休日のさやかは、大体暇だ。数秒後、返信が来た。『いや、そこは大事でしょ』『五年前にちゃんと終われなかった相手が隣って、普通に気まずいじゃん』私は画面を見つめた。その言い方に、少しだけ救われた。そう。気まずい。そういうことだ。好きとか、復縁とか、そういう単純な話じゃない。気まずい。でも、気になる。知らなかった今の翔太が、目の前にいる。それだけ。そう思った瞬間、また通知が来た。『で?』短い一文。続けて。『気になる
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第9話:気になる?
五分後。スマホが鳴った。さやかだった。私は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。『で?』開口一番だった。「何が」『何がじゃないでしょ。気になるの?』私は目を閉じた。「……分からない」『お、正直』「そういう意味じゃないよ」『そういう意味じゃないのは分かってる』さやかの声は、茶化しているようで、ちゃんと現実を見ていた。『拓也さんと別れたばっかだし、今すぐ誰かどうこうって話じゃないでしょ』「うん」『でも、気になるんでしょ』その問いに、すぐ返せなかった。じゃあ何。それを私が一番知りたい。私はソファの上で膝を抱える。「……疲れるの」『何が?』「全部」自分で言って、少しだけ笑ってしまった。でも、笑えなかった。「やっと終わったと思ったの」電話の向こうで、さやかが黙る。私は続ける。「拓也と別れて、部屋も出て、仕事も忙しくて。とにかく一回、自分の生活だけ考えようと思ってたの」『うん』「恋愛とか、結婚とか、誰かと暮らすとか。そういうの、しばらく考えなくていいと思ってた」言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。拓也とは三年付き合った。同棲もしていた。結婚の話も、何度もした。私がすぐに決断できなかっただけで。でも、いつかはそうなるのだろうと、どこかで思っていた。来年も。その次も。週末にスーパーへ行って、同じ部屋へ帰って、何でもないことで少し喧嘩して、翌朝には普通にコーヒーを飲む。そういう未来が、なんとなく続くと思っていた。「別に、今でも拓也が好きとかじゃないの」それは本当だった。戻りたいとも思わない。別れた理由も理解している。でも。「好きじゃないから平気ってわけじゃないじゃん」口にした瞬間、自分でも少し驚いた。たぶん、ずっと認めないようにしていた。仕事をして。引っ越して。前を向いているつもりだった。でも、三年積み上げた生活が終わったことは、ちゃんと痛かった。それだけの話だった。『愛子』さやかの声が少しだけ柔らかくなる。『最近、結構無理してたでしょ』「してない」『してた』「してないって」『引っ越しまで早かったもん』私は黙った。そうだった。別れてから、かなり早く部屋を決めた。考える時間を作りたくなかった。拓也の荷物がなくなった部屋に一人で残ることも。二人で選ん
last update最終更新日 : 2026-07-02
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第10話:何?
インターホンの向こうに、翔太が立っていた。片手にスマホ。もう片方の手には、小さな封筒。ドアスコープ越しに見えた姿に、私は額を軽くドアへ押し当てた。本当に。どうしてこうも、タイミングが悪いんだろう。さっきまで、さやかと電話していた。元カレが隣に住んでいるなんて事故だ。しかも顔がいい。しかもコーヒーをくれる。そんなふざけたようで、少しも笑いきれない話をしていたばかりだった。私は小さく息を吐いて、ドアを開けた。「……何?」できるだけ普通に言ったつもりだった。けれど、声は少しだけ硬かったかもしれない。翔太は気づいたのか、気づいていないのか。表情を変えずに、封筒を持ち上げた。「これ」「え?」「ポストに入ってました」差し出された封筒には、見覚えがあった。住所変更関係の書類だった。私は思わず眉を上げる。「私の?」「たぶん、間違って入ったんだと思います」そう言って差し出された封筒を受け取る。指先が触れそうになった瞬間、私はほんの少しだけ手を引いた。自分でも分かるくらい、不自然だった。翔太は何も言わない。ただ、一瞬だけ視線が落ちて。すぐに戻った。見なかったことにするみたいに。昔から、そういう人だった。「ありがとう」私が言うと、翔太は軽く頷く。「たまにあるんですよね」「そうなんだ」「ポストが隣なので」それだけの会話。本当に、それだけだった。なのに、落ち着かない。壁一枚向こうに住んでいる人。五年前、恋人だった人。今は、ただの隣人。私はその事実を自分の中で整理しようとしていた。だから。少し早めに言った。「今度から、ポストに入れ直してくれれば大丈夫だから」言った瞬間、自分でも分かった。事務的だった。距離を置くための言葉だった。少なくとも、私はそういうつもりだった。翔太はほんの少しだけ目を細める。驚いたというほどではない。ただ、こちらの意図を受け取った時の小さな間。視線が私に止まる。何か言うのかと思った。でも、言わなかった。代わりに、ほんの少しだけ口元が緩む。「分かりました」あまりにも自然な返事だった。責める響きもない。残念そうな空気もない。私がそうしたいなら、そうする。ただ、それだけ。昔からそうだった。翔太は押さない。相手が引けば、追わない。嫌がることを、
last update最終更新日 : 2026-07-02
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