ログイン32歳、広告代理店勤務の平原愛子は、誕生日当日に同棲中の恋人から別れを告げられた。仕事に全てを捧げるうちに、人との距離の縮め方さえ忘れていた愛子。そんな彼女の隣の部屋に住んでいたのは、5年前に自分から音信不通にして別れた年下の元恋人・翔太だった。忘れたはずなのに、声も距離も匂いも、身体だけが覚えている。一方、失恋をきっかけに距離が縮まったのは、五年来の親友で同期の正人。「試しでもいいから付き合わない?」穏やかな恋に救われ始めたはずなのに。捨ててしまった恋は、隣の部屋に住んでいる。
もっと見る段ボールの山に囲まれた部屋で、私は床に座り込んでいた。
白い壁。
まだ何も掛かっていないカーテンレール。
大きな窓の向こうには、夜の東京が広がっている。
ほんの少し背伸びして契約した、職場からタクシーで十分の築浅マンション。
家賃は安くない。
でも、今の私にはそれくらい必要だと思った。
仕事から帰ってきて、誰にも気を遣わずに眠れる場所。
同棲していた部屋の記憶を、少しずつ剥がしていける場所。
三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女が、もう一度ちゃんと自分を立て直すための場所。
そのはずだった。
「……よし」
小さく呟いてみたものの、声は思ったより頼りなかった。
引っ越し初日。
本来なら、新しい生活に胸を躍らせる日なのかもしれない。
けれど私の身体は、鉛を流し込まれたみたいに重かった。
朝から引っ越し業者の対応をして。
前の部屋の退去立ち会いをして。
不動産会社で鍵を受け取って。
電気とガスを確認して。
ネットの設定で一時間格闘した。
そのあいだにも、仕事のチャットは容赦なく鳴り続けていた。
『確認お願いします』
『今日中に戻せますか?』
『先方が急ぎで見たいそうです』
急ぎじゃない仕事なんて、この世の中に存在するのだろうか。
私はスマホを裏返し、段ボールの上に置いた。
画面が見えなくなっただけで、ほんの少し息がしやすくなる。
本当なら、今夜くらい何も考えずに眠りたかった。
失恋して。
同棲を解消して。
三十二歳の誕生日に、人生の予定表を真っ白に戻された女には。
それくらい許されてもいいはずだった。
元恋人の拓也は、最後まで穏やかだった。
責めもしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、少し疲れた顔で言った。
「愛子は、俺がいなくても生きていけるよね」
その言葉を思い出すと、胸の奥がきゅっと縮む。
生きていける。
たしかに、そうかもしれない。
仕事はある。
収入もある。
重い荷物だって業者に頼めるし、家具も家電も自分のカードで買える。
けれど。
生きていけることと、寂しくないことは違う。
泣くほどではないのに、すごく疲れているせいで、涙の輪郭だけが薄く滲む。
そういう自分が嫌だった。
強くなりたくて、強くなったわけじゃない。
ただ、仕事を落とさないようにして。
誰かの期待に応えて。
無理だと言うタイミングを何度も逃していたら、いつの間にか誰にも頼れない女になっていた。
「……最悪」
小さく吐き出して、私は立ち上がった。
コンビニで買った缶のハイボールを開ける。
プシュ、と小気味いい音がした。
その音だけが、少しだけ生活の始まりらしかった。
窓の外には、夜の東京がある。
オフィスの明かり。
走る車のライト。
どこかの部屋に灯る、誰かの生活。
どれも綺麗で、少し遠い。
私は缶に口をつけた。
冷たいアルコールが喉を通る。
その瞬間、ようやく呼吸が少し深くなった。
この部屋で、やり直そう。
仕事以外の自分を、少しずつ取り戻す。
恋愛は、しばらくいい。
誰かに合わせることも。
期待することも。
期待されることも。
今はもう、少し疲れていた。
ただ、静かに暮らしたい。
そう思った、その時だった。
――ドン。
壁の向こうから、鈍い音がした。
私は缶を持ったまま、眉をひそめる。
隣。
続いて、くぐもった笑い声。
それから、女性の甘い声が聞こえた。
最初は聞き間違いだと思った。
築浅の、それなりにいいマンションだ。
壁が薄いなんて、考えてもいなかった。
けれど数秒後、また音がした。
ベッドが軋むような音。
男の声が聞こえる。
そして、明らかに親密な距離の女の声。
私は缶を持ったまま動きを止めた。
「……嘘でしょ」
引っ越し初日。
失恋直後。
同棲解消したばかり。
一人で立て直そうと決めた夜。
その最初のBGMが、隣人の、たぶん夜の営み。
神様がいるなら、センスが悪すぎる。
私は大きく息を吸った。
落ち着け。
大人なんだから。
たまたま今日だけかもしれない。
隣人にも生活がある。
恋人が泊まりに来る日くらいある。
そう自分に言い聞かせ、イヤホンを耳に入れた。
雨音のBGMを流す。
音量を上げる。
さらに上げる。
それでも、壁の向こうの気配は消えなかった。
むしろ、意識してしまったせいで余計に気になる。
女の声。
男の笑い声。
何かが床に落ちる音。
私は無言で缶を飲み干した。
***
そして翌朝。
寝不足のまま出社した。
当然、仕事は容赦なかった。
午前中からクライアントミーティングが三本。
昼休みは十五分。
夕方には炎上しかけた案件の火消し。
夜九時を過ぎても、チームチャットは止まらない。
帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。
パンプスを脱ぐ気力もなく、玄関に座り込む。
「……もう無理」
誰に言うでもなく呟いた。
部屋はまだ段ボールだらけ。
カーテンも仮のまま。
冷蔵庫には水とヨーグルトしかない。
でも、今日は眠れる。
そう思った。
シャワーを浴びて、髪も乾かさずにベッドへ倒れ込む。
その直後。
――コン、コン。
――ドン。
私は目を開けた。
嫌な予感がした。
数秒後、また聞こえた。
女の笑い声。
昨日とは違う声だった。
私はゆっくり身体を起こす。
昨日の女性より、少し高い声。
笑い方も違う。
甘え方も違う。
そんなこと、分かりたくもないのに分かってしまう。
二日連続。
しかも、相手が違う。声から分かる。
つまりこれは、たまたまではない。
この部屋の隣には、女を連れ込むことを日課にしている男が住んでいる。
私は枕を抱えて、壁を睨んだ。
文句を言うべきか。
いや、でも入居早々トラブルは避けたい。
管理会社に言う?
でも、具体的に何と説明するのか。
隣の夜の音がうるさいです。
言える。
言えるけれど、言いたくない。
三十二歳で失恋して、同棲を解消して、引っ越し初日から隣人の情事に悩まされている。
惨めすぎて笑えない。
私は布団を頭までかぶった。
それでも、音は遠慮なく届く。
なぜ私が我慢しなければならないのか。
こちらは高い家賃を払っている。
静かに眠る権利がある。
仕事で消耗しきったあとに、他人の恋愛事情を壁越しに聞かされる義理はない。
怒りが、じわじわと疲労を押しのけていった。疲れた。
***
三日目。
また違う声が聞こえ始めた。
その瞬間、私の中で何かが切れた。
時計を見ると、午前一時過ぎ。
明日も朝から会議がある。
クライアントへの提案前で、資料の最終確認も残っている。
なのに、眠れない。
壁の向こうから聞こえてくる無遠慮な音に、私はゆっくり立ち上がった。
部屋着の上にカーディガンを羽織る。
髪は乱れていたけれど、もうどうでもよかった。
怒っている女は、身だしなみよりも正当性を優先する。
玄関でスリッパを脱ぎ、廊下に出た。
深夜のマンションの廊下は、妙に静かだった。
足音が床に小さく響く。
その静けさの中で、隣の部屋だけが現実から少し浮いているように思えた。
私は隣室の前に立つ。
表札はない。
この時間にチャイムを押すのは非常識かもしれない。
でも、非常識なのはどっちだ。
私はインターホンに指を伸ばした。
ピンポーン。
音が鳴った。
数秒、沈黙。
中で慌てたような気配がした。
足音。
何かを小声で言う音。
私は腕を組み、唇を引き結んだ。
ドアの向こうで鍵が開く。
ガチャリ。
扉が少しだけ開いた。
「……はい?」
現れた男を見た瞬間。
私は、言おうとしていた言葉を忘れた。
最初に目に入ったのは、目だった。
少しだけ気怠げで。
それなのに、人を真っ直ぐ見抜くような視線。
濡れたような黒い髪。
昔より少し骨張った輪郭。
ゆるく開いた黒いシャツの襟元。
五年。
たった五年。
でも、人はこんなにも変わるのかと思った。
いや。
違う。
変わっていない。
その奥にいる人間を、私は知っている。
知ってしまっている。
だから厄介だった。
忘れたと思っていた。
名前も。
声も。
全部。
ちゃんと忘れたと思っていたのに。
目の前に立たれた瞬間、身体だけが勝手に思い出す。
島原翔太 (しまばらしょうた)
二十一歳だった元恋人。
最後まで、ちゃんと別れられなかった人。
置いてきたと思っていた恋だった。
木曜日になった。午後の定例まで、少しだけ時間が空いた。社内チャットの通知が流れる。相変わらず仕事は多い。それなのに、少し前ほど息苦しくない。私はコーヒーを口に運びながら、ぼんやり窓の外を眺めた。失恋した直後は違った。何をしていても気持ちが沈んでいた。仕事をしていても集中しきれず、家へ帰れば静かすぎる部屋に気持ちが引き戻された。拓也と過ごした時間ばかり思い出していた。今も、思い出さないわけではない。ただ。思い出しても、そのまま次の仕事へ戻れる。ちゃんと眠れる。ちゃんと食べられる。そんな変化を、自分でも感じていた。「珍しくぼーっとしてるな」顔を上げる。正人だった。紙カップを二つ持っている。そのまま向かいへ腰を下ろし、一つを私の前へ滑らせた。「ありがとう」「最近ちゃんと水分取るようになったから、褒めてやる」「何その上から目線」思わず笑う。正人も小さく笑った。最近の正人は、少しだけ変だ。いや、変というより、前より細かいところを見ている気がする。風邪を引いてから、特にそうだ。ありがたい。ありがたいけれど、たまに保護者みたいだなと思う。「そういえば」ふと思い出す。「麻衣ちゃん、どうなの?」正人がコーヒーへ伸ばした手を止めた。正確には、止まったというより、紙カップを持ったまま私を見た。「何が」「いや、なんかいい感じじゃない?」私は軽い気持ちだった。先日の打ち上げを思い出す。麻衣ちゃんは、正人の隣にいる時間が長かった。話すたびに楽しそうだったし、帰り際も最後まで残っていた。あれは分かりやすかった。少なくとも、私にはそう見えた。正人はすぐには返事をしなかった。それからようやく口を開く。「勝手なこと言うな」「だって」私は肩をすくめる。「普通に合いそうじゃない?」正人は苦笑した。けれど、その笑い方はどこか力が抜けきっていない。口元だけが形を作って、目の奥は少しも笑っていなかった。「何でそうなるんだよ」「いや、本当に」私は本気だった。「正人って普通にモテるじゃん」その瞬間、正人の視線がほんの少しだけ逸れた。テーブルの上。紙カップ。そこへ一度目を落としてから、また私を見る。その動きが妙にゆっくりだった。「何その評価」「客観的な評価」私は笑って、指を折る。「仕事で
水曜日の夜。ランニングマシンの速度を落としながら、愛子は大きく息を吐いた。耳元で流れていた音楽を止める。汗ばんだ首筋にタオルを当てると、じんわりと熱が引いていくのが分かった。最近、この時間が嫌いじゃない。仕事だけして帰る日々から、少しだけ抜け出せている気がする。失恋した直後は、何をしていても頭の片隅に拓也がいた。でも今は違う。走っている間だけは何も考えなくて済む。それが少しありがたかった。ストレッチスペースへ移動しようとした時だった。「小林さん」後ろから声がする。振り返ると、ジムのトレーナーだった。二十代後半くらい。いつも愛想が良くて、よく会員に声を掛けている人だ。「あ、お疲れさまです」「だいぶフォーム安定してきましたね」愛子は少し笑った。「本当ですか?」「最初の頃より全然」そう言いながら、しゃがみ込んでタブレットを見せてくる。走行記録。心拍数。消費カロリー。思ったよりちゃんと見ているらしい。「続いてますね」「自分でもびっくりです」「週二回ですよね?」「そうです」「十分です」熱心な人だなと思う。仕事もちゃんとしていそうだ。広告業界にいたら重宝されそう。そんなことを考えていると。「もし良かったら、一回フォーム見ますよ」と続いた。「パーソナルですか?」「そうです」営業か。でも押し付ける感じはない。愛子は苦笑する。「固定予約って難しいんですよね」「合わせますよ」「仕事が読めなくて」「じゃあ」トレーナーが少しだけ笑う。「チャットアプリ交換しておきます?」「空いてる時だけでも」愛子は一瞬だけ考えた。確かに便利かもしれない。でも。仕事でもプライベートでも通知だらけなのに、さらに増えるのも面倒だ。「すみません」愛子は笑った。「まず続けられるか確認してからにします」「あー」トレーナーが残念そうに笑う。「確かに」その時だった。何となく視線を感じた。愛子が顔を上げる。少し離れたフリーウェイトエリア。翔太がいた。黒いTシャツ姿。ベンチから立ち上がったところだった。一瞬だけ目が合う。あ。見られてた。そんな気がした。けれど翔太は何事もなかったように視線を外し、ペットボトルを口元へ運んだ。愛子も特に気にしなかった。***ジムを出る頃には二十二時を回
木曜日の午後。定例前のオフィスには、独特の慌ただしさが流れていた。まだ会議は始まっていない。それなのに、誰も完全には休んでいない。資料を開きながら社内チャットを返す人。会議室の前で最終確認をしている人。コーヒー片手に数字を見直している人。ラウンジの窓際で、私は正人と並んでパソコンを開いていた。春の日差しがガラス越しに差し込んでいる。少し前まで毎日終電だったことを思うと、今日はまだ平和な方だった。「この導線、やっぱり弱いかも」私は資料を見ながら言う。正人が画面を見たまま頷いた。「数字先に出した方がいい」「やっぱり?」「うん。その方が納得する」私は小さく息を吐いた。「思った」「じゃあ順番変える」短い。でも通じる。五年。一緒に仕事をしていると、説明がどんどん減っていく。何を気にしているか。どこで引っかかっているか。大体分かる。正人がコーヒーを持ち上げる。「最近ちょっと戻ったな」私は顔を上げた。「何が?」「顔」思わず笑う。「またそれ?」「さやかにも言われた」「じゃあ正解」即答だった。私は肩をすくめる。「最近ジム行き始めたからかな」正人が少し眉を上げた。「珍しい」「幽霊会員復活」「偉いじゃん」「太ったので」即答すると、正人が小さく笑った。その笑い方が少し柔らかかった。安心したみたいに見える。私は気づかない。ただ最近、自分でも少し戻ってきたと思っていた。失恋して。引っ越して。風邪もひいて。色々止まっていた。でも今は違う。ちゃんと食べて。ちゃんと寝て。少し運動もして。少しずつ、自分の生活を取り戻している。「あ、正人さん!」後ろから声が飛んできた。振り返る。麻衣だった。人懐っこくて、誰とでもすぐ仲良くなるタイプの後輩だ。「この前の案件、本当に助かりました!」麻衣はそのまま正人のデスク横へしゃがみ込む。近い。でも本人は全く気にしていない。正人は少しだけ椅子を引いた。「お疲れ」「今度ランチ連れてってくださいよ」「みんなでなら」「あー、また逃げる」麻衣が唇を尖らせる。「正人さん絶対モテますよね」「仕事戻れ」「ひどーい!」笑いながら去っていく。私はその背中を見送りながら、思わず吹き出した。「なに」正人が言う。「いや」私は肩を揺らす
もっと何か言われると思った。それだけ?とか。続かなそうですね、とか。そういう軽口を想像していた。でも翔太は、普通に肯定した。「久しぶりなら、それくらいでいいと思います」その言い方が、少しだけ意外だった。昔の翔太なら、もっと分かりやすく心配した気がする。今は違う。押しつけない。でも、見ている。そういう距離感だった。「翔太は?」私は聞く。「筋トレ?」「はい」「いつから?」「ここ一年くらいですかね」「へえ」一年。私の知らない一年。その中で、翔太はこうやって身体を作っていたのかと思う。仕事をして。出張して。英語で電話して。本を読んで。ジムに通って。私の知らない生活が、ちゃんと積み重なっている。目の前の肩や腕の線は、その時間の結果だった。私はつい、翔太の腕へ視線を落としてしまう。すぐに戻したつもりだった。でも、翔太には見えていたらしい。「何ですか」低い声で聞かれる。昨日と同じような言い方だった。私は少しだけ焦る。「いや」「はい」「ちゃんと鍛えてるんだなと思って」翔太は一瞬黙った。それから少し視線を逸らす。「まあ、多少」その返しが妙に控えめで、少し笑ってしまった。「多少じゃないでしょ」「そうですか」「うん」言ってから、また少し恥ずかしくなる。昨日から私は何をしているんだろう。でも、そう思ったのだから仕方ない。翔太はタオルで首元の汗を拭いた。その仕草が妙に大人びて見えて、私はまた少しだけ目を逸らす。「無理しないでくださいね」翔太が言う。「今日初日なので」「初日っていうか復帰日」「じゃあ復帰戦」「大げさ」「でも、続けるなら最初に頑張りすぎない方がいいです」その言い方に、少しだけ笑う。「ちゃんとしてる」「何がですか」「言うこと」翔太は少しだけ肩を竦めた。「大人なので」昨日の私の言葉を拾ったのだと分かって、思わず笑ってしまう。「根に持ってる?」「少し」「褒めたのに」「褒め方が雑なので」そう言いながらも、翔太の目元は少し柔らかかった。昨日よりは、うまく受け流している。でも、完全に平気というわけでもなさそうだった。そういうところに、昔の翔太が少しだけ残っている。私はマットの上で膝を抱えたまま、ふっと息を吐いた。「でも、来てよかった」自然に言