隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

41 チャプター

第31話:恋愛の準備運動

土曜日の昼近く。私はソファの上で目を覚ました。首が痛い。薄く開いたカーテンの隙間から昼の光が差し込んでいる。テーブルの上には空になったペットボトル。昨日のコンビニ袋。途中で閉じたノートパソコン。提案が終わった安心感と疲労に負けて、そのまま寝落ちしたらしい。私は額を押さえながらゆっくり身体を起こした。「……終わってる」掠れた声が部屋に落ちる。時計を見る。もう十一時を過ぎていた。久しぶりに何も予定のない土曜日だった。冷蔵庫を開ける。ヨーグルト。卵。賞味期限が怪しい野菜。以上。私は静かに扉を閉めた。考えるまでもない。買い出しだ。適当に髪をまとめてパーカーを羽織る。スウェットのまま財布だけ持って部屋を出た。完全に休日仕様だった。誰にも会いたくない日の格好。エレベーターのボタンを押したところで、隣のドアが開く音がした。振り返る。翔太だった。黒のスウェットにキャップ。片手にはコンビニの袋。こちらを見るなり、一瞬だけ動きが止まる。それから少しだけ口元が緩んだ。「……寝起きですか」私は顔をしかめた。「最悪だから見ないで」「もう見ました」即答だった。悔しい。でも少し笑ってしまう。エレベーターが到着する。二人で乗り込む。狭い箱の中に沈黙が落ちる。でも最近は、その沈黙が前ほど重くない。「買い出し?」翔太が聞く。「冷蔵庫が壊滅してて」私はため息をつく。「生き延びるための買い物」翔太の視線が私の財布だけを持った手に落ちた。そのあと、少しだけ呆れたように笑う。「また適当に済ませる気ですね」「失礼」「だいたい分かります」そう言われると反論できない。忙しい時ほど食事が雑になる。昔からそうだった。放っておくとコーヒーとヨーグルトだけで一日終わる。翔太は少しだけ首を傾げた。「ちゃんと食べてください」その言い方に、私は思わず笑う。「昔も言われた気がする」言ってから少しだけ間が空いた。翔太の視線が静かに動く。「覚えてるんですね」「半年一緒にいたんだから」私は肩をすくめた。特別な意味はない。ただの事実。でも、その言葉のあとに落ちた沈黙は少しだけ柔らかかった。エレベーターが一階に着く。扉が開く。「じゃあ」「ちゃんと食べてください」また言う。私は吹き出した。「
last update最終更新日 : 2026-07-03
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第32話:まだ、準備中

月曜日。ランチタイム。会社近くのデリは今日も混んでいた。ノートパソコンを開いたまま食事をしている人。会議帰りらしいスーツ姿の集団。どの席からも仕事の単語が聞こえてくる。広告業界と事業会社の人間が集まるこの辺りでは、割と普通の光景だった。私はサラダボウルをつつきながら、小さく息を吐く。久しぶりに少しだけ平和な昼休みだった。「で?」向かいに座った正人がコーヒーを置く。私は顔を上げた。「何」「どうだったの」その言い方だけで分かる。私は思わず笑った。「その聞き方、さやかみたい」「気になるだろ」正人は悪びれもなく言う。確かに、宮沢さんとの食事の話はしていなかった。というより。するほどの話でもないと思っていた。私はフォークを置く。「楽しかったよ」そう答えると、正人は小さく頷いた。でも、それで終わらない顔をしている。「でも?」思わず笑ってしまう。「何で分かるの」「その言い方」即答だった。私は苦笑する。本当に。昔から変なところだけ鋭い。「いや、本当に楽しかったんだよ」料理も美味しかったし。会話も楽しかった。気遣いも自然だった。沈黙も苦じゃなかった。「良い人だった」そう言うと、正人は少しだけ視線を落とした。紙コップの蓋を指先でなぞる。その仕草が妙にゆっくりだった。「でも?」二度目だった。私は少し考える。考えてから、自分でも驚くほど素直に口を開く。「まだ戻ってないんだと思う」正人が顔を上げる。私は窓の外へ視線を向けた。「人を好きになる感じ」言葉にしてみると、妙にしっくりきた。宮沢さんは良い人だった。たぶん普通なら、ちゃんと向き合うべき相手なんだと思う。でも。食事をしていても。帰り道でも。心が少し離れた場所にいる感じがした。「恋愛のやり方忘れたみたい」そう言うと、正人が小さく笑う。笑ったけれど。その笑いは少しだけ弱かった。「まだ数ヶ月だろ」しばらくしてから返ってくる。「そんなもんじゃない?」私は肩をすくめた。「数ヶ月って言われると生々しい」「事実だからな」正人はそう言ってコーヒーを飲む。いつも通りの声だった。いつも通りのはずなのに。なぜか少しだけ間が長かった気がした。私は首を傾げる。「何?」「いや」正人は視線を逸らした。「別に」その返
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第33話:少し外を見る

金曜日。久しぶりに、定時より少し早く会社を出た。とはいえ、十八時半。広告業界の感覚では、十分早い。私はパソコンを閉じて、椅子の背にもたれた。窓の外はまだ少し明るい。夕方と夜の境目みたいな色が、ビルのガラスに薄く映っている。最近、少しだけ生活が戻ってきている気がした。拓也と別れて。引っ越して。風邪を引いて。仕事に追われて。気づけば、失恋だけを考える時間は減っていた。痛くなくなったわけじゃない。思い出すと、まだ胸の奥が少し沈むことはある。でも、痛みだけで一日が終わる日は減った。仕事をして。正人とくだらない話をして。さやかに笑われて。翔太とエレベーターで普通に話して。そういう小さな時間が、少しずつ戻ってきている。悪いことではない。たぶん。スマホが震えた。さやかだった。【今日飲める?】私は少しだけ画面を見つめてから、返信する。【めずらしい。飲める】送信してから、ふっと笑った。飲みに行こうと思えるくらいには、元気になったのだと思う。***会社近くの店は、金曜にしては少し落ち着いていた。カウンターの奥に並ぶボトル。低めの照明。グラスが触れ合う音。仕事帰りの人たちの声。そういう音に混ざっていると、やっと週末が来た感じがした。さやかはワインを飲みながら、私の顔をじっと見た。「戻ってきたね」「何が?」「顔」即答だった。私は思わず笑う。「最近そればっかり言われる」「だって本当に戻ってきたもん」さやかは遠慮なく言う。「前はずっと、魂どっか置いてきた顔してた」「言い方」「でも今は、ちゃんとここにいる感じ」その言葉に、少しだけ黙る。ちゃんとここにいる。そう言われると、胸の奥にゆっくり落ちるものがあった。少し前の私は、確かにどこかに置いてきたままだったのかもしれない。拓也と暮らしていた部屋。別れた日の玄関。引っ越しの段ボール。戻ってきた観葉植物。その全部に、自分の一部が引っかかっていた。「まだ完全ではないけどね」さやかが続ける。「でも前よりはいい」「そうかも」私はグラスを持ち上げる。「最近、少し普通」「普通って大事だよ」さやかは軽く言う。でもその声は優しかった。しばらく仕事の話をしたあと、さやかが思い出したように聞いた。「宮沢さんは?」私は少しだけ苦笑する
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第34話:戻ってきた実感

「前よりちゃんと笑うし、食べてる」「食べてるは最近みんなに監視されてるから」「監視されるような生活してたからだろ」「正論が痛い」少し笑う。でも、正人はそのあとすぐには笑わなかった。紙コップを持つ手に、少しだけ力が入っているように見えた。何か言いかけている。そんな顔だった。けれど、結局何も言わずにコーヒーを置く。「まあ」正人は少しだけ息を吐いた。「会っとけばいいんじゃない」「軽い」「嫌じゃないなら」「うん」「急がなくていいけど」その声が、いつもより少しだけ低かった。私はスプーンを止める。正人の横顔を見る。いつも通りに見える。でも、どこか言葉を選んでいるようにも見えた。「今日、何か優しいね」そう言うと、正人はようやくこちらを見た。「いつも優しいだろ」「自分で言う?」「誰も言わないから」私は笑った。正人も笑う。その笑顔はいつも通りだった。でも、さっきの少し長い間だけが、なぜか頭の片隅に残った。***木曜日。定時後。スーパーの袋を片手に、私はマンションへ戻った。カット野菜。豆腐。冷凍うどん。サラダチキン。料理とは言えない。でも、コンビニでスープだけ買って終わらせるよりは、だいぶましだ。最近、少しだけ生活を戻そうと思っている。ちゃんと食べる。ちゃんと寝る。少しだけ人に会う。止まりすぎていた自分を、少しずつ動かす。そのくらいでいい。エントランスへ入ると、エレベーター前に人影があった。翔太だった。片手にはコンビニ袋。目が合う。「あ」「お疲れさまです」「お疲れ」自然に返せる。最近、本当によく会う。でも、それを嫌だとは思わなくなっている。翔太の視線が私の手元へ落ちた。「珍しいですね」「スーパー」私は少しだけ得意げに袋を持ち上げる。「今日は冷蔵庫をちゃんと稼働させます」翔太の口元が緩む。「成長ですね」「失礼」エレベーターが来る。二人で乗り込むと、袋の中の冷凍うどんが小さく音を立てた。静かな箱の中に、その生活感だけが少し響く。「最近ちょっと生活戻そうと思って」私は袋を見下ろしながら言った。「いいことですね」「翔太にまた言われそうだし」「言いますよ」「見張られてるみたい」「隣人の特権です」さらっと返されて、私は笑った。「そんな特権あったん
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第35話:少しだけ、眩しい

水曜日。二回目の食事は、前より少し楽だった。宮沢さんは相変わらず穏やかで、無理に会話を盛り上げようとしない人だった。こちらが言葉を選ぶと、急かさずに待ってくれる。仕事の話も、少しだけプライベートの話も、自然に続いた。それなのに。落ち着きすぎている。それが少しだけ、自分でも分かった。「最近、少し顔つき変わりましたよね」食後のコーヒーを飲んでいる時、宮沢さんがふいに言った。私はカップを持ったまま少し止まる。「そうですか?」「前より、少し柔らかくなった気がします」優しい言い方だった。「最近、やっと普通に戻ってきた感じで」「無理してたんですね」その言葉に、図星を刺された気がした。でも嫌な感じはしなかった。それなのに、気持ちはまだどこか静かなままだった。あっという間に時間は過ぎて。帰り際、店の外で宮沢さんが立ち止まった。「また会えますか」前より少しだけ、踏み込んだ声だった。私は一瞬だけ考える。「ぜひ」そう返すと、宮沢さんは安心したように笑った。その笑顔を見ながら、私は自分の中の静けさを、少しだけ持て余していた。***翌日。正人と会社近くのカフェでランチをした。私はスープを混ぜながら、まだ少しだけ昨日のことを考えていた。「昨日、また行ったんだ」向かいに座った正人が、サンドイッチの包みを開きながら言った。私は顔を上げる。「何で分かったの」「退勤前に化粧直ししてたし」「あと、いつもより綺麗めな格好してた」「見てたの?」「見えるだろ、普通に」その言い方があまりにも自然で、少し笑ってしまった。「どうだった」「楽しかったよ」「うん」「ちゃんと楽しかった」そう言いながら、少しだけ苦笑してしまう。言い足した時点で、たぶんもう答えは出ている。正人もそれを分かっている顔をした。「でも?」私はスプーンを置いた。「まだ、よく分からない」「楽しくないわけじゃないんだよ」「うん」「良い人だし、話しやすいし」「うん」「でも、恋愛っていう感じかって言われると」そこで言葉が止まる。自分でも、どう言えばいいのか分からなかった。正人は少しだけ目を伏せる。それから、静かに頷いた。「愛子、最近戻ってきたところだしな」その声は柔らかかった。茶化すでもなく、急かすでもなく、ただ今の私をそのまま置いて
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第36話:身体を動かす理由

土曜日の午後。私はクローゼットの前で、しばらく立ち尽くしていた。奥の方に押し込まれていたジム用のバッグ。その上には、使っていないトートバッグや、季節外れのストールが雑に重なっている。引っ張り出すと、少しだけ埃っぽい匂いがした。「……ひどい」思わず声が出る。最後に使ったのはいつだっただろう。たぶん、拓也と別れる前。いや、その前からもうほとんど行っていなかった気がする。家からも会社からも通いやすい場所にあるから、契約した時は便利だと思った。仕事帰りに少し走って帰る。週末に軽く身体を動かす。そういう生活をするつもりだった。でも実際には、忙しさを言い訳にして、そのまま幽霊会員になった。月会費だけが引き落とされていく。健康的な生活への、無言の罰金みたいに。私はバッグのファスナーを開ける。中には、畳んだままのウェアと、少し古いタオルが入っていた。久しぶりに触るスポーツ用の生地は、妙に軽かった。昨日の夜。エレベーターで会った翔太の姿を思い出す。黒いトレーニングウェア。少し湿った前髪。ジムバッグ。昔より厚くなった肩。かっこよくなったな、なんて。自分でも驚くようなことを口にした。思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。別に、変な意味じゃない。本当にそう思っただけだ。昔知っていた人が、知らない時間の中でちゃんと大人になっていた。そのことに、少し驚いただけ。そう自分に言い聞かせながら、私はウェアを取り出した。別に翔太に影響されたわけじゃない。たぶん。ただ、昨日ジムの話をした時に思い出したのだ。私も契約していた。行こうと思えば行ける場所がある。そして今は、少しだけ行ってみようと思える。それが意外だった。少し前なら無理だったと思う。休みの日は、ただ横になっていたかった。何かを始める気力なんてなかった。拓也のことを考えないようにするだけで精一杯で、自分の身体のことまで手が回らなかった。でも今は違う。完璧に元気になったわけじゃない。何もかも平気になったわけでもない。それでも。身体を動かしたいと思えた。汗をかいて。呼吸を整えて。自分の中に残っている重たいものを、少しだけ外へ出したい。そう思えた。私は鏡の前で髪を結び直した。黒のレギンス。大きめの白いTシャツ。薄いパーカー。化粧は最低限。
last update最終更新日 : 2026-07-03
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第37話:ジムに行けた

もっと何か言われると思った。それだけ?とか。続かなそうですね、とか。そういう軽口を想像していた。でも翔太は、普通に肯定した。「久しぶりなら、それくらいでいいと思います」その言い方が、少しだけ意外だった。昔の翔太なら、もっと分かりやすく心配した気がする。今は違う。押しつけない。でも、見ている。そういう距離感だった。「翔太は?」私は聞く。「筋トレ?」「はい」「いつから?」「ここ一年くらいですかね」「へえ」一年。私の知らない一年。その中で、翔太はこうやって身体を作っていたのかと思う。仕事をして。出張して。英語で電話して。本を読んで。ジムに通って。私の知らない生活が、ちゃんと積み重なっている。目の前の肩や腕の線は、その時間の結果だった。私はつい、翔太の腕へ視線を落としてしまう。すぐに戻したつもりだった。でも、翔太には見えていたらしい。「何ですか」低い声で聞かれる。昨日と同じような言い方だった。私は少しだけ焦る。「いや」「はい」「ちゃんと鍛えてるんだなと思って」翔太は一瞬黙った。それから少し視線を逸らす。「まあ、多少」その返しが妙に控えめで、少し笑ってしまった。「多少じゃないでしょ」「そうですか」「うん」言ってから、また少し恥ずかしくなる。昨日から私は何をしているんだろう。でも、そう思ったのだから仕方ない。翔太はタオルで首元の汗を拭いた。その仕草が妙に大人びて見えて、私はまた少しだけ目を逸らす。「無理しないでくださいね」翔太が言う。「今日初日なので」「初日っていうか復帰日」「じゃあ復帰戦」「大げさ」「でも、続けるなら最初に頑張りすぎない方がいいです」その言い方に、少しだけ笑う。「ちゃんとしてる」「何がですか」「言うこと」翔太は少しだけ肩を竦めた。「大人なので」昨日の私の言葉を拾ったのだと分かって、思わず笑ってしまう。「根に持ってる?」「少し」「褒めたのに」「褒め方が雑なので」そう言いながらも、翔太の目元は少し柔らかかった。昨日よりは、うまく受け流している。でも、完全に平気というわけでもなさそうだった。そういうところに、昔の翔太が少しだけ残っている。私はマットの上で膝を抱えたまま、ふっと息を吐いた。「でも、来てよかった」自然に言
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第38話:春、到来?

木曜日の午後。定例前のオフィスには、独特の慌ただしさが流れていた。まだ会議は始まっていない。それなのに、誰も完全には休んでいない。資料を開きながら社内チャットを返す人。会議室の前で最終確認をしている人。コーヒー片手に数字を見直している人。ラウンジの窓際で、私は正人と並んでパソコンを開いていた。春の日差しがガラス越しに差し込んでいる。少し前まで毎日終電だったことを思うと、今日はまだ平和な方だった。「この導線、やっぱり弱いかも」私は資料を見ながら言う。正人が画面を見たまま頷いた。「数字先に出した方がいい」「やっぱり?」「うん。その方が納得する」私は小さく息を吐いた。「思った」「じゃあ順番変える」短い。でも通じる。五年。一緒に仕事をしていると、説明がどんどん減っていく。何を気にしているか。どこで引っかかっているか。大体分かる。正人がコーヒーを持ち上げる。「最近ちょっと戻ったな」私は顔を上げた。「何が?」「顔」思わず笑う。「またそれ?」「さやかにも言われた」「じゃあ正解」即答だった。私は肩をすくめる。「最近ジム行き始めたからかな」正人が少し眉を上げた。「珍しい」「幽霊会員復活」「偉いじゃん」「太ったので」即答すると、正人が小さく笑った。その笑い方が少し柔らかかった。安心したみたいに見える。私は気づかない。ただ最近、自分でも少し戻ってきたと思っていた。失恋して。引っ越して。風邪もひいて。色々止まっていた。でも今は違う。ちゃんと食べて。ちゃんと寝て。少し運動もして。少しずつ、自分の生活を取り戻している。「あ、正人さん!」後ろから声が飛んできた。振り返る。麻衣だった。人懐っこくて、誰とでもすぐ仲良くなるタイプの後輩だ。「この前の案件、本当に助かりました!」麻衣はそのまま正人のデスク横へしゃがみ込む。近い。でも本人は全く気にしていない。正人は少しだけ椅子を引いた。「お疲れ」「今度ランチ連れてってくださいよ」「みんなでなら」「あー、また逃げる」麻衣が唇を尖らせる。「正人さん絶対モテますよね」「仕事戻れ」「ひどーい!」笑いながら去っていく。私はその背中を見送りながら、思わず吹き出した。「なに」正人が言う。「いや」私は肩を揺らす
last update最終更新日 : 2026-07-03
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第39話:少し楽な距離

水曜日の夜。ランニングマシンの速度を落としながら、愛子は大きく息を吐いた。耳元で流れていた音楽を止める。汗ばんだ首筋にタオルを当てると、じんわりと熱が引いていくのが分かった。最近、この時間が嫌いじゃない。仕事だけして帰る日々から、少しだけ抜け出せている気がする。失恋した直後は、何をしていても頭の片隅に拓也がいた。でも今は違う。走っている間だけは何も考えなくて済む。それが少しありがたかった。ストレッチスペースへ移動しようとした時だった。「小林さん」後ろから声がする。振り返ると、ジムのトレーナーだった。二十代後半くらい。いつも愛想が良くて、よく会員に声を掛けている人だ。「あ、お疲れさまです」「だいぶフォーム安定してきましたね」愛子は少し笑った。「本当ですか?」「最初の頃より全然」そう言いながら、しゃがみ込んでタブレットを見せてくる。走行記録。心拍数。消費カロリー。思ったよりちゃんと見ているらしい。「続いてますね」「自分でもびっくりです」「週二回ですよね?」「そうです」「十分です」熱心な人だなと思う。仕事もちゃんとしていそうだ。広告業界にいたら重宝されそう。そんなことを考えていると。「もし良かったら、一回フォーム見ますよ」と続いた。「パーソナルですか?」「そうです」営業か。でも押し付ける感じはない。愛子は苦笑する。「固定予約って難しいんですよね」「合わせますよ」「仕事が読めなくて」「じゃあ」トレーナーが少しだけ笑う。「チャットアプリ交換しておきます?」「空いてる時だけでも」愛子は一瞬だけ考えた。確かに便利かもしれない。でも。仕事でもプライベートでも通知だらけなのに、さらに増えるのも面倒だ。「すみません」愛子は笑った。「まず続けられるか確認してからにします」「あー」トレーナーが残念そうに笑う。「確かに」その時だった。何となく視線を感じた。愛子が顔を上げる。少し離れたフリーウェイトエリア。翔太がいた。黒いTシャツ姿。ベンチから立ち上がったところだった。一瞬だけ目が合う。あ。見られてた。そんな気がした。けれど翔太は何事もなかったように視線を外し、ペットボトルを口元へ運んだ。愛子も特に気にしなかった。***ジムを出る頃には二十二時を回
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第40話:春の気配

木曜日になった。午後の定例まで、少しだけ時間が空いた。社内チャットの通知が流れる。相変わらず仕事は多い。それなのに、少し前ほど息苦しくない。私はコーヒーを口に運びながら、ぼんやり窓の外を眺めた。失恋した直後は違った。何をしていても気持ちが沈んでいた。仕事をしていても集中しきれず、家へ帰れば静かすぎる部屋に気持ちが引き戻された。拓也と過ごした時間ばかり思い出していた。今も、思い出さないわけではない。ただ。思い出しても、そのまま次の仕事へ戻れる。ちゃんと眠れる。ちゃんと食べられる。そんな変化を、自分でも感じていた。「珍しくぼーっとしてるな」顔を上げる。正人だった。紙カップを二つ持っている。そのまま向かいへ腰を下ろし、一つを私の前へ滑らせた。「ありがとう」「最近ちゃんと水分取るようになったから、褒めてやる」「何その上から目線」思わず笑う。正人も小さく笑った。最近の正人は、少しだけ変だ。いや、変というより、前より細かいところを見ている気がする。風邪を引いてから、特にそうだ。ありがたい。ありがたいけれど、たまに保護者みたいだなと思う。「そういえば」ふと思い出す。「麻衣ちゃん、どうなの?」正人がコーヒーへ伸ばした手を止めた。正確には、止まったというより、紙カップを持ったまま私を見た。「何が」「いや、なんかいい感じじゃない?」私は軽い気持ちだった。先日の打ち上げを思い出す。麻衣ちゃんは、正人の隣にいる時間が長かった。話すたびに楽しそうだったし、帰り際も最後まで残っていた。あれは分かりやすかった。少なくとも、私にはそう見えた。正人はすぐには返事をしなかった。それからようやく口を開く。「勝手なこと言うな」「だって」私は肩をすくめる。「普通に合いそうじゃない?」正人は苦笑した。けれど、その笑い方はどこか力が抜けきっていない。口元だけが形を作って、目の奥は少しも笑っていなかった。「何でそうなるんだよ」「いや、本当に」私は本気だった。「正人って普通にモテるじゃん」その瞬間、正人の視線がほんの少しだけ逸れた。テーブルの上。紙カップ。そこへ一度目を落としてから、また私を見る。その動きが妙にゆっくりだった。「何その評価」「客観的な評価」私は笑って、指を折る。「仕事で
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