All Chapters of 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話:少しずつ落ち着く

金曜日の朝。洗面所の鏡の前に立って、私はいつもより少しだけ長く自分の顔を見ていた。といっても、ほんの数分だ。肌を整えて、眉を描いて、リップを塗る。髪の毛先を軽く巻いて、手ぐしで崩す。それだけのことなのに、鏡の中の自分が少しだけ見慣れた顔に戻っていく気がした。——別に、誰のためでもない。心の中でそう呟いて、リップの蓋を閉める。本当に、誰かのためではなかった。拓也と別れた直後は、鏡を見ることさえしんどかった。自分の顔を見るたびに、三十二歳の誕生日に恋人から別れを告げられた女、という現実を確認させられる気がしたからだ。何を着ても、何を塗っても、どこか空回りしていた。頑張っている自分も、疲れている自分も、まだ傷ついている自分も、全部そこに映ってしまう気がした。でも、最近は少し違う。朝、ちゃんと起きる。簡単でも朝ごはんを食べる。仕事へ行く。昼に何かしら口に入れる。夜、余力があればジムへ行く。帰ってきて、シャワーを浴びて、眠る。たったそれだけの普通が、少しずつ戻ってきた。仕事しかない毎日でもない。恋人がいなくなった穴を、無理に誰かで埋めようとしているわけでもない。ちゃんと、自分の生活の形が戻ってきている。それが少しだけ嬉しかった。拓也のことを思い出しても、もう胸の奥が崩れる感じはしない。好きだった。一緒に暮らした時間もあった。未来を考えたこともあった。でも、もうそこには戻らない。戻りたいとも思わない。その事実が、ようやく身体の中に落ち着いた気がした。今日は金曜日。ちゃんと働いて、できればジムにも行って、週末は少しだけ自分を甘やかそう。そう思いながら、私は玄関の鍵を閉めた。***午後。定例会議の前、私はPCと資料を抱えて会議室へ向かっていた。金曜の午後のオフィスには、週末前の軽さと、今日中に片付けなければいけない仕事の重さが同時に混ざっている。コピー機の音。誰かの電話の声。会議室へ向かう人たちの足音。その中を歩いていると、横から声がした。「重そう」振り向くと、正人だった。ネイビーのジャケットに、少しだけ緩めたネクタイ。相変わらず、忙しい日でも乱れた感じがしない。正人は私の返事を待たずに、自然な動きでPCと資料の半分を受け取った。「え」「持つ」当たり前みたいな顔だった。私は少し眉を上
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第42話:スープとプロテインバー

気まずくはなかった。無理に話さなくてもいい。でも、話せば普通に続く。そのくらいの距離。私はペットボトルを額に当てながら、小さく息を吐いた。「今日、疲れた」ぽろっと出た。相談ではない。愚痴というほどでもない。ただ、今日の天気を言うみたいに、口から落ちた言葉だった。翔太が少しだけ私を見る。疲れている時の顔。口数が減る時。肩が落ちる時。何かを我慢している時。翔太は昔から、そういうところに気づくのが早かった。それも変わっていないのかもしれない。「何か食べました?」「まだ」「それダメです」即答だった。「気力がない」「じゃあ、気力いらないやつにしてください」エレベーターが来る。二人で乗り込むと、扉が静かに閉まった。鏡面に、ジム帰りの私と、コンビニ帰りの翔太が並んで映る。それがあまりにも普通で、少し不思議だった。五年前、私たちは恋人だった。でも今は、隣人としてエレベーターに乗っている。そこに気まずさよりも、生活の匂いの方が濃くなっている。時間というものは、残酷だけれど、時々便利だ。翔太がコンビニ袋を少し見下ろしてから、軽く持ち上げた。「これ、持っていきます?」「え?」「スープとプロテインバー」「何でそんな健康的な組み合わせなの」「俺も一応、気にしてるんで」「意外」「失礼ですね」袋の中を覗くと、温めるタイプのスープと、見覚えのあるプロテインバーが入っていた。「多めに買ったので」翔太はさらっと言った。多めに、という言い方が便利すぎる。本当に多めだったのか、それとも私が食べていないと言ったから渡そうとしているのかは分からない。でも、聞くほどのことでもなかった。「え、いいの?」「食べるなら」私は少し考えた。正直、今の自分が家に帰ってから何かを作るとは思えなかった。でも、食べるかと言われると、そこまで自信もない。「……食べないかも」「じゃあ、なおさら」「なんで」「手元にあった方が、食べる確率上がるでしょ」あまりにも淡々と言うから、少し笑ってしまった。押しつけがましくない。大げさでもない。心配しすぎでもない。でも、ちゃんと見ている。その感じが、最近の翔太にはあった。昔とは少し違う。昔の翔太はもっと真っ直ぐだった。心配なら心配だと顔に出したし、寂しいなら寂しいと言った。
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第43話:知らない関係性

土曜日の夜。エレベーターを降りた瞬間、いつもより少し賑やかな声が聞こえた。廊下の奥。翔太の部屋の方だった。男の人の笑い声。グラスが触れる音。それから、女の子の少し高い声。私は鍵を取り出しながら、ふと視線を向けた。珍しい。そう思ってから、少しだけ笑う。いや、別に珍しくないのかもしれない。私が知らなかっただけだ。翔太にも仕事があって、友達がいて、こういう夜がある。当たり前のことなのに、少しだけ不思議だった。ちょうどその時、翔太の部屋のドアが開いた。「あ」先に気づいたのは翔太だった。手にはコンビニの袋。たぶん、追加の飲み物か何かを取りに出るところだったのだろう。「おかえりなさい」「ただいま」自然に返してから、私は少し笑った。「楽しそうだね」翔太は一度、部屋の奥を振り返った。中から、誰かが「翔太、氷ある?」と声をかけている。「同期です」「へえ」私は軽く頷く。「ちゃんと人呼ぶんだ」「どういう意味ですか」「いや、なんか最近は落ち着いてるから」少し考えてから続ける。「一人で静かに暮らしてそうだった」翔太が小さく笑った。「そこまで枯れてないです」その言い方が少し面白くて、私も笑った。会話は軽い。最初の頃みたいな変な緊張は、もうない。深夜に騒音の文句を言いに行った時のあの動揺は、いつの間にかかなり薄れていた。今は、隣に住んでいる人。昔を少し知っている人。会えば挨拶して、時々くだらない話をする人。そのくらいの場所に、翔太は少しずつ落ち着き始めている。でも、ドアの向こうにある賑やかさだけは、少しだけ知らない世界みたいだった。翔太の部屋に人がいる。私の知らない時間の中でできた関係が。そこにある。ただ、不思議だった。その時、部屋の中から一人の女の子が顔を出した。「翔太くん、これどこ置けば——」言いかけて、私に気づく。ふわっとした髪。小さな顔。白いニットが似合う、柔らかい雰囲気の子だった。目が合うと、少しだけ驚いたように瞬きをして、それから丁寧に会釈する。私も軽く頭を下げた。それだけ。本当に、それだけだった。でも、自然に思った。あ、可愛い子。しかも、翔太を見る目が少しだけ柔らかい。気のせいかもしれない。でも、女同士だとなんとなく分かる空気がある。好意、というほどはっき
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第44話:気づかないまま

日曜日の昼。私は昨日の夜のことを少しだけ思い出していた。翔太の部屋から聞こえた笑い声。ドアの向こうにいた、あの可愛い子。白いニット。少し緊張したような会釈。翔太を見る時の、柔らかい目。——あれ、絶対ちょっと好きだよね。そう思って、少し笑う。嫌な気持ちはなかった。むしろ、少し微笑ましい。翔太にも、ちゃんとそういう時間がある。自分が知らない五年の中で、ちゃんと人間関係を作っていた。当たり前なのに。少しだけ、安心した。窓の外はよく晴れていた。生活が戻ってきている実感がした。そろそろ前を向いていいのかもしれない。無理に誰かを好きになるとか。急いで恋愛を始めるとか。そういうことではなくて。ただ、また誰かとご飯に行ったり、少しだけときめいたり、未来の話を怖がらずに考えたり。そういう場所に、少しずつ戻っていってもいいのかもしれない。そう思えたことが、自分でも少し意外だった。その時、インターホンが鳴った。宅配だった。受け取って戻る途中、隣のドアが開く。翔太だった。少し眠そうな顔。黒いTシャツに、ラフなパンツ。昨日の片づけの名残なのか、手にはゴミ袋を持っている。「あ」私は笑った。「昨日、楽しかった?」翔太が少しだけ目を細める。「まあ。同期なんで」「へえ」私は軽く頷く。それから、昨日の女の子を思い出して、少し口元を上げた。「あの可愛い子は?」翔太の手が、一瞬だけ止まる。「……あの可愛い子?」「昨日出てきた子」私は完全に茶化す声だった。「応援してるね」翔太は少し息を吐くように笑った。「だから、違いますって」敬語なのに、少しだけ砕けている。そういうところが、最近の翔太らしかった。「違うの?」「違います」「早い」「愛子が変なこと言うからでしょ」ほんの少しだけ、言い方が崩れる。私は笑った。「でも可愛かったよ」「……まあ、いい子ですけど」言ってから、翔太は少しだけ視線を逸らした。「愛子は今日、家?」翔太が話を変える。「うん。洗濯と掃除。あとジム行くか迷ってる」「続いてますね」「褒めて」「えらい」「雑」二人とも少し笑う。その会話の軽さに、少しだけ肩の力が抜けた。終わった人だから。変に気を遣わなくていい。その距離が、最近本当に楽だった。***午後。さやかと
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第45話:言えないままの距離

金曜日になった。この間の話の流れから、自然に3人で飲みに行くことに。愛子から、少し遅れる、と連絡が入った。会社近くの小さなビストロで、正人とさやかは先に席についていた。店内は金曜の夜らしく、ほどよく賑わっている。二人のテーブルだけが少し静かだった。「珍しいね、二人で先に飲むの」さやかがグラスを持ちながら言う。正人はメニューを見たまま、軽く肩をすくめた。「愛子が遅れるって言うから」「ふーん」さやかの声に、少しだけ含みがある。正人は顔を上げない。「何」「別に」「その“別に”は、別にじゃないやつ」さやかは少し笑った。それから、正人の顔をじっと見る。「最近、しんどそうだよね」正人の指が、メニューの端で止まった。ほんの少し。けれど、さやかは見逃さなかった。「仕事?」「仕事はいつも」「じゃあ、愛子?」正人はすぐに答えなかった。店の奥でグラスが鳴る。隣の席の笑い声が、少しだけ大きくなる。正人は水を一口飲んでから、短く息を吐いた。「さやか、ほんと嫌だな」「褒め言葉として受け取る」「褒めてない」さやかは笑わなかった。少しだけ声を落とす。「好きなんでしょ」その一言は、思ったより静かに落ちた。しばらく、テーブルの上に視線を落としたままだった。逃げようと思えば、逃げられた。冗談にすればいい。何言ってんの、と返せばいい。でも、そのどれも選ばなかった。「……うん」小さく言う。さやかの目が、少しだけ柔らかくなる。「いつから?」「わかんない」正人は笑った。少しだけ、自分でも呆れたように。「気づいたら」「愛子は?」「気づいてない」即答だった。「たぶん、全然」さやかはグラスを置く。「まあ、そうだろうね」「言い方」「愛子、自分のことになると鈍いから」正人は少し目を伏せた。「それもわかってる」「じゃあ、言えば?」正人は首を横に振った。早かった。「今じゃない」「いつならいいの」「知らない」声が少しだけ低くなる。「でも、今じゃない」さやかは黙った。正人は続けた。「やっと戻ってきたんだよ、あいつ」水の入ったグラスを、指先でゆっくり回す。「ちゃんと笑うようになって」「ジム行ったり、飯食ったり」「仕事以外の話もするようになって」言いながら、目線がテーブルに落ちる。「
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第46話:少し前を向く練習

火曜日の朝。最近、少しだけ朝が軽い。目覚ましを止めて、そのまま布団に沈む日が減った。コンビニのおにぎりだけで夜を済ませる日も減った。ちゃんとご飯を食べて。週に二回ジムに行って。寝る前に、少しだけストレッチをして。本当に、それだけ。劇的に何かが変わったわけではない。仕事は相変わらず忙しいし、朝から社内チャットは容赦なく鳴る。会議も資料修正も減らない。誰かが私の生活を急に楽にしてくれたわけでもない。それでも、少し違う。身体の内側に、ちゃんと空気が入る感じがする。前は毎日、ただ消耗していた。起きて、働いて、帰って、倒れるように眠る。食べることも、眠ることも、自分のためというより、翌日も仕事をするための作業みたいだった。でも最近は、少しずつ違ってきた。朝に白湯を飲む。肌の調子を見る。今日は少し歩こうかな、と思う。週末に何をしようか考える。そんな小さなことが、少しだけ楽しい。出社前、エレベーターの鏡に映る自分を見る。今日は髪も少し巻いている。なんとなく。本当に、なんとなく。「……悪くないかも」小さく呟いて、自分で少し笑った。そう思えるだけで、十分だった。***午後。定例後、会議室から出ると、肩が思った以上に固まっていた。私は首を回しながら、思わず声を漏らす。「肩死んだ」後ろから正人が笑った。「ずっと座り作業だからね」「もう年かな」「早い」二人で歩きながら、ラウンジへ向かう。その途中で、後輩の麻衣が小走りで近づいてきた。「正人さん!」少し息を切らしている。「あの、資料見てほしいです……」正人が自然に足を止めた。「今?」「五分だけ!」麻衣は困った顔をしているけれど、どこか甘えている感じもある。正人はすぐに画面を見た。「どこで詰まってる?」声が自然に優しい。説明も早い。否定しない。でも甘やかさない。私は横でぼんやり見ていた。面倒見いいな。昔からだけど。最近、なんだか後輩との距離も近い。というか、懐かれている。麻衣は正人の説明を聞きながら、少し安心した顔で笑った。「正人さんって本当に優しいですよね」正人が少し苦笑する。「はいはい、戻る」「また雑なんですけど!」麻衣が笑いながら戻っていく。その背中を見ながら、私は何となく言った。「最近、麻衣ちゃんとの距離近
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第47話:前を向く、一歩

土曜日。ピラティス体験の日だった。正直、少しだけ面倒だった。予約した時の自分を、朝の自分はだいたい恨む。でも、今日はちゃんと起きた。ウェアを着て。軽く髪をまとめて。水をバッグに入れて。電車に乗る。それだけで、少しだけ偉い気がした。スタジオは思ったより静かだった。白い壁。柔らかい照明。マットの上に落ちる薄い光。先生の声に合わせて、呼吸をする。吸って。吐いて。背骨を伸ばす。肩を下げる。お腹に力を入れる。普段使っていない筋肉が、じわじわ痛い。派手な動きではないのに、身体の奥がちゃんと使われている感じがした。途中で何度か、きつい、と思った。でも不思議と嫌ではなかった。終わる頃には、肩が少し軽くなっていた。鏡の前で姿勢を直してみる。いつもより、背筋が伸びて見える。なんか、いいかも。こういうの。悪くない。外へ出ると、空が少し明るかった。春の光だった。まだ風は冷たいけれど、頬に当たる空気が柔らかい。私はスマホを開いて、さやかへメッセージを送る。『ピラティス体験行ってきた』すぐに返信が来た。『えらい!』私は笑う。続けて送る。『思ったより良かった。続けるかも』既読がつく。『愛子、最近いい感じじゃん』その文字を見て、少しだけ立ち止まった。いい感じ。そうかもしれない。本当に、そうかもしれない。前は、自分がいい感じかどうかなんて考える余裕もなかった。誰かに振られた自分。仕事ばかりの自分。三十二歳で、また一人になった自分。そういう言葉ばかりが頭にあった。でも今は少し違う。ジムに行く自分。ピラティスを始めようとしている自分。ちゃんと食べようとしている自分。朝、鏡を見て少し笑える自分。少しずつだけど、増えている。失ったものばかり数えていた時期から、増えていくものを見つけられる場所へ、ちゃんと移ってきている。私は駅までの道を、少しゆっくり歩いた。並木の先に、小さな花が咲いている。名前は分からない。でも、春が来ていることだけは分かった。これから何かが始まるかもしれない。大げさなことではなくてもいい。新しい習慣。新しい服。新しい店。新しい人との会話。そういう小さなものを少しずつ増やしていけたら、それでいい。恋愛も、仕事も、生活も。全部を一気に変えなくていい。た
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第48話:人に会うのも、悪くないかも

平日はいつも通りに時間が過ぎて、あっという間に夜だった。ジム帰り。マンションのエントランスに入ると、エレベーター前に見慣れた背中があった。もう、偶然というより。生活時間が少し似ているのだと思う。「あ」翔太だった。黒いパーカーに、片手にはスポーツドリンク。振り返った顔は少し眠そうで、でも目元だけは相変わらず妙に整っている。最近は、もう自然だった。「今日も行ってた?」半分敬語で、半分タメ語みたいな低い声。私は持っていたバッグを軽く上げた。「今日はピラティス」翔太が少し目を上げる。「ちゃんと続いてるんだ」「続いてる」少し得意げに言うと、翔太が笑った。「偉いじゃん」「褒められてない?」「褒めてます」エレベーターを待つ。短い沈黙。でも、気まずくない。最近、こういう時間が増えた。少し話して。少し笑って。それぞれの部屋へ帰る。ただ、それだけ。でも、なんとなく落ち着く。最初の頃みたいに、翔太の声を聞くだけで昔へ引き戻されることはなくなった。顔を合わせるたびに、心臓が変に跳ねることもない。今はただ、隣に住んでいる人。昔を少し知っていて、今は少しだけ日常を共有している人。その距離が、思ったより楽だった。私はエレベーターの扉に映る自分を見ながら、ぽつりと言った。「最近さ」「うん?」「ちゃんと生きようって思ってるんだよね」翔太が少しだけ私を見る。自分で言ってから、少し笑った。「大げさだけど」「まあまあ大げさですね」「うるさいなあ」少し笑ってから、私は続ける。「でも本当に。仕事だけじゃなくて、何か始めたり、人に会ったり、ちゃんと食べたり」言葉を探す。うまく言えない。でも、今の感覚を少しだけ誰かに言いたかった。「……前ほど、全部無理って感じじゃなくなった」口にすると、自分の中でもその言葉が静かに落ちた。全部無理。少し前の私は、本当にそうだった。恋愛も。仕事以外の予定も。自分の身体のことも。誰かに会うことも。全部、重たかった。でも今は違う。まだ怖さはある。まだ疲れる日もある。それでも、全部が無理ではなくなった。それだけで、少し救われる。翔太はしばらく黙っていた。エレベーターの数字がゆっくり下がってくる。その横顔は、いつもの軽い顔ではなかった。何かを聞いているようで、
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第49話:仕事だから

「——音楽マッチングアプリ?」資料から顔を上げると、会議室のモニターには、洗練されたロゴが映っていた。午後一の新規案件共有。昼食後の少し眠い空気の中で、そのロゴだけが妙に鮮やかに見える。“好きな音楽で人と繋がる”。恋愛だけじゃない。趣味。価値観。友達。共通のプレイリスト。音楽を入口に、人と出会うサービス。上司は淡々と説明を続けた。「ローンチは来月頭。プロモーション開始まで、実質1ヶ月ありません」会議室の空気が、少しだけ変わる。1ヶ月。思ったより短い。私は資料へ視線を落とした。ローンチ初期。継続率が課題。ユーザー理解。最初のマッチ後の体験。音楽をきっかけにした会話導線。新規獲得だけでなく、初回体験の満足度を上げること。見るべきことは多い。でも、時間はない。「初期キャンペーンは、獲得だけに寄せすぎない方がいいと思っています。サービスの思想理解と、初回体験の言語化を急ぎたい」上司の声を聞きながら、私はペンを持つ手を止めた。“マッチ”。その単語が、ほんの少しだけ胸の奥に触れる。恋愛。出会い。誰かと繋がること。少し前なら、仕事として聞いても苦しかったかもしれない。胸のどこかを掠める感じ。まだ整理しきれていないものを、無理やり揺らされる感じ。でも今は、少し違った。痛くないわけじゃない。ただ、息が詰まるほどではない。そのことに、自分が少し驚く。——あれ。私、ちょっと戻ってきた?そんな感覚が、静かに残った。「市場理解は必須です」上司が続ける。「可能なら、実際に使ってください。こういうサービスは、入らないと分からないことが多いので」その言葉に、私は顔を上げた。それは分かる。昔もあった。音楽サブスクの案件。朝のおすすめ。通勤中のプレイリスト。夜の気分。生活に入れて初めて分かることがあった。使って。少し感情が動いて。その導線を理解したから、企画の言葉に温度が乗った。それは、私の仕事の癖でもある。使う。生活に入れる。自分の感覚で理解する。それをやらないと、どうしても言葉が薄くなる。「初回案、来週中に一度見たいです」上司が資料を閉じる。「かなりタイトですが、まずはユーザーインサイトを取りにいきましょう」かなりタイト。軽く言われたその言葉に、会議室の何人かが小さく
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第50話:1ヶ月という期限

「良いんじゃないですか」翔太は少し視線を外して言った。「愛子、そういうのちゃんとやりそうだし」「褒めてる?」「まあ」「雑」「でも本当です」その言い方が少しまっすぐで、私は一瞬だけ黙った。翔太はすぐに、いつもの軽い顔に戻る。「レポート期待してます」「何の?」「マッチングアプリ体験レポート」「嫌な響き」「仕事でしょ」「そうだけど」「じゃあ、ちゃんとやらないと」私は笑った。「隣人にまで詰められるとは思わなかった」「詰めてないです」「詰めてるよ」エレベーターが開く。並んで乗る。鏡に映る自分の顔は、ジム帰りで少し赤い。でも、前より元気に見える。そう思えた。隣の翔太は、いつもより少し静かだった。「そういえば」私はふと思いつく。「翔太って音楽何聴くの?」「急ですね」「仕事の市場理解」「便利に使われてますね俺」「で、何聴くの?」翔太は少し考えた。「夜はわりと静かなやつ」「雑」「人に説明する前提で聴いてないんで」「確かに」「愛子さんは?」「最近は朝に明るいやつ。ジムの時はテンション上がるやつ」「ざっくりしてる」「人に説明する前提で聴いてないんで」翔太が小さく笑った。その笑い方が、少しだけ昔に似ていた。軽くて。気楽で。でも、今の翔太の方が少しだけ引き際を知っている。私はその違いにも、少しずつ慣れてきていた。同じ階で降りる。廊下を並んで歩く。部屋の前で、翔太が少しだけこちらを見た。「使ったら教えてください」「アプリ?」「はい」「何を?」「面白かったかどうか」私は少し笑った。「何、アプリ興味あるの?」「半分」「半分?」翔太はすぐには答えなかった。スポーツドリンクを持つ手が、ほんの少しだけ下がる。それから、何でもない顔で言った。「音楽、気になるんで」「そっちね」「そっちです」私は頷く。「じゃあ、良さそうな曲あったら共有するね」「お願いします」それだけの会話。本当に、それだけだった。でも、部屋に入ってからも、少しだけ残った。音楽。マッチング。誰かと繋がること。仕事だから向き合う。そう思っていた。でも。もしかしたら、仕事という理由があるからこそ、向き合えるのかもしれない。出会いにも。自分にも。もう一度、誰かと何かを始めることにも。私
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