Lahat ng Kabanata ng 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Kabanata 161 - Kabanata 170

380 Kabanata

第161話

署名を終えた直後だった。怜央の目から熱い涙が一粒こぼれ、自分の名をにじませた。続いて、突然血を吐いた。血が書面一面に飛び散った。使用人たちも、その光景に凍りついた。怜央は激しい怒りと悲しみに耐えきれなかったうえ、ろくに食事も睡眠も取っていなかった。すべての力が抜け、そのまま床に崩れ落ちた。シャツは赤く染まり、唇にも血が残っていた。怜央は苦しげに身体を丸めた。千鶴子も、まさか怜央が血を吐くとは思わず、ひどく動揺した。胸元を押さえ、目に涙を浮かべながら、使用人に救急車を呼ぶよう叫んだ。紗和にも、怜央の心境や、なぜこんなことになったのかは分からなかった。ただ、目の前が暗くなった。吐いた血で、せっかく署名をもらった書類が汚れてしまったのだ。取り上げる間もなかった。書き直してもらおうにも、怜央はすでに意識を失っていた。千鶴子の金切り声が響き、御堂邸はたちまち騒然となった。このままでは自分のせいにされかねない。紗和は血に汚れた書類を手に、屋敷を出た。帰り道、彩葉に、これでも手続きに使えるかと尋ねた。返事は、容赦のないものだった。【もう使えない】湾岸の住宅街へ車で戻る頃には、吐き気を抑えられなくなっていた。どうにか自宅近くまで耐えたものの、とうとう車のドアを開けて外へ飛び出し、激しく吐いた。そのまま地面に倒れ、意識を失った。その頃、遠く離れた公海上では、30隻を超える巨大な豪華客船が航行していた。船内は華やかな別世界だった。人々は贅を尽くした時間を楽しんでいた。勲は、船団の先頭を行く客船の中央にある一室をノックした。返事を聞くと、すぐに中へ入った。そこにいたのは、九条家を率いる征臣だった。世界最大級の財閥、サンダーボルト・キャピタルを一代で築いた創業者兼会長だ。勲は慎重に口を開いた。「望月さんに、何かあったようです」「何があった?」低い声が返ってきた。「倒れて意識を失ったそうです。容体もよくないとのことです」30隻余りの豪華客船も、九条家の資産の一部にすぎない。船内には娯楽施設、レストラン、プールまで備えられ、大勢の華やかな美女が行き交っていた。だが征臣はどれにも関心を示さず、冷たい表情を崩さなかった。船は出航したばかりだった。このまま海外に所有する島へ向か
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第162話

紗和は目を覚ました。頭がひどく痛んだ。ぼんやりした頭を振り、身を起こして辺りを見回した。部屋は暗かった。休ませるため、外の光を遮っているらしい。見覚えのない場所だった。これまで泊まったどの部屋よりも、広々とした寝室だった。先ほどの声は、聞き間違いだったのだろうか。確かに誰かが、ずっと自分に会いたかったのだろうと尋ねた。紗和が長年会いたいと願ってきたのは、陰から守り続けてくれた九条会長だった。灰色のベッドに、座り直した。広い寝室にあるのはベッドと、そのすぐそばに置かれた、座り心地のよさそうな椅子一脚だけだった。そのまま、誰かが来るのを待った。何より身体が重く、全身から力が抜けていた。そこで、御堂邸で莉乃の祖母に殴られたことを思い出した。大丈夫だと思い、そのまま車を運転して帰った。だが、思っていた以上にひどい怪我だったのだろう。ここがどこなのか、どれくらい眠っていたのかさえ分からない。強い衝撃で脳震盪を起こし、すぐに治療を受けなかったため、症状が悪化したのかもしれない。ただ、すでに手当ては受けたようだった。完全に元どおりとはいかないものの、ひどい不調はなく、吐き気も治まっている。その時、ベッドがごくゆっくりと揺れた。紗和はようやく、自分が巨大な船の上にいると気づいた。突然、扉が開いた。黒い影が、するりと部屋へ入り込んだ。紗和の胸が激しく鳴った。1頭の黒豹が、星のように青い目を光らせていた。なぜ、こんなところに黒豹がいるのだろう。どうしても、鼓動が収まらなかった。黒豹の身体はたくましく引き締まり、その身のこなしには隙がなかった。よく訓練されているようだった。扉の隙間から入ってきた黒豹は、紗和をじっと見つめていた。そのの瞳からは、何も読み取れない。侵入者だと思われれば、襲いかかってくるかもしれない。今の紗和には、抗う力など残っていなかった。黒豹はゆっくり近づいてきた。圧倒的な迫力を前に、紗和は身動き一つできなかった。それでも、美しいと思わずにはいられなかった。艶やかに光る漆黒の毛並み。すべてを見透かすような、鮮やかな青い目。やがて黒豹は紗和のそばで足を止め、手の甲をそっと舐めた。そこへ、低く艶のある男の声が響いた。「ブレイズ、出ろ」黒豹は素
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第163話

自分が、これほどの大物と以前から関わっていたなど、紗和は考えたこともなかった。サンダーボルト・キャピタルは、御堂ホールディングスをはるかにしのぐ巨大財閥だった。ただ、どうしても腑に落ちないことがあった。征臣はこれまで公の場に一切姿を見せず、どんな顔をしているのかも知られていなかった。ただ、公表されている年齢は42歳。紗和より16歳上のはずだ。ところが目の前の男は、長年ビジネスの世界を渡り歩いてきた風格こそあるものの、42歳には見えない。せいぜい30歳ほどにしか見えなかった。不思議でならない。世界中の経営者が面会を望んでもかなわない投資家が、今、目の前にいる。しかも長年、自分を守ってきた人物でもある。紗和は尋ねずにはいられなかった。「私を助けてくれたのは、あなたですか?倒れた私を、ここへ運んでくれたんですか?」征臣はうなずいた。紗和は顔をほころばせ、さらに尋ねた。「莉乃の両脚を折らせたのも、あなたですか?」征臣は、またうなずいた。「でも、どうして何があったか分かったんですか……」御堂家の中で起きたことが、簡単に外へ漏れるとは思えない。たとえ知ったとしても、内輪揉めにしか見えず、莉乃が関係していると突き止めるのは難しいはずだ。征臣は淡々と答えた。「何があったかなど、知る必要はない。お前が受けた苦しみを、目の前の敵に倍にして返す。俺はずっと、そうしてきた」そのやり方に驚き、紗和はしばらく黙った。やがて顔を上げた。その澄んだ瞳には、静かな決意が宿っていた。一番知りたかったことを、ついに口にした。「ずっと私を守ってくれたのは、私の生まれと関係があるんですか?私の両親を知っているんですか?」何の後ろ盾もない、ごく普通の娘なら、こんな大物が守ってくれるはずはない。考えられる理由は一つしかなかった。自分は、どこかの名家の血を引いているのだ。征臣も九条という苗字を名乗っている。先ほど御堂邸に現れた、あの九条家とも関わりがあるはずだった。征臣は目を細め、声を一段低くした。「知りたいのか?真実を知れば、命を狙われることになる」征臣は目の前の椅子に座っていた。それでも、はるか高みから見下ろされているような圧迫感があった。表情一つ変えずに人の運命を決められる。そんな凄みがあった
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第164話

征臣の表情は少しも揺らがず、声からも怒りは感じ取れなかった。それでも、その声には相手をすくませる力があった。「知ったところで、何が変わりますか?私が知らないからといって、危険がなくなるわけではありません。怖いことがあると気づかずに済むだけです。それなら、私は知りたいです」紗和は静かに答えた。考えは決まっていた。自分の正体が知られることで危険が生じるのなら、紗和は最初から誰かに狙われる立場なのだ。真実を知らず、一時的に恐怖を感じずに済んだとしても、敵が抱く悪意も、命を狙う理由も消えはしない。外ではますます風が強まり、稲光とともに雷鳴が轟いていた。征臣は立ち上がり、紗和に近づいた。半歩ほどの距離まで来ると腰をかがめ、澄んだ瞳を覗き込んだ。「知らなければ、欲も出ない。だが、一度欲しいと思えば、諦めるのは難しい。きらびやかな宮殿だと思って足を踏み入れれば、お前を待つ罠かもしれないんだ。王冠が欲しいなら、その重さにも耐えることになる。お前にそれができるのか、よく考えろ」冷徹な眼差しに見据えられ、紗和は自分がひどく小さな存在に思えた。自分の脚一つ守れず、必要な治療さえ受けられなくなるところだった。今の自分が無力なことは、分かっている。紗和は、ヴァルサンダーを取り戻した時のことを思い出した。雅人は、国外にいる依頼人から頼まれ、助けに来たと言っていた。フォーラムでは、サンダーボルト・キャピタルの最高投資責任者が、迷わず紗和の事業を選んだ。脚を治してくれた医師も、雅人が伊織に紹介した人物だった。征臣はずっと、背後から紗和を助け続けていたのだ。恐ろしく、近寄りがたい男だった。紗和の人生など、どうにでもできてしまいそうだった。だが征臣は、紗和を一度も傷つけていない。願いをかなえてくれる兄のようでも、頼れる年長者のようでもあった。何度も窮地から救ってくれた人なのだ。だから紗和は、本当の意味では彼を恐れていなかった。「それでも知りたいです。どうか教えてください」征臣は、少しも驚かなかった。紗和の性格を、よく知っているようだった。一度進む方向を決めれば、たとえ行く手に何が待ち受けていても、振り返らずに突き進む。それが紗和だ。征臣は紗和から目をそらし、背を向けた。椅子に戻ると、二人の間に再び距
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第165話

それでも紗和は、目の前の征臣の話を信じた。つまり莉乃は、紗和になりすましていたのだ。実の母は望月美雲。名家に生まれ、名の知れた実業家として九条グループの社長にまでなった女性だった。望月家も、かつてはこの街で知らぬ者のない名家だったという。今も多くの人が訪れる広大な庭園は、望月家が屋敷の敷地を寄贈したものだった。自分は本当に、名家の令嬢だったのだ。だが、その事実を受け止める間もなく、征臣の冷たい声が響いた。「両親、とりわけ美雲は、お前に莫大な遺産を残した。大量の株式と、数千億ドル規模の信託財産だ。遺言では、27歳の誕生日を過ぎれば、いつでも相続できることになっている。お前が死亡した場合、遺産は56の慈善団体に寄付される」紗和は今年26歳で、27歳の誕生日まで2か月を切っている。間もなく、遺産を相続できる年齢になる。だが、話がそれほど単純ではないことも分かっていた。征臣の忠告を踏まえれば、遺産を相続しようとした瞬間、命を狙われる可能性がある。紗和は尋ねた。「今、その遺産は誰が管理しているんですか。信託の受益者は?」征臣は、その鋭さにわずかな感心を覚えた。「株式はグループの主要株主たちが代理で保有し、管理の報酬として、通常の配当に上乗せして金を受け取っている。信託財産を管理し、そこから毎年莫大な利益を得ているのは、九条薫子だ。書類上、お前の祖母にあたる」紗和は、すぐに理解した。「私が行方不明のままなら、その人たちは永遠に母の遺産を分け合える。そういうことですか?」征臣はうなずいた。「そうだ」紗和の目が、鋭く光った。「あなたも、主要株主の一人ですか?」征臣は鋭い目で紗和を見据え、何も答えなかった。気丈な紗和も、背筋が冷たくなった。勇気を振り絞って尋ねたが、征臣が本当に遺産を狙っているなら、守る必要などなかったはずだ。自分を永遠に行方不明のままにする機会はいくらでもあった。「私の素性が知られれば、利益のために、私が跡形もなく消えることを望む人が大勢いるんですね。だから、本当に知りたいのかと何度も確かめたんですね。誰にだって欲はあります。莫大な財産を相続できると知ったら、名乗り出たくなります。でもそれは、自分から命を危険にさらすことになりますから……」紗和は、自分で答えにたど
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第166話

紗和は、かすかに鼻をすすった。「どんな代償でも払います。怖いからといって逃げたくはありません。両親などいなかったことにして、何もかも忘れて生き延びたって、私には意味がないんです。二人の死は、ただの事故ではないと思っていました。これほどの利益が絡んでいるなら、裏で仕組んだ人がいるはずです。遺産は相続します。そして、隠されていることをすべて明らかにします」征臣は立ち上がり、部屋を出ようと背を向けた。「なら、俺から言えるのはここまでだ」だが歩き出した背中に、紗和の声が追いすがった。「助けてください」征臣の足が止まった。「何をだ?」怜央と結婚しているかぎり、あの執着からは逃れられない。先ほどの様子を見ても、怜央が素直に手放すとは思えなかった。これまで何度も離婚しようとした。だが怜央は、利益のために紗和を手元に縛りつけ、離婚を認めなかった。相手が頑なに拒む以上、離婚が成立するまでには、まだ長い時間がかかりそうだった。莉乃と結婚する話が進んでも、怜央はなお紗和との離婚を拒んでいる。この先、いずれ莉乃が偽の令嬢で、自分こそ本物だと知れれば、怜央はますます離婚に応じなくなる。本当の出自と、両親が残した巨額の財産を知った今、何としても先に離婚しなければならない。紗和は、婚姻中に相続すれば、財産の半分を怜央に持っていかれると考えていた。紗和にはそれが心配だった。あの男に渡すつもりなど、一切なかった。離婚するまでは、本当の素性を明かせない。家柄を頼って人脈を広げ、離婚を有利に進めることもできなかった。この結婚から逃れるために残された道は、征臣に助けを求めることだけだ。まるで違う世界に生きる征臣なら、自分には思いもよらない方法を知っているかもしれない。少なくとも今まで見てきたかぎり、彼にできないことなど、ほとんどないように思えた。紗和は率直に頼んだ。「怜央と離婚できるよう、力を貸してください」征臣には何の関係もないことだと分かっている。それでも、すがるしかなかった。正体を知らなかった頃から、征臣は何度も助けてくれた。おそらく、美雲の娘だからだろう。美雲は九条家の養女で、征臣の叔母にあたる。血はつながっていなくても、母との縁があるからこそ、長年見守ってくれたのかもしれない。頼みなが
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第167話

紗和は拳を握り、目を潤ませて征臣を見つめた。「お願いします。離婚できるなら、どんな条件でも受け入れます――」言い終えるより先に、征臣が遮った。「どんな条件でも?」「はい」紗和は覚悟を決めた。何度も踏みにじられてきた。この結婚から抜け出せるなら、どんな代償でも払うつもりだった。「分かった」迷いのない返事に、紗和は目を瞬いた。こんなにあっさり承諾してもらえるとは思わなかった。目に涙をためたまま、しばらく呆然としていた。やがて我に返ると、胸いっぱいに喜びが広がった。征臣ほどの人が約束したのなら、必ず実現してくれる。「ありがとうございます。それで……条件は何ですか?」征臣は、色白の柔らかな頬をじっと見つめた。目尻は赤く染まっていた。本来は誇り高い女が、離婚のために頭を下げ、こんなにも無防備な姿をさらしている。望みさえかなえば、奴隷のように従いかねないほどだった。「俺の女になれ。結婚するんだ」紗和は固まった。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。驚きを拒絶と取ったのか、征臣は心の内を見透かすように尋ねた。「俺が年上だから嫌なのか?」紗和は我に返り、慌てて否定した。「違います。そういう意味ではありません」年齢が嫌なのではなかった。征臣は、年の差を感じさせないほど若々しかった。鍛え上げられた身体も、他を圧する風格も、非の打ちどころがない。戸惑ったのは、怜央と離婚するために、別の男と結婚しなければならないことだった。結婚生活で深く傷つき、もう二度と結婚などしないと決めていた。妻だけが縛られ、夫は平気で裏切る。そんな生活には、もう懲り懲りだった。それでも、ほかに道がないのなら、再婚を真剣に考えるしかない。何より、理由が分からなかった。「どうして、私と結婚したいんですか?」征臣は紗和を見つめ、逆に問い返した。「お前は頭がいい。自分で考えてみろ」「お金のためですか?」紗和はすぐに思い至った。「私が相続する遺産の半分が欲しいんですね」征臣はまっすぐ紗和を見つめていた。その眼差しは、火傷しそうなほど熱かった。「遺産だけが目当てじゃない。俺もそろそろ、身を固めていい年だ。お前ほど美しい女に、お前ほどの頭脳はない。お前より頭がよくても、容姿では及ば
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第168話

紗和はベッドの上で背筋を伸ばし、圧倒されそうなほどの威圧感をまとった男を、まっすぐ見据えた。悔しさが込み上げ、意地でも折れたくないと思った。ただ、もう結婚に縛られたくないだけなのに。征臣が突きつけた条件は、拒むことさえ許さないものだった。結婚しなければ、今後は一切助けないという。征臣に見放されたら、どうすればいいのだろう。本当の素性も明かせず、遺産も相続できない。名乗り出たところで、信じてもらえるかどうかさえ分からない。そうなれば、先ほどのように莉乃から一方的に踏みにじられても、抗う術がなかった。「なら、送り返す」征臣は立ち上がり、部屋を出ようとした。その表情には、どこか見覚えがあった。一人前になったつもりで祖母に逆らい、自分の力で生きていこうとした時、祖母もこんな顔をしていた。だが、それだけではなかった。年長者が子どもを見るのとは違う、暗く冷酷なものも潜んでいた。紗和には、その正体が分からなかった。「待ってください……分かりました。結婚します!」紗和は慌てて征臣を呼び止めた。もう助けないという言葉が、今の紗和にはあまりにも重かった。これまで征臣が守ってくれたことは、もう分かっている。今の自分には、それほどの力を持つ人と縁を切って、生きていく余裕などない。それに、夫婦になるのではなく、同盟を結ぶのだと思えばよかった。征臣の妻になれば、遺産も相続できるだろう。利益を分け合う以上、紗和の命を狙う者は、征臣にとっても敵になる。もう一つ、自分を踏みにじった者たちに、必ず代償を払わせたかった。今の紗和には、御堂家や九条家、莉乃に対抗できるだけの力がない。遺産の半分を夫に渡すなら、確かに損はする。だが、その代わりに、結婚後に征臣が築く莫大な財産も分け合えるはずだ。紗和はそう計算した。決して割に合わない取引ではない。征臣にとっても同じだ。家柄も財力も釣り合い、美貌と能力を兼ね備えた妻。そんな相手は簡単には見つからない。今の征臣には、紗和が最も都合のいい相手なのだろう。二人とも、今の自分に最も得になる道を選ぶ。それだけだ。これは結婚というより、互いの利益のための協力関係なのだ。それなら、怜央との結婚とは違う。自分を押し殺し、怜央と莉乃に侮辱され、傷つけられるばかりの関係にはならな
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第169話

それを聞き、紗和はようやく安心した。征臣が出した条件は、彼の女になることだった。受け入れると決めた今、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、かすかな期待さえあった。「じゃあ……今から、しますか?」口にした途端、耳まで真っ赤になった。自分から誘うようなことを言ってしまった。恥ずかしくてたまらなかった。こういうことは、普通なら男の側から求めるものだと思っていた。男女では身体のつくりが違う以上、一般的には男が攻める側で、女が受ける側になる。それでも、征臣が突然考えを変えたらどうしようという不安が勝った。条件だけを見れば、紗和のほうが得をするようにも思えた。だからこそ、今すぐ関係を決定的なものにしたかった。征臣は普段、この国にはいない。紗和はここに残らなければならず、次にいつ会えるかも分からない。気が変わるのではないかと怯えて待つくらいなら、自分から一線を越えてしまいたかった。征臣の動きが止まった。紗和はベッドを下り、征臣のすぐ前まで歩み寄った。紗和も小柄ではなかったが、征臣はひときわ背が高かった。体格の差は歴然としていた。手を伸ばし、征臣の腰に触れた。薄くなめらかな服地越しに、体温が伝わってきた。鍛えられた筋肉には、力を抜いていてもしなやかな張りがあった。「何をしている?」厳しい声が、頭上から降ってきた。声には危うい響きがあった。それでも征臣は、紗和を引きはがそうとはしなかった。やはり、自分に少なからず興味があるのだろう。そうでなければ、迷いなく遠ざけているはずだ。紗和は一瞬ひるみ、顔を上げた。暗がりの中で、征臣の漆黒の瞳だけが際立って見えた。深く沈んだ眼差しには、逆らいがたい威厳があった。父親に叱られるとは、こういう感じなのだろうか。幼い頃、思い描いていた父親の姿に重なった。胸の奥に押し込めてきた悲しみと悔しさが、急に込み上げた。征臣の広い胸に額を押し当てると、堪えていた涙がこぼれ、服を濡らした。征臣は意外そうに紗和を見下ろし、とっさに顎を持ち上げた。わずかな光しかない中でも、赤く染まった目尻ははっきり見えた。涙を次々にあふれさせながら、すがるように見つめてくる。ひどく傷つき、今にも心が折れてしまいそうだった。もともと整った目に涙をいっぱいに浮かべたそ
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第170話

征臣は、紗和を押し返そうとした。だが、涙に濡れた瞳を見た瞬間、その腕に思わず力を込めた。身体をしっかり支え、広い胸に抱き寄せた。身体を寄せ合うと、固く閉ざしていた紗和の心が、少しだけほどけた。征臣の冷たい表情も、わずかに和らいだように見えた。紗和が抱きついたせいで、なめらかな服地には皺が寄っていた。それでも、征臣は少しも嫌がるそぶりを見せなかった。窓の外では、闇に沈む海を並んで進む豪華客船の灯りが、静かに明滅していた。その光に包まれた征臣の姿は、どこか現実離れして見えた。甘く、安らかな夢の中にいるようだった。紗和は涙に濡れた目で、征臣を見上げた。白い肌に整った顔立ち。血色のよい唇が、ほのかな光を受けて艶めいていた。美しく、それでいて触れるのをためらわせるものがあった。紗和はつま先立ちになり、少しずつ征臣に顔を近づけた。一方、征臣の瞳は闇をたたえたままだった。唇は固く結ばれ、表情も冷たいままだった。それでも、かすかな温もりが奥に見え隠れしていた。紗和は自分を奮い立たせ、さらに顔を近づけた。淡いミントの香りに、ほろ苦く落ち着いた木の香りが重なっていた。すっきりとしているのに、ひどく惹きつけられる匂いだった。二人の間に、重い沈黙が落ちた。鼻先が触れそうなほど近づき、征臣の唇まで、あとわずかになった。緊張で胸が跳ねた。次の瞬間、自分からその唇に口づけた。柔らかな唇が触れ、甘い香りが征臣を包んだ。征臣は予想していなかったのか、わずかに目を見開いた。あまりにも柔らかな唇だった。触れただけで、溶けてしまいそうなほどに。その反応を見て、紗和は、征臣がこんなふうに口づけられた経験はないのかもしれないと思った。彼ほどの男に自分から唇を重ねるなど、無謀で、身の程知らずな行為なのだろう。張り詰めた糸が、鋭い刃で一気に断ち切られた。征臣の端正な顔から冷静さが消え、隠されていた凶暴な独占欲がむき出しになった。突然、征臣の手が紗和の首筋を強くつかんだ。紗和は、突き放されるのかと身構えた。だが違った。征臣は逃げ場をふさぐように強く抱き寄せ、唇を重ねた。彼女を自分の思いどおりにして、決して手放したくなかった。長く抑え込んできた渇望を、一気に解き放った。唇の感触に、理性が奪われて
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