All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 171 - Chapter 180

380 Chapters

第171話

征臣は紗和の首から手を離し、彼女を抱えてベッドの片側に寝かせた。そこでようやく、紗和は堪えきれず激しく咳き込んだ。何度も大きく息を吸い、涙があふれるほど咳き込みながら、それでも途切れ途切れに尋ねた。「私は大丈夫……もう、やめるの?」「まだ治っていない。今は休め」そう言い残し、征臣は部屋を出ていった。シャンデリアが灯り、白い光が紗和の頬を照らした。暗闇の中で我を失っていた征臣は、冷たいシャワーを浴びて戻ってくると、いつもの冷ややかで近寄りがたい表情を取り戻していた。ベッド脇にしゃがみ、紗和の首に赤く残った指の跡を見つめた。あの無力感に耐えられず、力いっぱいつかんでおきたかった。征臣がかすかに覚えているのは、それだけだった。紗和も征臣を見つめ返し、彼の唇を噛んで傷つけてしまったことに気づいた。自分がそんなことをした事実に、彼女自身も驚いていた。だが、ほかに道はなかった。莉乃は紗和の身分を偽って怜央と結婚しようとしている。薫子は絶大な権力を持ち、紗和をひどく憎んでいるらしい。おまけに怜央まで、いまだに彼女を手放そうとしない。一刻も早く、強力な後ろ盾を得なければならなかった。このままでは、莉乃に潰されるか、怜央につきまとわれ続けるだけだ。先ほど紗和はようやく考えを整理し、征臣が結婚を条件にしたことを恨むのをやめた。結婚によって征臣と確かにつながれるなら、自分には願ってもない話だった。あんな行動に出たのも、不安でたまらなかったからだ。夫婦として情を育める相手なのか、確かめておきたかったのだ。少なくとも、征臣は自分を嫌ってはいない。そう思えたことに、紗和は安堵した。二人が黙って見つめ合っていると、征臣は不意に後悔を覚えた。救急箱を持ってきて医療用手袋をはめ、指の腹で紗和の首に薬を塗った。無言で彼女を見つめる瞳は、底知れないほど深い。唇の傷には血がにじみ、その赤がひどく鮮やかだった。紗和はようやく自分の唇に触れ、遅れて鋭い痛みを感じた。彼の唇を噛んで傷つけたが、自分の唇も激しい口づけで腫れ上がっていた。赤く腫れた唇は、かえって妖しい色香を増していた。あのときは痛みなど感じなかった。それどころか、わずかに昂ぶってさえいた。思い返すと、征臣はまるで別人だった。荒々しく、狂おしいほど激しく、噂に聞く禁欲的な冷淡
Read more

第172話

紗和は目を見開き、しばらく言葉を失った。まだ頭がはっきりしていないこともあったが、それ以上に、征臣が事情をすべて把握していることに驚いたのだ。今の状態ではうまく説明できないかもしれないと心配していたのに、彼は何もかも知っていた。「九条家のおばあさんよ」「分かった」征臣はそれだけ答えると、スマホを取り出した。「あの老いぼれがグアテマラで進めている宝石鉱山開発事業の場所は突き止めたか」相手の返答を聞くなり、間を置かず命じた。「爆破しろ」通話を切った征臣は紗和を見つめ、静かに尋ねた。「少しは気が晴れたか」紗和は、頬を一度叩かれただけで、征臣がここまで激怒するとは思っていなかった。実の祖母が所有する鉱山を、ためらいもなく破壊させようとしたのだ。しかも今回は、薫子を祖母と呼ばず、怒りを込めて「あの老いぼれ」と呼んだ。征臣と薫子の間には、そもそも情などないのだろうか。それとも、二人の関係は決定的に悪いのか。どちらにせよ、自分にはさらに有利だと紗和は胸の内で計算した。自分を虐げた者には、必ず相応の報いを受けさせるつもりだった。「ゆっくり休め。俺はもう行く」通話を終えた征臣が立ち上がると、紗和はとっさに呼び止めた。「行かないで」少しずつ接していくうちに、彼が決して冷たいだけの人ではないことが分かってきた。一見すると近寄りがたいほど冷ややかだが、本当の征臣は、外から見える印象とはまるで違っていた。少なくとも、紗和にはとてもよくしてくれる。治療中には好物の野菜や果物をわざわざ空輸し、宝石や服もたくさん買い与えてくれた。紗和は少しずつ、彼に惹かれ始めていた。征臣がそばにいるなら、言葉を交わさず同じ空間にいるだけでも心地よかった。これから共に温かな家庭を築くためにも、そばで過ごしながら気持ちを育てていきたい。だが、離れ離れでは気持ちを育てようがない。一緒に過ごし、話をしなければ、何も始まらないのだ。征臣の眉間から、わずかに険しさが消えた。「まず人をやって、お前を送り届ける。会社の株主総会に出るんだろ。俺にはまだ片づけなきゃならないことがある。それが全部終わったら、もう海外には戻らない。これからはこっちにいる」紗和は喜びを隠せなかった。それでも期待しすぎるのが怖くて、慎重に尋ねた。「じゃあ
Read more

第173話

だが次の瞬間、征臣は悪戯を覚えた子どものように、名残惜しげに何度も唇を重ねてきた。口づけを交わすうち、紗和は唇の痛みに耐えられなくなり、そっと胸を押した。征臣はすぐには離れず、三度胸を押されて、ようやく唇を離した。傍らにしゃがみ、喜びも悲しみも映さない無表情な征臣を、紗和は困ったように見つめた。試しに身を寄せても拒まれなかったため、さらに首に腕を回し、その肩口に顔を埋めて囁いた。「抱きしめたまま、一緒に寝てくれない?これからは、つらいときは私が元気にしてあげる」紗和はまるで子どもに言い聞かせるように、征臣に教えようとしていた。普段は征臣のほうが、むしろ父親めいた役回りだった。それでも、口づけの仕方や誰かに寄り添う方法を、彼は知らないように思えた。その点だけは、自分のほうがよく分かっている。紗和が首筋に顔を埋めると、何かを考えていた征臣がふいに眉を寄せた。その理由を考える間もなく、腰をつかまれ、横抱きにして腕の中へ収められた。征臣は、不意にやり場のない怒りを覚えた。大切に守り、自らの手で育ててきた薔薇を、あの者たちはあれほど傷つけた。御堂家など、征臣にとって何ほどのものでもない。その気になれば、怜央をこの業界から追放することさえできる。征臣は突然身を屈め、紗和を強く抱き込んだ。こみ上げる思いを抱擁に込め、もう二度と失わないと、自分に言い聞かせるように。紗和は驚いて目を見開いた。征臣が自分によくしてくれることは知っている。ときには毒を含んだような言葉を吐くのに、その唇は不思議なほど甘かった。それでも、ここまで自分を守ってくれるとは思っていなかった。口先だけで慰めるのではなく、実際に動いて紗和の無念を晴らしてくれる。怜央や宗一郎のように、表と裏で態度を変えることもない。体がつらいときにはこうして抱き上げ、安心して体を預けられるよう、優しく包んでくれる。紗和は不意に尋ねた。「莉乃と、私のお母さんはどういう関係なの?」戻る途中も、莉乃が何者なのかずっと考えていた。自分には記憶がないため、時折、自分のほうが間違っているのではないかと疑いさえした。行方不明になった遺児は、いったいどちらなのか。征臣は紗和が何を知りたいのか察し、額に温かな吐息をかけながら、低い声で答えた。「花宮莉乃は、九
Read more

第174話

「きゃっ!」紗和は驚いて声を上げたが、閉じられた扉に遮られ、外までは届かなかった。そこでようやく、目の前にいるのが怜央だと気づいた。「何を……何をするつもり?」緊張をにじませる紗和に、怜央は必死に訴えた。「紗和、すまなかった。俺が悪い。莉乃が妊娠したのは、本当に俺が罠にはめられたせいなんだ。晴翔のことだって、あの子が莉乃の産んだ子だと知ったのも、ずっとあとだった。最初から知っていたら、絶対にお前には育てさせなかった。信じてくれ」「私には関係ない」紗和の声は冷たく、苛立ちさえあらわだった。「そうか?」怜央の目に怒りが浮かんだ。「紗和、念のため言っておく。俺は書類に署名しただけで、離婚はまだ正式には成立していない。手続きが完了するまでは、まだ時間がある」黒い瞳に凍えるような冷気をたたえ、怜央は続けた。「俺はお前と離婚するつもりはない。莉乃に応じたのは、ほかに選択肢がなかったからだ。式は挙げても、あいつとの婚姻届は出さない。すべて片づいたら迎えに来る。それでいいだろう?」ここまで来ても、怜央は紗和が同じ場所で自分を待っていると思い込んでいた。相変わらず、見下ろすような態度のままだった。怜央は紗和の手を取って、初めて結婚指輪が外されていることに気づいた。それでも焦る様子はなく、新しく用意したらしいベルベットの箱を取り出した。中には、目を疑うほど大粒のダイヤモンドリングが収められていた。怜央はそれを取り出し、紗和の指に無理やりはめた。機嫌を取るために用意した巨大なダイヤモンドには、相当な金をつぎ込んだのだろう。この大きさなら、数十億円は下らない。それでも、紗和の心はまったく動かなかった。驚くほど穏やかで、怜央の言葉にもさざ波一つ立たない。「言ったでしょう。あなたたちが何をしようと、私には関係ない」「本当に、俺に何の気持ちも残っていないのか?一緒に幸せだった頃まで忘れたのか?」怜央は紗和の唇を凝視した。柔らかく潤んだそこに、もう長い間触れていない。すべては莉乃のせいだと思っていた。自分は紗和に冷たくなったわけではない。それどころか、以前より大切にし、気にかけていたつもりだった。そして今は、紗和に会いたいとさえ思う。「本当に、会いたかった」紗和が言葉の意味を理解する前に、怜央は彼女をつかみ
Read more

第175話

怜央は紗和の頭を力ずくで押さえ、顔を上げさせた。紗和の目にはもう、この男への期待も、ほかのどんな感情も残っていなかった。指にはめられたリングを外し、怜央の手に戻した。「これ、本当に愛している人にあげたらどう?」冷笑を残し、紗和は部屋を出ていった。……莉乃は婚約パーティーの準備に夢中になっていた。うれしくて、毎日飛び跳ねたいほどだった。御堂家を思いどおりに動かすには、やはり強力な後ろ盾を使うのが一番だ。一足早くシャンパンを開けて祝おうとしていたところへ、スマホに一本の動画が届いた。再生した莉乃の顔が、怒りで青ざめる。見知らぬ番号からだった。すぐに電話をかけた。「誰なの?この動画をどこで手に入れたの?」「手段はいくらでもある。こんないいものを、君にだけ見せないのはもったいないだろう?婚約者が陰で何をしているか、よく見ておくといい」相手の声には加工が施されており、誰なのか判別できなかった。ただ、ひどく低い男の声だった。莉乃は全身を震わせた。映っていたのは、用具室で怜央が両腕で紗和を抱き込む姿だった。化粧室から出てきた紗和を、怜央が隣の用具室へ引きずり込むところから鮮明に撮影されている。室内で交わされた言葉まで、はっきり録音されていた。【俺はお前と離婚するつもりはない。莉乃に応じたのは、ほかに選択肢がなかったからだ。式は挙げても、あいつとの婚姻届は出さない。すべて片づいたら迎えに来る】続いて、見たこともないほど巨大な希少ダイヤモンドのリングを取り出した。66カラットもの石がまばゆい輝きを放ち、その価値は40億円を超える。怜央はそれを、機嫌を取るように紗和の指にはめた。【本当に、俺に何の気持ちも残っていないのか?一緒に幸せだった頃まで忘れたのか?】動画から流れる怜央の声に、莉乃は気が狂いそうになった。怜央は自分と結婚する気などなく、紗和とよりを戻そうとしていたのだ。「どうやら花宮さんは、あまり魅力がないらしい」電話の向こうで、正体不明の男が嘲った。「たとえ無理やり御堂怜央と結婚できたとしても、望月紗和以上にあいつの心をつかめるって、本気で思ってるのか?」「黙って!」莉乃は取り乱して怒鳴った。「御堂家の奥様になるのは私よ。紗和みたいな女が、私に敵うわけないでしょう」「
Read more

第176話

莉乃が九条家を訪れ、薫子のそばに歩み寄ると、薫子はひどく険しい顔をしていた。機嫌が悪いどころではない。莉乃が口を開くより先に、陰気な声が飛んできた。「御堂家との婚約の支度もせず、ここへ何をしに来たの」莉乃は怯みながらも、意を決して呼びかけた。「おばあさま……」だが、最後まで言わせてもらえなかった。「ふん」薫子は濁った目に険しい光を浮かべ、冷たく吐き捨てた。「誰があんたの祖母だ。運転手の娘にすぎないくせに、馴れ馴れしく呼ぶんじゃないよ。御堂家ひとつ思いどおりにできないなら、さっさと消えな。私にまで恥をかかせる気かい」そばにいた執事が小さく息をつき、なだめた。「どうかお怒りをお鎮めください。お体に障ります」「これが怒らずにいられるかい」薫子は歯を食いしばった。「せっかく手に入れたお気に入りの鉱山が、跡形もなく吹き飛ばされたのよ」つい先ほど、海外から知らせを受けたばかりだった。「爆破されたのが深夜でしたので、幸い作業員に大きな被害はなかったそうです」薫子は目を細めた。「誰の仕業だと思う?」「おそらく征臣様でしょう。あの地域の組織は、征臣様と深いつながりがあります」二人は莉乃などいないかのように話し続けた。薫子が腹立たしい目に遭い、その鬱憤まで自分にぶつけたのだと莉乃は察した。これ以上ここにいれば危ない。すぐに退散しようとした。この老いぼれは自分を人間扱いすらしていない。紗和を始末するために手を貸してくれるはずもない。それでも、怜央との結婚話が進んでいるかぎり、薫子は莉乃が外で九条家の令嬢を名乗ることを黙認するだろう。この後ろ盾さえあれば、自分の力でも紗和を殺す方法は見つけられる。「それでは失礼します」「ええ」薫子が応じた直後、執事のスマホがけたたましく鳴った。慌てて出ると、相手が話し終える前に顔色を変えた。「奥様、例の若様名義で建設していた保養用の別邸が、完成間近だったにもかかわらず、10分ほど前に爆破されました。爆発の規模が大きく、山の一部まで崩れたそうです」「なんだって?」薫子は机を叩いて立ち上がった。信じられないという表情だった。3年前に景勝地の一画に目をつけ、大金を投じて手に入れたのだ。もうすぐ住めるはずで、長年待ち望んできた隠居先でもあった。
Read more

第177話

数日後、紗和のもとに見知らぬ番号から電話がかかってきた。「もしもし、どちら様?」「紗和さん、私よ」莉乃の甘ったるい声が聞こえ、紗和は嫌悪を覚えた。「今夜、婚約パーティーを開くの。あなたも来て」「行く暇はないわ」紗和は即座に断った。「私、怜央くんと結婚するのよ。悔しいでしょう?あなたは8年も家政婦みたいに尽くして、何一つ手に入らなかった。でも私は、世話を焼かなくてもすべてを手に入れた。最後に勝ったのは私よ。つらくないの?」相手にせず電話を切ろうとすると、莉乃はそれを察したように慌てて言った。「待って。あなたのために言っているのよ。今ここで切ったら、今夜、おばあさんの遺骨がトイレに流されることになるわ」「私を脅しているの?」「だって、おばあさんを埋葬する費用を出したのも、私の婚約者でしょう?遺骨なんて、いつでも取り出せるの。そんなもの、私には何の役にも立たないけど、婚約をあなたに祝ってもらわないわけにはいかないもの。顔を出して、私と怜央くんを祝福する姿を見せてくれたら、返してあげる」「分かった。場所を送って。行くわ」紗和は眉を寄せた。「よかった。今夜7時、グランシエル・クラブで待っているわ」紗和はそのまま電話を切った。莉乃が何かを企んでいることは分かっている。今夜の招待も、ただ自慢するためだけではないだろう。それでも人目のある場所だ。遺骨さえ取り戻せれば、長居せずすぐに帰るつもりだった。莉乃が本気で危害を加えようとするなら、紗和も黙ってやられる気はない。午後7時。紗和は時間どおり、グランシエル・クラブに到着した。郊外にある広大な会員制クラブで、招待客以外は立ち入れない。館内は婚約パーティーの飾りつけで埋め尽くされていた。日が落ちたばかりだが、豪華な照明に照らされた建物は昼間のように明るい。数百平方メートルもあるホールは大勢の客でにぎわい、裕福な家の子息や令嬢たちがこぞって集まっていた。紗和の美しさに目を奪われ、何度も振り返る者も少なくない。「紗和さん、来てくれたのね」莉乃は婚約パーティーのために用意した高価なドレスを身にまとっていた。ホルターネックのデザインが華やかさを引き立て、宝石をちりばめたティアラまでかぶっている。全身をいくつものジュエリーで飾り、長いネイル
Read more

第178話

紗和は絵里香を無視し、莉乃をまっすぐ見据えた。「全部水に流すなら、おばあちゃんの遺骨を返してくれるわよね?」莉乃の言葉を逆手に取ったのだ。莉乃はすぐに人に命じ、遺骨の入った箱を目の前へ運ばせた。「本気でこんなものを欲しがると思った?気味が悪いし、私には必要ないわ。ただ、私を祝福するために来てほしかっただけ。今すぐ返してあげる。でも私が誠意を見せたんだから、あなたも誠意を見せるべきでしょう?」言いたいことは明らかだった。酒を飲み干さなければ、遺骨を返すつもりはないのだ。紗和はグラスを見つめ、やがて受け取った。莉乃とグラスを合わせ、鼻先に近づけて匂いを確かめる。だが、口はつけずに置いた。「どうしたの?紗和さん、飲まないの?」莉乃が不思議そうに尋ねた。紗和は意味ありげな笑みを浮かべ、何も答えなかった。莉乃は勝手に話し始めた。「まさか、何か入れたと疑っているの?紗和さん、今日は私の婚約パーティーよ。そんなことをするはずがないでしょう?それに、これでもう仲直りよ。私たち、これからは仲良くやっていくんでしょう。怜央くんに近づかず、心から私たちを祝ってくれるなら、私も大目に見てあげる」紗和は片眉を上げた。「これから仲良くやっていくんでしょう?お酒に何も入っていないなら、自分で選んでもいいわよね?」莉乃は一瞬言葉に詰まったが、すぐに傷ついたような顔で責めた。「お酒を替えるなんて、私を信用していないってことじゃない!」「ええ、信用していないわ」紗和は小首を傾げた。「どうして?何か困ることでもあるの?」莉乃は後ろめたいことなど何もないという顔で言い放った。「困るわけないでしょう。そこまで私を疑うなら、好きなものを選べばいいわ!」紗和の手がテーブルに並ぶ二つのグラスの間を行き来する。だが結局どちらも取らず、絵里香が一口飲んだグラスを素早く取り上げた。「ちょっと、それ、私が飲んだものよ!」「飲んだものだから安全なの」紗和は顔を上げ、一気に飲み干した。そして手を差し出した。「おばあちゃんの遺骨を返して」莉乃は怒りを押し殺した。その目に一瞬、不穏な光がよぎったが、遺骨の箱は紗和に返した。紗和は箱が開けられた形跡がないか、遺骨が無事かを念入りに確かめた。それからテープで厳重に封をし、バ
Read more

第179話

紗和は力なくベッドに横たわり、途切れ途切れに尋ねた。「いったい……何をするつもり?」「焦らないで」莉乃はいかがわしいマークのついたアロマキャンドルを取り出し、火をつけた。以前にも使ったことのある製品で、女性に強く作用する媚薬が配合されている。「この香りをゆっくり楽しんで。あなたのために用意したプレゼントよ。男なしではいられないから、いつまでも怜央くんにつきまとうんでしょう?今夜は、この街でも指折りの遊び人たちを呼んであげたの。思う存分楽しめばいいわ。今夜が終わったら、また母性に目覚めて、街じゅうの男の子どもを産みたくなるかもしれないわね」「莉乃……あなたは、どこまで卑劣で下品なの!」酒に入れた薬は避けられても、莉乃がいくつもの手を用意していたとは思わなかった。エレベーターで薬を嗅がせて意識を奪おうとするなど、あまりにも常軌を逸している。「恥知らずなのは、あなたでしょう!」莉乃は憎悪に顔を歪め、紗和を睨みつけた。「鏡を見たことがないの?貧民街育ちのごみ同然の女が、私の夫を誘惑して、怜央くんにつきまとっている。恥知らずで、ふしだらなのはあなたよ。今日は望みどおり、徹底的に堕としてあげる」紗和は弱々しく言った。「私はもうあの人と離婚したの……あなたもすぐ彼と結婚するんでしょう。それなのに、どうしてまだ私を放っておけないの?」「そんな男を惑わせるような顔で、いつまでも怜央くんを誘惑するからよ。あの人が二度とあなたに触れたいと思わないようにしてやる!」莉乃は歯ぎしりした。「あなたは晴翔をそそのかして、私の脚が動かなくなるほどの怪我を負わせた。やっと治ったばかりなのに、それでもまだ足りないの?どうしてまた、こんなひどいことができるの?」苦しげな紗和を見て、莉乃は満足そうに笑った。さらに絶望させてやろうと、あっさり認める。「ええ、晴翔をそそのかしたのは私よ。それが何?怜央くんがあなたの言うことを信じるとでも思ってるの?あの人が信じるのは私だけよ」莉乃は愉快そうに口元を歪めた。「もう一つ教えてあげる。私の脚はね、ホームレスに襲われて金品を奪われたうえ、引きずり回されて怪我をしたの。でも、あなたに仕返しされたって言ったら、怜央くんは何の疑いもなく信じたわ。どう?身に覚えのない罪を着せられて、さぞ悔しかった
Read more

第180話

「あなた……」莉乃は目を見開いた。紗和は意識もはっきりした様子で、目の前に立っている。つい先ほどまで、紗和はベッドに横たわり、何をされても抵抗できないように見えた。それが今では、哀れに許しを乞う様子など跡形もなく、何事もなかったように立っている。代わりに身動きが取れなくなったのは、莉乃のほうだった。莉乃はたちまち取り乱し、震える声で尋ねた。「どうして動けるの?」紗和は演技で流した涙を拭い、笑みを浮かべた。「莉乃、ほんの数秒口と鼻を覆えば、私を眠らせられるとでも思った?あなたより先に反応したの。私は気を失ってなんかいない。薬を一度も吸い込んでいないもの」普通なら、突然薬を染み込ませた布で口と鼻を覆われれば、強い恐怖から激しく息を吸ってしまう。そのため短時間で大量の薬を吸い込み、犯人の思いどおりにされる。だが、紗和は最初から警戒していた。莉乃が諦めるはずはないと分かっていたのだ。莉乃が飛びかかってきた瞬間、紗和はすぐに息を止め、布に染み込んだ薬を一切吸わなかった。相手を油断させるため、わざと意識を失い、力が抜けたふりをした。莉乃は思惑どおり、薬が効いたと信じ込み、あらかじめ用意した部屋へ紗和を運び込んだ。「この卑怯者!今すぐ放しなさい!卑しい女!」莉乃は憎々しげに睨みつけ、怒鳴り散らした。「早くほどきなさい!私は九条家の令嬢よ。私を敵に回せば、九条家全体を敵に回すことになる。前に殴られたくらいでは懲りなかったの?私に逆らったら、おばあさまに命じて殺してもらうわ!」莉乃は九条家の名を出せば、紗和を怯えさせられると思っていた。両親も後ろ盾もない貧しい家の娘なら、九条家と聞いただけで腰を抜かすはずだ。しかも、以前の出来事までわざと持ち出した。御堂家の孫の妻という立場にあった紗和でさえ、その場で殴られ、跪くよう命じられたのだ。これ以上ない脅しになると思っていた。だが、紗和は怯えるどころか、その目に嘲りを浮かべて笑っていた。莉乃など、他人の威を借りなければ何もできない、ただの小物にすぎない。どこが本物の令嬢なのか。本当の九条家の令嬢は、紗和自身だ。征臣からも、莉乃は九条家で運転手をしていた邦彦の娘にすぎないと聞いている。それなのに、毎日のように他人になりすまし、その立場を笠に着て得意げ
Read more
PREV
1
...
1617181920
...
38
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status