Lahat ng Kabanata ng 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Kabanata 281 - Kabanata 290

380 Kabanata

第281話

紗和の反応は、征臣の予想とはまるで違っていた。当然のように受け入れると思っていたのに、紗和は明らかに拒んでいる。征臣の胸は激しく波立ち、失望さえ覚えた。不機嫌さを隠さず、紗和を見つめた。「何だ。今日、御堂と花宮が結婚しなかったから、もう俺のものにはなりたくないのか?」二人が結婚してから、すでにしばらく経っている。征臣も一人の男だ。正式に夫婦となった以上、紗和を求める権利があると思っていた。だが、二人が再会してからの日はまだ浅い。紗和は10歳のときの事故で征臣を忘れてしまい、今も彼をどこか見知らぬ相手のように感じている。だから征臣は時間をかけて、少しずつ距離を縮めてきた。それでも、もう十分に待った。そろそろいいはずだと思った矢先、紗和にはっきり拒まれたのだ。腹が立つのも無理はなかった。自分には当然与えられるはずのものだと、征臣は考えていた。「そんなわけないでしょう?」紗和は、征臣の肩にそっと手を置いた。余計な誤解をさせたくないため、正直に話すことにした。征臣が怒るたびになだめるのも大変だが、何より、また全身から冷気を放つような姿には戻ってほしくない。「あのとき私から求めたのは、愛のない取引だと思っていたから。あなたが私を愛することも、私があなたを愛することもないと思っていた。だから、せめて夫婦としての関係を保とうとしたの。でも今は、二人で愛し合えるよう努力してみたいと思ってる。だから、きちんと関係を公にして、本当の意味で夫婦になってからにしたいの。待ってくれる?」「何をもって、本当の夫婦だというんだ。婚姻の手続きを済ませただけでは足りないのか?」征臣は納得できない様子だった。紗和は小さく首を振った。「今はまだ、誰も私たちの関係を知らないでしょう。きちんと式を挙げて、みんなに夫婦だと伝えてからにしたい」怜央とは、最後まで結婚を公にできなかった。人目を避けて妻でいなければならず、その一方で夫は別の女と堂々と親密に振る舞っていた。何もできずに耐え続けた日々は、紗和の心に深い傷を残している。もともと紗和は慎重な性格だった。怜央を3年も思い続けていた頃でさえ、触れ合いを受け入れたのは結婚してからだ。征臣との関係にも、心から夫婦になれたと思える区切りが必要だった。「わかった」征
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第282話

「だが、別の返し方でもいい」征臣は不意に声を落とした。「たとえば、俺の子を何人か産むとか」少しかすれた声に、紗和の頬が赤くなる。思わず身を引いた。今のところ、子供を産むつもりはない。だが征臣には、九条家の跡継ぎを残す責任があるのだろう。それも、一人で背負うにはあまりに重い責任だ。どうすればいいのだろう。征臣は紗和の様子を見つめ、腰をつかんでいた手を上げた。指先で柔らかな唇に触れながら尋ねた。「嫌なのか?」紗和は、いたずらっぽく睨み返した。「私を何だと思ってるの?そんなに何人も産めないわ」「一度に何人も産めと言っているわけではない。何度かに分ければいい」征臣は平然と答えてから、口元を緩めた。「それに、お前ほどきれいで頭のいい女なら、俺の子の母親にふさわしい。俺は静かすぎる家が好きではないんだ」紗和は黙り込んだ。征臣と顔を合わせたのは、まだ数えるほどしかない。一緒に過ごした時間も長くはなかった。しかも征臣は、自分の内側を簡単には見せない。性格も考えもつかみにくく、紗和には今も読みきれないところがある。「私って、本当にそんなにいい女なの?」紗和自身、わからなくなっていた。本当にそれほど価値のある人間なら、なぜ人生はこんなふうになったのだろう。どうして、かつて愛した人には愛してもらえなかったのか。征臣の表情が、一瞬で真剣なものに変わった。「当然だ。俺にとって、お前以上の女はいない。紗和、二度と自分をそんなふうに言うな。お前を手に入れたくて、俺が何度泣いたかも知らないくせに」紗和が怜央と結婚してから、征臣は何度、夜中に目を覚まし、目を赤くしたことだろう。結婚生活の中で紗和が傷つき、苦しみ、何度も生死の境をさまようたび、征臣もまた胸を締めつけられてきた。それでも紗和は、自ら選んだ道を受け入れていた。征臣にも、理由なく二人を引き裂くことはできなかった。紗和には、征臣の言葉の意味がよくわからなかった。だが、こういう感じで呼ばれると、胸の奥が柔らかくほどけていく。紗和は突然、征臣の上から身を起こそうとした。「どこへ行く?」驚いた征臣が大きな手を伸ばし、すぐに引き戻した。征臣は横になったままだった。紗和も、こんなふうに男性の胸に身を預けたことはない。怜央と触れ
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第283話

この小さな魔法の城は、本当に魔法で造られたのではないかと思うほど美しかった。どの窓から見える景色も、息をのむほど見事だ。征臣は長い指を服の上に滑らせ、紗和をまっすぐ見つめた。服を脱がせろと目で告げている。紗和は、征臣の襟元を見上げた。広い肩と引き締まった腰を、黒いスーツと白いシャツが隙なく包み、首元には黒いネクタイが結ばれている。耳にわずかに赤みが残っていなければ、先ほど紗和の首元に顔を埋め、動くなと切羽詰まった声で告げた男と同じ人物には見えなかっただろう。他人の前では氷のように冷たい征臣も、紗和に向ける眼差しには熱がこもる。紗和が動くより先に手を伸ばしてくることも多い。その心もまた、外見とは違って熱いのだろう。紗和は、征臣との関係に少しずつ満足を覚えていた。幼い頃の二人は、きっととても仲がよかった。ただ紗和が、その記憶を失っているだけだ。征臣が実際には自分より1歳年上にすぎないと知り、年齢による距離も感じなくなった。それに何より、目の前の男の体は見事だった。紗和は手を伸ばし、まずネクタイを外して脇に置いた。次に上着を脱がせ、シャツのボタンに指をかけた。一つずつ外していくと、なめらかな白い生地の下から、彫刻のように均整の取れた体が現れた。鍛え上げられた筋肉に、思わず見入ってしまう。さらにシャツを開くと、肩から背にかけて力強い筋肉の線があらわになった。紗和は斜め後ろから眺めただけだったが、背中を覆う筋肉のラインはほとんど完璧で、力強さと男らしい色気を同時に感じさせた。まるで翼を広げようとする天使の背中のようだった。恥ずかしくなり、紗和は顔をそむけた。征臣は意外そうに眉を上げ、からかうように尋ねた。「もう俺の妻になったのに、まだ恥ずかしいのか?」征臣は目を細めた。ふざけているようで、その奥にはわずかな冷たさも宿っている。「初めてではないだろう。こういうことなら、俺よりお前のほうが詳しいはずだ」紗和の胸が、どきりとした。その言葉には、危うい嫉妬がにじんでいる。「お湯を出してくるわ」紗和はすぐに話題を変え、シャワーのスイッチに手を伸ばした。だが征臣は浴槽を指した。「湯を張ってくれ」紗和は驚いた。熱を冷ますためなら、冷たいシャワーを浴びるのだと思っていた
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第284話

征臣は、華奢な紗和を自分のすぐそばまで引き寄せた。驚いた紗和は体勢を整え、仕方なく征臣の腿の上に腰を下ろした。手にしていたタオルを湯で濡らし、まずは顔を優しく拭いた。子どもの世話をしているだけ。紗和は何度も自分にそう言い聞かせた。鋭く整った輪郭、深い瞳、すっと通った鼻筋。征臣の顔を、紗和は丁寧に拭いていく。征臣は目を閉じ、浴槽に身を預けたまま、腕と胸で紗和を囲っていた。初めて味わう優しさに、張りつめていた眉間がゆっくりほどけていく。ここまで心からくつろげるのは、紗和の前だけだった。十分に温まると、紗和はタオルで征臣の体を丁寧に拭いた。征臣はなされるまま、瞬きもせずに紗和を見つめている。タオルを持つ手は柔らかく、力加減もちょうどよかった。鍛えられた胸や腕を、紗和はひどく真剣な顔で拭いていく。まるで、とても大切な仕事を任されたかのようだった。紗和の顔は真っ赤なのに、征臣の口元には淡い笑みが浮かんでいる。唇を拭こうとしたときには、紗和の指先を軽く噛んだ。普段は誰も寄せつけない男が、いたずら好きな犬のように見える。紗和は手を引かなかった。腰を押さえられ、逃げることもできない。入浴を終えると、征臣は先に寝室へ戻った。紗和も体を拭き、細い肩ひもの新しいナイトドレスに着替えて寝室へ向かう。征臣はグラスを置き、紗和を見た。「この牛乳を飲んで、今夜は早く休め。明日はダイヤを買いに行く。お前の首も手首も足首も、飾りがなさすぎる。石を選んだら、職人にジュエリーを仕立てさせよう」紗和は素直に腰を下ろし、征臣が用意した温かな牛乳を口にした。征臣の指が、紗和の肌を柔らかく撫でる。肩ひもに指をかけ、腕までそっと下ろすと、首筋に唇を寄せた。旅程はすべて征臣に任せていたため、目的地を知ったのは専用機を降りてからだった。着いたのは、アフリカ南部にある世界有数のダイヤモンド産地だった。「ここは安全なの?」紗和は尋ねた。この辺りでは情勢が不安定な地域も多く、ときおり武力衝突が起きている。征臣は紗和の肩を抱き、頭を胸元に引き寄せた。「俺がいる。何も心配するな」紗和は半信半疑だったが、迎えに来た現地軍の一団を見て、言葉を失った。ボディガード隊を率いる二人の軍人は、征臣に親しげであ
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第285話

デザイン画もすべて、その職人が手がけたものだった。それでも、紗和の無邪気な言葉がよほど嬉しかったのか、征臣は何度も笑みをこぼした。いつもの冷ややかな表情はすっかり消え、顔には晴れやかな笑みが浮かんでいる。愛する女から尊敬の眼差しを向けられて、嬉しくない男などいない。帰国の準備をしていたところ、現地の知人二人から、今夜、限られた客だけを招いた宝石原石のプライベート取引会が開かれると聞かされた。征臣は、興味があるなら見に行くかと紗和に尋ねた。紗和はすぐにうなずいた。こうした場所へ行くのは初めてで、どんな世界なのか純粋に興味があった。午後7時、防弾仕様の大型車が時間どおりホテルの前に到着した。紗和は、飾り気のない黒いワンピースに着替えた。イブニングドレスを着るような場ではないと征臣に言われていたため、あえて華美に装うこともしなかった。一方の征臣は、濃い灰色のリネンシャツを身につけていた。袖を無造作に肘の下までまくり、引き締まった手首をのぞかせている。そこには、数億円は下らない機械式時計が光っていた。気負いのない装いなのに、育ちのよさと風格は隠しようがない。秘密めいた取引会へ向かうというより、自宅の庭を散歩しに行くような余裕さえ漂っていた。車は街の明かりを離れ、やがて標識もない山道へ入った。奥へ進むほど両側の木々は深くなり、ときおり木陰に立つ武装した見張りが、こちらへ短く合図を送ってくる。紗和は無意識に征臣の袖をつかんだ。征臣はその手に目を落とすと、何も言わずに包み込んだ。「怖いか?」「怖くない」紗和は首を振ったものの、少し間を置いて正直に付け加えた。「……少しだけ」征臣は、その指先を軽く握った。慰めるような言葉は口にしなかった。ただ、その手を離すこともなかった。車は山道の突き当たりにある、大きな鉄門の前で止まった。錆の浮いた門だけを見れば、廃工場の入口にしか見えない。だが、その両脇にはスーツ姿の屈強な警備員が一人ずつ立っていた。腰まわりの不自然な膨らみから、武器を携えていることがうかがえる。同行していた少将が車を降り、現地の言葉で警備員と短く言葉を交わした。やがて鉄門が内側から開き、眩しいほどの白い光が斜面を照らした。門の向こうには、外の荒涼
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第286話

だが紗和は、その石の表面に刻まれた、ごく細い筋を見逃さなかった。飛行機の中で退屈しのぎに、征臣が座席に置いていた宝石の専門誌をめくったことがある。そこに、原石の表面に現れる帯状の模様について解説した記事が載っていたのだ。ほんの暇つぶしで目を通しただけなのに、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。蛇が這ったように見えるその筋は、内部に色が入っている可能性を示す手がかりのひとつだという。この石の筋は、注意して見なければ気づかないほど細く薄い。けれど、くすんだ灰色の表面に極細の筆で描いたかのように、石の上部から側面まで美しい線を描いていた。「これ」紗和は、隅に置かれた灰色の石を指さした。征臣はその指先を追い、わずかに眉を上げると、口元に笑みを浮かべた。石を手に取って裏返し、例の筋を確かめた瞬間、その目に意外そうな光がよぎる。「モーシーシャ鉱区の石だな」まるで退屈な報告書でも読み上げるような口調で産地を言い当てると、征臣は紗和を見た。「本当にこれでいいのか?」そばにいた金縁眼鏡の東洋系の買い手が、思わず口を挟んだ。「お嬢さん、その石はもう窓を開けてあるでしょう。中は真っ白で、おそらく何も出ませんよ。遊びで選ぶにしても、まだ手つかずの石のほうがましです」言葉遣いこそ丁寧だが、その声には隠しきれない侮りがにじんでいた。紗和を、金持ちに連れられて見物に来ただけの素人だと思っているのだろう。そう言われると、紗和の決心も揺らいだ。無意識に征臣を見上げた。すると征臣は笑った。口元がわずかに弧を描いただけなのに、瞳には面白がるような光が満ちている。彼は石を紗和の手に押し込み、金縁眼鏡の男に悠然と視線を向けた。「彼女が選んだものが、一番いい」その一瞥に背筋を凍らせた男は、愛想笑いを浮かべながら引き下がった。「いくらなの?」値札を裏返した紗和は、息をのんだ。8万ドル――一千万円を優に超える額だ。何の変哲もない灰色の、しかも見込みなしと判断された石が、それほどの値段なのだ。反射的に元に戻そうとした手首を、征臣に押さえられた。「気に入ったなら買えばいい」声は低い。それでも静まり返った会場には、はっきりと響いた。近くのテーブルにいた客たちまで、聞き耳を立てる。征臣は余裕に満ちた、どこか甘
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第287話

最初に刃を入れた場所から現れたのは、白っぽい石肌だけだった。金縁眼鏡の男が、やはりなと言わんばかりに口元をつり上げかけた、そのときだった。二度目に刃が入った瞬間、灰白色の石の奥から、息を呑むほど鮮やかな緑が姿を現した。照明を受けた断面は、濡れたような艶と深い透明感をたたえている。職人の手が思わず震えた。危うく刃を逸らしかけ、慌てて機械を止めると、切断面に水をかけて石粉を洗い流した。会場が一瞬、静まり返った。次の瞬間、どよめきが一気に広がる。「全面に色が入ってる!」「この色……最高級クラスだぞ!」「北部鉱区の石から、こんなものが出るのか?」客たちは一斉に押し寄せ、切断台の周りを隙間なく取り囲んだ。先ほどまで鼻で笑っていた金縁眼鏡の男も、いつの間にか最前列へ割り込んでいた。眼鏡が石に触れそうなほど顔を近づけ、その表情は疑いから驚愕へ、そして言葉にならない後悔へと変わっていく。この石は今夜、2時間もあのテーブルに置かれていた。男は少なくとも5回はその前を通り、そのたびに一瞥しただけで素通りしていたのだ。できることなら10分前に戻って、自分の頬を張り飛ばしたい気分だった。職人は息を整えると、今度は慎重に石の表面を削っていった。やがて姿を現したのは、拳よりも大きな、最高級クラスの鮮やかな緑色の原石だった。色は濃く、それでいて澄み切っている。奥まで吸い込まれそうな透明感があり、目立つ亀裂も濁りも見当たらなかった。これほど大きく、しかも質の高い石は、ここ数年ほとんど市場に出ていない。「お嬢さん、300万ドルでどうです?」真っ先に声を上げたのは、中東から来た買い手だった。隣に立つ白手袋の鑑定士が、もっと上げろとでも言うように、しきりに目配せしている。「400万」すぐさま、別の欧米系の男が自信ありげに声を上げた。金縁眼鏡の男も歯を食いしばる。「450万」次々と飛び交う金額に、紗和は頭が追いつかなかった。信じられないほど鮮やかな緑の石を見下ろし、それから征臣へ目を向けた。征臣は一度も値段を口にすることなく、片手をポケットに入れたまま、気だるげにテーブルへもたれていた。もう片方の手は、いつの間にか紗和の腰へ添えられている。あまりにも自然な仕草だったが、その抱
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第288話

帰りの車の中でも、紗和の興奮はなかなか冷めなかった。征臣の肩にもたれながら、あの細い筋にどうして気づいたのか、石の表面の色や質感を見て何を考えたのか、最後の最後であの男の言葉に少し自信をなくしかけたことまで、途切れることなく話し続ける。征臣は黙って耳を傾け、ときおり短く相槌を打ちながら、猫でも撫でるように紗和の髪先を指で弄んでいた。車が山道の中腹まで下りてきたとき、前方で強烈なハイビームが一斉に点灯した。何台もの車が道を塞いでいる。少将はとっさにブレーキを踏んだ。車体が砂利を噛みながら少し滑り、ようやく止まる。眩しいライトの向こうから、銃を手にした20人あまりの男たちが姿を現した。男たちは左右へ広がりながら、2台の車を取り囲んでいく。先頭にいたのは、迷彩柄のベストを着た大柄な坊主頭の男だった。首には太い金のチェーンを下げ、散弾銃を気だるそうにフロントガラスへ向けている。「車を降りろ!石を渡せ!」男は英語で怒鳴った。こうした真似には慣れているのだろう。その態度には、こちらが従って当然だという傲慢さが滲んでいた。少将と武装組織の長は一瞬目を合わせると、同時に後部座席の征臣を振り返った。紗和の顔から、さっと血の気が引いた。それでも悲鳴は上げず、反射的に征臣の腕をつかむ。その瞬間、征臣の腕にわずかに力が入った。だが、それもすぐに抜けた。まるで、予想していた面倒がようやく現れたとでもいうようだった。「面白い」征臣は低く呟いた。紗和の手の甲を軽く叩いて安心させると、スマホを取り出し、短いメッセージを送った。【来た】それだけだった。送信を終えるとスマホを伏せて膝へ置き、そのまま座席に深く身を預けた。そして目を閉じる。その表情は、自宅のリビングでお茶が入るのを待っているかのように、どこまでも平然としていた。数秒待っても車内から誰も降りてこないことに苛立ったのか、坊主頭の男は散弾銃を空へ向けて撃った。乾いた銃声が山あいに響き渡る。周囲の男たちも次々と銃を構え、金属音が夜の静けさを破った。そのときだった。遠くから、別の轟音が近づいてきた。ヘリコプターのローター音だ。山の稜線の向こうに、強い光が三つ現れた。探照灯が一斉に地上へ向けられ、路上にいる
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第289話

「ク、クイナ一派のバトリです……あなたとは知らなかった。本当に知らなかったんです。どうか、命だけは……」男は必死に頭を下げた。征臣はもう興味を失ったように視線を外した。振り返ると、少将に低い声で何かを告げる。少将は短くうなずき、上空のヘリへ合図を送った。三機のヘリは進路を変え、そのまま山の麓へ向かっていく。しばらくすると、夜の向こうから立て続けに銃声が響いた。やがて遠くで炎が上がり、暗い山肌を赤く染めた。紗和は車の中から、その一部始終を見つめていた。心臓が激しく脈打っている。恐怖だけではない。あまりの光景に、言葉にならないほどの衝撃を受けていた。征臣が、ただの実業家ではないことは以前から分かっていた。だが、こんな山奥で武装ヘリを動かし、100人を超える兵を一瞬で展開させ、長年この一帯にはびこってきた武装勢力さえ短時間で制圧できるほどの力を持っているとは、思ってもみなかった。征臣は、車を降りたときと何一つ変わらない落ち着いた様子で戻ってきた。扉を閉めると、紗和を一瞥する。そして、冷や汗でこめかみに張りついた髪を指先でそっと耳へかけてやった。頬に触れたその手は、いつもどおり乾いていて、温かかった。「怖かったか?」紗和は一度首を横に振り、それから小さく縦に振った。「少しだけ。でも、大丈夫」「こういうことに巻き込まれるのも、もうほとんどない。いずれ俺たちは帰るからな」薄暗い車内で見る征臣の瞳は、いつも以上に深く見えた。脅しているわけでも、言い聞かせているわけでもない。ただ当然の事実を告げるような、静かな口調だった。「お前は俺の妻だ。お前に手を出すということは、俺に手を出すのと同じだ。今日バトリを潰さなければ、明日はまた別の馬鹿が同じことをする」紗和は数秒黙ってから、顔を上げ、征臣の目をまっすぐ見つめた。今夜、取引会で「気に入ったなら買えばいい」と当然のように言ってくれたこと。切断面から現れた、息を呑むほど鮮やかな緑。そして、熱狂する買い手たちを前に、テーブルへ気だるげにもたれながら、自分の腰を抱き寄せていた征臣の姿。見せつけるためでもなければ、誰かに演じてみせるためでもない。征臣は本当に心の底から、紗和を自分の大切な人間として扱っているのだ。「もう怖く
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第290話

「今夜は俺が作る。妻に料理を作るのも、夫の特権だからな」征臣はそう言ってスーツの上着を脱ぎ、無造作に肩へ掛けた。気の抜けた仕草なのに、妙に色気がある。だが、紗和をまっすぐ見つめる瞳だけは驚くほど柔らかく、その深い眼差しから、なぜか目をそらせなかった。征臣が紗和をソファへ戻し、キッチンへ向かってから、ようやく眠気が覚めた。端末を見ると、すでに日付が変わっている。こちらで残っている仕事を片づけるため、今日は遅くなると征臣は言っていた。襲撃から無事に戻って以降、ひと目でも征臣に会おうと訪ねてくる者があとを絶たなかったことを、紗和も知っている。それほど忙しかったはずなのに、戻って真っ先に自分のところへ来てくれた。ソファで眠りかけていた自分を起こさないよう静かに抱き上げ、そのうえ今度は夜食まで作ってくれている。なぜだろう。紗和は、不意に泣きたくなった。こんなふうに、何の見返りも求めず大切にされる感覚を、もう何年も忘れていた。かつておばあちゃんもそうだった。あの小さな家へどれほど遅く帰っても、食事を用意して待っていてくれた。つらいことがあれば慰め、紗和の気持ちを分かろうとしてくれた。欲しいものがあれば、できる範囲で何でも買ってくれた。九条征臣とは、いったいどんな人なのだろう。紗和の胸には、相反する気持ちがあった。ときには征臣を怖いと思い、無意識に心を閉ざしてしまう。婚姻届を出してからこれほど経つのに、いまだに自分のすべてを委ねきれないことが、嫌になるときさえあった。それでも征臣は、いつも変わらず紗和に向き合ってくれた。この人なら、自分を置き去りにはしないのかもしれない。少しずつ、そう思えるようになっていた。しばらくすると、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってきた。紗和にとって、男とは料理も身の回りのこともしないものだった。自分が誰かの世話をすることには慣れている。専属の料理人がいても、怜央や晴翔が紗和の手料理を食べたがることはあった。けれど、怜央が自分から台所に立つ姿など、一度も見たことがない。まして、自分のためだけにわざわざ料理を作ってくれるなど、想像したことすらなかった。それなのに、桁外れの資産を動かす征臣が、今こうして自ら夜食を作っている。あまりにも
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