All Chapters of 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった: Chapter 291 - Chapter 300

380 Chapters

第291話

これほど細やかに気遣ってもらえることは、決して当たり前ではない。大切にされるというのは、こういうことだったのだ。征臣は、紗和の様子がいつもと違うことにすぐ気づいた。振り返り、紗和を見つけた途端、その眼差しがふっと柔らかくなる。手を伸ばし、自然に自分のそばへ抱き寄せた。「腹が減ったか?」物思いから引き戻された紗和は、小さくうなずいた。征臣は片腕で紗和の細い腰を抱いたまま、もう片方の手で、甘酸っぱい香りを立てて煮える酢豚を混ぜている。やがて火を止め、一切れすくい上げると、熱すぎないよう軽く冷ましてから紗和の口元へ運んだ。パイナップルと柔らかな豚肉に、野菜の旨味と甘酸っぱいソースがよく絡んでいる。紗和が口に入れると、思わず表情がほころんだ。どこか祖母が作ってくれた料理を思い出す、懐かしい味だった。それでいて香りも味わいも豊かで、今まで食べた酢豚とは少し違う。ゆっくり味わってから、紗和は素直に言った。「すごくおいしい」征臣は満足そうに笑い、酢豚をたっぷり皿へ盛って食卓に置いた。腹が減っているなら先に食べていろと言われたが、紗和はキッチンを離れなかった。最後の仕上げに入った頃、紗和はそっと征臣の背後へ回った。そして、腰に両腕を回して抱きつく。征臣の動きが、わずかに止まった。それでも何も言わず、振りほどくこともなく、好きなように抱かせてくれた。紗和がわざわざキッチンまで来たのは、このためだった。ここ数日、紗和は何度か征臣を拒んでしまった。その埋め合わせをしたいわけではない。ただ、自分も少しずつ変わろうとしていることを、言葉ではなく行動で伝えたかった。やがて大きな手が、腰の前で重ねた紗和の手を優しく包んだ。征臣は片手で料理を載せた盆を持つと、振り向きざまにもう片方の腕で紗和を抱き上げた。腿のあたりをしっかり支えられ、体がふわりと浮く。食卓までは、ほんのわずかな距離だった。それでも征臣は紗和を下ろさず、そのまま抱いて運んでいった。椅子ではなく、高さのある天板の上へ座らされる。紗和が驚いて目を見開いた、その直後。征臣が目の前まで近づいた。距離が一気に縮まり、熱を帯びた気配に包まれる。整った顔が、そのまま唇へ近づいてきた。だが、驚きに揺れる紗和の瞳
Read more

第292話

莉乃は到底、受け入れられなかった。以前は何をねだっても、怜央が与えてくれた。会社の代表という座さえ用意し、いつも自分を引き上げてくれたのだ。それが今では、補佐の役職ひとつ望んだだけで、見下すように拒絶される。変わり果てた怜央が憎い。容赦なく批判し、蔑む彼が許せなかった。まして今の自分は九条家の令嬢であり、背後には大きな力を持つ後援者までいる。こんな屈辱に耐えられるはずがない。怜央の言葉を聞くなり、莉乃は激昂した。まず瀬川の机に駆け寄り、丹念に作られた資料をすべて引き裂いた。紙片が床に落ちきる前に、今度は水晶のペン立てを掴み、向かいの液晶画面に叩きつける。鋭い音を立てて画面が割れ、細かな破片が床一面に飛び散った。瀬川は机の脇で凍りつき、顔を青ざめさせた。唇を動かしたものの、一言も発せない。それでも莉乃の怒りは収まらなかった。怜央の机に向かい、黒檀の置物を腕で払い落とす。さらに、湯気の立つコーヒーをカップごと床に叩きつけた。深い褐色の液体が高価な白いスーツに跳ねても、気に留める様子はない。真っ赤に燃える目は、毒を塗った刃のようだった。「御堂怜央!どうして私にこんな仕打ちができるの!」声は裏返るほど甲高く、床を踏み鳴らすヒールが硬い音を立てた。「一生私を守ると言ったのは誰?御堂のすべての力を私に与えると言ったのは誰よ!今さら能力が足りないんだって?どうしてあの頃はそう思わなかったの!」次に手を伸ばしたのは、壁際の飾り棚に置かれた青磁の花瓶だった。数年前、御堂家当主が競売で数億円を投じて落札した品だ。「花宮さん、それだけは――」たまりかねた瀬川が制止するより早く、莉乃は花瓶を抱え上げ、怜央に狂気じみた笑みを向けた。「私を苦しめるなら、あなたの大切なものだって無事では済まさない」指が離れ、花瓶が真っすぐに落ちていく。床に激突する直前、骨ばった手がしっかりと受け止めた。いつ立ち上がったのかわからないほど素早く、怜央は受け止めた花瓶を脇の棚に置いた。次の瞬間、もう片方の手が迷いなく振り上げられた。その平手打ちは重く、乾いた音が社長室いっぱいに響き渡った。一瞬、その場にいた誰もが動きを止めた。莉乃の顔が横に弾かれ、左頬にはたちまち鮮明な手形が浮かんだ。焼けつくような痛みが耳の付け
Read more

第293話

「もう気は済んだか」声は大きくない。むしろ静かだった。だが、その静けさの奥にある冷たさは、怒鳴りつけられるよりもずっと恐ろしかった。莉乃は頬を押さえたまま、ゆっくり振り返った。目には涙が浮かんでいる。けれど、そこに悲しみはなかった。あるのは、怜央への憎しみだけだった。「私を叩いたの?御堂怜央、こんながらくたのために、私を叩いたの?」唇を震わせながら絞り出した声は掠れていた。やがて莉乃は、不意に笑い出した。泣いているよりも痛々しい、歪んだ笑みだった。涙が頬を伝い、丁寧に仕上げていたアイメイクが黒く滲んでいく。「いいわ。よく分かった。覚えてなさい。絶対に後悔させてあげる」莉乃は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。そのまま後ずさりし、自分でめちゃくちゃにした社長室を見渡す。荒れ果てた室内を眺める顔には、どこか歪んだ満足感さえ浮かんでいた。「九条家も、私の後ろにいる人も、あなたを許さない。今日されたことは、何倍にしてでも返してやるわ!」莉乃は怜央を指さした。指先を彩る真っ赤なネイルが、ひどく鮮烈に目に映った。怜央は手を拭ったハンカチをゴミ箱へ放り込み、莉乃を見ることさえせずに内線を取った。「警備を呼べ」「追い出されなくても出ていくわ!」莉乃は甲高い声で遮ると、ソファに放り出していたバッグをつかみ、床に散らばったガラス片を踏みながら扉へ向かった。ヒールの下で破片が耳障りな音を立てる。全身から怒りが滲み出ていた。出口で足を止めても、振り返ることはなかった。「今日、あなたは私を壊した。だったら私も、あなたのすべてを壊してやる」先ほどまでの叫び声とは打って変わった、低い声だった。かえってそのほうが、不気味なほどだった。莉乃は扉を勢いよく開け、駆けつけた警備員を押しのけると、そのままエレベーターへ向かった。一度も振り返らなかった。社長室に、ようやく静けさが戻った。瀬川は荒れ果てた室内を見回し、恐る恐る口を開く。「社長、人を呼んで片づけさせます」「部屋ごと消毒させろ。中にあるものも全部替えろ」怜央は机へ戻り、ごく淡々と命じた。まるで何でもないことを指示しているような口調だった。瀬川は一瞬言葉に詰まったものの、すぐにうなずく。「承知し
Read more

第294話

怜央は、あらかじめ用意していた追跡用の不正プログラムを仕込んだ。狙いは、紗和に関するあらゆる情報だった。そのプログラムはつい先ほど、以前サイバーセキュリティ関係の仕事をしていた知人から、高額で手に入れたばかりのものだ。精度が高く、痕跡も残りにくい。逆にたどられる可能性もほとんどない――そう聞かされていた。実行した瞬間、怜央はわずかに安堵の息を漏らした。画面には次々とデータが流れ、文字列が目まぐるしくスクロールしていく。追跡機能が、対象端末の接続情報を探り始めていた。怜央は椅子に深く身を預け、コーヒーをひと口飲みながら、じっと画面を見つめていた。やがて、反応があった。怜央は勢いよく身を起こした。胸が高鳴る。地図上に、一つの印が浮かび上がっていた。示されたのは、世界の反対側にある、怜央が一度も訪れたことのない島だった。さらに詳しい情報を確認しようとした、その瞬間。画面が大きく乱れた。開いていたものが次々と消え、デスクトップが真っ黒に染まる。怜央が息を呑んだ。漆黒の画面の中央に、線だけで描かれた小さな猫がゆっくり浮かび上がった。紗和が長年SNSで使っていたアイコンだった。猫が、こちらへ向かって片目をつぶる。ほどなくして、その下に白い文字が現れ始めた。まるで誰かが今まさに、怜央へ向けて打ち込んでいるかのようだった。【御堂怜央。やっぱり私を調べたのね】怜央の手が止まった。全身から、すっと血の気が引いていく。気づかれた。しかも、それだけではない。こちらが紗和を探ろうとした途端、逆に端末を押さえられてしまったのだ。呆然と画面を見つめる怜央の前に、さらに文字が続く。【あなたが頼った人、ずいぶん腕が悪いのね。こんな程度で私を追えると思った?そういえば、昔使っていたフォーラムのIDは教えていなかったわね。armerよ】怜央の表情が変わった。armer。その名なら、聞いたことがあった。以前、会社でサイバーセキュリティの訓練を行った際、技術責任者が口にしていた名前だ。正体を明かさず活動するトップクラスのハッカーたちの間でも、知らない者はいない。圧倒的な技術を持ちながら、ある時期を境に突然姿を消し、それきり消息を絶った人物。そのarmerが――紗和だ
Read more

第295話

だが、端末からは、紗和に関するものだけがきれいさっぱり消えていた。かつて届いたメッセージも、別れを告げるメールも、二人で立てた旅行の予定も、紗和が作った資料もない。クラウドに残していたバックアップまで、跡形もなく消えている。紗和は、二人の過去を何もかも持ち去ってしまった。残されていたのは、目に焼きつくような赤い写真が一枚だけだった。怜央は両手で顔を覆った。肩が大きく震え、堪えきれなかった嗚咽が指の隙間から漏れる。一方、会社を出た莉乃は、これからどうするべきかを考えていた。怜央はもう当てにならない。ならば、新しく自分の力になってくれる男を探すしかなかった。心も身体も満たされたいのに、今の怜央はそのどちらも与えてくれない。車を走らせながら考えているうちに、ふと一人の男が頭に浮かんだ。初めて身体を重ねた相手というものは、そう簡単に忘れられるものではない。莉乃も例外ではなかった。真っ先に思い浮かんだのは、御堂誠一だった。成り行きだったとはいえ、自分の初めてを奪った男。それなのに、不思議と憎しみはなかった。むしろ思い出すだけで、身体の奥が熱を帯びる。彼が怜央の父親だと知ったのは、そのあとだった。誠一は年齢をほとんど感じさせず、むしろ怜央よりも色気があるようにさえ見えた。細身ながらほどよく引き締まった体つきを保っている。ただ、長年好き放題に遊んできたせいか、目元にはうっすらと疲れが滲んでいた。それでも顔立ちは十分に整っており、よく見れば怜央と似た面影もある。もちろん、誠一には妻がいる。怜央の母、清美だ。もっとも清美は、長年精神科病院で療養を続けていた。清美のことを思い出した途端、莉乃の胸にまた怒りが込み上げた。自分の結婚式に現れ、いきなり頬を叩かれたことを、今でも許してはいない。莉乃は車を止めると、スマホの連絡先を開いた。怜央との結婚式を準備したときの連絡先には、誠一の番号も残っている。少し甘えるような文面を打ち込み、そのまま送信した。【誠一さん、莉乃です。私のこと、覚えていますか?大事なお話があるんです。会えませんか?】その頃、誠一は市内の高級マンションで、別の女と過ごしていた。スマホが鳴ると、そばにいた女から離れ、画面へ目を落とした。「奥さ
Read more

第296話

莉乃から届いたメッセージを眺めながら、誠一はしばらく考え込んだ。結婚式で莉乃の身に起きた一件は、かつて自分が味わった転落とどこか似ている。ただ、莉乃の場合は女で、そのうえ複数の男が関わっていた。世間から向けられる目は、自分のとき以上に厳しいはずだった。それにもかかわらず、莉乃は早々に釈放されている。聞くところでは、彼女の背後には御堂家ですら無視できないほどの人物がついているらしい。しかも、自分が深く考えもせず関係を持った女が、九条家の令嬢だったと知ったのも、あとになってからだった。今になって莉乃が自分に会いたがる理由も、誠一にはだいたい察しがついた。結婚式での一件以来、莉乃は怜央に見放された。愛情に飢えた彼女が、以前関係を持った自分を思い出したのだろう。メッセージそのものには、露骨な誘い文句など一つもない。それでも、その裏にある意図は十分すぎるほど伝わってきた。誠一は莉乃を愛しているわけではなかった。あのときだって、ただ欲を満たす相手としか見ていない。今では彼女の評判まで地に落ちている。正直なところ、もし彼女が何の後ろ盾もない普通の女だったなら、誠一はもう抱きたいとさえ思わなかっただろう。だが、莉乃はただの女ではない。九条家の令嬢という立場がある。だからこそ誠一は考えた。この女を利用すれば、自分の望みを叶えられるのではないか、と。もちろん、誠一は金に困っているわけではない。一族の基金から毎月決まった額を受け取り、千鶴からも援助を受けている。何不自由なく暮らしていけるだけの金はある。だが、誠一の野心は、そんな暮らしで満足できるほど小さくはなかった。誠一は相手の出方を探るように返信した。【もちろん覚えている。うちで話すか?】返事はすぐに届いた。【ええ、誠一さん。今から伺います】ほどなくして、莉乃の車が高級マンションの地下駐車場へ入ってきた。誠一の部屋はワンフロアを丸ごと使った造りで、専用エレベーターからそのまま玄関へ入れる。人目を気にする必要もなく、莉乃はまっすぐ部屋へ向かった。扉を開けた誠一は、シンプルな白いシャツに黒いパンツという格好だった。莉乃も上質な服を身につけていたが、大きくなった腹は隠しきれない。扉が閉まるなり、莉乃は取り繕うこともなく誠一
Read more

第297話

莉乃はもったいぶることもなく、はっきりと言った。「お腹の子、あなたの子よ」誠一は思わず目を見開いた。御堂家の屋敷で、休もうと自分の部屋へ戻ったとき、そこに莉乃が横たわっていたあの夜が脳裏によみがえる。あの一夜が、自分にとって悪くないものだったのは確かだ。莉乃も同じように見えた。だからこそ、先ほど甘えるような言葉を向けられても、さほど嫌な気はしなかった。だが、まさか腹の子まで自分の子だと言われるとは思ってもみなかった。莉乃は確かに美しい。あの夜まで男を知らなかったというのも本当なのだろう。とはいえ、誠一がこれまで関係を持ってきた女は数えきれない。莉乃だけが特別強く記憶に残っていたわけでもなかった。それでも今は、あの夜のことを真剣に思い返す必要があった。考えてみれば、あれから4か月ほど経っている。莉乃の腹の大きさを見ても、時期としておかしくはない。計算だけなら、この子が自分の子である可能性は十分にあった。誠一は眉を寄せ、煙草に火をつけた。ゆっくり煙を吐きながら、莉乃を探るように見つめる。「だが、その子は怜央の子だと言っていたはずだ。怜央だって、それを信じていたからこそ、お前と結婚しようとしたんじゃないのか?」その言葉に、莉乃は声を上げて泣き出した。「本当の父親が誰なのかは、私にしか分からないわ。あの夜、あなたは何度も私を求めたでしょう?避妊もしなかったし、私も薬は飲まなかった」涙を拭おうともせず、莉乃は続けた。「あの日は、怜央に嫌われるのが怖くて……仲直りしたくて、あの人に薬を使ったの。でも量を間違えて、逆に何もできない状態になってしまった。怜央とは何もなかったの。そのあとで妊娠したのよ。誠一さん、この子は本当にあなたの子なの」莉乃が泣きながら訴えるあいだも、誠一は煙草を吸いながら考え込んでいた。「そのあと、本当にほかの男とは何もなかったのか?だが、結婚式で見たあれは……」誠一もあの場にいた。巨大なスクリーンに映し出された映像も、はっきりと残った音声も見聞きしている。あれほど男慣れした様子だったのは、その間にも何人もの男と関係を持っていたからではないのか。そう考えるのも無理はなかった。父親が誰かも分からない子を、自分の子として引き受ける気はない。怜央がすで
Read more

第298話

「あなたの子だと分かっても、私は中絶しなかった。怜央の子として産むことになっても構わないと思ってた。それくらい誠一さんが好きだったし、あの夜のことを忘れられなかったから」誠一には、すぐには信じられない話だった。それでも、莉乃の言い分がまったく筋の通らないものとも思えない。本当に誰とでも関係を持つような女なら、あの年齢まで男を知らずにいたとは考えにくい。まして九条家の令嬢なら、それなりの教育も受けてきたはずだ。そう簡単に男を取っ替え引っ替えする女には見えなかった。では、結婚式で見たあの異様な様子も、本当に妊娠による一時的な変化だったのだろうか。誠一には妊娠の知識などほとんどない。そんなことが本当にあるのか、自分では判断できなかった。ただ、目の前で泣き続ける莉乃を見ているうちに、次第に信じてもいいような気がしてきた。そうでなければ、莫大な遺産を継ぐ九条家の令嬢が、わざわざ自分のところへ来る理由がない。男というものは、とかく自分の魅力を実際以上に高く見積もりがちだ。誠一も例外ではなかった。あの夜の自分が忘れられず、莉乃は本気で惚れたのだ。そう思えば思うほど、気分がよくなっていく。若い怜央ではなく、自分を選んだ。その事実が、誠一の自尊心を大いに満たした。御堂家の中で長く傷つけられてきた彼にとって、それは何より心地よい感覚だった。やがて誠一は、莉乃の腹の子を自分の子だと信じることにした。口元に笑みを浮かべ、莉乃の肩を抱く。頬を伝う涙を指で拭ってやった。「もう泣くな。目の前で女に泣かれるのは苦手なんだ。莉乃がそう言うなら、そうなんだろう」誠一に女として大切にされ、甘やかされているのを感じた瞬間、莉乃の胸にはこれまでにない奇妙な感情が芽生えた。「誠一さん。私、真実を伝えるためだけに来たんじゃないの」そう言って彼の腰に腕を回し、強く抱きつく。「一番の理由は、どうしようもないくらい誠一さんが好きだから。もう怜央とはやっていけない。あなたに抱きしめてほしい。あなたと一緒にいたいの」誠一は年齢のわりに腹も出ておらず、細身ながら引き締まった体つきを保っていた。その身体に抱きついていると、莉乃の胸にはまた、どこか高揚した気持ちが広がっていく。邦彦が姿を消してからというもの、莉乃はひ
Read more

第299話

それでも誠一は、まだ完全には警戒を解いていなかった。「本当なら、俺のところへ来るべきじゃなかった。俺たちは一緒にはなれない。怜央と結婚して、無事に子供を産めばいい。その子にいずれ御堂家の財産を継がせる。それが俺たちにとって一番得なやり方だ」莉乃は顔を上げた。潤んだ瞳には、誠一だけを見つめる一途な思いが滲んでいた。「でも誠一さんは、まだ若いでしょう?本当はすごく有能な人だし……御堂家を率いるべきなのは、誠一さんなんじゃない?」誠一は黙り込んだ。その表情に、わずかな迷いが浮かぶ。「親父が生きている限り、俺に御堂家を任せることはない。今さら余計な期待はしないほうがいい。それに、怜央は怜央でそれなりにやっている。わざわざ替える理由もない」すでに捨てた野心だと言い聞かせるような口ぶりだった。だが、莉乃は引き下がらない。「それは、今まで機会がなかっただけでしょう?でも今は私がいる。私が誠一さんにその機会を作ってあげる。私が後ろ盾になれば、御堂家を取り戻すことだって難しくないわ。そうしたら、この子が生まれたあと、誠一さんの後継者にすればいい。きっと怜央よりずっと素直で、父親を大切にする子になる。そう思わない?」莉乃が今日ここへ来るまで、誠一はそんな未来を考えたこともなかった。だが、彼女の言葉を聞くうちに、とうに消えたと思っていた欲が、胸の奥で少しずつ息を吹き返していく。清美をめぐる長年の確執もあり、怜央は誠一を父親と認めようともしない。血が繋がっているだけで、親子らしい情などほとんどなかった。御堂家を継ぐのは自分の血を引く息子なのだから、それでいい。そう割り切ろうと思えば、割り切れなくもない。それでも誠一にとって、怜央は息子というより、ほとんど他人に近い存在だった。老後に自分の面倒を見るような男でもない。このまま何も変わらなければ、一族の基金から支給される金と、家族からの援助だけを頼りに暮らしていくことになる。だが莉乃は、誠一がかつて欲しながら手にできなかった地位も権力も与えられるという。そのうえ、自分を父として慕う後継者まで産んでくれるというのだ。冷淡で、自分を父とも思わない怜央とは違う子を。誠一の心は大きく揺れた。あまりにも都合のいい話だった。それでも、そんな未来を想像した
Read more

第300話

莉乃の指先が、誠一のシャツの胸元をゆっくりとなぞった。熱を帯びた瞳で、彼を見上げる。誠一には、莉乃が何を求めているのかすぐに分かった。女慣れしている彼は、相手が欲情しているときのわずかな変化にも敏感だった。莉乃の評判がすでに地に落ち、あれほど大胆で常軌を逸した騒ぎまで起こしていたとしても、誠一はさほど気にしていなかった。というのも、誠一自身もまた、とうの昔に世間からまともな人間として見られることを諦めているからだ。今さら相手に清廉さなど求めてはいなかった。何より、莉乃が自分に強く惹かれていることは、態度を見れば分かる。何の気持ちもない男に、女が自分からここまで身を寄せるはずがない。ここで突き放せば、せっかく自分へ向いた気持ちまで冷めかねない。これから莉乃には、自分のために力を尽くしてもらう必要がある。ならば、彼女が求めているものも与えてやればいい。自分に満たされていれば、莉乃はもっと深く自分に傾き、惜しみなく力を貸すはずだ。誠一はそう考えていた。ただ、ふと莉乃の腹へ目を落とし、少しだけためらう。「子供は大丈夫なのか?」「大丈夫よ」莉乃は艶やかに笑い、そのまま誠一の胸へ身を寄せた。「もう安定しているから、無理をしなければ問題ないって先生にも言われてるの」妊娠中でも、体調が安定していれば無理のない範囲で夫婦生活を送れることは、ここへ来る前に自分でも確かめていた。「そうか。それならいい」誠一は目を細め、莉乃の腰から背中へゆっくり手を滑らせた。その触れ方に反応するように、莉乃の身体がかすかに震える。やがて彼女は誠一の腰へ両脚を絡め、そのまま離れまいとするように身体を寄せた。誠一は煙草をくわえたまま、莉乃の顔へゆっくり煙を吐きかける。両手で細い腰を支えながら、その身体がしなやかに揺れるさまを眺めていた。誠一の部屋を出る頃には、莉乃はすっかり満ち足りた表情をしていた。自分を愛せなかったのは、怜央に見る目がなかっただけだ。九条家の令嬢である自分なら、愛してくれる男などいくらでもいる。御堂家が九条家の力を必要としている以上、自分が選び、後ろ盾になる男こそ、いずれ御堂家の中心に立つ。怜央など、自分を捨てたことをあとで思い知ればいい。莉乃はそう考えていた。もっとも
Read more
PREV
1
...
2829303132
...
38
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status