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All Chapters of 菊池まりな童話集: Chapter 21 - Chapter 30

32 Chapters

第21話 最後の雪だるま

町外れの小さな家に、ミユという女の子が住んでいた。冬が来るたびに、ミユはおじいちゃんと一緒に庭で雪だるまを作った。丸めた雪を重ね、木の枝で腕をつけ、石ころで目と口を作る。仕上げに、おじいちゃんが自分の首から外した焦げ茶色のマフラーを、雪だるまの首に巻いてやる。それが二人だけの、毎年の約束だった。「いいか、ミユ。雪だるまはな、ただの雪じゃないんだぞ」 おじいちゃんはマフラーの結び目をきゅっと締めながら、いつもそう言って笑った。 「心を込めて作れば、ちゃんと応えてくれる」ミユが六歳になった年の冬、おじいちゃんは静かに眠るように旅立った。棺の中のおじいちゃんは、あのマフラーを巻いていなかった。ミユはそれをこっそり形見にもらい、簞笥の奥にしまい込んだ。その年の初雪の朝、ミユは一人で庭に出た。悲しくて、雪だるまなんて作る気になれなかった。けれど、気がつくと手は勝手に雪を丸めていた。下から大きく、真ん中を少し小さく、頭はいちばん小さく。そして家に駆け戻り、簞笥の奥からマフラーを取り出して、震える手で雪だるまの首に巻いた。結び目を締めた瞬間、雪だるまがふわりと動いた。「泣くな、ミユ」低くて、優しい、忘れられない声。「お、おじいちゃん……?」雪だるまは答える代わりに、ゆっくりと右腕の枝を持ち上げてみせた。まるで、大丈夫だよ、と言うように。それから毎年、初雪の日にミユは雪だるまを作り、簞笥からマフラーを出してきて首に巻いた。マフラーを巻いた瞬間だけ、雪だるまは動き、話した。十歳の冬、自転車の練習でひどく転んで、膝から血を出して庭に座り込んでいたミユに、雪だるまは言った。 「立て。今日立たなきゃ、明日も立てなくなる」 ミユは泣きながら自転車にまたがり、日が暮れるまで転び続けた。十四歳の冬、初めて好きになった人にふられて、口も利かずに雪の中に突っ立っていたミユに、雪だるまはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「今は、世界が終わったみたいだろう」 「うん」 「でもな。雪は、また降る」 それだけだった。それだけで、ミユは声を上げて泣いた。十八歳の冬には、雪だるまの言葉はずいぶん少なくなっていた。何を聞いても、 「お前ならもう、わかるだろう」 とだけ答えて、あとは雪の庭に静かに佇んでいる時間が増えた。マフラーの色も、少しずつ色褪せて見えた。二十歳の冬。大学の合
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第22話 海を知らない人魚

深い入り江の、いちばん奥。 日の光もやわらかくしか届かないその場所に、ルナという人魚が暮らしていた。生まれつき体が弱いルナは、外海に出ることができない。潮の流れに少しあらがうだけで、息が切れてしまうのだ。かわりにルナは、岩に腰かけて歌を歌う癖があった。声を出すと、寂しさが少しだけ薄まる気がしたから。歌いながら、貝殻を拾って並べる。青い貝、白い貝、渦を巻いた貝。それがルナの、ささやかな地図だった。「海って、どんなところなんだろう」他の人魚たちは毎日のように外海へ出かけていき、遠い島の話や、光る珊瑚の森の話を土産に持ち帰ってきた。その話を聞くたび、ルナは笑顔をつくりながら、貝殻をひとつ、また海に返した。ある日、迷い込んだ一羽のカモメが、疲れた羽を休めるように岩に降り立った。ルナが歌うのをやめると、カモメは目を丸くして言った。「今の歌、すごくきれいだった。もっと聞かせてよ」驚いたのはルナのほうだった。誰かに歌をほめられたのは、初めてだったから。 それから二匹は、あっという間に友達になった。カモメは毎日入り江へやってきては、空から見た景色を語ってくれた。「朝の海はね、金色に光るんだよ」 「ずっと遠くには、雲より高い山があるんだ」 「海の上に道なんてないけど、風がちゃんと案内してくれる」そのひとことひとことが、ルナの心の中に、行ったことのない景色を描いていった。それからルナは、貝殻を並べながら、カモメの話をもとに想像の中で海を旅するようになった。金色の波を越え、雲より高い山を見上げ、風に導かれて進んでいく。歌うと、その景色はいっそう鮮やかになった。まるで、自分の声が波になって運んでくれるみたいに。けれどある晩、貝殻の地図を見つめながら、ルナはぽつりとつぶやいた。「わたし、本当の海を、一度も見たことがないんだね」となりで羽を休めていたカモメは、少し考えてから言った。「知らないことは、悪いことじゃないよ。……でも、いつか見せてあげたいな」ルナは何も言わず、ただ貝殻をひとつ、そっと握りしめた。数日後、カモメが息を切らして飛んできた。「聞いて! 沖の船乗りが話してたんだ。『夜になると、どこからか美しい歌が聞こえてくる』って。あれ、絶対あなたの歌だよ」ルナは信じられなかった。自分はまだ、入り江の外へ一度も出たことがないのに。でも同時に、指先
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第23話 森を歩く忘れんぼうの巨人

森の匂いが変わる時刻だった。昼の青い匂いが、夜の黒い匂いに変わりはじめる、あの心細い夕暮れ時。少女は、もう三度目の同じ倒木の前に立っていた。木々はどこまでも似た顔をしていて、来た道も行く道もわからない。喉の奥に、涙になりかけた何かがつかえている。そのとき、頭上からずしん、ずしんと地面が揺れて、木々の隙間から大きな影が降りてきた。「おや。迷子だね」声は低く、けれどどこか間延びしていて、怖さより先に、少女の肩の力を抜かせた。見上げると、木々よりも高い巨人が、首をかしげてこちらを覗きこんでいる。困ったような、それでいて笑いをこらえているような、変な顔だった。巨人は少女を大きな手のひらに乗せると、鼻歌まじりに森の外れまで運んでくれた。地面に降ろされたとき、少女はお礼を言おうとして名乗った。「わたし、ミナ」「ミナか。いい名前だ」巨人は大きくうなずいた。ところが翌日、ミナがまた森を訪ねると、巨人は虫でも見るような顔でこう言った。「きみ、だれだったかな」ミナは面食らったが、次の瞬間には吹き出していた。この巨人は、覚えていることより忘れていることのほうが多い生きものらしい。「いいよ」とミナは言った。「わたしが覚えておく係になる」巨人の指先に、小さな手のひらをぺたりと押しあてて、ミナはそう約束した。翌週、ミナは木の実の皮で作った、ざらざらした表紙のノートを持ってきた。表紙には、炭で「巨人さんのおぼえがき」と書いた。中には、拾った木の実の数、巨人が教えてくれた星の名前、初めて二人で声をあげて笑った日のこと──そういう小さな出来事が、丸っこい字でひとつずつ増えていった。巨人は相変わらずよく忘れた。朝に助けた子リスのことを、夕方にはもう覚えていない。そのたびにミナはノートを開き、指でなぞりながら読んで聞かせた。「昨日はね、あなたが川で溺れかけた魚を助けたんだよ」 「一昨日はね、迷子の子リスに木の実を分けてあげたの。あなた、照れてたよ」巨人は膝を抱えて、じっと聞き入った。忘れてしまったはずの記憶なのに、聞いているうちに、胸の奥がじんわり熱くなる。それは初めて感じる種類のあたたかさだった。「変だな」と巨人はぽつりと言った。「忘れても、きみが持っていてくれるなら、なくなった気がしない」ミナはノートを抱きしめて、得意げに鼻を鳴らした。「そうでしょう。わたし、こ
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第24話 花を咲かせられない花の子

山のふもとに、小さな花の子たちが暮らす村がありました。春になると、村の子どもたちはみんな、胸のあたりに小さなつぼみを持っていて、あたたかい風が吹くころになると、そのつぼみがひとつ、またひとつとほころびていきます。ぱりん、と乾いた音を立てて皮が割れ、蜜のような甘い匂いがふわりと立ちのぼる、その瞬間が村ではいちばんの祝いごとでした。赤い花を咲かせる子は、勇気の心を持つ子。 青い花を咲かせる子は、静けさの心を持つ子。 黄色い花を咲かせる子は、希望の心を持つ子。 白い花を咲かせる子は、優しさの心を持つ子。花が咲くたびに、その色は風に乗って村の広場までふわりと届き、広場はいつも、子どもたちの心の色でいっぱいになるのでした。その年の春も、子どもたちのつぼみが次々とひらいていきました。けれど、ひとりだけ──。村でいちばん小さな女の子、フィウだけは、いつまでたってもつぼみが固いままでした。村のお年寄りたちは、フィウのつぼみを見るたび、少し困ったような、それでいて何かを思い出そうとするような顔をしました。まるで、遠い昔に聞いた歌の一節を、喉のところまで思い出しかけているような顔です。誰も、それが何の歌だったか、口には出しませんでした。フィウは、広場のすみっこにちょこんと座って、自分の胸のつぼみをじっと見つめていました。「どうして、わたしは咲けないんだろう」友だちのキィカ──黄色い花を咲かせた、村でいちばんのおしゃべりな女の子──が、風に揺れて笑い声のような音を立てるのを見ながら、フィウはそっとため息をつきます。風が吹いても、フィウのつぼみだけは、ぴくりとも動きませんでした。「そのうち咲くよ」 「急がなくていいんだよ」まわりの子どもたちは、いつも優しく声をかけてくれました。でも、優しくされればされるほど、フィウの心は少しずつ沈んでいくのでした。慰められるたびに、自分がみんなとは違う場所に立っているのだと、あらためて思い知らされる気がしたのです。だから、フィウは人の輪の中にいるのが苦手になって、誰かの後ろにそっと隠れる癖がつきました。土の匂いのする、日陰のひんやりした場所が、フィウにとっていちばん落ち着く場所でした。ある日のことです。あのおしゃべりなキィカが、めずらしく黙りこんで、うつむいていました。花びらの先が、少しちりちりと丸まっています。「どうしたの
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第25話 最後の一匹になった影猫

夕暮れの帰り道は、いつも蒼太《そうた》ひとりのものだった。母が入院してから、家には夕飯の匂いも、テレビの音もなくなった。父は仕事から帰るのが遅く、蒼太は玄関の鍵を自分で開ける日々に、もうすっかり慣れてしまっていた。ランドセルの金具が鳴る音だけが、誰もいない路地に響く。空はオレンジと紫の境目で溶けあい、蒼太の影は道の上に長く伸びていた。ふと、その影の中に小さな光が揺れているのに気づいた。しゃがみこんで覗き込むと、光はするりと形を変え、黒い猫のかたちになった。目だけが淡く光っていて、体は夕陽を透かして少し透けて見える。蒼太は声も出せずに固まった。けれど猫は逃げもせず、ただ静かに、蒼太の足元に寄り添うように座った。言葉は聞こえない。なのに、なぜか「怖くないよ」という声が、胸の奥にそっと届いた気がした。「……きみ、名前は?」猫は答えない。ただ、じっと蒼太を見つめ返すだけだった。「じゃあ……オボロ、って呼んでいい?朧げに光ってるから」猫は瞬きをひとつした。それが「うん」の合図のように、蒼太には思えた。その日から、蒼太の影の中には、もう一つの影が住むようになった。家に帰っても、笑い声はほとんどなかった。食卓には、いつも一人分の静けさが置かれていた。眠れない夜、蒼太は布団の中で膝を抱え、声を殺して泣いた。母の病室の白い天井を思い出すたび、胸の奥が締めつけられた。そんなとき、壁に映る蒼太の影の中で、オボロはまるくなった。すると不思議なことに、蒼太の影がほんのりと温かくなるのだった。冷たいはずの闇が、誰かの体温を持っているみたいに。「影って、こんなに優しいんだ」蒼太は初めてそう思った。悲しみが消えたわけではない。けれど、その重さを、少しだけ一緒に持ってくれる誰かがいる。それだけで、息がしやすくなることを、蒼太は知った。ある晩、蒼太はオボロに尋ねた。「きみは、どこから来たの。仲間はいないの」答える声はない。けれど蒼太の心に、ゆっくりと景色が流れ込んできた。──提灯の灯りが並ぶ夜道。子どもの泣き声。そっと差し出される小さな黒い影。人々がまだ、悲しみを隠さずにいられた時代の匂い。昔は、悲しみが夜の中で静かに息をしていた。影猫たちはその泣き声を聞きつけ、そっと寄り添い、涙を吸い取っては眠らせてきた。けれど時代は変わった。人々は笑顔の下に悲しみを閉じ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第26話 羽をなくした風の精

雨上がりの匂いがする谷に、風の精は住んでいた。 風の精の仕事は、風を起こすことではなかった。花が揺れたがっているときにそっと背中を押し、雲が流れたがっているときにその道を空けてやる。それだけの、誰にも気づかれない仕事だった。けれど風の精は、その静かな仕事を心から気に入っていた。 羽は風そのものの色をしていて、羽ばたくたびに、季節のかけらのようなものがひとひらこぼれ落ちた。 その夜、谷には大きな嵐がきていた。雷が空を裂き、雨が横殴りに叩きつけていた。 谷のふもとで、風の精は小さな鳥の巣が転がり落ちそうになっているのを見つけた。今にも崩れそうな巣を、なんとか風で支えなければ。 風の精はこれまでにない大きな風を起こそうと、体の奥から力を振りしぼった。羽を思いきり広げたそのとき、すぐそばに雷が落ちた。 まぶしい光と、耳の奥まで響く音。体勢を崩した風の精は、自分の起こした風の力に、羽ごと持っていかれた。 気づいたときには、羽は根もとから裂けて、雨の闇の中に消えていた。 翌朝、谷は息を止めたように静かだった。 花はまったく揺れない。雲は同じ場所に張りついたまま動かない。木々は葉一枚そよがせず、黙りこんでいる。 風の精は、折れた羽のつけ根を抱えて草の上にうずくまっていた。飛ぶこともできない。小さな風ひとつ、起こすこともできない。 「わたしは、もう誰の役にも立たない」 そうつぶやくと、声を殺して泣いた。涙は風に乗ることもなく、ただ地面に染みこんでいった。 最初に降りてきたのは、年老いた一羽の鳥だった。風がないせいで翼をうまく広げられず、よろよろと歩いて谷まで来たのだ。 鳥は、うずくまる風の精と、地面に染みた涙と、ちぎれた羽のあとを見つけた。しばらく黙って、それから静かに言った。 「風が止まったのは
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第27話 夜を拾う子ども

その村では、誰も気づいていなかった。夜が、少しずつ薄くなっていることに。眠りは以前より浅くなり、夢は言葉を話し終える前に消えてしまう。朝は、誰かに急かされるように早くやってくる。人々はただ、なんとなく疲れていた。理由もわからないまま、肩の上に薄い綿のような重さを乗せて、日々を送っていた。村の空は、墨を水でうすめたような色をしていた。星はたしかにそこにあるのに、指先で触れれば消えてしまいそうに、頼りなく揺れていた。その揺れに、最初に気づいたのは、村でいちばん夜を好きな子どもだった。子どもは、夜の静けさの中でしか聞こえない音を知っていた。井戸の水がわずかに震える音。遠くの木が眠りにつくときのため息。誰かの家の窓の奥で、灯りが静かに消える瞬間の、あの小さな合図。近ごろ、その音たちが、どこか遠くなっていた。呼んでも、返事が薄くなっていくように。ある晩、子どもは眠れないまま、川へ下りていった。水面はいつもより白っぽく、星の光をうまく映せずにいた。しゃがみこんで水を覗いたとき、岸に打ち上げられた小さな黒い布のようなものが目にとまった。拾い上げると、ひやりと冷たく、指の中でかすかに震えた。耳を寄せると、遠い誰かのため息のような、小さな音がした。──これは、夜のかけらだ。子どもは、それが何であるか、言葉にする前から知っていた。夜が、どこかで壊れている。誰に言われたわけでもなく、静かに決めた。この夜を、縫い直そう、と。家に帰り、裁縫箱から糸を取り出した。けれど、どんなに丁寧に針を通そうとしても、欠片は布のようでいて布ではなく、糸は虚しく空を切るばかりだった。三日目の晩、子どもは欠片を両手で包んだまま、井戸端に座っているパン屋の老人の隣に腰を下ろした。何も聞くつもりはなかった。ただ、隣にいただけだった。老人はしばらく黙って星を見上げていたが、やがてぽつりと言った。 「若い頃、船に乗って海の向こうへ行く夢を見ていてね」 それだけ言うと、老人は少し笑って、続きは語らなかった。その夜、子どもの手の中で、欠片がほんのりとあたたかくなった。それから子どもは、糸ではなく、耳を持って村を歩くようになった。橋のたもとに住む女は、洗濯物を干しながら、遠くへ嫁いだ友の名前を口にした。「元気にしてるかしらね」と言ったきり、女は手を止めて、しばらく橋の下の水を見ていた。子ども
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第28話 風のない丘の老人

 丘の上に立つと、昔は必ず風があった。老人はそれを覚えている。若い頃から、この丘で風を待ち、風の音を瓶に集めてきた。硝子の瓶は棚にぎっしりと並び、それぞれの中で、かすかな震えが眠っていた。 だが、あの年からだった。風が、来なくなった。 老人は毎朝、丘に登って耳を澄ませた。草の匂いも、土の湿りも、昔と変わらない。けれど、どれだけ待っても、あの音だけが返ってこない。瓶の中の風も、静かに眠ったまま、ぴくりとも震えなかった。「静かすぎる」 老人は初めてそう呟いた。村人たちは誰も気づいていないようだった。ただ、どこかしら息苦しい、そんな顔をして日々を過ごしていた。丘だけが、その不在をはっきりと知っていた。 風を集める仕事は、もう誰にも必要とされていない。それでも老人は、瓶を磨きながら考えた。もし風が本当に還ってこないのなら、自分が最後にできることは、風の行方を追うことだけだ。 老人は杖をつき、昔、風が通っていた道を歩き始めた。 まず川沿い。水面はまだ光っていたが、水音のほかには何も聞こえなかった。日は高く、じりじりと首筋を焼いたが、その熱を運び去ってくれるはずの風がない。汗が頬を伝っても、乾かしてくれるものが何もなかった。次に古い橋。渡る人の足音だけが石畳に響いて、欄干を撫でる音はなかった。麦畑では、穂はまっすぐに立ったままで、揺れることを忘れているようだった。青い匂いだけが、動かない空気の底に沈んでいた。そして村の外れの小さな森。木々は沈黙し、葉と葉が触れ合う音さえも失われていた。老人の足はもう鉛のように重く、杖を握る手には、若い頃にはなかった震えがあった。 橋のたもとに、一人の若者が座っていた。欄干にもたれ、川を眺めるでもなく、ただぼんやりと膝を抱えている。老人は隣に腰を下ろし、何も言わずに瓶を膝に置いた。「風、待ってるんですか」若者が先に口を開いた。「もう長いこと、来ないがな」 若者は少し黙ってから、ぽつりと言った。子どもの頃、この橋を誰かと渡った日があった、と。誰と渡ったのか、もう顔もはっきり思い出せない。ただ、その時に頬を撫でた風の匂いだけは、今でも覚えている──そう言って、若者は少し困ったように笑った。「思い出せないのに、匂いだけ覚えてるなんて、変ですよね」 老人は答えなかった。ただ瓶の蓋をそっと開け、若者の言葉が消えていく前に、その沈
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第29話 消えたくないロウソク

古い石造りの教会がありました。町から少し離れた丘の上に建つ、小さな教会です。昼間は訪れる人も少なく、聞こえてくるのは風が木々の葉を揺らす音と、遠くから聞こえる鳥の声くらいでした。けれど、夜になると、教会には静かな祈りの声が響きます。祭壇の上には、何本ものロウソクが置かれていました。その中に、一本だけ、少し変わったロウソクがありました。白く細い身体には、小さな欠けた跡があります。それでも、誰かに灯されるたび、そのロウソクは嬉しそうに炎を揺らしました。「今日も、誰かを照らせる」それが、ロウソクにとって何より嬉しいことでした。けれど──。灯されるたびに、自分の身体が少しずつ短くなっていくことも、ロウソクは知っていました。炎が大きくなるほど、身体は小さくなります。明かりを届けるほど、自分は消えていくのです。ある夜。人のいなくなった教会で、ロウソクは小さな声でつぶやきました。「もっと、誰かを照らしたい」少し間を置いて、続けます。「もっと長く、ここにいたい」その声を聞いていたのは、隣に置かれた古いランプでした。何年もこの教会に置かれているランプです。ランプは静かに言いました。「怖いのかい?」「……うん」ロウソクは素直に答えました。「灯されるのは嬉しい。でも、灯されるほど短くなる。役に立つほど、消えていく」「そうだね」「だったら……灯されないほうが、長くここにいられるんじゃないかな」ランプはしばらく黙っていました。やがて、古い身体をわずかに揺らしながら言いました。「光というものは、不思議なものだよ」「不思議?」「自分が消えたあとも、誰かの中に残ることがある」ロウソクは黙って聞いていました。「暗い道で見た小さな明かり。誰かに優しくされたときの安心。怖い夜に感じた温かさ。そういうものは、光が消えたあとも、その人の心に残っている」「……でも、私は消えてしまうよ」「そうだね」ランプは否定しませんでした。「だからこそ、今ここにいる時間をどう使うかが大切なのかもしれないね」ロウソクは、自分の炎をじっと見つめました。答えは、まだ見つかりませんでした。それから何日か経った、ある夜のことです。空は真っ黒な雲に覆われていました。やがて激しい雨が降り始め、風が教会の窓を激しく揺らしました。ゴォォ……。ゴォォ……
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第30話 ちいさなぞうさんの おおきなくしゃみ

もりの おくに、ちいさな ぞうさんが すんでいました。なまえは、ぞうた。ぞうたには、ちょっと こまった くせが ありました。それは──くしゃみが、とっても おおきいこと。ある あさ。ぞうたが おはなを ひくひくさせていると、「はっ……」はっぱが ぴくっ。「はっ……」ことりが きょろっ。「はっ……」そして――「はっくしょーーーん!」びゅおおおおっ!きの はっぱが、ばばばばばっ!とんでいきました。「わあっ!」うさぎさんが びっくり。「きゃっ!」ことりさんも びっくり。ぞうたは しょんぼりしました。「ごめんなさい……」そのときでした。ひゅーっ。ぞうたの くしゃみで、ちいさな ちゃいろい つぶが、ころころころ。もりの おくへ とんでいきました。でも、ぞうたは それに きづきません。「もう、くしゃみ しないように しよう……」ぞうたは おはなを ぎゅっと おさえました。そのひから、くしゃみを がまんしました。「はっ……」ぎゅっ。「はっ……」ぎゅぎゅっ。「はっ……」ぎゅぎゅぎゅっ。「くるしい……」でも、くしゃみは がまんできません。「はっくしょーーーん!」びゅーーーん!「また とんじゃった……」ぞうたは、しょんぼり。そんなあるひ。もりに、たいへんなことが おこりました。あめが ずっと ふらなくなって、もりの みずが やせてしまったのです。「おはなが しおれちゃう……」「きのみも なくなっちゃう……」どうぶつたちは しょんぼり。ぞうたも、しょんぼり。すると、りすさんが いいました。「あれ?」「どうしたの?」「ここに、みたことのない めが でてる!」もりの じめんから、ちいさな みどりの めが、ひとつ。また ひとつ。ぴょこ。ぴょこ。ぴょこ。やがて、もりの あちこちに、ちいさな めが でてきました。「これは、なんの め?」みんなで みまもっていると、ぽん!ぽん!ぽん!かわいい はなが ひらきました。あか。きいろ。しろ。もりいっぱいに、いろとりどりの はなが ひろがります。「わあ……!」どうぶつたちは おおよろこび。そのとき、ことりさんが きづきました。「この はなの たね……」「うん?」「ぞうたの くしゃみで
last updateLast Updated : 2026-08-16
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