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32 Chapters

第31話 星をなくした夜空

 その夜、星がなくなった。 夜空には雲ひとつなかった。 月も出ていない。 ただ、どこまでも深い黒が、村の上に広がっていた。 村人たちは最初、それを珍しいことだとは思わなかった。「今夜は星が見えないな」「きっと明日になれば戻るさ」 そう言って、いつものように家へ帰っていった。 けれど、ひとりだけ知っている子どもがいた。 この村で、星を守る役目を持つ子どもだった。 名前は、誰にも呼ばれなかった。 星を守る者には、名前が必要ないのだと、昔から言われていた。 子どもは夜空を見上げた。 胸の奥が、きゅっと痛んだ。「……ごめんなさい」 返事はなかった。 いつもなら、空にはたくさんの星がある。 眠れない夜には、ひとつずつ数えた。 悲しい夜には、いちばん明るい星を探した。 迷った夜には、北の空にある星が道を教えてくれた。 けれど今夜は、そのどれもない。 子どもは知っていた。 星は消えたのではない。 自分の心が曇ったから、星が光を失ったのだ。 ずっと胸の奥にしまっていた悲しみ。 誰にも言えなかった寂しさ。 泣きたいのに、泣いてはいけないと思っていた涙。 それらが少しずつ積もって、心の中に夜を作ってしまった。 その夜が、空まで広がったのだ。「星を……戻さなくちゃ」 子どもは小さな袋を肩にかけた。 そして、村を出た。 星が落ちた場所を探すために。 最初に見つけたのは、森だった。 いつもなら月明かりと星明かりが木々の間から差し込み、獣たちの目が小さく光っている。 けれど今夜は、真っ暗だった。 鹿が道を見失っていた。 小さな鳥が木の枝から落ちそうになっていた。 夜行性の動物たちでさえ、不安そうに鳴いている。「星がないと、こんなに暗いんだ……」 子どもは手のひらを握った。 自分が悲しんでいるだけなら、それでよかった。 自分ひとりが眠れないだけなら、それでもよかった。 けれど、自分の心の曇りが、こんなにもたくさんのものを暗くしてしまった。 そう思うと、胸が苦しくなった。 森を抜けると、小さな町があった。 窓には灯りがともっている。 けれど、どの家の灯りも頼りなく揺れていた。 人々は眠れず、何度も窓の外を見ている。 子どもが泣いている家もあった。 老人がひとり、暗い空を見つめていた。「星がない夜
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第32話 小さな声の贈りもの

 その猫は、ある冬の朝、商店街の裏通りで見つかった。 灰色の毛並みに、尻尾の先だけが黒く、まるでインクを落としたような模様の猫だった。 「寒かっただろうね」 声をかけたのは、古本屋を営む七瀬悠人だった。店の前を掃除しようと箒を持ったまま、猫の前にしゃがみ込む。猫は警戒しながらも、悠人の手をこわごわと嗅いだ。 その小さな震えを見て、悠人はためらいなくマフラーをほどき、そっと猫を包んだ。 「よかったら、うちで温まっていきなよ」 こうして猫は、古本屋の住猫となった。 猫は「スミ」と名付けられた。尻尾の黒いしみを見て、悠人が思いつきでつけた名前だ。 スミは本の匂いが好きらしく、よく詩集の棚の前に座り込み、まるで言葉を味わうように鼻をひくつかせていた。 ときどき来る小学生の女の子は、「スミちゃん、今日のおすすめの本は?」と訊き、スミの座る棚から一冊を借りていく。 悠人はそんな様子を見るたび、胸の内がじんわりと温かくなった。 猫がいるだけで、店に流れる時間が柔らかくなる。 そんなことを、彼はこの歳になって初めて知った。 だが、スミが来る前の悠人は、もっと硬い表情をしていた。 三年前、妻の美咲を病で亡くしてから、彼は笑うことを忘れていた。美咲と二人で守ってきたこの店を、ただ惰性で続けているだけだった。客が来ても機械的に対応し、閉店後はカウンターで酒を飲む。そんな日々の繰り返し。 変わったのは、スミが来てからだ。 朝、店を開けるとスミが窓辺で待っている。餌をやると、小さな声で鳴く。その日常の些細な営みが、悠人の心に少しずつ色を取り戻させていった。 冬が終わり、春が来たある夜。 悠人は店のカウンターで、閉店作業をしながらため息をついた。 売り上げは下がり続け、家賃の支払いに不安があった。 古本屋は人の温もりがあるが、数字は温まってはくれない。 「もう、続けるのは難しいかもな……」 ぽつりと漏らしたその時だった。 ──だいじょうぶだよ。 ふいに、耳元で声がした。 驚いて辺りを見るが、誰もいない。ただ、スミが足元にいて、ゆっくりと目を細めていた。 「……スミ? 今、声が……」 ──だいじょうぶ。まだ、終わらないよ。 そう聞こえた気がして、悠人は思わず笑ってしまった。 疲れすぎて幻聴が聞こえたのだろう
last updateLast Updated : 2026-08-25
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