Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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第31話

その頃、VIP病室。消毒液の匂いが静かに漂っていた。病室には、医療機器がかすかに作動する低い音だけが響いている。詩織は病床に横たわり、命をつなぐためのさまざまなチューブにつながれていた。痩せ細った体は骨ばっていて、顔色は、まるで長いあいだ陽の光を浴びていないかのように青白い。ただ、傍らのモニターに映る規則正しい波形だけが、彼女がまだ生きていることを物語っていた。明臣はベッド脇の椅子に腰掛け、点滴をしていないほうの、冷たく痩せた詩織の手を壊れ物でも扱うようにそっと包み込む。里奈は隣に立ち、医者の話を穏やかな口調で伝えた。「医者の話だと、詩織に『生きたい』って気持ちが戻ってきたらしい。こんなことは本当に珍しくて、何か外部からの刺激がきっかけになった可能性があるんだとか。意識を取り戻すまではまだ時間がかかるだろうけど、少なくとも希望は見えてきた」そう言いながら、里奈は明臣の表情をさりげなくうかがい、何気ない口調で続ける。「そういえば不思議なんだけど、容体がはっきり良くなり始めたのって今日の明け方以降なんだよね。明臣、昨夜あの涼真に会いに行っただろ?もしかして、本当に悪いことをした人には報いが返ってきて、それを詩織が感じ取った、とか……」その言葉に、明臣は詩織の手を思わず強く握りしめた。外部からの刺激……明け方以降……昨夜、刑務所で涼真を徹底的に辱め、跪かせた。その直後に、詩織の容体が好転したというのか。ただの偶然なのか。それとも、本当に目には見えない因果というものがあるのか。その考えが稲妻のように頭を貫き、胸が強く締めつけられた。言葉にできない複雑な感情が、胸の奥から込み上げてくる。明臣は乱れそうになる思考を無理やり押し込めた。理由が何であれ、詩織が良くなるのなら、自分は何だってする。「詩織、聞こえてるか?医者がもうすぐ良くなるって言ってたよ……全部、お兄ちゃんが悪かった。君を守ってやれなかった」明臣は低くつぶやいた。深い黒い瞳には思い出が次々とよみがえり、わずかに涙がにじむ。脳裏に浮かんだのは、幼い頃の詩織だった。小さな詩織はピンク色のプリンセスドレスを着て、まるで太陽のような笑顔で自分のもとへ駆け寄ってくる。幼い声で両手を広げ、「お兄ちゃん、だっこ!」と甘えてきた。やわらか
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第32話

その声は低く、それでいて揺るぎなく、狂気じみた執念を帯びていた。明臣は詩織のベッドのそばに長いこと立ち尽くしていた。感情をようやく落ち着かせると、里奈にいくつか言葉を残してから病室を後にした。廊下にはどこか青白く冷たい光が満ち、その光に照らされた横顔は、まるで彫像のように整っていて、人の温もりをまったく感じさせなかった。里奈は小さくうなずき、彼を見送る。病室のドアが閉まった瞬間、穏やかで優しげだった表情はすっと消え去った。彼女はベッドへ歩み寄ると、詩織の額にかかった前髪をそっと整え、意味ありげに口元を緩めた。「詩織、早く目を覚ましてね」静かな声でつぶやく。「お兄ちゃんはあなたのために、本当にいろいろやってくれたんだから」そのとき、病室のドアが静かに開き、カジュアルな服を着た背の高い男が入ってきた。マスクを外すと、彫りの深い顔立ちが現れる。拓海だった。「里奈、俺たち、勝手に涼真に手を出した。しかも明臣の名前を使って……」拓海は声を潜め、眉をひそめた。「明臣に知られたら、怒るんじゃないか?」里奈はくすりと笑い、なおも詩織の髪を整えながら言った。「私たちがやったことは全部、明臣と詩織のためよ。責められる理由なんてないでしょ。それに……」彼女は窓の外へ視線を向ける。陽の光が瞳に映り込んでも、その奥には冷たい影しかなかった。「彼は知らないまま終わるわ」拓海は少しためらいながら口を開く。「花音のほうは……」「心配いらないわ」里奈は穏やかな口調で遮ったが、その声に迷いはなかった。「今ごろ監視カメラの映像を見終わってるはずよ。お兄ちゃんが明臣にあんな目に遭わされたと知って、それでも平気で結婚できると思う?」二人は顔を見合わせ、意味ありげに笑みを交わした。「あの兄妹は自業自得よ。涼真が詩織をあんな目に遭わせたんだから、足を折られたくらいで済んだだけでもありがたいくらい。それに花音だって……元凶の妹なのに、明臣さんと結婚する資格なんてあるわけないでしょ?」里奈は詩織の手をそっと握った。「拓海、あなたは詩織のために本当によく尽くしてくれてる。いつか詩織が目を覚ましたら、きっとあなたに感謝するはずよ」……明臣が観察室へ戻ると、花音はまだ椅子に座っていた。白いワンピースの裾からのぞく足には薬が塗られていて、青白い照明の下
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第33話

彼女のその一言は、目には見えない壁のように、明臣を遠ざけた。明臣は眉をひそめたが、結局何も言わなかった。二人は無言のまま駐車場まで歩き、車に乗り込んだ。車窓の外では夕暮れが少しずつ街を包み込み、街灯が一つ、また一つと灯り始める。ネオンがまたたき、その明かりが花音の顔に明滅する影を落としていた。明臣はバックミラー越しに花音の様子をうかがった。花音はいつになく静かだった。ただ両手の指先を見つめ、無意識にワンピースの裾を指先でいじっている。明臣はハンドルを握る手に、思わず力を込めた。おとなしすぎる。それは決していい兆候ではない。ふと、涼真が刑務所で口にした言葉が頭をよぎる。「花音が真実を知ったら、きっと君のことを一生恨み続ける」その瞬間、恐ろしい考えが脳裏をかすめた。――まさか、何か知ってしまったのか?だが、すぐにその考えを打ち消した。迎えに行く前、わざわざ屋敷の使用人に確認している。花音は昨夜ずっと屋敷で休んでいて、朝になって慌ただしく出かけただけだった。だから、自分と涼真の会話を知るはずがない。それに刑務所の管理は厳格だ。北浜市で後ろ盾も権力も持たない花音に、特別な便宜が図られることなどあり得ない。そう考えると、明臣の胸は少しだけ落ち着いた。甘えん坊で、痛いことが苦手で、ワンピースを着るのが大好きな女の子なのだ。つらくて落ち込むのも、無理はない。明臣は車内の重苦しい空気を和らげようと音楽を流した。けれど、穏やかなピアノの音色は狭い車内に静かに響くだけで、二人の沈黙をいっそう際立たせていた。車が神谷家の屋敷の前に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。屋敷には明かりがともり、夜の闇の中にその輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。いつもの花音なら、先に車を降りてそばで待ち、明臣が降りてくると、甘えるように腕へ抱きついてきた。だが今夜は違った。花音は黙って車を降りると、一度も振り返らず、そのまま庭へと入っていった。明臣は車の脇に立ち、足を引きずりながら歩く花音の後ろ姿が門の向こうへ消えていくのを見つめていた。胸の奥に、言葉では言い表せない感情が静かに込み上げてくる。やがて、明臣が毎日欠かさず読経をする時間になった。仏間には、白檀の香りが静かに満ちている。明臣は観音像の
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第34話

明臣が目を開けると、床一面に散らばった数珠が転がっていた。激しく上下する胸を押さえきれない。読経の時間に、これほど取り乱したことは一度もなかった。うつむいて数珠を拾い始めたそのとき、不意に、やわらかく儚い声が入り口から聞こえてきた。「今日は、一緒に観音様の前で跪いたほうがいい?」明臣が振り向くと、入り口に花音が立っていた。月明かりが彼女の背後から差し込み、淡い銀色の光がふんわりと包んでいた。白いネグリジェ姿で、ふくらはぎにはまだピンク色のやけどの跡がはっきり残っていた。その姿は、今にもふっと消えてしまいそうなほど儚く見えた。明臣が答えるより早く、花音はいつものように裸足のまま中へ入り、明臣の隣まで来ると、ゆっくりと膝をつく。明臣は思わず息をのんだ。視線は、座布団の上についた彼女の膝へと落ちる。あれほどひどいやけどを負っているのに、まるで痛みなど感じていないかのようだ。花音は観音像を静かに見つめ、その表情は穏やかというより、ほとんど何も感じていないように見えた。明臣は眉を強く寄せる。彼女はきっと、観音像の前で跪く本当の意味など知らない。花音が初めて別れを切り出してきて以来、彼は彼女を裸で礼拝させることはなくなった。いつも何かと理由をつけて断っていた。寒いからとか、体調が悪いからとか。自分でもなぜ急にそんな気持ちになったのかわからない。ただ、どうしても無理をさせたくなかった。おそらく、美術展が間近に迫っていて、彼女に何かを勘づかれるのが怖かったのだろう。「やけどしてるだろ」ようやく口を開いたその声は、自分でも意外なほど穏やかだった。「結婚するまでは、もう跪かなくていい」花音は小さく「うん」と返事をし、目を伏せた。「じゃあ、もう休むね」けれど彼女はすぐには立ち上がらず、そのまましばらく静かに跪き、慈悲深い観音像の顔を見つめ続けていた。明臣は、彼女の唇がかすかに動いていることに気づく。何かを、声に出さずに語りかけているようだった。「何を祈ってるんだ?」花音は振り返り、かすかに微笑んだ。その瞳には、ようやく一筋の光が宿り、それが少しずつ広がっていく。澄んでいて、どこか儚い声で彼女は言った。「仏様に感謝してるの。あなたに出会わせてくれたことを。明臣、あなたは私にとって、唯一の救いだったから」
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第35話

主寝室は、明かりがこうこうと灯っていた。花音は机に向かい、目の前に分厚い仏経を広げていた。机の上には墨皿が二つ置かれている。一つには、白檀の香りがする普通の墨汁。もう一つには、黒ずんだ赤い液体が入っており、一部は皿の縁で固まりかけ、少しずつ乾いていた。花音は筆に墨汁を含ませると、半紙に『阿弥陀経』を丁寧に書き写していく。整った美しい文字。一画一画に、心のすべてを込めるようだった。【如是我聞……】筆先が紙の上を滑り、さらさらと小さな音を立てる。花音はゆっくりと書き進めていた。まるで、一文字一文字がとてつもない重みを持っているかのように。左手首には包帯が巻かれ、その下からはうっすらと血がにじんでいた。『阿弥陀経』を一ページ書き終えると、花音は筆を置き、墨が乾くようにそっと息を吹きかける。それを大切そうに脇へ置くと、小さなナイフを手に取り、包帯をほどいた。幾筋もの傷跡が残る手首に、さらに新しい傷を一筋刻む。たちまち鮮血があふれ出した。花音はその血を、赤い墨皿へ静かに垂らしていく。ぽたり、ぽたりと落ちる新しい血を無表情で見つめる。ほどなくして皿は血で満たされた。痛みなど、もう何も感じなかった。十分な量がたまると、再び傷口を丁寧に包帯で巻き直し、別の筆を手に取る。今度は自分の血を筆先に含ませ、もう一枚の半紙に『地蔵経』の「校量布施功徳縁品」を書き始めた。【爾時、地蔵菩薩摩訶薩……】血で経を書き写すのは、墨よりはるかに難しい。血は粘り気が強く、すぐに固まってしまうため、墨のようには思うように筆が運ばない。一画ごとに何度もなぞって、ようやく文字が浮かび上がる。花音の手は少しもぶれなかった。その眼差しは息をのむほど真剣で、祈りのすべてを一文字一文字に込めようとしているかのようだ。灯りに照らされた彼女の顔は、今にも透けてしまいそうなほど青白い。この経はすべて、涼真と詩織のために書いているもの。どうかこの写経の功徳が二人に届き、兄が少しでも苦しみから救われますように。そして、詩織が一日も早く目を覚ましますように。そのとき、不意にドアノブが回る音がした。花音は素早く用意してあった白紙で『地蔵経』を覆い隠す。そして墨汁を含ませた筆を手に取り、そのまま『阿弥陀経』を書き続け
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第36話

彼女は赤い墨皿を洗面所へ持っていき、きれいに洗い流した。寝室へ戻ると、ちょうど明臣が浴室から出てきたところだった。腰にはバスタオルを巻いただけで、たくましい胸元を伝った水滴が床へぽたりぽたりと落ちていく。花音は目を伏せ、あまりに目を引くその姿から視線をそらすと、パジャマを手に取ってお風呂へ向かおうとした。だが次の瞬間、明臣が歩み寄り、有無を言わせず彼女を抱き上げた。「やけどの傷口を濡らしちゃダメだ」低く落ち着いた声には、拒む余地のない強さがにじんでいた。花音の体は一瞬こわばったが、すぐに力を抜き、運命を受け入れた人形のように身を預けた。浴室には湯気が立ち込めていた。明臣の手つきは驚くほど優しく、まるで壊れやすい宝物でも扱うかのようだった。細心の注意を払っていたが、熱いお湯が少しだけ花音の脚のやけどにかかり、鋭い痛みが走る。それでも花音は下唇を噛みしめたまま、ひと言も漏らさなかった。明臣は、張り詰めた彼女の体がかすかに震えていることにすぐ気づいた。「痛いのか?」指先が、やけどの縁をそっとなぞる。花音は首を横に振った。その瞳にうっすらと涙がにじむのを見た瞬間、明臣の胸は重く沈んだ。甘えん坊で、痛みに弱く、すぐ泣いてしまう彼女が、今日は異様なほど静かだった。この傷が、自分のせいでできたものだから。だから泣かず、弱音も吐かないのだろうか。彼に罪悪感を抱かせたくなくて、どれほど痛くても黙って耐えているのだろうか……明臣の瞳はゆっくりと陰り、その奥に苦しみがよぎった。花音。どうして君は……涼真の妹なんだ。風呂から上がると、明臣はバスタオルで彼女を包み、そのまま抱きかかえてベッドへ運んだ。ドライヤーを手に取ると、濡れた長い髪に指を通しながら乾かしていく。温かな風が耳元をかすめ、花音はそっと目を閉じた。かつてなら、こんな優しさに胸が高鳴っていた。けれど今は、ただ皮肉にしか思えない。「明日は皮膚科の専門医を呼んである」ドライヤーを止めると、静まり返った寝室に彼の声がはっきりと響いた。「花音、やけどの跡は絶対に残させない」花音は目を開け、深い彼の瞳を見つめ返した。かつてはその優しさに溺れていた。けれど今となっては、それも愛という名で巧妙に仕掛けられた罠にしか見えなかった。花音は小さく
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第37話

翌朝早く、明臣が手配した皮膚科の専門医がやって来た。白髪交じりで眼鏡をかけた、物腰の穏やかな年配の医者だった。医者は花音のやけどを診察すると、眉間のしわをいっそう深くした。「やけどの傷口がここまで感染しているとは……」眼鏡を押し上げながら、重い口調で続ける。「これほどのやけどを、どうしてすぐに処置しなかったんですか?」明臣はそばで黙ったまま立ち尽くし、表情は暗く沈んでいた。「やけどの跡は残りますか?」そう尋ねる声には、張りつめたものが滲んでいた。専門医は小さくため息をついた。「これだけ広範囲のやけどですし、しかも血流のあまり良くない脚ですから……」そう言って首を横に振る。「やけどの跡が残るのは避けられません。もっと早く病院で適切な処置を受けて、感染さえ起きていなければ、回復できる可能性もありました」花音はうつむき、自分の脚に残る痛々しいやけどを見つめた。兄が奪われた両脚に比べれば、この程度のやけどの跡なんて、どうということもない。「ありがとうございました」花音は驚くほど穏やかな声で、静かに礼を言った。明臣は医者を見送ると、寝室へ戻った。花音はもう着替えを済ませ、窓辺に座って静かに写経を続けていた。レースのカーテン越しの陽射しが彼女をやさしく包み込み、その姿は淡い光に包まれていた。あまりにも静かで、壊れてしまいそうなほど儚く見えた。明臣は歩み寄ると、花音の前にしゃがみ込み、筆を持つ彼女の手をそっと包んだ。「花音、一番腕のいい形成外科医を探すから……」「大丈夫」花音は彼の言葉を遮り、ほんの少しだけ微笑んだ。「どうせ結婚式のウェディングドレスは裾が長いから、隠せるもの」明臣の瞳がかすかに揺れた。その言葉のどこかが、まっすぐ胸に突き刺さった。鼓動が激しく鳴り響く。用意していた慰めの言葉は喉につかえ、どうしても口にできなかった。泣きわめいてもいい。不満をぶつけてもいい。昔のように甘えて、「慰めて」と求めてくれたほうが、ずっとよかった。こんなふうに、すべてを受け入れたような静けさだけは見たくなかった。波ひとつ立たないその瞳を見つめるほどに、明臣の胸は理由もなくざわついていく。花音は彼の手の中から自分の手をそっと引き抜き、筆を置いた。そして顔を上げると、真剣な眼差しで明臣の深く
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第38話

その笑顔を見た瞬間、明臣の胸がぎゅっと締めつけられた。花音の瞳はあまりにも輝いていた。その輝きは、どこか異様なほどだった。なぜか、その瞬間、ひとつの思いが明臣の脳裏をよぎる。――まるで、消える前の灯火のようだ。胸の奥が、理由もなくざわついた。花音は何かを知ってしまったのだろうか。それとも、ただ体調が悪いだけなのか。美術展も結婚式も、日ごとに近づいていた。自分が丹念に準備してきたすべてが、もうすぐ明らかになる。その時、花音は自分を憎むのだろうか。涼真が言ったように、自分を許してくれなくなるのだろうか。そう思った瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。だが、明臣はすぐにその考えを押し込めた。――きっと考えすぎだ。「最近はちゃんと休んで。結婚式も美術展も、君は何も気にしなくていい」優しくそう言って微笑む。「全部、俺に任せて」花音の瞳がかすかに揺れたが、すぐに静けさを取り戻した。「……うん」そのとき、不意にスマホが鳴った。明臣は着信画面を見ると、そのまま電話に出て、慌ただしく部屋を出ていった。花音は、その背中が遠ざかっていくのをじっと見つめる。やがて上にかぶせてあった白紙をめくり、また血で経文を書き写し始めた。半紙に落ちた血は少しずつ乾き、やがて黒ずんだ茶色の文字へと変わっていく。まるで、幾筋もの傷跡のようだった。明臣が出ていったあと、花音は経文を書き終えると、いつものように引き出しへしまった。一週間が過ぎ、その引き出しはもう血で書いた経文でいっぱいになりかけていた。花音はシャワーを浴び、薬を塗り終えると、本を一冊抱えてベッドにもたれながらページをめくっていた。だが、いつの間にか本を抱えたまま眠りに落ちていた。また、兄の夢を見た。両脚を折られ、兄はもう二度と立ち上がれなくなっていた。花音は兄の脚を見ようと近づき、ズボンの裾をめくる。そこには……何もなかった。ぽっかりと空っぽだった。花音は悲鳴を上げるように目を覚ました。恐怖と苦しみが入り混じった泣き声は止まらず、声が枯れるまで泣き続けた。明臣が帰宅すると、ベッドのそばに座り込み、激しく泣いている花音の姿が目に入った。「どうしてここで泣いてるんだ?」できるだけ声を落として問いかける。「まだ脚が痛むのか?」そう
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第39話

「花音、どうした?」明臣は花音の隣に腰を下ろすと、そっと彼女を腕の中へ抱き寄せ、低い声で尋ねた。「また悪い夢を見たのか?」このところ花音が悪夢にうなされ続けていることを、明臣は知っていた。夜になると眠りは浅く、ときには激しく泣き、ときには体を小刻みに震わせる。目を覚ますたびに、彼女は少しずつ生気を失っていくようだった。静かすぎるその表情は、壊れてしまいそうなほど痛々しかった。こんなふうに激しく泣いたのは、このところ二度目だった。一度目は、病院へ迎えに行ったあの日。寝室には、ベッドサイドの小さな灯りだけが淡くともっていた。やわらかな光が、青白い彼女の頬に細かな影を落としている。花音は明臣を見つめ、その視線は、まるで彼の目元や輪郭をなぞるようだった。彼の表情には、心配と優しさがあふれている。けれど、この人だった。この瞳だった。兄が地面にひざまずいて謝る姿を、冷たく見下ろしていたのは。――あいつなんて、俺にとっては古びたおもちゃ以下だ。その冷酷な言葉は、氷の刃のように鋭く、何度も何度も花音の胸をえぐった。絶望は冷たい濁流となって、花音を完全に飲み込んでいく。あと一週間あまり。美術展の日がやって来る。そのときには、もう演じ続ける必要も、自分をごまかし続ける必要もない。――明臣。もし叶うなら、あなたの心にほんの少しでも情けを呼び起こせるだろうか。花音は体をこわばらせたまま目を伏せる。長いまつげが頬に小さな影を落とした。やがてゆっくりと手を伸ばし、ベッドサイドに置いてあった一冊の本を手に取る。黄ばんだ古い本で、ページの端は少しくたびれていた。「物語を読んでたの」花音の声はあまりにもかすかで、風が吹けば消えてしまいそうだった。本を開くと、一ページ目には『画魂』というタイトルが記されていた。「どんな話を読んだら、そんなに泣くんだ?」明臣は花音の手から本を受け取る。指先が表紙についた、すでに乾いた涙の跡をかすめた。花音がこぼした涙だった。花音はぼんやりと窓の外の夜景を見つめながら、どこか遠くを漂うような声で話し始めた。「ある画家が、姉の仇を討つために、仇の姉へ近づく物語なの……」本をめくる明臣の手が、ほんの一瞬だけ止まった。「その画家は愛しているふりをして彼女を騙し、裸にな
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第40話

明臣は長いあいだ黙り込んでいた。整った横顔は照明に照らされ、明るさと影が入り混じっていて、その表情からは感情を読み取ることができなかった。やがて手から本が滑り落ち、鈍い音を立ててカーペットに落ちる。その音でようやく彼は我に返った。「花音」明臣は深く息を吸い込み、身をかがめて花音の頬を両手で包んだ。「ただの物語だよ」花音は顔を上げて彼を見つめた。涙でにじんだ視界の向こうで、明臣の顔はぼんやりとかすんでいる。ふいに彼女は笑った。今にも壊れてしまいそうな、ガラス細工のように儚い笑みだった。「うん、わかってる。でも、物語ってリアルに描こうとすれば、現実を参考にすることもあるでしょ?だから少し……心に刺さっちゃって」花音はぽつりとつぶやく。「明臣……もしあなたが、その小説の主人公だったら、同じことをする?」その瞬間、空気が凍りついた。明臣の瞳が大きく揺れ、花音をじっと見据える。彼女の表情から、わずかな違和感でも見つけ出そうとするかのように。この本は、きっと以前詩織が読んでいたものだ。詩織は昔からこういう恋愛小説が好きで、家には何冊も置いてあった。だから、この本がどこから来たのかについては疑っていない。ただ、この物語があまりにも自分と花音の現実に重なりすぎていた。美術展も結婚式も目前に迫っている。こんな時期に、少しでも狂いが生じることだけは避けたかった。もしかして花音は何かに気づいていて、それでわざと探りを入れてきたのだろうか。明臣の漆黒の瞳の奥に、かすかな警戒がよぎる。その視線は、問い詰めるように鋭かった。だが花音は鼻をすすりながら、そっと彼に抱きついた。その何気ない仕草には、彼への甘えと信頼があふれていた。涙を浮かべた瞳には、悲しみと切なさしか映っていない。まるで物語の世界にすっかり入り込み、主人公たちの運命を心から悲しんでいるようだ。明臣の固く寄っていた眉が少しずつほどけていく。最後に残っていた疑いも、跡形もなく消え去った。花音のようにもともと涙もろい子なら、恋愛小説を読んで泣くことくらい珍しくない。昔の詩織だって、恋愛小説を抱えてはよく泣いていたじゃないか。そう思うと、明臣は優しく花音の髪を撫でた。「何を考えてるんだ。俺たちは物語の登場人物じゃない」少なくとも、涼真が
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