جميع فصول : الفصل -الفصل 30

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第21話

涼真の声は震え、かすれた声を喉の奥から無理やり絞り出すように言った。目は真っ赤に充血し、その目尻には悔しさと胸の痛みが入り混じった涙がにじんでいる。思い出した。花音は面会に来るたび、ある男性の話をしていた。彼のことを話すたびに、その澄んだ瞳は、まるで星を宿したように輝いていた。「お兄ちゃん、あの人はすごく優しくて気遣いもできるの。たくさんプレゼントもくれるし、私たちの記念日も全部覚えてて、私が落ち込むと根気よく慰めてくれる。お兄ちゃんたち以外で、私に一番優しくしてくれる人なの。私、将来は絶対あの人と結婚するんだ」あの頃の涼真は、本気で花音はこの世で最高の相手に出会えたのだと思っていた。自分の代わりに妹を大切に守ってくれる人なのだと。だが、まさか花音が出会った相手が明臣だったとは、夢にも思わなかった。あの愛は、最初からすべて偽りだった。桐谷家に復讐するため、花音を陥れるためだけに周到に仕組まれた罠だったのだ。花音は昔から純粋で心優しい。心の底から愛していた相手が、一度も自分を愛したことなどなく、それどころか復讐の道具として利用していただけだったと知ったら……どれほど傷つき、苦しむことになるのだろう。涼真の胸は、無数の針で刺されるように痛んだ。「明臣……どうすれば花音を見逃してくれる?」涼真の声はかすれ、その目には、ほかの囚人たちと同じような、すべてを諦めた絶望だけが浮かんでいた。今ここで「死ね」と言われれば、ためらうことなく命を絶ってしまいそうなほどだった。明臣は、その瞳に広がる絶望を満足そうに見つめる。薄い唇がゆっくりと動き、指先で数珠を繰る速度が少しだけ速くなった。「因果応報だ。涼真、君が詩織に与えた苦しみは、君と妹に百倍、千倍にして返してやる」涼真の瞳が震えた。「明臣……三年も一緒にいて、本当に花音に少しも情なんてなかったのか?花音が真実を知ったら、きっと君のことを一生恨み続ける。絶対に許したりしない!」その瞬間、明臣の口元の笑みがわずかに消えた。数珠を繰っていた指先も、ぴたりと止まる。どの言葉が胸に刺さったのか、自分でも分からなかった。静かだった心に小さな波紋が広がり、それは次第に大きくなって、抑えきれない不安へと変わっていく。明臣は胸の奥に湧いた感情を無理やり押し
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第22話

明臣は、ただ自分を辱めて気を晴らしたいだけだ。ならば、その気が済みさえすれば、ほんの少しでも情けをかけて、花音を見逃してくれるかもしれない。たとえわずかな望みでも、花音のためなら、彼を満足させるしかない。明臣の冷えた目に、一瞬だけ意外そうな色が浮かぶ。彼はずっと、涼真がその高いプライドを捨てて頭を下げるとは信じていなかった。あの日、法廷で裁判官に問い詰められても、自首すれば減刑の可能性があると告げられても、涼真は頑として「自分は犯人ではない」と言い張り、決して頭を下げなかった。そのときの彼は、終始落ち着き払っていて、誰にも従わない鋭さをまとい、まるで自分だけ別の場所に立っているようだった。詩織に暴行し、階段から突き落とした張本人であるくせに、厚かましくも自分だけは無関係だと言い張っていた。罪を重ねながら、穏やかで上品な顔立ちをしていて、四年の服役ですら、その誇り高さを削ることはできなかった。明臣の表情は、ますます冷え切っていく。涼真は両手を床についた。動きに合わせて手錠が手首の下へ滑り、金属が触れ合う澄んだ音が響く。「悪かった。詩織を傷つけたのは、全部俺の責任だ」うつむいたままの声は、命の抜けた枯れ木のようにかすれていた。「お願いだ……俺を恨んでも構わない。俺が罪を認めた映像を使って、俺を訴えてもいい。たとえ死刑になっても……」そこで声が途切れ、震える息を飲み込む。「だから頼む……妹だけは見逃してくれ」彼は頭を下げたまま、みじめなほど震える声を漏らし、大粒の涙をぽたぽたと床に落とした。自分が屈辱を受けているからではない。花音が今どんな状況に置かれているのかを思うと、胸が張り裂けそうだった。たとえ自分が死んでも、花音だけは傷ついてほしくなかった。明臣は、跪いて罪を認める涼真を見つめた。苦しみと卑屈さに満ちたその姿を前にしても、なぜか胸の怒りは少しも薄れない。あれほど決して屈することのなかった男が、ついに膝を折ったはずなのに、残ったのはどうしようもない虚しさだけだった。時間が止まったような静寂の中、鉄格子の外では明臣の荒い呼吸が、内側では涼真の重い鼓動が、互いにぶつかり合うように響いていた。しばらくして、明臣の目がさらに冷たくなる。「罪を認めたなら、この牢で最後まで悔い続けろ。死ぬその日まで」
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第23話

監視カメラの映像の中で、涼真の顔は真っ青になり、震える声で言った。「……君が言うように、花音がそんなにも君を愛しているなら、君を何一つ疑っていないはずだ。だから、君の計画にもまったく気づいていない。なのに、どうしてそんな残酷なことができる?そんなことをしたら、あの子の人生は全部壊れてしまうんだ!あの子の君へのひたむきな想いを、君は踏みにじっても平気なのか?」画面の向こうで苦しみと悲しみに満ちた兄の姿を見つめながら、花音はもう涙が止まらなかった。口元を押さえても、あふれる涙はどこまでも流れ続ける。――どうして……こんなことになってしまったの?白蓮山へ行かなければよかった。明臣と出会わなければよかった。そして、あの優しさという罠にはまってしまわなければよかった。そうしていれば、こんな苦しみを味わうこともなかっただろうし、兄まで巻き込んで、こんな絶望を味わわせることもなかった。兄は、誰よりも誇り高い人だ。それなのに今は、打ちのめされて立ち上がれないほど傷ついている。自分の愚かさが、明臣が兄を傷つけるための、いちばん鋭い刃になってしまったのだ。「明臣……どうすれば花音を見逃してくれる?」「因果応報だ。涼真、君が詩織に与えた苦しみは、君と妹に百倍、千倍にして返してやる」「明臣、三年間も一緒にいたのに、本当に花音への気持ちは少しもなかったのか?花音が真実を知ったら、きっと君のことを一生恨み続ける。絶対に許したりしない!」花音はしゃくり上げながら泣き続け、それでも画面の中の明臣から目を離せなかった。彼女も、その答えを知りたかった。毎日を共に過ごしたこの三年間。彼は本当に、自分に対してほんの少しの愛情も、情けも、慈しみも抱いたことがなかったのだろうか。映像の中で、明臣の体がわずかに止まったように見えた。カメラに横顔を向けたその端正な顔は、半分ほどが闇に溶け込んでいる。伏せられた目元、固く結ばれた薄い唇。そこに優しさはなく、ただ冷たく暗い影だけが宿っていた。どれほどの時間が流れたのか、もう分からないほどだった。氷のように冷えた黒い瞳に嘲りを宿し、彼は吐き捨てるように言った。「花音への気持ち?あいつなんて、俺にとっては古びたおもちゃ以下だ」
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第24話

明臣の冷え切った声が、一言一言、花音の胸を鋭くえぐり、心まで引き裂いていく。瞳には涙が滲んでいるのに、口元には自嘲するような笑みが浮かんでいた。なんて皮肉なんだろう。それでもまだ、彼がほんの少しでも情けをかけてくれるのではないかと期待していたなんて。たとえ自分が彼を憎んだとしても、きっと彼にとっては願ったりかなったりなのだろう。自分が抱く憎しみが深ければ深いほど、彼は詩織の仇を討ったという満足感を味わえるのだから。涼真はその返事を聞くと、絶望と怒りで全身を震わせた。「明臣……お願いだから教えてくれ。俺が何をすれば、花音を見逃してくれるんだ?」画面の中の明臣は、最後の宣告を下すように一言ずつ告げた。「跪いて、詩織に謝れ」冷たく、裁きを下すようなその声は、画面越しでも鋭い刃のように胸へ突き刺さる。花音は泣き腫らした目で、画面に映る涼真をじっと見つめた。胸が張り裂けそうに痛む。彼女は無意識に首を横へ振り、体の震えが止まらなかった。お兄ちゃん、だめ……お願い、そんなことしないで!凛として真っすぐ生きてきた兄は、この人生で一度だって誰かに頭を下げたことなんてない。そんな兄が、自分のために膝をつくなんて。涼真は両手を固く握り締め、浮き出た血管が怒りを物語っていた。「俺が跪けば……花音を見逃してくれるんだな?」かすれた声は、わずかに震えていた。花音はさっきよりも激しく首を振る。大粒の涙が次々とあふれ、目尻を伝って手の甲へ落ちる。その雫は熱く、肌を焼くようだ。彼女はマウスを強く握り締める。指先は激しく震え、真っ赤な目で画面を見つめ続けた。青白い唇を震わせ、しゃくり上げながらかすれた声を絞り出す。「お兄ちゃん……だめ……跪かないで……お願い……」「考えてやってもいい」明臣は冷めた目を向けたまま、はっきりとは約束しなかった。その直後、画面の中の涼真は大きく息を吸い、迷うことなく膝を折った。
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第25話

「悪かった。詩織を傷つけたのは、全部俺の責任だ。お願いだ……俺を恨んでも構わない。俺が罪を認めた映像を使って、俺を訴えてもいい。たとえ死刑になっても……だから頼む……妹だけは見逃してくれ……」花音は監視カメラの映像の中で、兄が明臣の前にひざまずき、額を床につけて謝罪し、自分が犯してもいない罪まで、認めさせられていた。胸が激しく上下し、息は浅く苦しい。一息吸うたびに喉がひりつき、胸の奥が痛む。もう見ていられず、花音は目を閉じた。体は激しく震え、手足は氷のように冷え切っている。兄が、本当にひざまずいてしまった。兄には何の罪もない。何一つ悪いことなんてしていない。全部、自分のためだった。自分の潔白と尊厳を守るために、あんなことを口にしたのだ……全部、自分のせいだ。人を見る目がなく、よりによって明臣を愛してしまったから、兄をこんな目に遭わせてしまった。明臣は兄の誇りを踏みにじり、心まで完全に壊そうとしているのだ。苦しみ、後悔、罪悪感……さまざまな感情が胸の中で渦を巻き、逃げ場のない網のように花音を締めつけ、息さえまともにできなかった。花音はただ泣き続け、意識が遠のきそうになる。しばらくして、映像の中から明臣のはっきりとした声が聞こえた。「罪を認めたなら、この牢で最後まで悔い続けろ。死ぬその日まで」涼真はしゃがれた声で怒鳴った。「明臣!跪けば花音を見逃すって、君はそう言っただろ!忘れるな!もし約束を破るなら、どれだけ修行を積もうと、君の罪は決して償えない!」続いて響いたのは、明臣の冷え切った声だった。「その罪を背負う覚悟なら、とっくにできている」そう言い残し、明臣は立ち去った。監視映像はそこで突然途切れ、画面は真っ黒になった。花音は次の映像を再生したが、映っていたのは人気のない独房の中だけだった。机の上にも、椅子の上にも、床にも、十数個の紙飛行機がぽつりぽつりと散らばっている。花音は映像を拡大した。床に落ちていたいくつかの紙飛行機は、誰かに踏みつけられ、ひどく潰れている。その紙には、うっすらと血の跡のような染みまで残っていた。兄が折った紙飛行機だ。兄はあれをとても大切にしていた。自分で踏みつけるはずがない。ならば、踏みつけたのは、兄を傷つけた人間だ。しかも血の跡まで残ってい
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第26話

あのときの刑務官は?どうして止めなかったの!明臣の権力が強すぎて、誰も止められなかったってこと?その瞬間、花音の頭の中をさまざまな考えが駆け巡った。監視カメラの映像を見れば、真相がわかるはずだ。彼女は何度も映像を探し直したが、どれだけ探しても涼真が暴行を受ける場面は見つからなかった。明臣が兄を訪ねてきたのは明け方だった。二人は一時間以上話をしていた。監視映像によれば、明臣が立ち去った時刻は午前五時二十五分。そして母から電話があったのは七時過ぎだった。つまり、明臣が帰ったあとに兄は暴行を受けたということになる。花音は慌てて部屋の外にいた刑務官のもとへ駆け寄り、パソコンの画面を指差した。顔は青ざめ、声も震えていた。「五時半から七時までの映像がないのは、どうしてですか?」刑務官は画面を見ることもなく肩をすくめ、何でもないことのように答えた。「ああ、それですか。昨夜は停電があって、その時間帯は録画できなかったんですよ」花音は信じられなかった。そんな都合よく、兄が襲われた時間帯だけ停電になるなんてあり得ない。きっと誰かが、監視映像を残させたくなかったんだ。花音はぎゅっと拳を握った。この刑務官は明らかに何かを隠している。さっきから視線が落ち着かず、何か知っているのは間違いない。しかし、問い詰めたところで口を割るはずがない。そのとき、さっき対応してくれた高瀬直樹(かみや なおき)のことを思い出した。少なくとも彼は、監視映像を見ることだけは許可してくれた。もしかしたら、あの人なら力になってくれるかもしれない。わずかな望みでも、花音は諦めたくなかった。――高瀬さんに会って、映像を復旧できないか頼んでみよう。立ち上がると、急いで外へ走り出そうとした。だが足に力が入らず、ふらりとよろめいた次の瞬間、目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失った。……刑務所から戻ったあと、明臣は理由もなく胸騒ぎがしていた。運転中もぼんやりしてしまい、気づけば何度も赤信号を無視しかけていた。祖母から電話が入り、詩織の容体は安定していると聞かされた。花音に自分の異変を気づかれたくなくて、帰宅すると真っ先に禅室へ向かった。禅室の正面には、観音像が安置されている。像のそばでは香炉から細い煙がゆらゆら
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第27話

この胸騒ぎに、明臣はひどく落ち着かなかった。ふと脳裏に浮かんだのは、昨日、祖母から電話がかかってきたときのことだった。花音のワンピースに熱いスープをこぼしてしまった場面だ。熱々のスープがワンピース越しに脚へ伝わり、彼女は痛みに顔をしかめながらも、澄んだ瞳で自分を見つめていた。痛いとも言わず、それどころか「何があったの?」と心配してくれた……明臣は勢いよく立ち上がり、禅室の扉を開けた。廊下は静まり返り、少し早足になった彼の足音だけが響いている。主寝室のドアは半開きで、中からやわらかな明かりが漏れていた。ドアを開けると、部屋にはほのかな白檀の香りが残っていた。花音がいつも好んで使っている香りだ。明臣が仏道を大切にしているからと、花音は家中の香りをすべて白檀に変えていた。「花音?」明臣は呼びかけたが、返事はなかった。いない……?これまで彼は、彼女をここに囲い込むように暮らさせていた。花音が仕事をしたいと言っても、「俺が養えるから。そばにいてくれるだけでいい」と優しく言い聞かせてきた。だから花音は、本当にそれまでの生活も人付き合いもすべて手放した。彼が会いたいと思えば、彼女はいつも家のどこかにいた。なのに今日は、姿がない。どこへ行ったんだ?脚にはまだやけどがあるのに……明臣は眉をぎゅっと寄せ、胸が重く沈んだ。そのまま踵を返して階段を駆け下りる。来たときよりもさらに足早だった。階段の踊り場で、お盆を持った家政婦の吉田春代(よしだ はるよ)と鉢合わせになる。「明臣様?」珍しく険しい表情を浮かべる明臣を見て、春代は思わず目を丸くした。「花音は?」「花音さんですか?」春代は少し考えてから答えた。「朝早くに出かけましたよ。慌てていたみたいで、何をしに行ったのかはわかりませんけど」朝早く……?まさか、彼が刑務所から戻ってきた直後か。刑務所で取り乱していた涼真の様子が頭をよぎり、ひとつの考えが抑えきれずに湧き上がった。まさか……何か知ってしまったのか?明臣はほとんど反射的にスマホを取り出し、花音へ電話をかけた。耳に響く呼び出し音が、一回鳴るたびに胸を締めつける。ひどく長く感じた末に、ようやく電話がつながる。「もしもし……」電話口の向こうから聞こえた花音の声は、か
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第28話

病院。消毒液の匂いがほのかに漂い、その奥に鼻をつく刺激が混じっていた。明臣が花音を見つけたとき、彼女は白いワンピース姿のまま、観察室前のプラスチック製の椅子に、ぽつんと腰を下ろしていた。華奢な体を小さく丸め、その姿は雨に打たれ、力なくうなだれた可憐な花のようだ。うつむいたまま長い髪が顔の大半を覆い、細く尖った顎と、血の気のない唇だけがのぞいている。手には一枚の紙切れを握りしめていて、指の関節が白くなるほど力が入っていた。明臣は彼女の前で足を止める。長身の影が花音を静かに包み込んだ。気配に気づいた花音は、ゆっくりと顔を上げる。視線が重なったその瞬間、明臣の胸が強く締めつけられた。花音の目はひどく腫れ、白目には痛々しいほど赤い血管が走っていた。涙はすでに乾いていたが、その瞳には深い悲しみと苦しみだけが残っていた。花音はぼんやりと明臣を見つめる。そこには、これまで向けてくれていた甘えや慕う気持ちはもうない。あるのは、何も映さないような静まり返った虚ろさだけだ。「花音」明臣は瞳をわずかに細め、できるだけ優しい声で呼びかけた。安心させるように手を伸ばし、頬にかかった乱れた髪を払おうとする。だが花音は、感電したようにかすかに身を震わせ、その手を避けた。伸ばした手は宙で止まり、指先がわずかに丸まる。目の奥を冷たい光がよぎったが、それは一瞬で消えた。「どうした?こんなふうになって……」明臣は手を引っ込め、穏やかな口調のまま視線を下へ落とす。真っ赤に腫れ上がった彼女のふくらはぎを見つめた。「やけど、そんなにひどかったのか?」花音の声はかすれ、ひどく鼻にかかっていた。彼女は目を伏せ、もう明臣を見ようとはしない。「昨日は大したことないと思って放っておいたの。でも一晩中痛くて、水ぶくれまでできちゃって……医者に、このまま傷跡が残るかもしれないって言われた」花音は力の抜けたような声で続けた。「もう、きれいなワンピースは着られないね」花音はワンピースが大好きだった。神谷家には、彼女専用のウォークインクローゼットがあり、そこにはたくさんのワンピースが並んでいる。新しいワンピースを着るたび、蝶のように嬉しそうに明臣の前へ駆け寄り、「似合う?」と尋ねるのが彼女の何よりの楽しみだった。明臣の瞳はゆっくり
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第29話

自分は、ただ脚にやけどを負っただけで、痛みで気を失いそうになった。じゃあ、兄は?母は言っていた。兄は、両脚を無理やり折られたんだって。それって、どれほど痛かったんだろう。両脚の骨を折られて、すぐに治療を受けられなかったら、一生もう立てなくなっていたかもしれない。脚が駄目になれば、兄の夢も二度と叶わない。それは体の痛みだけじゃない。きっと心まで引き裂かれるような苦しみだったはずだ。花音の体は抑えようもなく震え始めた。目を伏せると、長いまつげがまぶたに影を落とし、その奥で渦巻く感情を隠していた。床にひざまずいて何度も頭を下げ、必死に謝る兄の姿。明臣の冷たく嘲るような言葉。そして、踏みつけられて血に染まった紙飛行機……その光景が次々と頭に浮かび、何度も何度も花音の胸を締めつける。涙がまた、込み上げてきた。それでも彼女は唇を強く噛みしめ、明臣の前では決して泣くまいとこらえた。「……すごく痛い?」花音の小さな震えも、必死に押し殺している息遣いも感じ取った明臣は、手つきをさらに優しくした。痛みに耐えるたびに震えるその姿は、細い針で胸を刺されるように、何度も彼の胸を痛めつけた。息苦しいほど、胸が重い。ふと、昔のことを思い出す。花音は昔から痛みに弱かった。本をめくるときに紙で指を少し切っただけでも、唇を尖らせて指先を彼の前に差し出し、「痛い……」と甘えるように訴えてきたものだ。あの頃の彼女は、汚れを知らないほど純粋で、嬉しいことも悲しいことも全部隠さず自分に見せ、心の底から自分を頼っていた。薬を塗る手が、わずかに止まる。その目に暗い影がよぎった。強姦犯や殺人犯まで出た桐谷家に、本当に心のきれいな人間なんているのだろうか。彼女なら泣きわめいて、俺に見捨てられたことを責めるはずだった。そうしてくれれば、彼女のわがままで高慢な本性くらいは見抜けたかもしれない。なのに彼女は違った。ただ黙って、震えているだけだった。そのあまりにも予想外の姿が、明臣の胸の奥に理由のわからない苛立ちを静かに広げていく。傷口を消毒し終えると、薄い黄色の軟膏を少し指先に取り、赤く腫れた肌へそっと塗り広げた。メントールの効いた軟膏がひんやりとした感触を残し、焼けつくような痛みを少しだけ和らげる。
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第30話

けれど……その相手が私になることは、きっと永遠にないんだろうね。花音は視線を落とし、うつむいたまま小さな声で言った。「私が悪かったの。先生にも言われたわ。昨日の夜のうちに傷の手当てをしていれば、ここまでひどくならなかったかもしれないって」その言葉に、明臣の胸は震えた。花音はゆっくりと顔を上げ、彼の深く黒い瞳を見つめる。その奥で、一瞬だけ揺れた複雑な感情を、彼女は見逃さなかった。――明臣。あなたにも、罪悪感はあるの?憎しみを捨てられないのなら、私が死ねば、ほんの少しでもあなたの心は動くのだろうか。私への後悔があるからこそ、兄には少しでも優しくしてくれるのだろうか。花音の脳裏に、刑務所で必死に頭を下げていた兄の姿が浮かぶ。「お願いだ……俺を恨んでも構わない。俺が罪を認めた映像を使って、俺を訴えてもいい。たとえ死刑になっても……だから頼む……妹だけは見逃してくれ」兄が本当に死刑になるなんて、そんなことを黙って見ていられるはずがない。――お兄ちゃん、待ってて。もう二度と、明臣にお兄ちゃんを傷つけさせたりしない。明臣はしばらく黙っていたが、やがて花音の後ろへ回り、そっと彼女を抱きしめた。「花音。皮膚科で一番腕のいい先生に診てもらう。傷跡なんて絶対に残させない」「……もう、手遅れかもしれないよ?」花音は淡々とした声で言い、かすかな力のない笑みを浮かべた。「花音……」明臣がさらに言葉をかけようとした、そのときだった。スーツの内ポケットに入れていたスマホが震え、彼の言葉を遮った。少し眉をひそめて画面を見ると、里奈からの電話だった。一瞬ためらったあと、指を滑らせて通話に出る。花音の前だからといって席を外すことはせず、体を少しだけ横へ向けた。「明臣」里奈の声は、どこか弾んでいた。「今、大丈夫?詩織のことで、変化があったの」「どうした?」明臣はすぐに立ち上がった。その声には、さっきまでの柔らかな響きとはまるで違う、隠しきれない緊張と心配がにじんでいた。「詩織が……目を覚まそうとしてるの」明臣は深く息を吸い込み、込み上げる感情を必死に抑えようとした。それでも、声に混じる喜びは隠しきれなかった。「わかった。今すぐ行く」電話を切ると、彼は華奢で今にも壊れてしまいそうな花音の姿を見つめた。
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