冷徹な御曹司は、今さら愛を乞う

冷徹な御曹司は、今さら愛を乞う

By:  枝月ゆいUpdated just now
Language: Japanese
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北浜市で「俗世に染まらない男」と呼ばれる神谷明臣(かみや あきおみ)と付き合って三年。 桐谷花音(きりたに かのん)は毎晩、彼の禅室でひざまずき、修行に付き添い続けてきた。 だがある日、奥庭に隠された部屋へ足を踏み入れた花音は、壁一面に飾られた自分の絵を目にする。 そこで知ってしまう。明臣が自分をそばに置いていたのは、妹・神谷詩織(かみや しおり)の復讐を果たすためだったことを。 三年間の恋も、救われたと思っていた日々も……すべては偽りだった。 彼の心の中で、自分は妖怪よりもなお忌み嫌われる存在だったのだ。 そしてある雨の日、交通事故でケガをした花音は、明臣に見捨てられ、雨の中に残された。 病院で目を覚ました彼女は詩織の病室へ向かい、そこで明臣が別の女性と抱き合っている姿を目にした。 花音が一度も聞いたことのない、甘く優しい声で、明臣は囁いた。「詩織の仇を討ったら、俺たちは結婚しよう」 その後、花音はその秘密の部屋を焼き払い、彼の世界から姿を消した。 彼は狂ったように彼女を探し続ける。誰もが、今度こそ彼は彼女を決して許さないだろうと思っていた。 だが、再び花音が彼の前に現れると、彼は彼女の前にひざまずき、必死に許しを乞う。「花音……俺が悪かった……」

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Chapter 1

第1話

「花音……君の初めてを、俺にくれるか?」

白檀の香りが漂う禅室。観音像の顔は、薄い布で覆われていた。

桐谷花音(きりたに かのん)は何も身につけないまま、男の腕に囲い込まれ、座卓の脇の畳に横たわっていた。

穏やかな顔立ちには、近寄りがたいほど澄みきった静けさが宿っている。そんな言葉を口にしても、その切れ長の瞳には欲望の色など微塵も浮かんでいなかった。

それでも花音は、まるで仏の声に導かれるように、その身を彼へと捧げた。

付き合って三年、彼が初めて花音に触れようとしたのだ。

神谷明臣(かみや あきおみ)は、誰もが知る「俗世に染まらない男」だった。

誰もが、彼は冷淡で近寄りがたく、俗世の欲とは無縁の人間だと口をそろえた。

神谷家という巨大な家業を継いだあとも、彼は修行を欠かさなかった。

香を焚いて仏に祈り、禅室にこもって座禅を組み、精進料理だけを口にし、戒律を守り、静かに俗世から距離を置いて生きていた。

そんな彼が花音と付き合ったことこそ、人生最大の戒律破りだったのかもしれない。

もっとも、明臣が本当に何の欲も持たない人だったわけではない。

座禅を組むときは、花音に服を脱がせ、自分の前で裸のまま正座させる。

一時間が過ぎると、今度は服を着るよう告げ、そのまま禅室を出て行かせるのだ。

彼はいつも長い時間、花音を見つめていた。

けれど、その瞳に愛や欲情は感じられない。まるで彼女の肉体を使って、自分の修行が揺らがないかを試しているようだ。

花音は、そんな明臣を一度も疑ったことはない。むしろ、自分が彼の修行の一助となれるなら、それでいいとさえ思っていた。

人生のどん底にいた自分を救ってくれたのは、明臣だったからだ。

けれど今回は違った。明臣は彼女を帰そうとはせず、裸のままの花音を畳へ押し倒した。

花音は震える声で問いかける。澄んだ瞳には、初めてのことへの戸惑いと緊張が浮かんでいた。「……戒律を破ることにならないの?」

明臣はかすかに口元を緩め、身をかがめて彼女の耳たぶに唇を寄せる。「花音……君という存在は、ずっと前から俺の心を乱していたんだ」

初めて結ばれる痛みに、花音は声をのみ込み、眉を寄せる。

あれほど冷静で自制心の強い人が、こんなふうに我を忘れることがあるなんて、花音は思いもしなかった。

明臣は何度も彼女を求め続け、花音が力尽きて眠りに落ちる頃には、外はすっかり夜の闇に包まれていた。

花音が目を覚ましたときには、すでに朝の七時だった。

明臣の姿はもうない。

起き上がると、彼の白いシャツが花音のなめらかな肌からさらりと滑り落ちる。

花音は頬を赤らめながら自分の服を拾い、一つひとつ身につけて禅室をあとにした。

屋敷の奥庭のそばを通りかかったとき、中から誰かが話す声が聞こえてきた。

「明臣、昨夜、花音と最後までしたのね」明臣の祖母・神谷澄江(かみや すみえ)の冷たい声だった。

「ええ」

「ずいぶん気の長いこと。最初からわざとあの子に近づいて、三年もかけてようやく手を出すなんて。私なら、ろくでもない連中を何人か雇って、花音を徹底的に辱めてやりたかったわ」

「詩織の仇は、俺自身の手で討つ。妹が味わった苦しみを、涼真の妹にも、一つずつ味わわせてやる」明臣の声は、花音が一度も聞いたことのないほど冷え切っていた。

「それじゃ、あの壁一面の絵は?」

「今月末、最後の一枚を仕上げたら、北浜市で一番大きな美術館のチャリティー展に出す」

「そのとおりよ!その時こそ花音の名誉を地に落とし、桐谷家の人間全員に、私たちがあの頃味わった苦しみを思い知らせてやるの」

分厚い木の門越しにも、その一言一句は花音の耳にはっきりと届いた。

花音は口元を押さえ、漏れそうになる嗚咽を必死にこらえた。それでも、震える体だけは止められない。

詩織……神谷詩織(かみや しおり)。

その名前なら知っている。

四年前、兄の桐谷涼真(きりたに りょうま)がある事件に巻き込まれた。

被害者の詩織は性的暴行を受けたうえ、転落して植物状態となり、あらゆる証拠が涼真を犯人だと示していた。

花音は兄がそんなことをする人ではないと信じていた。

それでも無実を裏づける決定的な証拠を得られないまま、涼真には懲役十二年の判決が下された。

あの日から桐谷家は跡継ぎを失い、両親はすっかり気力をなくし、一夜にして老け込んでしまった。

家族と兄の無事を祈るため、その年の秋、花音は白蓮山を訪れ、そこで静かに修行をしていた明臣と初めて出会った。

柔らかな白い麻のシャツをまとい、手首には黒檀の数珠を巻いている。

澄んだ瞳は穏やかで、伏せた切れ長の目元には静かな光が宿っていた。

ひょうたんを半分に割って作った柄杓で、塀際に植えられたライラックへ静かに水を注いでいる。

紫の花びらがふわりと肩に舞い落ち、そのどこか近寄りがたい横顔に、柔らかな彩りを添えていた。

まるで慈悲深い仏様のようだった。

それから二人は、寺の庭で何度も顔を合わせるようになった。

花音は胸の痛みを打ち明け、明臣は仏の教えを語りながら、その苦しみにそっと寄り添ってくれた。

二人の滞在は一か月だけだった。

けれど、その一か月の寄り添いとぬくもりは、芽生えた想いを少しずつ育て、やがて深い愛へと変えていった。

山を下りると、二人は自然に恋人となり、明臣は花音を自分の屋敷へ迎え入れた。

この三年間、屋敷の使用人たちは誰もが花音を大切に扱ってくれた。

時折訪れる澄江も、いつも穏やかな笑顔で接してくれた。

だから花音は一度も考えたことがなかった。

明臣が、詩織の兄だったなんて。

自分が救われたと思っていたものは、最初から復讐のために張り巡らされた罠だったのだ。

だから明臣の視線には、一度として恋心は宿っていなかった。

あれはいつも、値踏みするような目だった。

だから彼は言ったのだ。

――君という存在は、ずっと前から俺の心を乱していたんだ、と。

奥庭にいる人たちに見つかる前に、花音はよろめきながらその場を離れた。

いや、逃げ出したというほうが正しかった。

……

明臣は澄江を見送ったあと、禅室へ戻った。

薄い帳の向こうに立つ観音像を見つめ、しばらく黙って立ち尽くす。

使用人が淹れたてのお茶を運んできた。

ひと口飲んだ瞬間、違和感を覚える。「このお茶、花音が淹れたものじゃないのか?」

使用人は笑顔で答えた。「花音さんが今日は少し体調が優れないので、代わりに私どもがお世話するよう申しつかっております」

明臣は茶色い瞳をわずかに曇らせた。

昨夜、自分が理性を失ったことを思い出し、静かに湯飲みを置く。「世話はいらない。下がってくれ」

「かしこまりました」

……

夜も更け、花音は薄い白いネグリジェ姿のまま、再び奥庭の入口へやって来た。

古びた木の門には二つの頑丈な錠が掛けられ、鉄の鎖が幾重にも巻かれていた。花音はその閉ざされた門を見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。

ここで暮らして三年。

唯一、立ち入りを禁じられていた場所が、この奥庭だった。

誰にだって、人に知られたくない秘密はある。

花音はこれまで理由を尋ねることもなく、一度も踏み込もうとはしなかった。

けれど今夜だけは、中を見てみたかった。

庭の飾り石を運んできて足場にし、塀を乗り越えて奥庭へ入る。

中には古びた小さな建物が一軒あるだけだった。

花音は扉を開け、スマホのライトで部屋の中を照らした。

その瞬間、目に飛び込んできた光景に、全身の血の気が一気に引いていった。

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第1話
「花音……君の初めてを、俺にくれるか?」白檀の香りが漂う禅室。観音像の顔は、薄い布で覆われていた。桐谷花音(きりたに かのん)は何も身につけないまま、男の腕に囲い込まれ、座卓の脇の畳に横たわっていた。穏やかな顔立ちには、近寄りがたいほど澄みきった静けさが宿っている。そんな言葉を口にしても、その切れ長の瞳には欲望の色など微塵も浮かんでいなかった。それでも花音は、まるで仏の声に導かれるように、その身を彼へと捧げた。付き合って三年、彼が初めて花音に触れようとしたのだ。神谷明臣(かみや あきおみ)は、誰もが知る「俗世に染まらない男」だった。誰もが、彼は冷淡で近寄りがたく、俗世の欲とは無縁の人間だと口をそろえた。神谷家という巨大な家業を継いだあとも、彼は修行を欠かさなかった。香を焚いて仏に祈り、禅室にこもって座禅を組み、精進料理だけを口にし、戒律を守り、静かに俗世から距離を置いて生きていた。そんな彼が花音と付き合ったことこそ、人生最大の戒律破りだったのかもしれない。もっとも、明臣が本当に何の欲も持たない人だったわけではない。座禅を組むときは、花音に服を脱がせ、自分の前で裸のまま正座させる。一時間が過ぎると、今度は服を着るよう告げ、そのまま禅室を出て行かせるのだ。彼はいつも長い時間、花音を見つめていた。けれど、その瞳に愛や欲情は感じられない。まるで彼女の肉体を使って、自分の修行が揺らがないかを試しているようだ。花音は、そんな明臣を一度も疑ったことはない。むしろ、自分が彼の修行の一助となれるなら、それでいいとさえ思っていた。人生のどん底にいた自分を救ってくれたのは、明臣だったからだ。けれど今回は違った。明臣は彼女を帰そうとはせず、裸のままの花音を畳へ押し倒した。花音は震える声で問いかける。澄んだ瞳には、初めてのことへの戸惑いと緊張が浮かんでいた。「……戒律を破ることにならないの?」明臣はかすかに口元を緩め、身をかがめて彼女の耳たぶに唇を寄せる。「花音……君という存在は、ずっと前から俺の心を乱していたんだ」初めて結ばれる痛みに、花音は声をのみ込み、眉を寄せる。あれほど冷静で自制心の強い人が、こんなふうに我を忘れることがあるなんて、花音は思いもしなかった。明臣は何度も彼女を求め続け、花音が力尽
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第2話
この部屋には、まるで美術展のように、花音の裸身を描いた絵が壁一面に飾られていた。髪を下ろして伏し目がちにたたずむ姿。低い位置で髪をまとめ、目元を上げて微笑む姿。胸元を両手で隠し、頬を赤らめた姿。けれど、そのどれもが膝をついた姿勢で、まるで懺悔を捧げるかのようだ。その瞬間、花音の脳裏によみがえったのは、明臣に服を脱がされ、座布団の上で膝をつかされていた、あの日々だった。あのときの彼の視線は、淡々としていたのではない。冷たかったのだ。三年の時を経て、花音は初めて気づいた。穏やかな表情の奥に、明臣がずっと隠していた悪意と侮蔑を。そして、あれほど長く自分を見つめていたのも、裸で膝をつく惨めな姿を細部まで記憶に刻み、一筆一筆、絵に描き起こすためだったのだ。花音は一歩ずつ部屋の奥へ進んでいく。絵は時系列に並べられており、その筆致はあまりにも写実的で、目を背けたくなるほどだった。まるで花音自身よりも、彼のほうが彼女の体を知り尽くしているかのようだ。大粒の涙が頬を伝って落ちる。深く息を吸おうとしても胸が詰まり、息苦しさと胸を引き裂かれるような痛みに襲われた。片方の壁を見終えると、彼女はもう一方の壁へと足を向けた。ライトの光が壁に掛けられた絵を照らした瞬間、花音は思わず悲鳴を上げ、スマホを床へ落としてしまった。壁一面に描かれていたのは、さまざまな鬼や妖怪の姿に見えた。震える手でスマホを拾い上げ、物音を誰にも聞かれていないことを確かめると、花音はもう一度勇気を振り絞ってライトを向けた。今度は、はっきりと見えた。壁いっぱいに描かれた鬼や妖怪たちは、牙をむき、恐ろしい形相でこちらを睨んでいる。だが、そのすべてが、花音の顔をしていた。ある絵では赤い衣をまとい、狐のような瞳を持つ妖艶な妖狐。ある絵では、美しい顔の半分が白骨となった妖怪。またある絵では、青い顔に鋭い牙を持ちながら、妖しく艶めく夜叉。どの姿も艶めかしく人を惑わせ、魂を奪い、奈落へ引きずり込もうとしているかのようだ。全身に鳥肌が立つ。そのとき、花音は壁に掛けられた一幅の書に目を留めた。力強く端正な筆跡で、そこには「地獄」の二文字が記されていた。間違いなく、明臣の字だった。花音は何かを思い立ち、今度は自分の裸身が描かれた壁へライ
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第3話
振り返ると、ちょうど明臣がドアを開けて入ってきた。床一面に散らばった急須の破片へ視線を落とし、その瞳は静かに深みを帯びる。「なんでもないの。手が滑っちゃって」花音は淡々と言った。明臣は軽くうなずいただけだった。まるで花音が壊したのが、どうでもいい物だったかのように。彼は歩み寄ると、優しく花音の手を取る。その澄んだ声は、山あいのせせらぎのように穏やかだった。「ケガはしてない?」花音は首を横に振る。「それならよかった。使用人に片づけさせるよ。それと、今夜は俺と出かけてほしい。みんなで集まる約束があるんだ」「行きたくない」花音はそっと手をほどき、顔を上げた。寝不足のせいか、目の下にはうっすらとクマができていた。「よく眠れなかった?」明臣は彼女の表情を見つめ、どこかいつもと違うことに気づいたのか、声をさらに優しくした。「お願い。今夜だけ付き合って。君にプレゼントがあるんだ」花音はそれ以上断らなかった。ただ、心の中で静かにつぶやく。――明臣。私からも、あなたにプレゼントがあるの。そして願うなら、あなたが一度も私を愛していなかったことを。……夕方、明臣は運転手をよこし、花音を「玲」という名の会員制クラブへ向かわせた。そこは彼らの仲間同士で昔から通っている店で、大切な日には決まって集まる場所だと聞いている。けれど、花音がそこへ連れて来られたのは今日が初めてだった。個室へ入ると、明臣の友人たちが楽しそうに談笑していた。彼女を見るなり、「やっと来た、未来のお嫁さん!」と冗談交じりに声をかけた。「花音、こっち」明臣は上座に座り、その隣だけが空いていた。花音は歩み寄り、いつものように彼の隣へ腰を下ろす。今日は白いシルクのシャツをまとい、手首には数珠が巻かれている。そのどこか禁欲的な雰囲気とは裏腹に、花音へ向ける眼差しには優しさが宿っていた。花音は、昔、この顔がどうしようもなく好きだった。切れ長の目は、いつも慈しむような柔らかな笑みをたたえ、この世のすべてを優しく包み込むように見えた。とくに、こんなふうに静かに微笑みかけられると、世界中の光も温もりも、すべて自分だけに降り注いでいるような気がした。まるで敬虔な信者のように、その光を見るたび、自分はためらうことなく飛び込んでいく蛾になった。その光こ
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第4話
藤堂里奈(とうどう りな)がハイヒールを鳴らしながら店内へ入ってきた。体のラインを美しく際立たせる真っ赤なワンピースをまとい、その華やかな姿はひときわ目を引く。艶やかで自信に満ちた彼女は、つり上がった目をゆっくりと巡らせ、最後に花音へ視線を止めた。誰かがぎこちなく笑いながら言う。「里奈、帰国したなら一言くらい知らせてくれてもよかったのに」その場の空気はどこか微妙だったが、皆は示し合わせたように席をずらし、明臣の隣に里奈のための席を空けた。里奈はそれが当然と言わんばかりに、自然な仕草で腰を下ろす。細く白い手をそっと明臣の肩に添え、笑みを浮かべた。「明臣、彼女ともうすぐゴールインなんでしょ?それなのに私には何も知らせてくれないなんて……私たち、友達じゃなかった?」明臣の黒い瞳が一瞬だけ揺れたが、その感情はすぐに押し隠された。彼は花音の方へ顔を向け、小声で紹介する。「里奈はこの前まで海外に留学していてさ。俺たちとは長い付き合いなんだ」「はじめまして、藤堂里奈です。明臣とは幼なじみで、ずっと仲のいい友達なんですよ」里奈はゆっくりと花音へ手を差し出し、「幼なじみ」という言葉をわざと強調した。彼女は華やかで存在感のある美しさをまとっていて、真っすぐ向けられる視線には、どこか挑発めいた鋭さがあった。花音は何かを察し、指輪の箱を置いて、礼儀正しくその手を握る。「はじめまして」里奈は口元をゆるめた。「花音さん、こちらは初めてですよね? 私たち、このお店のお料理が大好きなんです。どれも美味しいので、ぜひ召し上がってくださいね」その口ぶりは歓迎しているようでもあり、この場所は自分のものだと言わんばかりでもあった。花音は箸を置き、淡く微笑む。「さっきエビをいただきましたけど、あまり私の好みではありませんでした」明臣の瞳がわずかに揺れる。花音がそんなふうに拒むのは、ほとんどなかった。まして、この店の料理は京陵市でも指折りの評判だ。花音はいつも自分の好みに合わせ、精進料理にも文句ひとつ言わず付き合ってくれた。自分が取り分けてくれた料理なら、たとえ一番苦手なゴーヤでも、きちんと口に運び、「意外と美味しいね」と笑ってみせる。そんな花音が、自分がむいてやったエビを「好みじゃない」と言うなんて……だが、花音がまっすぐ里
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第5話
開いたままの車のドアから吹き込む雨が、花音の青白い頬を濡らしていた。ほかにもどこをケガしたのかわからない。ただ、雨と土の匂いに混じって、かすかに血の匂いが漂っているのを感じた。肋骨をえぐられるような痛みの中、失血と豪雨のせいで体温は少しずつ奪われていく。ワゴン車の運転手の罵声を聞きながら、花音はゆっくりと目を閉じた。……再び目を覚ますと、鼻先にほのかな消毒液の匂いが漂ってきた。目を開けると、明臣の助手・西村悠斗(にしむら ゆうと)が病室にいて、ワゴン車の運転手と示談について話し合っていた。花音が身を起こそうともがくと、悠斗はすぐに駆け寄ってくる。「花音さん、お目覚めになりましたか。ここは神谷グループの病院です。明臣社長が腕の立つ整形外科医を手配し、手術は無事に終わりました。あとはしっかり療養していただければ、後遺症が残ることはありません」「明臣は?」片手でベッドを支えながら体を起こすと、肋骨のあたりが鈍く痛み、息をするだけでも裂けるような感覚が走る。「社長は擦り傷程度のケガです。仕事を片づけ次第、すぐこちらへいらっしゃいます」「そう」花音は病室にいる二人へ視線を向けた。「話し声が気になって休めないので、外で話してもらえる?」「も、もちろんです。申し訳ありません」悠斗は慌てて運転手を連れ、病室を出ていった。廊下から足音が聞こえなくなると、花音は立ち上がり、重い体を引きずるように病室を後にした。神谷家の病院なら、詩織もきっとここにいるはずだ。頭上の案内板には「VIP特別病棟」と書かれていた。花音は壁際のリハビリ用手すりにつかまりながら、一部屋ずつ病室のガラス越しに中をのぞいていく。そして最上階の一番奥の病室で、予想どおりの後ろ姿を見つけた。001号VIP病室。明臣はドアに背を向け、ベッドの脇に腰掛けていた。やせ細った少女が静かにベッドへ横たわり、少し黄ばんだ顔には人工呼吸器がつけられている。その寝顔は、まるで眠っているだけのように穏やかだった。だが、花音が思いもよらなかったのは、里奈まで病室にいたことだった。里奈は、明臣が詩織の手を握る様子を見つめながら、少し拗ねたような声で言う。「詩織の仇を討つためだって言うから、私は婚約を延期することまで受け入れたの。三年も待ち続けたのに、耳に入ってきた
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第6話
明臣は花音を見つめたまま、胸が不意にずしりと沈むのを感じた。花音はどこか凛とした雰囲気の美人だ。けれど、その黒く澄んだ小動物のような瞳が笑うたびに、無垢であどけない愛らしさを添えてしまう。本来なら刺々しく聞こえるはずの問いかけさえ、甘えるような響きに変えてしまうほどだった。――何か気づいたのか?思考を振り払い、明臣は視線を落とす。指先で花音の薬指にはめられた指輪をそっとなぞり、話題を変えた。「この指輪はラウンドブリリアントカットなんだ。五十八面のカットが光を一番きれいに見せてくれる。花音、気に入った?」穏やかな声だったが、その冷ややかな瞳にはほとんど感情が宿っていなかった。以前の花音なら、それが彼の生まれつきの性格で、感情表現が苦手なだけなのだと思っていただろう。けれど、里奈に優しく語りかける彼を目の当たりにして、ようやく気づいた。彼はただ、自分には少しも愛情を持っていなかったのだと。花音は目を伏せ、手元の指輪を見つめた。たしかに美しい指輪だった。ダイヤは強く輝き、高価な品であることが一目でわかる。「うん、好き」柔らかな声には偽りのない響きがあり、その瞳も心から感動しているように澄んでいた。まるで、明臣が丹念に紡いだこの嘘に、本当に酔いしれているかのようだ。自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ、花音はきっと信じられなかっただろう。目の前で細やかな気遣いを見せるこの男性が、裏では自分を利用し尽くそうとし、冷酷に切り捨てようとしている人間だなんて。花音はそっと手を引き、窓の外へ視線を向けた。雨上がりの木々は青々と鮮やかに輝き、部屋に漂う空気とはあまりにも対照的だった。そのよそよそしい態度に気づいた明臣は、じっと彼女を見つめた。眉がほんのわずかに寄る。だが深く考えることはなかった。まだ拗ねているだけだと思ったのだ。「明日はウェディングドレスの試着に行こう。花音、この世界でいちばん綺麗な花嫁にしてあげる」花音は顔を向け直し、明臣の冷たい瞳を見た。そこには、結婚を目前にした喜びも期待もなかった。まるで波ひとつ立たない水面のように冷え切っていて、何の感情も映してはいなかった。「明臣」花音は静かに口を開いた。鈴のように澄んだ声には、少女らしい愛らしさと少しの気高さがある。だから名前を呼ぶ
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第7話
俗世に染まらぬ清らかな人でも、人並みの想いを抱くことはあるのだろうか。「花音」明臣が低くかすれた声で彼女の名を呼ぶ。その声には抗いがたい誘惑が滲んでいた。彼はゆっくりと距離を詰め、花音を壁際へと追い込んでいく。花音は思わず顔を上げ、目の前まで迫ってくる明臣の顔を見つめた。その瞬間、胸の鼓動が抑えきれず速くなる。「……何をするの?」明臣は彼女の目の前、一センチにも満たない距離で足を止めた。温かな吐息が頬をかすめる。彼はわずかに動きを止め、何かを必死に抑え込むように目を伏せる。しばらくしてからゆっくりと身を起こし、花音を閉じ込めていた腕を離した。「俺の花嫁を見ていただけだ」その声はいつもの冷たく澄んだ響きに戻っていた。瞳に宿っていた欲の色も一瞬で消え去り、さっきまでの出来事が幻だったかのようだった。花音は視線を落とす。長いまつげがかすかに震え、その奥にある複雑な感情を隠していた。「……似合う?」明臣は彼女をじっと見つめ、深い眼差しのまま指先で一房の髪をすくう。「綺麗だよ、花音。世界で一番綺麗な花嫁だ」ウエディングドレスをまとった花音は、本当に美しかった。まるで彼女が身に着けた純白のドレスのように、穢れひとつない。だからこそ。こんなにも神聖で、こんなにも無垢に見える彼女だからこそ、彼はその衣装を剥ぎ取り、美しい仮面を引き裂き、桐谷家の人間がその美しい皮の下にどれほど醜く穢れた心を隠しているのかを、世間にさらけ出したい衝動に駆られる。詩織はいまもベッドに横たわったままだ。なのに、あの一家だけが何事もなかったように幸せでいられるはずがない。桐谷家は、全員が償うべきなんだ。明臣の目尻がうっすらと赤く染まる。本来なら俗世の感情とは無縁であるはずのその瞳には、狂気にも似た執着が宿っていた。理性が感情に飲み込まれた瞬間、もはや自分を抑えることなどできなかった。彼は花音の細い腰を抱き寄せ、そのまま壁へ押しつけた。そして、激しい雨のように唇を重ねる。有無を言わせないほど強引で、容赦のない口づけだった。突然のことに、花音は息をするのも苦しくなる。胸に手を当てて押し返そうとしても、明臣はびくともしない。それどころか、さらに深く彼女を求めてきた。どうして突然、こんなにも理性を失ったのか。あの
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第8話
明臣は頭の切れる男だ。少しでも不自然なところを見抜かれたら、もう二度とここから逃げ出せなくなるかもしれない。花音は頬を真っ赤に染め、ぱちりとまばたきをした。怯えた小動物のような瞳には、うっすらと涙がにじんでいる。唇を軽く噛みながら、小さな声で言った。「ここでは……だめ。誰かに見られちゃうよ」震える声は甘えるように耳へ届く。どうやら照れているらしい。結局のところ、まだあどけなさが残っている。明臣の瞳に宿っていた鋭い視線はゆっくりと和らぎ、立ち上がると彼女を解放した。花音はようやく許されたように慌てて立ち上がり、床に落ちていたウエディングドレスを拾って身につける。ドレスは重く、一人ではファスナーを上げられない。胸元の生地を手で押さえるしかなかった。耳元にかかる数本の髪が動きに合わせて揺れ、やがて静かに頬へとかかった。明臣はしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと背後へ回る。ドレスを整えながら、数珠をつけた手で花音の背中をなぞるように指先を滑らせた。数珠の飾りが、背骨の上をひとつひとつ優しくかすめていく。くすぐったい感触に、花音は思わず肩をすくめた。その瞬間、背後から伝わる吐息が熱を帯びた気がした。明臣はファスナーを半分まで上げたところで手を止め、低い声で言う。「禅室では、こんなに緊張していなかったはずだけど」この三年間、花音は何も身につけず禅室で跪き、彼とともに座禅を組み、修行に付き添ってきた。それなのに、今日はただウエディングドレスを着ているだけで、こんなにも恥ずかしがっている。花音は息をのみ、鏡越しに彼の冷たい眼差しを見つめた。明臣の表情は深い水面のように静まり返り、その瞳には淡い光が宿っているようだった。全身から漂うのは禁欲的な空気だけで、邪な欲など微塵も感じられない。まるで、さっきの出来事など最初から存在しなかったかのように。夢から覚めれば、彼はまた俗世の欲望を遠ざけた姿へと戻り、高みから見下ろすその眼差しは、まるで品定めでもするようだった。花音はうつむき、瞳の奥に浮かんだ冷たい感情を隠す。そう……あの頃の自分は彼を愛していた。だから彼を信じ、これが彼の修行の助けになるのだと思い込んでいた。けれど今は違う。あれが屈辱だとわかっているのに、恥ずかしさを感じないは
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第9話
花音はスマホの画面を軽くタップした。ちょうど里奈はパスコードを設定していなかった。メッセージを開くと、そのまま明臣と仲間たちのグループチャットが表示された。次々と新しいメッセージが流れてくる。【そうそう。花音がずっと騙されてたって知ったらどういう顔するんだろうな。今日のウェディングドレスの試着だって、本当は里奈の代わりだったのに】【里奈の代わりに試着できるだけでも光栄だろ。詩織をあんな目に遭わせたのは桐谷家なんだから、どんな仕打ちを受けても自業自得だ】【ほんとそれ。あんなに嬉しそうにドレスを試着してさ。本気で明臣が自分と結婚すると思ってるなんて、笑えるよな】画面に並ぶ文字を見つめながら、花音の指先は震えを抑えられない。そのまま上へスクロールすると、びっしりと並ぶメッセージが次々と目に飛び込んでくる。全身の血の気が引き、まるで氷水を頭から浴びせられたような感覚に襲われた。【やっぱ明臣はやることがえぐいよな。結婚式と婚約パーティーを同じ日にぶつけるなんて】【お前ら、明臣は結婚式と婚約パーティー、どっちに行くと思う?】【そりゃ婚約パーティーだろ。明臣が花音を嫌ってるなんて、みんな知ってるじゃん】【俺もそう思う。明臣は結婚式には顔も出さず、そのまま隣の会場で里奈と婚約するはずだ】チャットでは、明臣の仲間たちが好き勝手に盛り上がっていた。【俺に言わせりゃ、結婚式なんて招待客もいらないだろ。花音を一人ぼっちで会場に放っておけばいい。俺は絶対結婚式なんか行かない。明臣と里奈の婚約祝いに行くよ】【招待客も記者もいなかったら、花音の無様な姿を誰が見るんだ?あの女のだらしない話を誰が記事にするんだよ】花音は震える手で画面をスクロールし続けた。流れてくる一つひとつの言葉が、鋭い刃となって胸を切り裂いていく。皮肉なことに、チャットはこれほど盛り上がっているというのに、当事者である明臣と里奈は、一言も発言していなかった。二人の計画を知ってしまった今、もう読み進める気力はなかった。指先は震え、スマホを握っていることさえ難しい。そのとき、新しいメッセージが届き、これまでの投稿が一気に押し上げられた。【もし花音が結婚式で明臣に捨てられて、その場で明臣と里奈の婚約を見せつけられたら、ショックで飛び降りでもするんじ
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第10話
ビリッ――真っ白なウエディングドレスが、一瞬で大きく裂けた。胸元からスカートの裾まで、一直線に裂け目が走る。花音は鏡に映る惨めな自分の姿を見つめ、口元に冷たい笑みを浮かべた。望みどおりにしてあげる。結婚披露宴で、最高の見世物を演じてみせる。手を離すと、手にしていたチュールがゆっくりと床へ落ちていった。その音を聞いた試着室の外にいた明臣は、慌ててカーテンを開けた。さっきまで繊細で美しかったウエディングドレスは無残に裂け、白いチュールに走った裂け目が、痛々しく目に映る。花音はうつむいたままで、どんな表情をしているのかは見えない。ただ、そのドレスをまとった彼女は、どこか壊れそうな儚さをまとっていて、思わず守ってあげたくなるほどだ。明臣は目を伏せ、薄く唇を結ぶ。最初に口にしたのは、ドレスのことではなかった。「ケガはしてないか?」花音は首を横に振る。爪でそっと手のひらをつねり、すぐに気持ちを整えると、顔を上げた。傷ついた瞳には、まだ怯えの色が残っている。「明臣、私は大丈夫。ただ……うっかりドレスをダメにしちゃって」明臣はドレスが破れたことなど気にも留めていないようだ。冷えた声にも感情の揺れはない。「構わない。君が無事なら、それでいい」花音は、淡い光を映した深い瞳をじっと見つめ、目をわずかに揺らした。本当に演技が上手い。「披露宴までは、まだ三週間ある。同じデザインのドレスを、デザイナーに急いで作らせる」少し間を置いた明臣の瞳には、底知れない暗さが宿っていた。まるで深い淵のように、その奥は何も読み取れない。「花音。君を、一番きれいな花嫁にしてみせる」「うん」花音はかすかに口角を上げた。けれど、その笑顔はどう見ても無理に作ったものだった。波ひとつ立たない静かな瞳を見つめた瞬間、明臣の胸がふいにざわつく。これまでなら、こんな話をすれば花音は心から喜んでいた。なのに今は、あまりにも落ち着きすぎている。それがかえって不自然だ。「明臣……少し疲れちゃった。もう帰って休みたい」疲労の色を隠せない花音の顔を、明臣はしばらく見つめ続けたあと、ようやく視線を外した。「じゃあ、ドレスを脱がせるよ」花音は小さくうなずく。背中のファスナーは壊れていて、軽く引いただけで開き、ドレスはそのまま床へと滑
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