LOGIN北浜市で「俗世に染まらない男」と呼ばれる神谷明臣(かみや あきおみ)と付き合って三年。 桐谷花音(きりたに かのん)は毎晩、彼の禅室でひざまずき、修行に付き添い続けてきた。 だがある日、奥庭に隠された部屋へ足を踏み入れた花音は、壁一面に飾られた自分の絵を目にする。 そこで知ってしまう。明臣が自分をそばに置いていたのは、妹・神谷詩織(かみや しおり)の復讐を果たすためだったことを。 三年間の恋も、救われたと思っていた日々も……すべては偽りだった。 彼の心の中で、自分は妖怪よりもなお忌み嫌われる存在だったのだ。 そしてある雨の日、交通事故でケガをした花音は、明臣に見捨てられ、雨の中に残された。 病院で目を覚ました彼女は詩織の病室へ向かい、そこで明臣が別の女性と抱き合っている姿を目にした。 花音が一度も聞いたことのない、甘く優しい声で、明臣は囁いた。「詩織の仇を討ったら、俺たちは結婚しよう」 その後、花音はその秘密の部屋を焼き払い、彼の世界から姿を消した。 彼は狂ったように彼女を探し続ける。誰もが、今度こそ彼は彼女を決して許さないだろうと思っていた。 だが、再び花音が彼の前に現れると、彼は彼女の前にひざまずき、必死に許しを乞う。「花音……俺が悪かった……」
View More明臣は長いあいだ黙り込んでいた。整った横顔は照明に照らされ、明るさと影が入り混じっていて、その表情からは感情を読み取ることができなかった。やがて手から本が滑り落ち、鈍い音を立ててカーペットに落ちる。その音でようやく彼は我に返った。「花音」明臣は深く息を吸い込み、身をかがめて花音の頬を両手で包んだ。「ただの物語だよ」花音は顔を上げて彼を見つめた。涙でにじんだ視界の向こうで、明臣の顔はぼんやりとかすんでいる。ふいに彼女は笑った。今にも壊れてしまいそうな、ガラス細工のように儚い笑みだった。「うん、わかってる。でも、物語ってリアルに描こうとすれば、現実を参考にすることもあるでしょ?だから少し……心に刺さっちゃって」花音はぽつりとつぶやく。「明臣……もしあなたが、その小説の主人公だったら、同じことをする?」その瞬間、空気が凍りついた。明臣の瞳が大きく揺れ、花音をじっと見据える。彼女の表情から、わずかな違和感でも見つけ出そうとするかのように。この本は、きっと以前詩織が読んでいたものだ。詩織は昔からこういう恋愛小説が好きで、家には何冊も置いてあった。だから、この本がどこから来たのかについては疑っていない。ただ、この物語があまりにも自分と花音の現実に重なりすぎていた。美術展も結婚式も目前に迫っている。こんな時期に、少しでも狂いが生じることだけは避けたかった。もしかして花音は何かに気づいていて、それでわざと探りを入れてきたのだろうか。明臣の漆黒の瞳の奥に、かすかな警戒がよぎる。その視線は、問い詰めるように鋭かった。だが花音は鼻をすすりながら、そっと彼に抱きついた。その何気ない仕草には、彼への甘えと信頼があふれていた。涙を浮かべた瞳には、悲しみと切なさしか映っていない。まるで物語の世界にすっかり入り込み、主人公たちの運命を心から悲しんでいるようだ。明臣の固く寄っていた眉が少しずつほどけていく。最後に残っていた疑いも、跡形もなく消え去った。花音のようにもともと涙もろい子なら、恋愛小説を読んで泣くことくらい珍しくない。昔の詩織だって、恋愛小説を抱えてはよく泣いていたじゃないか。そう思うと、明臣は優しく花音の髪を撫でた。「何を考えてるんだ。俺たちは物語の登場人物じゃない」少なくとも、涼真が
「花音、どうした?」明臣は花音の隣に腰を下ろすと、そっと彼女を腕の中へ抱き寄せ、低い声で尋ねた。「また悪い夢を見たのか?」このところ花音が悪夢にうなされ続けていることを、明臣は知っていた。夜になると眠りは浅く、ときには激しく泣き、ときには体を小刻みに震わせる。目を覚ますたびに、彼女は少しずつ生気を失っていくようだった。静かすぎるその表情は、壊れてしまいそうなほど痛々しかった。こんなふうに激しく泣いたのは、このところ二度目だった。一度目は、病院へ迎えに行ったあの日。寝室には、ベッドサイドの小さな灯りだけが淡くともっていた。やわらかな光が、青白い彼女の頬に細かな影を落としている。花音は明臣を見つめ、その視線は、まるで彼の目元や輪郭をなぞるようだった。彼の表情には、心配と優しさがあふれている。けれど、この人だった。この瞳だった。兄が地面にひざまずいて謝る姿を、冷たく見下ろしていたのは。――あいつなんて、俺にとっては古びたおもちゃ以下だ。その冷酷な言葉は、氷の刃のように鋭く、何度も何度も花音の胸をえぐった。絶望は冷たい濁流となって、花音を完全に飲み込んでいく。あと一週間あまり。美術展の日がやって来る。そのときには、もう演じ続ける必要も、自分をごまかし続ける必要もない。――明臣。もし叶うなら、あなたの心にほんの少しでも情けを呼び起こせるだろうか。花音は体をこわばらせたまま目を伏せる。長いまつげが頬に小さな影を落とした。やがてゆっくりと手を伸ばし、ベッドサイドに置いてあった一冊の本を手に取る。黄ばんだ古い本で、ページの端は少しくたびれていた。「物語を読んでたの」花音の声はあまりにもかすかで、風が吹けば消えてしまいそうだった。本を開くと、一ページ目には『画魂』というタイトルが記されていた。「どんな話を読んだら、そんなに泣くんだ?」明臣は花音の手から本を受け取る。指先が表紙についた、すでに乾いた涙の跡をかすめた。花音がこぼした涙だった。花音はぼんやりと窓の外の夜景を見つめながら、どこか遠くを漂うような声で話し始めた。「ある画家が、姉の仇を討つために、仇の姉へ近づく物語なの……」本をめくる明臣の手が、ほんの一瞬だけ止まった。「その画家は愛しているふりをして彼女を騙し、裸にな
その笑顔を見た瞬間、明臣の胸がぎゅっと締めつけられた。花音の瞳はあまりにも輝いていた。その輝きは、どこか異様なほどだった。なぜか、その瞬間、ひとつの思いが明臣の脳裏をよぎる。――まるで、消える前の灯火のようだ。胸の奥が、理由もなくざわついた。花音は何かを知ってしまったのだろうか。それとも、ただ体調が悪いだけなのか。美術展も結婚式も、日ごとに近づいていた。自分が丹念に準備してきたすべてが、もうすぐ明らかになる。その時、花音は自分を憎むのだろうか。涼真が言ったように、自分を許してくれなくなるのだろうか。そう思った瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。だが、明臣はすぐにその考えを押し込めた。――きっと考えすぎだ。「最近はちゃんと休んで。結婚式も美術展も、君は何も気にしなくていい」優しくそう言って微笑む。「全部、俺に任せて」花音の瞳がかすかに揺れたが、すぐに静けさを取り戻した。「……うん」そのとき、不意にスマホが鳴った。明臣は着信画面を見ると、そのまま電話に出て、慌ただしく部屋を出ていった。花音は、その背中が遠ざかっていくのをじっと見つめる。やがて上にかぶせてあった白紙をめくり、また血で経文を書き写し始めた。半紙に落ちた血は少しずつ乾き、やがて黒ずんだ茶色の文字へと変わっていく。まるで、幾筋もの傷跡のようだった。明臣が出ていったあと、花音は経文を書き終えると、いつものように引き出しへしまった。一週間が過ぎ、その引き出しはもう血で書いた経文でいっぱいになりかけていた。花音はシャワーを浴び、薬を塗り終えると、本を一冊抱えてベッドにもたれながらページをめくっていた。だが、いつの間にか本を抱えたまま眠りに落ちていた。また、兄の夢を見た。両脚を折られ、兄はもう二度と立ち上がれなくなっていた。花音は兄の脚を見ようと近づき、ズボンの裾をめくる。そこには……何もなかった。ぽっかりと空っぽだった。花音は悲鳴を上げるように目を覚ました。恐怖と苦しみが入り混じった泣き声は止まらず、声が枯れるまで泣き続けた。明臣が帰宅すると、ベッドのそばに座り込み、激しく泣いている花音の姿が目に入った。「どうしてここで泣いてるんだ?」できるだけ声を落として問いかける。「まだ脚が痛むのか?」そう
翌朝早く、明臣が手配した皮膚科の専門医がやって来た。白髪交じりで眼鏡をかけた、物腰の穏やかな年配の医者だった。医者は花音のやけどを診察すると、眉間のしわをいっそう深くした。「やけどの傷口がここまで感染しているとは……」眼鏡を押し上げながら、重い口調で続ける。「これほどのやけどを、どうしてすぐに処置しなかったんですか?」明臣はそばで黙ったまま立ち尽くし、表情は暗く沈んでいた。「やけどの跡は残りますか?」そう尋ねる声には、張りつめたものが滲んでいた。専門医は小さくため息をついた。「これだけ広範囲のやけどですし、しかも血流のあまり良くない脚ですから……」そう言って首を横に振る。「やけどの跡が残るのは避けられません。もっと早く病院で適切な処置を受けて、感染さえ起きていなければ、回復できる可能性もありました」花音はうつむき、自分の脚に残る痛々しいやけどを見つめた。兄が奪われた両脚に比べれば、この程度のやけどの跡なんて、どうということもない。「ありがとうございました」花音は驚くほど穏やかな声で、静かに礼を言った。明臣は医者を見送ると、寝室へ戻った。花音はもう着替えを済ませ、窓辺に座って静かに写経を続けていた。レースのカーテン越しの陽射しが彼女をやさしく包み込み、その姿は淡い光に包まれていた。あまりにも静かで、壊れてしまいそうなほど儚く見えた。明臣は歩み寄ると、花音の前にしゃがみ込み、筆を持つ彼女の手をそっと包んだ。「花音、一番腕のいい形成外科医を探すから……」「大丈夫」花音は彼の言葉を遮り、ほんの少しだけ微笑んだ。「どうせ結婚式のウェディングドレスは裾が長いから、隠せるもの」明臣の瞳がかすかに揺れた。その言葉のどこかが、まっすぐ胸に突き刺さった。鼓動が激しく鳴り響く。用意していた慰めの言葉は喉につかえ、どうしても口にできなかった。泣きわめいてもいい。不満をぶつけてもいい。昔のように甘えて、「慰めて」と求めてくれたほうが、ずっとよかった。こんなふうに、すべてを受け入れたような静けさだけは見たくなかった。波ひとつ立たないその瞳を見つめるほどに、明臣の胸は理由もなくざわついていく。花音は彼の手の中から自分の手をそっと引き抜き、筆を置いた。そして顔を上げると、真剣な眼差しで明臣の深く