جميع فصول : الفصل -الفصل 20

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第11話

花音はずっとうつむいたままだった。だから向かいの鏡に映る明臣が、冷たく澄んだ瞳で自分をじっと見つめていることには気づかなかった。「花音」花音は小さく「……うん」と返事をした。その瞬間、彼は花音を抱く腕にぐっと力を込め、彼女を見つめる瞳の奥に、静かな揺らぎが走った。「……元気がないな」低く澄んだ声。その声音からは、何を思っているのか読み取れない。花音の胸がきゅっと締めつけられる。それでも表情には何も出さなかった。「ごめんね、明臣。せっかく私のために用意してくれたウェディングドレスなのに、私が破いちゃって……」花音の声はさらに小さくなった。まるで悪いことをしてしまった子どものように、どうしていいかわからず、申し訳なさと悲しさがにじんでいる。花音のいつもと違う様子に抱いていた明臣の疑念は、蜘蛛の糸がほどけるように消えていった。そうか。気にしていたのは、ドレスが破れてしまったことか。花音は自分を誰より愛し、二人の結婚式を心から楽しみにしている。だからこそ、このウェディングドレスも大切に思っているのだ。明臣は向き直ると、両手で花音の頬を包み込んだ。少し赤くなった目尻と、不安そうに揺れる瞳を見つめた瞬間、胸がちくりと痛む。自然と声まで優しくなった。「前にも言っただろ。ドレス一着くらい、どうってことない。またデザイナーに頼んで、これよりもっときれいなのを作ってもらえばいい。な?」語尾を少し上げたその澄んだ声は、耳に心地よく響いた。花音はこくりとうなずく。目元をやわらかく細め、さっきまでとは打って変わって、目に見えてうれしそうな笑みが広がった。「うん、分かった」赤い唇がやわらかく開き、頭上の照明を受けてみずみずしい艶がきらりと光った。明臣の瞳がわずかに深みを帯びる。花音の手を握る力も、知らず知らずのうちに強くなっていた。「帰ろう」花音はうなずき、さりげなく里奈のスマホを手に取ると、口元にかすかな笑みを浮かべた。里奈がうっかりここに置き忘れていったのなら、もちろん自分で返してあげないと。二人が試着室を出ると、里奈はソファに座り、雑誌の写真を指さしながら店員と話していた。花音は目を細め、スマホを握る手にそっと力を込める。二人の姿に気づいた里奈は雑誌を脇に置き、笑みを浮かべながら近づいてき
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第12話

甘えるような、さりげない催促だった。ウェディングドレスを花音に破られたのだから、その代わりに明臣にもっと素敵なドレスを用意してほしい、という思いが込められていた。明臣も彼女の意図を察し、花音の手を握ったまま、淡々と答えた。「ああ」里奈は満足そうに微笑み、何か言おうとした、その瞬間。花音はふいに手を伸ばし、ローズピンクのスマホを里奈へ差し出した。「更衣室にスマホを忘れてたよ」里奈は一瞬目を見開き、花音をじっと見つめた。澄んだ瞳は静かな水面のように穏やかで、表情にも特別な変化はない。本当に何も知らないように見える。どうして……?里奈の目にかすかな苛立ちがよぎる。まさか、花音はあのスマホを開いていないの?胸の内の疑問を押し隠しながら、スマホを受け取ろうと手を伸ばす。だが、指先が触れるより早く、明臣が途中でスマホを受け取った。里奈の心臓が跳ねた。もし明臣に、自分がわざとスマホを置き忘れて、計画をばらしてしまったことが知られたら、彼は激怒して、もう二度と自分を相手にしてくれないだろう。次の瞬間、明臣は案の定スマホのロックを解除し、メッセージアプリを開いた。グループチャットには、まだ未読の表示が残っている。それを見た明臣は、胸の奥でひそかに安堵した。どうやら花音は何かに気づいてウェディングドレスを壊したわけではなかったらしい。彼はスマホを里奈へ返し、何気ない口調で言った。「更衣室で何を話してたんだ?話に夢中でスマホまで忘れるなんて」穏やかな口ぶりだったが、その奥にはかすかな警告が滲んでいた。三年間、明臣と過ごしてきた花音には、そんな感情の揺れを敏感に感じ取ることができた。自分に計画を知られかけたことを怒っているのだろうか。花音はわずかに口元を緩めた。その笑みの奥には、皮肉だけが静かに潜んでいた。里奈も反射的にグループチャットへ目を走らせ、花音が見ていないことを確認すると、何事もなかったように髪をかき上げ、笑いながら言った。「女同士の話にまで興味あるの?」口元には意味ありげな笑みが浮かび、その瞳にはからかうような色が宿っていた。明臣は視線を外し、淡々と言う。「今度からは忘れ物をしないように」低く落ち着いた声だったが、気づかれにくい冷たさが混じっていた。里奈もそれを感じ取った
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第13話

里奈は最初からわかっていた。明臣が花音に復讐するためだけに、花音と恋人のふりをしているのだと。それでも、二人が寄り添い、あまりにもお似合いな姿をこの目で見てしまうと、胸の奥に渦巻く嫉妬と悔しさは、まるで蔦のように心を締めつけてきた。ふと、花音の肩に残っていたあのくっきりとしたキスマークが脳裏をよぎる。その瞬間、里奈はすべてを壊してしまいたいほどの憎しみに駆られた。彼女はもう一度スマホを取り出し、グループチャットを開く。チャットでは、まだ花音をどう笑いものにするかという話で盛り上がっていた。里奈の目が一気に冷え切る。沈んだ表情には、ぞっとするような歪んだ笑みが浮かんでいた。――花音、本当に愚かな女ね。せっかくこんな絶好のチャンスを目の前に差し出してあげたのに、それすらつかめないなんて。だから、いいように弄ばれて振り回されるのよ。彼女は拳をぎゅっと握り締める。瞳は、憎しみで少しずつ染まっていった。明臣は自分の婚約者。自分だけの男だ。ほかの女が近づくことなど、絶対に許さない。たとえ明臣が花音への復讐のために演技をしているだけだとしても、それでも許せない。花音の肩に残っていたキスマークが、どうしても頭から離れない。更衣室で、里奈はカーテンのそばの床に落ちた、ずたずたに裂けたウェディングドレスへ視線を向ける。その目に、ふっと冷たい光が宿った。どうやら、明臣の心にある憎しみは、まだ足りない。もっと燃え上がらせる必要がある。さらに火をくべて、その憎しみを激しく燃え上がらせてあげなくては。……明臣は花音を連れて神谷家へ戻った。使用人たちはすでに夕食を用意していた。花音には食欲がなく、形だけ二口ほど口にすると、そのまま部屋へ戻っていった。階段を上がっていく後ろ姿を見つめながら、明臣は静かに目を細める。その瞳の奥には、底知れない渦が静かにうごめいていた。やがて視線を外し、そばにいた使用人へ穏やかな声で尋ねる。「最近もずっとあんな感じなのか?」使用人は頭を下げたまま答えた。「はい。花音様はここ数日、ずっと様子がおかしいんです。ぼんやりしていることが多くて、お食事もあまり召し上がりません。入院中からそんなご様子でしたので、お体の具合が優れないのかもしれません」「そうか」明臣は
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第14話

この三年間、明臣から気遣われたことなんて一度もなかった。それなのに今さら。花音はそっと彼の手を払いのけた。「ずっと精進料理ばかり食べてきたから、もうお肉は食べたいと思わないの」明臣は少し動きを止めると、ゆっくりとスープを脇へ置いた。ふと脳裏に浮かんだのは、花音が初めて「一緒に精進料理を食べる」と言い出した日のことだった。あの時の彼女は、両腕を彼の首に回し、甘えるように背中に抱きつきながら、決意を込めて言った。「決めた!これからは私もあなたと一緒に精進料理を食べる!」明臣は意外そうに笑った。「これは俺自身の修行だから。君は肉団子が好きだっただろ?無理して合わせなくていい」「もう決めたの」花音は揺るぎない口調で、彼の首にぎゅっと抱きついた。「きっと私がお肉を食べてるから、彼氏がキスしてくれないんだよ。だから精進料理にしてみる」そんな他愛もない理由で、彼女は本当に三年間、彼と一緒に精進料理を食べ続けた。……たとえ肉をやめても、彼がキスしてくれることはほとんどなかったのに。かつて花音が自分のためにそこまでしてくれたことを思い出す。そして今でもなお、彼女は肉を口にしようとしない。その事実に、明臣の目元がわずかに和らいだ。青白い顔色に気づき、手を伸ばして彼女の額に触れる。「でも顔色がよくないな。どこか具合でも悪いのか?それとも疲れてる?」少しひんやりした手の甲が、彼女の額に触れた。熱はない。花音は小さく首を振り、彼の手をそっとどけた。「大丈夫。ただ少し疲れただけ。少し休みたいの」明臣はしばらく黙ると、口を開いた。「じゃあ、使用人に精進料理を運ばせるよ。体が弱いんだから、ちゃんと食べないと」「うん」花音が見送る中、明臣はスープを持って部屋を出ていった。しばらくすると、大きなトレーを抱えて戻ってくる。花音が目を落とすと、そこには栄養バランスを考えたさまざまな精進料理が並び、その隣にはトマトの肉団子スープが置かれていた。彼女の瞳がわずかに揺れる。昔から、彼女は肉団子スープが大好きだった。子どもの頃、病気になるたびに母が作ってくれた、ほどよい酸味のあるトマトの肉団子スープ。食欲がなくても、それだけは大盛りでもぺろりと食べられた。そして今……目の前のスープから立ち上る香りを嗅いだ瞬間、不思議と食欲
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第15話

明臣は慌てて電話を切ると、ソファに座った花音が火傷を負っていることにも気づかず、立ち上がった。花音に「何かあったの?」と聞かれて、彼はようやく彼女のワンピースに広がったスープの染みに気づいた。「ちょっと用事ができた。病院に行ってくる。使用人に頼んで手当てしてもらえ」そう言い残すと、明臣は一切ためらうことなく背を向けて出て行った。花音は痛みをこらえながら、涙で潤んだ目で明臣の遠ざかる背中を見つめる。ワンピースの裾をめくると、白い太ももは赤く腫れ上がっていた。彼女はかすかに笑う。その笑みはどこまでも寂しかった。病院へ向かったということは、詩織のためなのだろう。詩織に何があったのかはわからない。けれど、明臣の慌てぶりを見る限り、しばらく戻ってくることはないだろう。その時間があれば、できることはいくらでもある。花音は浴室へ向かい、火傷した部分に冷水を当てた。焼けつくような痛みが少しずつ引いてから薬を塗り、新しい服に着替える。そのとき、ふと一つの考えが頭をよぎった。詩織に何かあったからこそ、明臣はあんなにも慌てていた。それなら、また兄に八つ当たりするのではないだろうか。急に胸騒ぎがして、花音はスマホを取り出し、美琴へ電話をかけた。余計な心配をかけたくなくて、ほかのことには触れず、適当な理由をつける。「お母さん、お兄ちゃんに会いたくなったの。明日、拘置所に面会を申し込めないかな?」「明日……」母は何かを思い出したように青ざめた唇を震わせ、それから静かに答えた。「ええ。明日はお母さんも一緒に行こうか。ちょうど、お兄ちゃんの顔が見たくなってたの」「でも、お父さんのお世話をする人が必要でしょ?」南川市と北浜市はかなり離れている。兄が事件を起こした当初、本来なら南川市の拘置所へ収容されるはずだった。ところが判決後、警察に護送されて北浜市へ移され、そのまま北浜市拘置所に収監された。あのときは単なる偶然だと思っていた。しかし今になって思えば、明臣が裏で手を回したのだろう。美琴は会社の経営と夫の看病を一人で抱え、すでに手いっぱいだった。結局、小さくため息をついて言った。「じゃあ明日、お兄ちゃんに会ってきて。家のことは心配いらないって伝えてあげて」「うん、わかった、お母さん」電話を切っても、胸騒ぎは
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第16話

花音は澄んだ瞳をゆっくりと巡らせ、その奥に強い決意が宿った。――思いついた。彼女は部屋の隅へ歩いていき、室内の照明をすべて点けると、スマホを取り出して飾られている絵を一枚残らず撮影した。すべて撮り終えると、花音は明かりを消し、物音ひとつ立てずに部屋をあとにした。自分の部屋へ戻ると、一枚一枚の写真を加工していく。自分の顔や体が映っている部分はすべて切り取り、上書き保存した。作業が終わるころには、もう深夜だった。外はすっかり闇に包まれ、神谷家の庭には淡い光を放つ小さな照明がいくつか灯っているだけだった。あたりは静まり返り、夜空には星だけが静かに瞬いていた。花音は加工した写真をすべて、「J」という名前の相手に送信した。「この画風、再現できますか?」「できます。ただ、この画風はかなり繊細でレベルも高いので、追加料金が必要です」「お金なら問題ありません」花音はためらいなく手付金を振り込み、相手が受け取ったのを確認すると、チャット履歴をきれいに削除した。すべて終えると、彼女は疲れたようにスマホを放り出し、小さく口元を緩める。――明臣。私が去る前に、あなたと里奈へもうひとつ、新婚祝いを贈ってあげる。……病院は、物音ひとつしない静寂に包まれていた。廊下には人の気配もなく、手術室の赤いランプだけが鋭く灯っている。明臣と澄江は手術室の前で待っていた。澄江は泣き崩れそうなほど涙を流している。そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。駆けつけてきたのは里奈と、明臣の友人たちだった。澄江が泣きじゃくる姿を見ても、事情がわからない皆は誰も軽々しく口を開けなかった。最初に澄江の肩を支えたのは里奈だった。「澄江おばあちゃん、どうして急に詩織のバイタルが悪化したんですか?」すると、ほかの者も口々に言う。「そうですよ。詩織が植物状態になってからもう四年になりますけど、その間ずっと容体は安定していたじゃないですか」澄江は涙をぬぐいながら、最愛の孫娘を思って胸を痛め、しゃくり上げながら答えた。「医者の話では、酸素チューブと機械をつないでいる部分が緩んでしまって、十分に酸素が送られなかったそうなの。でも、病院の機械はどれも高性能な精密機器でしょ?そんなことが起きるなんて……」それを聞いた里奈は目を伏せ、瞳の奥
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第17話

里奈は唇を噛み、何も言えなかった。ただ顔を横に向け、澄江を慰めるように声をかけた。「澄江おばあちゃん、大丈夫です。詩織はきっと乗り越えられます。私はそう信じています」そのとき、壁にもたれかかった男が、投げやりな口調で言った。「どうせ花音のせいだろ。あいつ、疫病神かよ。この前だって一週間入院してたじゃないか。退院した途端、詩織のバイタルが急に悪化した。もともと涼真が詩織を植物状態にしたっていうのに、今度はその妹の花音のせいで救急搬送だ。桐谷家なんてろくな人間がいない。兄妹そろって同じ穴のムジナだ」その隣で壁にもたれていた結城辰也(ゆうき たつや)は、その言葉に眉をひそめ、肘で男を軽くつついた。「さすがにそれはこじつけすぎだろ。そんな迷信じみた話まで持ち出すのか」「もっと迷信じみたことしてる奴が、あそこにいるだろ」男は顎で、雑念ひとつなく真剣に詩織のために読経を続ける明臣を示し、鼻で笑った。「それに結局、詩織がこんな目に遭ったのは桐谷家のせいだ。君まで花音をかばうつもりか?」辰也も明臣へ視線を向け、静かに返した。「俺は事実を言っただけだ」男は呆れたように白い目を向け、そのまま別の仲間たちのほうへ歩いて行った。澄江は手術室の前の長椅子に座り、目を真っ赤に腫らしながら、両手を合わせてひたすら祈り続けていた。「仏様、どうか……三年前、私たちを救ってくださったように、今は明臣も仏様にすがる思いで祈っています。どうか……どうか孫娘をお救いください……」その祈りが耳に届き、明臣の胸は重く沈んだ。祖母はもともと、とても穏やかで心優しい人だった。神谷家で最初に仏教に帰依したのも祖母だった。誰に対しても分け隔てなく接し、使用人にもいつも笑顔で優しかった。けれど詩織が事故に遭ってからというもの、一夜にして髪は真っ白になり、顔から笑顔も穏やかさも消えてしまった。毎日屋敷に閉じこもり、陰気で人を寄せつけない老人のようになってしまった。かつては誰かを憎むことすらなかった祖母が、今では花音への復讐にまで賛成している。それほどまでに、詩織のことが祖母に与えた衝撃は大きかったのだ。明臣はふいに目を開けた。その瞳には、抑えきれない憎しみが渦巻いていた。すべての元凶は、やはり涼真だ。ピッ、ピッ、ピッ――手術室の
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第18話

「全部、涼真のせいよ。あいつのせいで詩織はこんな目に遭ったのに、たった十二年の服役なんて軽すぎるわ」「でも、どうしようもないよ。裁判所の判決はもう出てるし、あいつはもう四年服役してる。あと八年で出所できるなんて、本当に納得できないよな」里奈は詩織のベッドのそばに腰掛け、頬にかかった髪を静かに整えた。ざわめきに包まれる中、その瞳に一瞬だけ後ろめたさがよぎる。――詩織、ごめんね。今回はあなたに力を貸してもらうしかなかった。だって、あなたは明臣が何より大切にしている妹だから。だからこそ、犠牲になってもらうしかなかったの。あなたも、兄が本当に涼真の妹を愛してしまうなんて、望んでいないだろう?髪を整え終えた里奈は立ち上がり、部屋の隅にいる一人の男へ視線を向けた。男はその意味を察すると、すぐさま憤った口調で煽り始めた。「どうして詩織は一生ベッドの上で過ごさなきゃいけないのに、涼真はあと八年で出てきて、何事もなかったみたいに暮らせるんだ?俺に言わせれば、あいつの両脚をへし折って、一生歩けない体にしてやるべきだ。自分の足が動かない苦しみを味わわせてやればいい!」その最後の一言を聞いた瞬間。病室でずっと無言のままベッドの前に立っていた明臣が、ようやく心の奥底に沈んでいた意識を取り戻した。彼は血の気を失った詩織の顔を見つめ、さらに点滴を受けながら意識も朦朧としている澄江へ視線を移す。漆黒の瞳には、少しずつ憎しみが滲み始めていた。まるで嵐のような殺気が部屋中に広がり、息苦しいほどの重圧がその場を支配する。誰もが彼から放たれる凄まじい気配を感じ取ったのか、示し合わせたように口を閉ざし、病室は一気に張り詰めた空気に包まれた。やがて明臣は振り返り、かすれた声で里奈に言った。「詩織とおばあちゃんを頼む」それだけ言い残すと、明臣は大股で病室を後にした。その背中からさえ、押し潰されそうなほど重苦しい空気が漂っていた。彼が去ると、病室を覆っていた重圧も少しずつ和らいでいく。「明臣、どこへ行くんだ?」「まさか花音のところに行く気じゃないよな?」「いや、花音じゃない。涼真のところへ向かったように見える」辰也はそのやり取りを一言も聞き逃さず、明臣が去っていく背中をじっと見つめる。その瞳は、ますます深い色を帯びてい
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第19話

明臣が面会室で待ったのは、わずか二分ほどだった。再び姿を現した二人の刑務官は、さっきまでとは打って変わって丁重な態度になっていた。 「明臣社長、こちらへどうぞ」刑務所の鉄扉が開き、耳障りなきしむ音が響く。明臣は収監区画へと足を踏み入れた。背後で扉が静かに閉まり、その向こうから刑務官の小さなぼやき声がかすかに聞こえてくる。「どうせ怒られるなら、最初からあのお方を中へお通しすればよかったんだよ……」湿気を帯びた薄暗い廊下には、腐ったような臭いが染みついていた。明臣は脇目も振らず、幾重にも並ぶ独房の前を歩いていく。冷たく感情を失ったような囚人たちの視線を一身に浴びながら、廊下の奥へと進んだ。やがて、磨き上げられた高級革靴が、廊下の突き当たりにある最後の独房の前で止まる。そこが、涼真の独房だった。「ずいぶん気楽にやっているみたいだな」低く響く声には、鋭い探るような色が滲んでいた。涼真は背を向けたまま床にあぐらをかき、竹の節のように細く長い指先で、トイレ用の紙を折っては白い紙飛行機を作っていた。聞き慣れたその声に、指先がぴたりと止まる。ゆっくりと立ち上がると、手錠がカチャリと乾いた音を立てた。檻のような鉄格子を挟み、二人は向かい合う。一人は、仕立てのいいスーツをまとい、近寄りがたい気品を漂わせる明臣。もう一人は、囚人服をまとい、すっかり痩せ細った受刑者の涼真。だが、その場に誰かがいたなら、きっと驚いただろう。囚人という立場にありながら、涼真の放つ存在感は、明臣に少しも引けを取っていなかった。「律儀だな。毎年きっちり二回、俺に会いに来るなんて」涼真は小さく笑った。刑務所に入っても、その背筋は変わらず真っすぐだった。頭上の明かりが明滅し、その陰影が彫りの深い顔立ちを際立たせる。顔色には疲れがにじんでいたが、その瞳だけは驚くほど揺るぎなかった。着ている囚人服は何度も洗われたのか色褪せ、裾も白っぽくなっていたが、不思議なほど清潔に整えられている。入所前は柔らかく伸びていた髪も、容赦なく短く刈り込まれていた。だが、その髪型は彼をみすぼらしく見せるどころか、穏やかで整った顔立ちに、どこか荒々しく危うい色気を添えていた。どうやら眠っていたところを刑務官に無理やり起こされたらしく、目にはうっすらと
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第20話

明臣の口元には冷たい笑みが浮かび、その鋭い眼差しは獲物を狙う鷹のようだ。涼真は穏やかに微笑む。「楽しく過ごしても一日、苦しんで過ごしても一日。それなら前向きに生きたほうがいい。真実はいずれ必ず明らかになるから」真実。その二文字は、鋭い刃となって明臣の胸を深くえぐった。あの時、あらゆる証拠が涼真を犯人だと示していた。桐谷家が手を回したが、最終的に下された判決は懲役十二年だった。「詩織をあんな目に遭わせておいて、よく真実なんて口にできるな」明臣は歯を食いしばり、こめかみの血管がぴくりと脈打つ。涼真は目を伏せ、手首の手錠を無造作に指先でもてあそんだ。「俺は後ろめたいことなんて何一つしてない」「よくもそんなことが言えたな。刑務所に入ったから、俺が君に手を出せないとでも思ってるのか?」明臣は冷え切った声で言い放つと、涼真へ一歩近づいた。錆びた鉄の匂いが漂う冷たい面会用の格子越しに、獣のような殺気を宿した目で涼真を見据える。「君は中でのんびり暮らしてるようだが、外には妹がいることを忘れてないだろうな?」その瞬間、手錠をいじっていた涼真の指がぴたりと止まった。勢いよく顔を上げると、穏やかだった瞳に鋭い怒気が走る。「明臣……君、何をするつもりだ?」「別に何もしないさ。ただ、君が刑務所にいる間、親切に妹の面倒を見てやろうと思ってな」明臣は薄く笑い、冷え切った声で続けた。「花音は俺に夢中だからな。毎日、裸になって仏前で俺のために跪くくらいだ。ついこの前だって無理やり抱いたのに、嫌だとも言わず、自分から受け入れてきた。どうだ?むしろ君は俺に感謝するべきじゃないのか?」詩織が味わった苦しみに比べれば、花音が受ける程度のことなど、大したことではない。「この……っ!」涼真は激しく飛びかかり、身体が鉄格子にぶつかって鈍い音が響いた。手錠につながれた両手を振り回し、今にも明臣の首をつかんでへし折らんばかりの勢いだった。騒ぎを聞きつけた刑務官たちが慌てて駆け込んでくる。暴れているのが涼真だと分かり、明臣に怪我がないことに胸をなで下ろすと、警棒を振り上げ、明臣へ伸ばした涼真の腕を容赦なく打ち据えた。しかし涼真は痛みなど感じていないかのようだ。両手で鉄格子を力いっぱい握り締め、手の甲には血管が浮き上がる。獲物を狙う獣のような
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