翌朝、愛音はいつも通りに洗濯機を回した。昨夜見た書斎の扉が、朝の廊下にも同じ位置にある。閉じたままのドアへ一度だけ目を向け、それから洗濯物を籠へ移した。 朝食の準備をしていると、冷蔵庫の上に置いた布巾へ手が止まる。梨本恵実という名前が、ふと浮かんだ。 愛音は布巾を水で濡らし、固く絞った。食卓を拭き、皿を並べる。名前を思い出すだけなら、それ以上のことは起きない。そうするように、いつもの手順へ戻った。 航生が起きてくる頃には、味噌汁も焼いた魚も食卓に並んでいた。「今日、帰り遅くなるかもしれない」「分かった」 航生はスマートフォンを見ながら椅子に座った。愛音は味噌汁を置き、向かいの席へ腰を下ろす。 数日後、結婚記念日を迎えた。 朝から特別なことは何もなかった。航生はいつもの時間に起き、シャワーを浴びてから書斎へ入る。愛音はその間に食器を片づけ、洗面所のタオルを替えた。 玄関へ向かう足音が聞こえる。「愛音。ネクタイどこだっけ」「二段目の引き出し」 航生が寝室へ戻ってくる。クローゼットの扉が開く音がして、ハンガーの擦れる音が続いた。 愛音はキッチンでコーヒーを淹れていた。 やがて航生がリビングへ戻ってくる。濃紺のスーツに袖を通し、鏡の前で襟元を整えていた。ソファの背にかけていたジャケットを手に取ったとき、胸ポケットから薄い紙が床へ落ちた。 紙は一度だけ裏返り、フローリングの上を滑った。 愛音はカップを置いた。「落ちたよ」 航生が振り返る。「ん?」「これ」 愛音はしゃがみ、紙を拾った。指先に伝わる感触は薄いコピー用紙とは少し違っていた。銀行の明細だった。 そのまま渡そうとして、視線が一行に止まる。 振込先。 梨本恵実。 愛音の指が紙の端を押さえた。 その下に金額がある。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 桁を追う。 一、十、百、千。その先まで目を動かしてから、もう一度同じ数字を見た。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 紙
Last Updated : 2026-09-17 Read more