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5話

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-07-23 17:15:17

 朝、リビングでネクタイを締める航生の機嫌は、朝から悪かった。

「おい、このシャツ皺になってるだろう。今日は大事な日だってわかってるのか」

「すみません、すぐにアイロンを」

「もういい、時間がない。……本当にお前は何をやらせても半端だな」

 愛音は俯いたまま、皺の寄ったシャツを引き取る。言い返す言葉はとうに用意していない。

「今夜は遅くなる。パーティーだ。お前は呼ばれてすらいないから、大人しく家にいてくれ」

 航生は鞄を掴み、玄関へ向かう。ドアが閉まる音を聞きながら、愛音は皺の寄ったシャツを手に、ただ立ち尽くしていた。

 航生たちを乗せた車が見えなくなってから、愛音は静かに玄関の鍵を閉めた。

 誰も呼ばれていない夜。テーブルの上には、一人分の夕食だけが残っている。

 隆二の病室に、少しでも長く付き添おう。愛音は食事を済ませて片づけるとコートを羽織り、静かに家を出た。

 会場は、去年よりも一段と華やかだった。

「わあ……本当にすごい会場ね」

 貴子は新調したドレスの裾を気にしながら、周囲を見回す。真新しいアクセサリーが、灯りを受けてやけに光っていた。

「今日は顔を売る絶好の機会だ。しっかり回るぞ」

 陽太が言うと、航生も頷いた。

「ああ。今日は特に、大口の関係者が多いらしいからな」

 三人は談笑しながら会場の奥へと進んでいく。航生の顔には、いつもの家での不機嫌さは欠片も残っていなかった。

 開宴の挨拶が始まり、司会がマイクを通して名を読み上げていく。

「そして今年、医療チームTinker Bell様には、主席研究員ご本人のご出席は叶いませんでしたが代理の担当者であります、遠野紗英とおの さえ様にお越しいただいております」

 会場の視線が一斉に、壇の脇へと集まった。落ち着いた佇まいの女性が、小さく一礼する。

「本当に代理だけなのか。姿すら見せない相手と、うちが組めるのかね」

 近くの男が呟くのが聞こえる。航生もその視線を追いながら、興味深そうに紗英を見つめていた。

「それと、今年からご協賛いただくことになりました、八尋グループの八尋創一郎様です」

 拍手がひときわ大きくなる。長身の男が壇上近くで軽く頭を下げた。整った所作の中に、隙のない鋭さが滲んでいる。

「あれが噂の……」

 周囲がざわめく。航生はグラスを手にしたまま、その男を値踏みするように眺めていた。

 名刺交換の輪を渡り歩くうち、航生は一人の年配の男に声をかけられた。

「朝桐さん、でしたね。今夜は奥様はご一緒じゃないんですか」

 航生は笑みを浮かべ、迷いなく答える。

「ああ、うちのは今日、都合が悪くて。……最近は仕事でも忙しくしていて、なかなかこういう場に連れて来られないんですよ。まあ、それも彼女らしいというか」

「へえ、お仕事を? しっかりされた方なんですね」

「ええ。誰よりも聡明な人ですから」

 航生の口ぶりには、隠しきれない親密さがあった。すぐ近くで挨拶を交わしていた紗英が、ふとその会話に耳を止める。

(誰よりも聡明……?)

 紗英の脳裏に浮かんだのは、家の中で家事だけをこなしていると聞かされている、あの人の姿だった。違和感が、喉の奥に小さく引っかかる。

「奥様、お名前は?」

「恵実です」

 その名を聞いた瞬間、紗英の表情がわずかに強張った。隣で名刺を受け取っていた創一郎も、視線だけをこちらへ向ける。

 二人は顔を見合わせることこそしなかったが、空気が一瞬、冷たく張り詰めた。

 航生は気づかぬまま、上機嫌に話を続けている。

 しばらくして、航生は人の輪から離れた創一郎に近づいた。名刺を差し出しながら、営業用の笑みを浮かべる。

「八尋さん、お噂はかねがね。朝桐です。医薬品と医療機器の開発の会社をやらせていただいてます」

「ご丁寧にどうも」

 創一郎は名刺を受け取ったが、それ以上の言葉を継がなかった。航生はその素っ気なさに構わず続ける。

「実は御社とは、いずれ何か一緒にできればと思っていまして。うちも今、大きな案件を進めている最中なんです」

「そうですか」

 創一郎の声には、抑揚がほとんどなかった。ただその目だけが、航生を静かに見定めている。

「何か気になることでも?」

 航生が笑いながら尋ねると、創一郎はわずかに口の端を上げた。

「いえ。……先ほどの、奥様の話が少し気になっただけです」

「ああ、うちのですか。まあ、あれはただの――」

「いえ、結構です」

 創一郎は名刺を胸元にしまいながら、静かに言葉を継いだ。

「今日はお会いできて良かった。それでは、また」

 一礼して立ち去る創一郎の背中を、航生はしばらく目で追っていた。何か引っかかるものを感じながらも、それが何なのか、航生自身にもわからなかった。

 航生が名刺交換に忙しくしている間、貴子は創一郎の姿を見つけて頬を紅潮させた。

「あの、八尋様ですよね? わたし、製薬会社で研究をしている朝桐と申します。もしよろしければ、今度お食事でも――名刺、たくさんお持ちですし、お一枚くらい大丈夫ですよね?」

 距離を詰めながら差し出された名刺を、創一郎は形式的に受け取る。

「ありがとうございます」

「わたし、こういう場所は初めてで。でも八尋様みたいな方とお近づきになれるなら、頑張った甲斐がありました」

 甲高い笑い声が響く。周囲の視線がちらりと集まるのも構わず、貴子はさらに距離を詰めようとする。創一郎は静かに一歩引き、それ以上の言葉を返さなかった。

 パーティーが終わり、会場を出たところで、紗英と創一郎は自然と並んで歩いていた。

「……あの、"恵実"って人、聞いてました?」

「ああ」

「あの人が言ってた"聡明な人"って、絶対違う人のことだと思うんですけど」

 紗英は小さくため息をついた。創一郎は夜空を見上げ、それきり何も言わなかった。

 その頃、愛音は病室の隅の丸椅子に座り、隆二の点滴の落ちる音に耳を澄ませていた。窓の外はとうに暗く、病棟の廊下も静まり返っている。

 さっき看護師が体温を測りに来たばかりで、隆二はようやく浅い眠りに入ったところだった。規則正しい呼吸の音だけが、静かな病室に満ちている。

 面会時間の終わりを告げるアナウンスが、廊下の向こうでかすかに響いた。愛音は膝の上に置いていたスマホをそっと鞄にしまい、椅子から立ち上がる。

 隆二の布団の乱れを直し、枕元の水差しの位置を整えてから、愛音は静かに病室を出た。誰もいない家に戻る足取りは、来た時とさほど変わらなかった。

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