Masuk早朝、凌生会総合病院のICUの前に二人の男が立っていた。
一人は背が高く、黒髪をオールバックにして鋭い視線でICUの扉を見つめていた。 「容体はどうだ」 男が後ろで控えている眼鏡をかけたもう一人に尋ねた。その男は眼鏡を指で押し上げて、バインダーを開いた。 「非常に良くない状況です。家族が手術代を払えない状態でして」 「彼は大切な存在だ。あの計画にも影響を与えかねない」 「然し我々が直接立て替えれば、外部に気取られる可能性があります」 「ならば」 長身の男が振り返って眼鏡の男を見つめた。 「過去に世話になった者からという名目で、匿名の寄付ということにしろ。早急に直接病院に払え。そうすればあの計画に影響されることはない。対応してくれ。くれぐれも気取られないように」 「かしこまりました」 眼鏡の男が一礼して、廊下を歩き出す。一人残された長身の男は再びICUの扉を見た。 「今は苦労をさせるかもしれない。……然し、必ず」 鋭い瞳がさらに翳りを帯びる。その日の昼、いつもより丁寧に掃除をした。花の入れ替えもした。貴子からの嫌味なメッセージが今日はなかった。それだけでも愛音にとっては気が楽だった。
そして昼前に病院に向かおうとした時、スマホが鳴った。相手は"凌生会総合病院"。 愛音の心臓が跳ね上がる。震える手で通話ボタンを押した。 「西条さんですか、凌生会総合病院ですが」 「あの、父に何か」 「手術が出来るようになりました。過去に西条隆二さまにお世話になったという、匿名の方からの御寄付がありました」 「本当ですか!?」 愛音は大きな声を出した。 「はい。ですので早速今日の午後からでも手術を開始します。おそらく手術は日を跨ぐことになるかと思いますので、明日以降病院に来て頂ければご説明できると思います」 「父は、父は…… 助かるんですね!」 「はい。今からなら十分です」 「ありがとうございます…… お願いします」 電話を切って、愛音はスマホを胸に押し当てる。 (良かった。でも誰が出してくれたんだろう) 匿名だというのだから、名乗り出るつもりはないのだろう。少なくとも朝桐の家の者ではない。彼らは愛音の養父のことなんて他人以下だと思っているのだから。 (父さんが若い頃に助けた方々の誰かかしら) そう考えておもわず微笑んだ。困った人には誰であろうと手を差し伸べる。それが愛音が大好きな西条隆二という男だった。 (何かのきっかけでお会いすることがあれば、是非お礼をしたい) 愛音は強く思うと、目を閉じた。 頭の良い、都合の良い女。 今はそれでいい。 養父の命、そして養父の願い。それさえ叶える事ができるのならば。 私は航生の都合のいい家政婦にでもなんでもなってやる。 愛音はリビングから一枚の紙をとりだした。 "婚前契約書"。 その一文を、愛音は改めて確認した。 『不貞など婚姻関係を破綻させた有責配偶者は、財産分与を放棄すること』 愛音は笑みを浮かべ、契約書を引き出しに戻すとスマホを取り出してある番号にかけた。 「もしもし? 私です。問題は解決しました。今日から合流します」朝、リビングでネクタイを締める航生の機嫌は、朝から悪かった。「おい、このシャツ皺になってるだろう。今日は大事な日だってわかってるのか」「すみません、すぐにアイロンを」「もういい、時間がない。……本当にお前は何をやらせても半端だな」 愛音は俯いたまま、皺の寄ったシャツを引き取る。言い返す言葉はとうに用意していない。「今夜は遅くなる。パーティーだ。お前は呼ばれてすらいないから、大人しく家にいてくれ」 航生は鞄を掴み、玄関へ向かう。ドアが閉まる音を聞きながら、愛音は皺の寄ったシャツを手に、ただ立ち尽くしていた。 航生たちを乗せた車が見えなくなってから、愛音は静かに玄関の鍵を閉めた。 誰も呼ばれていない夜。テーブルの上には、一人分の夕食だけが残っている。 隆二の病室に、少しでも長く付き添おう。愛音は食事を済ませて片づけるとコートを羽織り、静かに家を出た。 会場は、去年よりも一段と華やかだった。「わあ……本当にすごい会場ね」 貴子は新調したドレスの裾を気にしながら、周囲を見回す。真新しいアクセサリーが、灯りを受けてやけに光っていた。「今日は顔を売る絶好の機会だ。しっかり回るぞ」 陽太が言うと、航生も頷いた。「ああ。今日は特に、大口の関係者が多いらしいからな」 三人は談笑しながら会場の奥へと進んでいく。航生の顔には、いつもの家での不機嫌さは欠片も残っていなかった。 開宴の挨拶が始まり、司会がマイクを通して名を読み上げていく。「そして今年、医療チームTinker Bell様には、主席研究員ご本人のご出席は叶いませんでしたが代理の担当者であります、遠野紗英様にお越しいただいております」 会場の視線が一斉に、壇の脇へと集まった。落ち着いた佇まいの女性が、小さく一礼する。「本当に代理だけなのか。姿すら見せない相手と、うちが組めるのかね」 近くの男が呟くのが聞こえる。航生もその視線を追いながら、興味深そうに紗英を見つめていた。「それと、今年からご協賛いただくことになりました、八尋グループの八尋創一郎様です」 拍手がひときわ大きくなる。長身の男が壇上近くで軽く頭を下げた。整った所作の中に、隙のない鋭さが滲んでいる。「あれが噂の……」 周囲がざわめく。航生はグラスを手にしたまま、その男を値踏みするように眺めていた。 名
洗濯物を畳んでいると、スマホが小さく震えた。 画面に浮かんだ表示名は「さっちゃん」。『愛音ちゃん、今度の試食会、思ったより大ごとになりそう。極上の鯛もあるみたいよ』 愛音は畳みかけのシャツを膝に置き、指を滑らせた。『へえ、豪華ね。仕込みはこっちで見ておくから、いつも通りお願い』『了解。隠し味は控えめにいくね』『うん、それでいい』 やり取りはものの数十秒で終わる。画面を閉じ、愛音は再びシャツに手を伸ばした。「誰だ、それ」 ソファで新聞を広げていた航生が、顔も上げずに尋ねた。「さっちゃん。お料理サークルの友達。相談に乗ってた」「暇な連中だな。井戸端会議でもしてろ」 鼻を鳴らし、航生は新聞をめくる。愛音がその横顔を一瞥してから、また畳みかけのシャツに視線を落とした。反論する気力も、もう残っていない。「それより、今日はアイロン忘れるなよ。昨日みたいなことになったら困る」「はい」 短く答え、愛音は洗濯かごを抱えて立ち上がった。リビングを出る背中に、航生の視線は追ってこなかった。 その日の午後、愛音は隆二の病室で洗濯物を受け取っていた。「航生さんは?」 隆二が尋ねると、愛音は曖昧に微笑んだ。「お仕事で忙しいみたい。今日は義弟さんたちとランチだって」「そうか……お前は、ちゃんと食べてるのか」「うん、大丈夫」 隆二の心配そうな顔に、愛音は何も言えなくなる。この人にだけは、心配をかけたくなかった。 緑地会鳳凰総合病院。「お疲れ様兄さん。新しい医療器具のカタログ、院長が褒めていたよ。導入を前向きに検討したいって言っていた」 朝桐陽太が肩を並べて歩いている兄の航生に肩を置いて笑っている。「それは光栄だな。老舗のメーカーを差し置いて新興のうちなんかがと思うけれど」「お疲れ様を言うなら、アイデアをくれた貴子さんだろ」「それはそうだけど、形にしたのは兄さんだろ。そうだ、これからランチに行かないか。近くのいい店で、貴子と待ち合わせているんだ。ああ、"奥さん"も呼んだ方がいいかな」「それはいいな。連絡してみる」 航生はスマホを取って、連絡先を開いた。 鳳凰総合病院から車で5分のイタリアンレストラン。陽太と航生が駐車場に車を止めて店内に入ると、先に席について待っていた貴子が手を振っていた。「あなた。わぁ、お義兄さんも一緒なのね」
早朝、凌生会総合病院のICUの前に二人の男が立っていた。 一人は背が高く、黒髪をオールバックにして鋭い視線でICUの扉を見つめていた。「容体はどうだ」 男が後ろで控えている眼鏡をかけたもう一人に尋ねた。その男は眼鏡を指で押し上げて、バインダーを開いた。「非常に良くない状況です。家族が手術代を払えない状態でして」「彼は大切な存在だ。あの計画にも影響を与えかねない」「然し我々が直接立て替えれば、外部に気取られる可能性があります」「ならば」 長身の男が振り返って眼鏡の男を見つめた。「過去に世話になった者からという名目で、匿名の寄付ということにしろ。早急に直接病院に払え。そうすればあの計画に影響されることはない。対応してくれ。くれぐれも気取られないように」「かしこまりました」 眼鏡の男が一礼して、廊下を歩き出す。一人残された長身の男は再びICUの扉を見た。「今は苦労をさせるかもしれない。……然し、必ず」 鋭い瞳がさらに翳りを帯びる。八尋創一郎は一礼して、その場を立ち去った。 同じ時間、朝桐家では愛音がいつものように台所に立っていた。 眠れずに疲れは取れていない。家事は待ってくれない。 今は航生を怒らせてはいけない。彼の機嫌を損ねてしまっては、養父の病院にすら行くことを許されないだろう。 愛音は慎重に、今まで言われたことを書いたメモを開いて朝食を作った。「ほう。今日はちょっとはマシになったようだな」 起きてきた航生は"おはよう"はなかったが、食卓の料理を見て少し機嫌を良くしたようだ。「毎日手抜きをせずに従順にすれば、貴子さんも毎朝手間をかけることはなかったんだ。少しは学習するんだな」「はい……」(手抜きなんてしてない。あなたは自分の気分で言ってるだけ) 航生は食事を始めた。愛音は自分の食事は取らず、すぐに洗面所に向かった。「なんだ、食事は取らないのか」「私の食事より洗濯が先だと思って」「ふん。それでいい」 さらに上機嫌になった航生はぺらぺらと喋り出した。「いいか、これはお前のためを思ってのことだ。貴子さんからお前が以前勤めていた会社での動きを聞いている。家でも会社でも愚図なお前に復職なんて無理だ。だから俺が専業主婦として家に置いてやってるんだ。これはお前が社会で恥をかかないようにする、俺の思
病院の廊下は消毒液の匂いが強く、足を踏み入れるだけで胸の奥が締めつけられた。案内された診察室のドアを開けると、白衣の医師が椅子を回してこちらを向く。「西条隆二さんのご家族の方ですね」 愛音は頷き、椅子に腰を下ろす前に立ったまま尋ねた。「父の容態は……」 医師はカルテを机の上に置き、指先でページをめくった。「心臓の血管が複数、詰まりかけています。放置すれば数日以内に危険な状態になります。開胸での手術が必要です」 頭の中で何かが崩れる音がした。数日という言葉が、愛音の喉を締めつける。「手術は……できるんですよね」「できます。ただ」 医師が口ごもり、モニターに数字を打ち込む。表示された金額を見て、愛音は瞬きを繰り返した。桁を数え直す。「これは……」「高度な処置になりますので。前払いでのご用意をお願いしています」 愛音は膝の上で拳を握った。頭の中で、独身時代からこつこつ貯めてきた口座の残高を思い浮かべる。差し引いても五十万円足りない。研究職として得ている収入のほとんどは、この家の誰も知らない場所へ流れていた。「わかりました。すぐに用意します」 声に力を入れて答えたが、部屋を出た瞬間、廊下の壁に手をついていた。 五十万円。誰かに借りるあてなど、この人生に一人しかいない。 タクシーの中でも、自宅の玄関を開けた後も、愛音は同じ言葉を繰り返し呑み込んでいた。お願いします、貸してください。何百回練習しても、航生の顔を思い浮かべるだけで喉が固くなる。 リビングに入ると、床に朝の水滴とガラスの破片が散らばったままだった。コップを落とした時のことなど、頭からすっかり抜け落ちていた。愛音はしゃがみ込み、破片を一つずつ拾い集める。指先に細かい傷ができても、痛みを感じる余裕はなかった。 玄関の鍵が回る音がしたのは、破片をちりとりに集め終えた頃だった。「何をしているんだ」 航生はネクタイを緩めながら靴を脱ぎ捨て、床に膝をつく愛音を一瞥する。ただいまの一言もなく、罵る言葉だけが先に飛んでくる。いつものことだった。だが今日ばかりは、その冷たさに構っている暇がない。 愛音はちりとりを置き、顔を上げた。「お願いします。五十万を貸してください。養父が危険な状態で」 航生は靴下のまま数歩進み、ソファに鞄を放り投げた。振り返った顔には、笑いとも呆れともつかない歪
西条愛音が目を覚ますのは、いつも空が白みきる前だった。 台所の灯りをつけ、出汁の匂いが立ちのぼる頃に、二階から足音が降りてくる。朝桐航生は寝癖もそのままに椅子を引き、湯気の立つ味噌汁の椀を覗き込んだ。箸の先で豆腐をつつき、そのまま止まる。「なんだ、この手抜きの食事は。こんな乞食のようなものを俺に食わせると?」 愛音は俯いたまま、菜箸を持つ手を止めた。答える言葉はとうに用意していない。何を言っても無駄だと、結婚して三年でとっくに学んでいる。 航生はテーブルの上のスマホを引き寄せ、画面をつけたまま口の端だけで笑った。「もういい。貴子さんのところで食べて来る。あちらの方が食事はうまいからな。愛音も貴子さんを見習ったらどうだ?」 スーツの上着を掴み、玄関へ向かう背中に、愛音は小さく頭を下げる。返事の代わりに。 ドアの閉まる音がして、家の中の空気が一段軽くなる。愛音はしばらく味噌汁の鍋を見つめたまま動かなかった。湯気だけが立ちのぼり、やがて薄くなって消える。 テーブルに残されたスマホが、航生のものと勘違いしたのか短く震えた。愛音の手元にある自分のスマホだった。画面に浮かんだ名前は、貴子。『愛音さん、あなた主婦としても無能なのね。私優しいから航生さん好みの食事を送ってあげるわ。お義父様とお義母様が多忙で無関心だからって手抜きはしないことね』 文面を二度読み、愛音は画面を伏せた。言い返す気力もない。ただ、指先が少し冷たくなっている気がした。 立ち上がり、味噌汁を流しに空ける。豆腐が排水口に沈んでいくのを見届けてから、掃除機のコードを引っ張り出した。 リビングの隅から順に掃除機をかけていく。航生の脱ぎ捨てたシャツを拾い、洗濯機に放り込む。カーテンを開け、朝の光を入れる。手を動かしている間だけは、何も考えずに済む。 この家には味方がいない。航生の両親は息子には甘く、愛音には最初から関心がなかった。義弟の陽太は顔を合わせるたびに、兄さんの奥さんは家にいるだけでいいよなと軽口を叩き、その妻の貴子は今のようなメッセージを事あるごとに送りつけてくる。 唯一、愛音の心が緩む時間があるとすれば、それは養父とのやりとりだった。 西条隆二。血の繋がりはなくとも、愛音を育て、大学まで行かせてく







