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つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています
つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています
作者: 団紡るう

1話

作者: 団紡るう
last update 公開日: 2026-07-18 18:45:27

 西条愛音さいじょう あいねが目を覚ますのは、いつも空が白みきる前だった。

 台所の灯りをつけ、出汁の匂いが立ちのぼる頃に、二階から足音が降りてくる。朝桐航生あさぎり こうきは寝癖もそのままに椅子を引き、湯気の立つ味噌汁の椀を覗き込んだ。箸の先で豆腐をつつき、そのまま止まる。

「なんだ、この手抜きの食事は。こんな乞食のようなものを俺に食わせると?」

 愛音は俯いたまま、菜箸を持つ手を止めた。答える言葉はとうに用意していない。何を言っても無駄だと、結婚して三年でとっくに学んでいる。

 航生はテーブルの上のスマホを引き寄せ、画面をつけたまま口の端だけで笑った。

「もういい。貴子さんのところで食べて来る。あちらの方が食事はうまいからな。愛音も貴子さんを見習ったらどうだ?」

 スーツの上着を掴み、玄関へ向かう背中に、愛音は小さく頭を下げる。返事の代わりに。

 ドアの閉まる音がして、家の中の空気が一段軽くなる。愛音はしばらく味噌汁の鍋を見つめたまま動かなかった。湯気だけが立ちのぼり、やがて薄くなって消える。

 テーブルに残されたスマホが、航生のものと勘違いしたのか短く震えた。愛音の手元にある自分のスマホだった。画面に浮かんだ名前は、貴子。

『愛音さん、あなた主婦としても無能なのね。私優しいから航生さん好みの食事を送ってあげるわ。お義父様とお義母様が多忙で無関心だからって手抜きはしないことね』

 文面を二度読み、愛音は画面を伏せた。言い返す気力もない。ただ、指先が少し冷たくなっている気がした。

 立ち上がり、味噌汁を流しに空ける。豆腐が排水口に沈んでいくのを見届けてから、掃除機のコードを引っ張り出した。

 リビングの隅から順に掃除機をかけていく。航生の脱ぎ捨てたシャツを拾い、洗濯機に放り込む。カーテンを開け、朝の光を入れる。手を動かしている間だけは、何も考えずに済む。

 この家には味方がいない。航生の両親は息子には甘く、愛音には最初から関心がなかった。義弟の陽太は顔を合わせるたびに、兄さんの奥さんは家にいるだけでいいよなと軽口を叩き、その妻の貴子は今のようなメッセージを事あるごとに送りつけてくる。

  唯一、愛音の心が緩む時間があるとすれば、それは養父とのやりとりだった。

 西条隆二さいじょう りゅうじ。血の繋がりはなくとも、愛音を育て、大学まで行かせてくれた人だ。何かにつけて連絡をよこす。今朝はまだ食べていないだろう、ちゃんと食えよ、というたわいのない一言が、愛音にとっては一日を支える柱になっていた。

 掃除の手を止め、スマホを確認する。通知はない。

 隆二からのメッセージは、たいてい朝の七時前には届く。時計を見ると、もう九時を回っている。

「どうしちゃったんだろ」

 呟いて、既読のつかないトーク画面をもう一度開く。昨日の夜、隆二から届いたのは、ただの絵文字ひとつだった。今日の血圧の数値と一緒に、元気だという合図のようなものを送ってくる。それが日課だった。

 何かの用事で忙しいのかもしれない。そう思い直し、愛音はもう一度掃除機を握った。廊下の隅、航生の書斎の前を通り過ぎる時、鍵のかかったドアに視線が触れる。あの部屋にだけは、愛音は足を踏み入れたことがない。

 掃除を終え、洗濯物を干し終える頃には、時計の針は十時を指していた。台所に戻り、水を一杯飲む。喉を通る水の冷たさだけが、今日という日の実感だった。

 スマホが鳴ったのは、その直後だった。

 液晶に浮かんだのは知らない番号。普段なら出ない類のものだが、指が勝手に画面をなぞっていた。「はい、西条です」

 電話越しの声は、抑えた早口だった。

「西条愛音さんですか? 西条隆二さんが危ない状況でして……すぐに病院に来ていただけますか」

 手にしていたコップが、指の間からすり抜けて床に落ちる。乾いた音が台所に響き、水滴が飛び散った。

 愛音は落ちたコップを拾うこともせず、玄関へと駆け出していた。

 玄関の三和土でパンプスに足を突っ込み、ストッキングが引っかかって伝線するのもかまわずに靴べらを放り投げる。鍵を掴む手が震え、一度で入らずに二度、三度とドアノブに引っかかった。

 外に出ると、七月の日差しが容赦なく肌を刺す。タクシーを拾おうと大通りまで走り、信号が赤に変わる寸前の交差点を渡りきった。息が切れ、喉の奥が焼けるように痛む。それでも足を止めなかった。

 空車のランプを見つけ、大きく手を上げる。乗り込んだ瞬間、行き先を告げる声がかすれた。

「凌生会りょうせいかい……総合病院まで、お願いします」

 運転手が頷き、車が動き出す。窓の外を流れていく景色を眺めながら、愛音はスマホを両手で握りしめた。画面には、隆二とのトーク履歴が表示されたままだ。昨夜の絵文字ひとつが、やけに小さく見える。           いつもの日課が途切れた朝。虫の知らせという言葉が頭をよぎり、慌てて振り払う。まだ何も決まっていない。危ないというだけで、最悪の事態と決まったわけではない。

 そう自分に言い聞かせても、指先の震えは止まらなかった。車が信号で止まるたび、もどかしさに唇を噛む。

 病院の看板が見えてきた時、愛音はすでにシートベルトを外し、ドアの取っ手に手をかけていた。

 スマホの画面には、まだ隆二とのトーク画面が表示されている。指先が滑り、うっかり別のトーク履歴を開いてしまった。航生との会話だった。スクロールする指が、一週間前のメッセージで止まる。

『お金のことは、もう少しだけ待っていて。』

 なんのことだったか、思い出せない。愛音は画面を閉じ、車を降りた。

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