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2話

Author: 団紡るう
last update publish date: 2026-07-21 07:19:48

 病院の廊下は消毒液の匂いが強く、足を踏み入れるだけで胸の奥が締めつけられた。案内された診察室のドアを開けると、白衣の医師が椅子を回してこちらを向く。

「西条隆二さんのご家族の方ですね」

 愛音は頷き、椅子に腰を下ろす前に立ったまま尋ねた。

「父の容態は……」

 医師はカルテを机の上に置き、指先でページをめくった。

「心臓の血管が複数、詰まりかけています。放置すれば数日以内に危険な状態になります。開胸での手術が必要です」

 頭の中で何かが崩れる音がした。数日という言葉が、愛音の喉を締めつける。

「手術は……できるんですよね」

「できます。ただ」

 医師が口ごもり、モニターに数字を打ち込む。表示された金額を見て、愛音は瞬きを繰り返した。桁を数え直す。

「これは……」

「高度な処置になりますので。前払いでのご用意をお願いしています」

 愛音は膝の上で拳を握った。頭の中で、独身時代からこつこつ貯めてきた口座の残高を思い浮かべる。差し引いても五十万円足りない。研究職として得ている収入のほとんどは、この家の誰も知らない場所へ流れていた。

「わかりました。すぐに用意します」

 声に力を入れて答えたが、部屋を出た瞬間、廊下の壁に手をついていた。

 五十万円。誰かに借りるあてなど、この人生に一人しかいない。

 タクシーの中でも、自宅の玄関を開けた後も、愛音は同じ言葉を繰り返し呑み込んでいた。お願いします、貸してください。何百回練習しても、航生の顔を思い浮かべるだけで喉が固くなる。

 リビングに入ると、床に朝の水滴とガラスの破片が散らばったままだった。コップを落とした時のことなど、頭からすっかり抜け落ちていた。愛音はしゃがみ込み、破片を一つずつ拾い集める。指先に細かい傷ができても、痛みを感じる余裕はなかった。

 玄関の鍵が回る音がしたのは、破片をちりとりに集め終えた頃だった。

「何をしているんだ」

 航生はネクタイを緩めながら靴を脱ぎ捨て、床に膝をつく愛音を一瞥する。ただいまの一言もなく、罵る言葉だけが先に飛んでくる。いつものことだった。だが今日ばかりは、その冷たさに構っている暇がない。

 愛音はちりとりを置き、顔を上げた。

「お願いします。五十万を貸してください。養父が危険な状態で」

 航生は靴下のまま数歩進み、ソファに鞄を放り投げた。振り返った顔には、笑いとも呆れともつかない歪みが浮かんでいる。

「はっ? 五十万? 俺がどういう状況か分かっているのか。起業して、やっと軌道に乗り始めた頃なんだ。今が一番投資が大切な時期にたかが五十万も惜しいことは、まぁ無能はお前には分からんだろうがな」

 航生は舌打ちをして、スマホの画面を睨んだ。

「......今、変なところに目をつけられたら終わりなんだよ」

 独り言のように零れた言葉に、愛音は反応できなかった。

 言葉の一つ一つが、耳の奥で反響する。父の命がかかっていると言っても、この人には届かない。そのことを、愛音は改めて思い知らされる。

 立ち上がりかけた愛音の手首を、航生がふと掴んだ。

「……悪い。言い過ぎた。お前が頑張ってるのは分かってる」

  一瞬だけ覗いた素の声に、愛音の中で何かが緩みかけた。

 ――こんなことで、絆されかけている。

 気づいた瞬間、自分自身に対する嫌悪が込み上げた。それでも、縋れるものがこれしかないことも分かっていた。

「……ごめんなさい」

 それ以外に返す言葉が見つからなかった。

「分かったら飯を頼む。腹が減っているんだ」

「はい」

 立ち上がり、キッチンへ向かう足取りは、自分のものではないみたいに重かった。冷蔵庫を開け、野菜を取り出す手が震える。包丁を握った瞬間、指先の傷がじんと痛んだ。

 まな板の上で葱を刻みながら、愛音は奥歯を噛みしめる。涙は出なかった。悲しみよりも先に、腹の底から何かが焼けるように立ち上がってくる。

 もし父に何かあれば。

 もしこの五十万を用意できなかったせいで、間に合わなかったら。

 その時は、この男を絶対に許さない。

 包丁の刃が、まな板を叩く音だけが台所に響いていた。リビングでは、航生がスマホを片手にソファに沈み込み、誰かとメッセージのやりとりをしているらしい。時折、口元が緩む。愛音には見せたことのない表情だった。

 誰に向けたものかは、考えたくもなかった。

 鍋に湯を沸かし、出汁を取る。手順は体に染みついているのに、今日は何度も手が止まる。父の点滴の管、心電図の音、医師の言った金額。頭の中を巡るそれらを振り払うように、愛音は葱を落とす手を早めた。

 一皿を仕上げ、テーブルに運ぶ。航生はスマホから顔も上げずに箸を取り、一口食べて眉を顰めた。「薄い」

 それだけ言って、また画面に視線を戻す。愛音は何も言わずに、自分の分の皿には手をつけなかった。今は食欲すら湧かない。

 愛音が黙って立ち尽くしていると、航生はふと箸を止め、こちらを見ずに付け加えた。

「……次はもう少し味濃いめでいい。好みくらい覚えてろよ」

 突き放すような言い方なのに、それは確かに「また作ってほしい」という意味でもあった。愛音はその歪んだ優しさに、小さく頷いた。

 夜になっても、頭にあるのは五十万円のことだけだった。誰かに借りるあて。銀行から借り入れる方法。研究所の同僚に頭を下げる案も浮かんでは消える。どれも現実的ではない。

 スマホを取り出し、隆二とのトーク画面をもう一度開く。昨夜の絵文字ひとつが、まだそこに残っている。返事をくれる人はもういない。

 愛音は画面を閉じ、暗い天井を見上げた。

 明日までに、なんとかしなければならない。

 夜が更けても、愛音は寝室のベッドに横たわったまま眠れずにいた。隣で寝息を立てる航生の背中を見つめる。この人と暮らし始めた頃、まだ何か希望を持てていた自分がいた。今はもう、その記憶さえ遠い。

 枕元のスマホを手に取り、口座の残高を何度も確認する。何度見ても数字は変わらない。独身時代の貯金をかき集めても、五十万円には届かなかった。

 夫婦共有で使っている口座に手をつけることも考えたが、すぐに首を振った。それだけは、隆二が最も嫌うことだ。あの人は、愛音が誇りを持って続けている仕事を、何よりも大切にしてくれた。

 ならばどうする。

 頭の中で答えの出ない問いを繰り返しながら、愛音は瞼を閉じた。眠りは、なかなか訪れなかった。

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