つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています

つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています

last updateLast Updated : 2026-11-03
By:  団紡るうUpdated just now
Language: Japanese
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西条愛音は起業家の夫・朝桐航生のもとで三年間、家事だけの妻を装って暮らす。実は国産抗がん剤の主席研究員という正体は誰にも明かしていない。養父の危篤時に頭を下げても金を貸さなかった航生が、想い人へ五千万円を送っていたと判明し、愛音は婚前契約書を盾に離婚を決意。義両親を味方につけ静かに準備を進め、正体公開とともに航生たちを追い詰めていく。復讐ではなく、愛音の価値を見誤った者たちが自ら崩れていく物語。

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Chapter 1

1話

 西条愛音さいじょう あいねが目を覚ますのは、いつも空が白みきる前だった。

 台所の灯りをつけ、出汁の匂いが立ちのぼる頃に、二階から足音が降りてくる。朝桐航生あさぎり こうきは寝癖もそのままに椅子を引き、湯気の立つ味噌汁の椀を覗き込んだ。箸の先で豆腐をつつき、そのまま止まる。

「なんだ、この手抜きの食事は。こんな乞食のようなものを俺に食わせると?」

 愛音は俯いたまま、菜箸を持つ手を止めた。答える言葉はとうに用意していない。何を言っても無駄だと、結婚して三年でとっくに学んでいる。

 航生はテーブルの上のスマホを引き寄せ、画面をつけたまま口の端だけで笑った。

「もういい。貴子さんのところで食べて来る。あちらの方が食事はうまいからな。愛音も貴子さんを見習ったらどうだ?」

 スーツの上着を掴み、玄関へ向かう背中に、愛音は小さく頭を下げる。返事の代わりに。

 ドアの閉まる音がして、家の中の空気が一段軽くなる。愛音はしばらく味噌汁の鍋を見つめたまま動かなかった。湯気だけが立ちのぼり、やがて薄くなって消える。

 テーブルに残されたスマホが、航生のものと勘違いしたのか短く震えた。愛音の手元にある自分のスマホだった。画面に浮かんだ名前は、貴子。

『愛音さん、あなた主婦としても無能なのね。私優しいから航生さん好みの食事を送ってあげるわ。お義父様とお義母様が多忙で無関心だからって手抜きはしないことね』

 文面を二度読み、愛音は画面を伏せた。言い返す気力もない。ただ、指先が少し冷たくなっている気がした。

 立ち上がり、味噌汁を流しに空ける。豆腐が排水口に沈んでいくのを見届けてから、掃除機のコードを引っ張り出した。

 リビングの隅から順に掃除機をかけていく。航生の脱ぎ捨てたシャツを拾い、洗濯機に放り込む。カーテンを開け、朝の光を入れる。手を動かしている間だけは、何も考えずに済む。

 この家には味方がいない。航生の両親は息子には甘く、愛音には最初から関心がなかった。義弟の陽太は顔を合わせるたびに、兄さんの奥さんは家にいるだけでいいよなと軽口を叩き、その妻の貴子は今のようなメッセージを事あるごとに送りつけてくる。

  唯一、愛音の心が緩む時間があるとすれば、それは養父とのやりとりだった。

 西条隆二さいじょう りゅうじ。血の繋がりはなくとも、愛音を育て、大学まで行かせてくれた人だ。何かにつけて連絡をよこす。今朝はまだ食べていないだろう、ちゃんと食えよ、というたわいのない一言が、愛音にとっては一日を支える柱になっていた。

 掃除の手を止め、スマホを確認する。通知はない。

 隆二からのメッセージは、たいてい朝の七時前には届く。時計を見ると、もう九時を回っている。

「どうしちゃったんだろ」

 呟いて、既読のつかないトーク画面をもう一度開く。昨日の夜、隆二から届いたのは、ただの絵文字ひとつだった。今日の血圧の数値と一緒に、元気だという合図のようなものを送ってくる。それが日課だった。

 何かの用事で忙しいのかもしれない。そう思い直し、愛音はもう一度掃除機を握った。廊下の隅、航生の書斎の前を通り過ぎる時、鍵のかかったドアに視線が触れる。あの部屋にだけは、愛音は足を踏み入れたことがない。

 掃除を終え、洗濯物を干し終える頃には、時計の針は十時を指していた。台所に戻り、水を一杯飲む。喉を通る水の冷たさだけが、今日という日の実感だった。

 スマホが鳴ったのは、その直後だった。

 液晶に浮かんだのは知らない番号。普段なら出ない類のものだが、指が勝手に画面をなぞっていた。「はい、西条です」

 電話越しの声は、抑えた早口だった。

「西条愛音さんですか? 西条隆二さんが危ない状況でして……すぐに病院に来ていただけますか」

 手にしていたコップが、指の間からすり抜けて床に落ちる。乾いた音が台所に響き、水滴が飛び散った。

 愛音は落ちたコップを拾うこともせず、玄関へと駆け出していた。

 玄関の三和土でパンプスに足を突っ込み、ストッキングが引っかかって伝線するのもかまわずに靴べらを放り投げる。鍵を掴む手が震え、一度で入らずに二度、三度とドアノブに引っかかった。

 外に出ると、七月の日差しが容赦なく肌を刺す。タクシーを拾おうと大通りまで走り、信号が赤に変わる寸前の交差点を渡りきった。息が切れ、喉の奥が焼けるように痛む。それでも足を止めなかった。

 空車のランプを見つけ、大きく手を上げる。乗り込んだ瞬間、行き先を告げる声がかすれた。

「凌生会りょうせいかい……総合病院まで、お願いします」

 運転手が頷き、車が動き出す。窓の外を流れていく景色を眺めながら、愛音はスマホを両手で握りしめた。画面には、隆二とのトーク履歴が表示されたままだ。昨夜の絵文字ひとつが、やけに小さく見える。           いつもの日課が途切れた朝。虫の知らせという言葉が頭をよぎり、慌てて振り払う。まだ何も決まっていない。危ないというだけで、最悪の事態と決まったわけではない。

 そう自分に言い聞かせても、指先の震えは止まらなかった。車が信号で止まるたび、もどかしさに唇を噛む。

 病院の看板が見えてきた時、愛音はすでにシートベルトを外し、ドアの取っ手に手をかけていた。

 スマホの画面には、まだ隆二とのトーク画面が表示されている。指先が滑り、うっかり別のトーク履歴を開いてしまった。航生との会話だった。スクロールする指が、一週間前のメッセージで止まる。

『お金のことは、もう少しだけ待っていて。』

 なんのことだったか、思い出せない。愛音は画面を閉じ、車を降りた。

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2話
 病院の廊下は消毒液の匂いが強く、足を踏み入れるだけで胸の奥が締めつけられた。案内された診察室のドアを開けると、白衣の医師が椅子を回してこちらを向く。「西条隆二さんのご家族の方ですね」 愛音は頷き、椅子に腰を下ろす前に立ったまま尋ねた。「父の容態は……」 医師はカルテを机の上に置き、指先でページをめくった。「心臓の血管が複数、詰まりかけています。放置すれば数日以内に危険な状態になります。開胸での手術が必要です」 頭の中で何かが崩れる音がした。数日という言葉が、愛音の喉を締めつける。「手術は……できるんですよね」「できます。ただ」 医師が口ごもり、モニターに数字を打ち込む。表示された金額を見て、愛音は瞬きを繰り返した。桁を数え直す。「これは……」「高度な処置になりますので。前払いでのご用意をお願いしています」 愛音は膝の上で拳を握った。頭の中で、独身時代からこつこつ貯めてきた口座の残高を思い浮かべる。差し引いても五十万円足りない。研究職として得ている収入のほとんどは、この家の誰も知らない場所へ流れていた。「わかりました。すぐに用意します」 声に力を入れて答えたが、部屋を出た瞬間、廊下の壁に手をついていた。 五十万円。誰かに借りるあてなど、この人生に一人しかいない。 タクシーの中でも、自宅の玄関を開けた後も、愛音は同じ言葉を繰り返し呑み込んでいた。お願いします、貸してください。何百回練習しても、航生の顔を思い浮かべるだけで喉が固くなる。 リビングに入ると、床に朝の水滴とガラスの破片が散らばったままだった。コップを落とした時のことなど、頭からすっかり抜け落ちていた。愛音はしゃがみ込み、破片を一つずつ拾い集める。指先に細かい傷ができても、痛みを感じる余裕はなかった。 玄関の鍵が回る音がしたのは、破片をちりとりに集め終えた頃だった。「何をしているんだ」 航生はネクタイを緩めながら靴を脱ぎ捨て、床に膝をつく愛音を一瞥する。ただいまの一言もなく、罵る言葉だけが先に飛んでくる。いつものことだった。だが今日ばかりは、その冷たさに構っている暇がない。 愛音はちりとりを置き、顔を上げた。「お願いします。五十万を貸してください。養父が危険な状態で」 航生は靴下のまま数歩進み、ソファに鞄を放り投げた。振り返った顔には、笑いとも呆れともつかない歪
last updateLast Updated : 2026-07-21
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3話
 早朝、凌生会総合病院のICUの前に二人の男が立っていた。 一人は背が高く、黒髪をオールバックにして鋭い視線でICUの扉を見つめていた。「容体はどうだ」 男が後ろで控えている眼鏡をかけたもう一人に尋ねた。その男は眼鏡を指で押し上げて、バインダーを開いた。「非常に良くない状況です。家族が手術代を払えない状態でして」「彼は大切な存在だ。あの計画にも影響を与えかねない」「然し我々が直接立て替えれば、外部に気取られる可能性があります」「ならば」 長身の男が振り返って眼鏡の男を見つめた。「過去に世話になった者からという名目で、匿名の寄付ということにしろ。早急に直接病院に払え。そうすればあの計画に影響されることはない。対応してくれ。くれぐれも気取られないように」「かしこまりました」 眼鏡の男が一礼して、廊下を歩き出す。一人残された長身の男は再びICUの扉を見た。「今は苦労をさせるかもしれない。……然し、必ず」 鋭い瞳がさらに翳りを帯びる。八尋創一郎は一礼して、その場を立ち去った。 同じ時間、朝桐家では愛音がいつものように台所に立っていた。 眠れずに疲れは取れていない。家事は待ってくれない。 今は航生を怒らせてはいけない。彼の機嫌を損ねてしまっては、養父の病院にすら行くことを許されないだろう。 愛音は慎重に、今まで言われたことを書いたメモを開いて朝食を作った。「ほう。今日はちょっとはマシになったようだな」 起きてきた航生は"おはよう"はなかったが、食卓の料理を見て少し機嫌を良くしたようだ。「毎日手抜きをせずに従順にすれば、貴子さんも毎朝手間をかけることはなかったんだ。少しは学習するんだな」「はい……」(手抜きなんてしてない。あなたは自分の気分で言ってるだけ) 航生は食事を始めた。愛音は自分の食事は取らず、すぐに洗面所に向かった。「なんだ、食事は取らないのか」「私の食事より洗濯が先だと思って」「ふん。それでいい」 さらに上機嫌になった航生はぺらぺらと喋り出した。「いいか、これはお前のためを思ってのことだ。貴子さんからお前が以前勤めていた会社での動きを聞いている。家でも会社でも愚図なお前に復職なんて無理だ。だから俺が専業主婦として家に置いてやってるんだ。これはお前が社会で恥をかかないようにする、俺の思
last updateLast Updated : 2026-07-21
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4話
 洗濯物を畳んでいると、スマホが小さく震えた。 画面に浮かんだ表示名は「さっちゃん」。『愛音ちゃん、今度の試食会、思ったより大ごとになりそう。極上の鯛もあるみたいよ』 愛音は畳みかけのシャツを膝に置き、指を滑らせた。『へえ、豪華ね。仕込みはこっちで見ておくから、いつも通りお願い』『了解。隠し味は控えめにいくね』『うん、それでいい』 やり取りはものの数十秒で終わる。画面を閉じ、愛音は再びシャツに手を伸ばした。「誰だ、それ」 ソファで新聞を広げていた航生が、顔も上げずに尋ねた。「さっちゃん。お料理サークルの友達。相談に乗ってた」「暇な連中だな。井戸端会議でもしてろ」 鼻を鳴らし、航生は新聞をめくる。愛音がその横顔を一瞥してから、また畳みかけのシャツに視線を落とした。反論する気力も、もう残っていない。「それより、今日はアイロン忘れるなよ。昨日みたいなことになったら困る」「はい」 短く答え、愛音は洗濯かごを抱えて立ち上がった。リビングを出る背中に、航生の視線は追ってこなかった。 その日の午後、愛音は隆二の病室で洗濯物を受け取っていた。「航生さんは?」 隆二が尋ねると、愛音は曖昧に微笑んだ。「お仕事で忙しいみたい。今日は義弟さんたちとランチだって」「そうか……お前は、ちゃんと食べてるのか」「うん、大丈夫」 隆二の心配そうな顔に、愛音は何も言えなくなる。この人にだけは、心配をかけたくなかった。 緑地会鳳凰総合病院。「お疲れ様兄さん。新しい医療器具のカタログ、院長が褒めていたよ。導入を前向きに検討したいって言っていた」 朝桐陽太が肩を並べて歩いている兄の航生に肩を置いて笑っている。「それは光栄だな。老舗のメーカーを差し置いて新興のうちなんかがと思うけれど」「お疲れ様を言うなら、アイデアをくれた貴子さんだろ」「それはそうだけど、形にしたのは兄さんだろ。そうだ、これからランチに行かないか。近くのいい店で、貴子と待ち合わせているんだ。ああ、"奥さん"も呼んだ方がいいかな」「それはいいな。連絡してみる」 航生はスマホを取って、連絡先を開いた。 鳳凰総合病院から車で5分のイタリアンレストラン。陽太と航生が駐車場に車を止めて店内に入ると、先に席について待っていた貴子が手を振っていた。「あなた。わぁ、お義兄さんも一緒なのね」 
last updateLast Updated : 2026-07-22
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5話
 朝、リビングでネクタイを締める航生の機嫌は、朝から悪かった。「おい、このシャツ皺になってるだろう。今日は大事な日だってわかってるのか」「すみません、すぐにアイロンを」「もういい、時間がない。……本当にお前は何をやらせても半端だな」 愛音は俯いたまま、皺の寄ったシャツを引き取る。言い返す言葉はとうに用意していない。「今夜は遅くなる。パーティーだ。お前は呼ばれてすらいないから、大人しく家にいてくれ」 航生は鞄を掴み、玄関へ向かう。ドアが閉まる音を聞きながら、愛音は皺の寄ったシャツを手に、ただ立ち尽くしていた。 航生たちを乗せた車が見えなくなってから、愛音は静かに玄関の鍵を閉めた。 誰も呼ばれていない夜。テーブルの上には、一人分の夕食だけが残っている。 隆二の病室に、少しでも長く付き添おう。愛音は食事を済ませて片づけるとコートを羽織り、静かに家を出た。 会場は、去年よりも一段と華やかだった。「わあ……本当にすごい会場ね」 貴子は新調したドレスの裾を気にしながら、周囲を見回す。真新しいアクセサリーが、灯りを受けてやけに光っていた。「今日は顔を売る絶好の機会だ。しっかり回るぞ」 陽太が言うと、航生も頷いた。「ああ。今日は特に、大口の関係者が多いらしいからな」 三人は談笑しながら会場の奥へと進んでいく。航生の顔には、いつもの家での不機嫌さは欠片も残っていなかった。 開宴の挨拶が始まり、司会がマイクを通して名を読み上げていく。「そして今年、医療チームTinker Bell様には、主席研究員ご本人のご出席は叶いませんでしたが代理の担当者であります、遠野紗英様にお越しいただいております」 会場の視線が一斉に、壇の脇へと集まった。落ち着いた佇まいの女性が、小さく一礼する。「本当に代理だけなのか。姿すら見せない相手と、うちが組めるのかね」 近くの男が呟くのが聞こえる。航生もその視線を追いながら、興味深そうに紗英を見つめていた。「それと、今年からご協賛いただくことになりました、八尋グループの八尋創一郎様です」 拍手がひときわ大きくなる。長身の男が壇上近くで軽く頭を下げた。整った所作の中に、隙のない鋭さが滲んでいる。「あれが噂の……」 周囲がざわめく。航生はグラスを手にしたまま、その男を値踏みするように眺めていた。 名
last updateLast Updated : 2026-07-23
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6話
 隆二の退院が決まった週末、愛音は空いていた部屋の押し入れを片づけていた。 退院後はしばらく西条家で過ごすことになる。病院から戻ってきた隆二が不自由なく暮らせるよう、使っていない部屋を整えておきたかった。 押し入れの奥には、長いあいだ手をつけていなかった箱がいくつも残っていた。 古い雑誌。使わなくなった鍋。季節外れの毛布。何が入っているのか確かめないまま積み重ねていた段ボール。  愛音はひとつずつ箱を開け、必要なものと不要なものを分けていった。  最後に残った箱を持ち上げる。  底に、薄い布張りの表紙が見えた。  愛音の手が止まった。  引き出してみると、埃がふわりと舞った。 表紙の隅には、小さく年号が押されている。  三年前。  愛音はそれを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。  足元には掃除機のコードが伸びている。窓の外では、荷物を積んだトラックがゆっくりと道路を通り過ぎていった。  エンジン音が遠ざかる。  愛音は表紙に指を置き、ゆっくり開いた。  乾いた紙の音がした。『四月十二日。今日、初めて二人で夕飯を作った。航生さんが玉ねぎを切るって言い出したから任せたら、涙が止まらなくなって笑っていた。私も途中から笑ってしまって、結局味噌汁が塩辛くなった。それでも二人で全部食べた。おいしい、って言ってくれた。塩辛かったのに』 愛音の指が紙の端に触れた。 次のページをめくる。『五月三日。休みの日、二人でホームセンターに行った。棚をひとつ買って、組み立てるのに二時間もかかった。説明書を読まずに始めた航生さんが悪い。私が読み上げると、素直にその通りにしてくれた。完成した
last updateLast Updated : 2026-09-16
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7話
 日記を引き出しにしまってから、三日が過ぎた。   愛音は夕食を終えたあと、ひとりでリビングの時計を見上げた。秒針が規則正しく動いている。何も変わらない時間の流れを確かめるように眺めてから、食器を片づけた。   その夜、眠る前に引き出しを開けた。   日記は、そこにある。   愛音はベッドの端に腰を下ろし、表紙を開いた。   前のページから少し進んだところに、入籍について書かれた記述があった。   航生さんとの結婚について、隆二さんは最後まで反対していた。   私には、どうしてそこまで反対するのか分からない。   航生さんのことを悪く思っているわけではない。少なくとも、私にはそう見えない   ただ、隆二さんには何か引っかかるものがあるらしい。   理由を聞いても、はっきりとは答えてくれなかった。   私が決めたことだから、最後には認めてくれた。   愛音はそこで一度、ページから目を離した。   三年前の自分が書いた「隆二さん」という文字を指先でなぞる。   航生との関係について、隆二は最後まで納得していなかった。   それでも愛音の意思を押し切ることはしなかった。   ページをめくる。   入籍については、航生さんは嫌がった。   仕事のこともあるし、周囲の目もあるから正式な形にしたほうがいい。でも、今すぐ名字を変える必要はない。   そんな話になって、結局この形になった。   事実婚。   少し変わった形だけれど、二人で決めたことだから問題はないと思う。   その少し後ろには、短い記述があった。   今日、婚前契約書を交わした。   こんなものを作るとは思わなかったけれど、お互いに必要なことを決めておいたほうがいいらしい。   愛音はそこでページを閉じかけた。   けれど、指を止めてもう一度開く。   その先には、別の日の日付があった。   今日は少し嬉しいことがあった。   航生さんから時計をもらった。   突然だったので驚いた。   こんなことをする人じゃなかったから、少し驚いた。   高価なものらしい。私には少しもったいない気がするけれど、航生さんが選んでくれたことは嬉しかった。   どうして急にこんなものをくれたのかは分から
last updateLast Updated : 2026-09-16
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8話
 隆二の退院から少し経ち、愛音は夕方に西条家へ電話を入れていた。電話の向こうで隆二が短く返事をする。食事は取れているらしい。明日は仕事の帰りに寄ると伝えて受話器を置くと、愛音は洗濯物を畳み始めた。  夕食の支度をしている途中で、廊下から足音が聞こえた。 「愛音」  振り返ると、航生が書斎の前に立っていた。 「何?」 「明日、来客がある。書斎にある段ボールをいくつか出しておいて」  航生はドアノブに手をかけたものの、開けることはなかった。 「どれを出せばいいの?」 「奥に積んであるやつ。古い資料が入ってる箱は残していい。見れば分かるだろ」  それだけ告げると、航生はスマートフォンを見ながら廊下を戻っていった。  愛音は菜箸を置き、火を弱めた。  書斎のドアを見る。  三年間、この部屋に入ったことはなかった。  夕食の片づけを終えてから、愛音は廊下へ出た。航生が自分で閉めたドアの前に立ち、しばらく手を伸ばさずにいたが、やがてノブを回した。  扉が開く。  最初に感じたのは、家の中とは違う匂いだった。  紙と木の匂いに、少し乾いた空気が混じっている。カーテンは半分ほど閉じられていて、日が落ちる前だというのに室内は薄暗い。机の上にはパソコンと数冊の本が並び、ペン立ての位置まで揃えられていた。  愛音は電気をつけた。  白い光が部屋の隅まで届く。壁際には背の高い棚があり、その前に段ボールが三つ積まれていた。  足元へ進むと、靴底が小さく鳴った。  愛音は一番手前の箱に手をかける。  持ち上げると、底が床を擦った。  段ボールの蓋を開ける。中には古い資料や封筒が入っていた。日付を確認してから、航生が残しておいてほしいと言ったものを横へ分ける。  二つ目の箱を動かしたとき、棚の下に薄い紙袋が見えた。  愛音はしゃがみ込んで手を伸ばした。  紙袋には見覚えのあるロゴが入っていた。  七話で見た時計の箱と同じブランドだった。  愛音の指が紙袋の縁で止まる。  袋の中には空になった小さな箱が入っていた。時計の箱より一回り大きい。蓋を開けると、内側に布張りの仕切りが残っている。  愛音は箱を裏返した。  底に貼られた小さなシールに、購入日と品番が印字されている。
last updateLast Updated : 2026-09-16
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9話
 翌朝、愛音はいつも通りに洗濯機を回した。昨夜見た書斎の扉が、朝の廊下にも同じ位置にある。閉じたままのドアへ一度だけ目を向け、それから洗濯物を籠へ移した。 朝食の準備をしていると、冷蔵庫の上に置いた布巾へ手が止まる。梨本恵実という名前が、ふと浮かんだ。 愛音は布巾を水で濡らし、固く絞った。食卓を拭き、皿を並べる。名前を思い出すだけなら、それ以上のことは起きない。そうするように、いつもの手順へ戻った。 航生が起きてくる頃には、味噌汁も焼いた魚も食卓に並んでいた。「今日、帰り遅くなるかもしれない」「分かった」 航生はスマートフォンを見ながら椅子に座った。愛音は味噌汁を置き、向かいの席へ腰を下ろす。 数日後、結婚記念日を迎えた。 朝から特別なことは何もなかった。航生はいつもの時間に起き、シャワーを浴びてから書斎へ入る。愛音はその間に食器を片づけ、洗面所のタオルを替えた。 玄関へ向かう足音が聞こえる。「愛音。ネクタイどこだっけ」「二段目の引き出し」 航生が寝室へ戻ってくる。クローゼットの扉が開く音がして、ハンガーの擦れる音が続いた。 愛音はキッチンでコーヒーを淹れていた。 やがて航生がリビングへ戻ってくる。濃紺のスーツに袖を通し、鏡の前で襟元を整えていた。ソファの背にかけていたジャケットを手に取ったとき、胸ポケットから薄い紙が床へ落ちた。 紙は一度だけ裏返り、フローリングの上を滑った。 愛音はカップを置いた。「落ちたよ」 航生が振り返る。「ん?」「これ」 愛音はしゃがみ、紙を拾った。指先に伝わる感触は薄いコピー用紙とは少し違っていた。銀行の明細だった。 そのまま渡そうとして、視線が一行に止まる。 振込先。 梨本恵実。 愛音の指が紙の端を押さえた。 その下に金額がある。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 桁を追う。 一、十、百、千。その先まで目を動かしてから、もう一度同じ数字を見た。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 紙
last updateLast Updated : 2026-09-17
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10話
 愛音は机の上に置いたファイルを開いた。紙の端が指先に触れる。少し黄ばんだ用紙には折り目が残っていたが、文字はまだ読みやすい。ファイルそのものも、長いあいだ棚の奥にしまわれていたせいか、表面に薄く埃がついていた。日記や時計と同じ場所に、同じだけの時間、置かれていたものだった。   表紙を開く前に、愛音は指先で角を一度だけなぞった。日記の表紙は薄い布張りで、めくるたびに乾いた音を立てた。時計は金属の重みを持ち、文字盤に細かな傷があった。契約書はそのどちらとも違う、硬く冷たい紙の感触だけを指先に返してくる。   最初のページをめくる。婚前契約書という文字が目に入った。その下に並ぶ日付を指でなぞり、愛音は一度手を止める。結婚する前、隆二はこの書類を見ていた。最後まで納得していなかったことだけは覚えている。何かを言われた気もする。けれど、その先は思い出さなかった。   ページをめくるたびに紙が乾いた音を立てた。愛音は机の端に置いていた振込明細を引き寄せる。梨本恵実。五千万円。名前と数字を確認してから、明細を契約書の横へ並べた。   該当する条項を探す。財産分与についての項目。その下には、婚姻関係が解消された場合の財産について細かく記されていた。さらにページをめくると、慰謝料請求権に関する条項がある。愛音はそこに貼られていた小さな付箋へ指を置いた。結婚する前、自分で貼ったものだった。当時は、こんな日が来るとは思っていなかった。それでも、念のためにと貼っておいた。   明細へ視線を戻す。五千万円という数字が紙の上にある。契約書の文字と並べて見ても、どちらも動かなかった。   愛音は明細を折り、ファイルの内側へ戻した。契約書も閉じる。表紙を手のひらで押さえたまま、しばらく動かなかった。   部屋の時計が、また一つ音を刻んだ。窓の外を、誰かの車が通り過ぎていく気配がした。   それから引き出しを開けた。中には古い通帳や印鑑ケースが並んでいる。その奥へファイルをしまおうとして、愛音は一度手を引いた。契約書の角が引き出しに触れ、乾いた音を立てる。結局、奥へ押し込むのではなく、すぐ取り出せる位置へ置いた。   翌朝も、台所にはいつもの音がしていた。炊飯器の蓋を開ける音。味噌汁を椀によそう音。椅子を引く音。愛音はいつもと同じ順番で朝食を並べる。 「今日は少し早いから」
last updateLast Updated : 2026-09-17
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