LOGIN西条愛音は起業家の夫・朝桐航生のもとで三年間、家事だけの妻を装って暮らす。実は国産抗がん剤の主席研究員という正体は誰にも明かしていない。養父の危篤時に頭を下げても金を貸さなかった航生が、想い人へ五千万円を送っていたと判明し、愛音は婚前契約書を盾に離婚を決意。義両親を味方につけ静かに準備を進め、正体公開とともに航生たちを追い詰めていく。復讐ではなく、愛音の価値を見誤った者たちが自ら崩れていく物語。
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ドアの閉まる音がして、家の中の空気が一段軽くなる。愛音はしばらく味噌汁の鍋を見つめたまま動かなかった。湯気だけが立ちのぼり、やがて薄くなって消える。
テーブルに残されたスマホが、航生のものと勘違いしたのか短く震えた。愛音の手元にある自分のスマホだった。画面に浮かんだ名前は、貴子。 『愛音さん、あなた主婦としても無能なのね。私優しいから航生さん好みの食事を送ってあげるわ。お義父様とお義母様が多忙で無関心だからって手抜きはしないことね』 文面を二度読み、愛音は画面を伏せた。言い返す気力もない。ただ、指先が少し冷たくなっている気がした。 立ち上がり、味噌汁を流しに空ける。豆腐が排水口に沈んでいくのを見届けてから、掃除機のコードを引っ張り出した。 リビングの隅から順に掃除機をかけていく。航生の脱ぎ捨てたシャツを拾い、洗濯機に放り込む。カーテンを開け、朝の光を入れる。手を動かしている間だけは、何も考えずに済む。 この家には味方がいない。航生の両親は息子には甘く、愛音には最初から関心がなかった。義弟の陽太は顔を合わせるたびに、兄さんの奥さんは家にいるだけでいいよなと軽口を叩き、その妻の貴子は今のようなメッセージを事あるごとに送りつけてくる。唯一、愛音の心が緩む時間があるとすれば、それは養父とのやりとりだった。
夕食の支度を終えた愛音が廊下を通りかかったとき、書斎の扉が少しだけ開いていることに気づいた。中から航生の声が聞こえる。仕事の電話なら珍しくもない。けれど、いつもより声が低く、語尾に妙な柔らかさが混じっていた。「分かってる。今は無理だって。あとで連絡するから」 愛音は足を止めた。扉の隙間から見えた航生は、机に片手をついてスマートフォンを耳に当てていた。パソコンの画面には何かの資料が開かれているが、視線はそちらに向いていない。返事を待つように黙ったあと、航生の口元が少し緩んだ。「そんなに気にしなくていい。ちゃんと考えてるから」 仕事相手に向ける声とは違う。愛音がそう感じたのは、航生と長く暮らしてきたからかもしれない。家で電話をするときの彼は、相手が誰であっても要件を先に済ませたがる。忙しさを理由に話を切り上げることも多い。それなのに今は、相手の言葉を待つ時間さえ惜しんでいないようだった。 航生がふと廊下のほうへ顔を向けた。愛音は反射的に手にしていたタオルへ目を落とし、歩き出す。足音を立てすぎないよう気をつけるつもりはなかったが、自然と歩幅が小さくなった。「じゃあ、また連絡する」 背後で通話が切れる音がした。続いて椅子の脚が床を擦る。愛音は振り返らず、洗面所へ向かった。タオルを棚にしまい、蛇口をひねる。水が流れる音の向こうで、書斎の扉が閉まった。 誰と話していたのか。確かめようと思えば、今なら何か聞けるかもしれない。けれど、何を尋ねるというのだろう。仕事の電話だったと答えられれば、それ以上は追及できない。愛音が見たのは、航生が誰かと親しげに話していたという事実だけだった。 手を拭きながら、愛音の頭に別の声が蘇った。 航生の退院ではなく、隆二が退院した日。愛音がその報告をしようと電話をかけたとき、受話口の向こうから聞こえた若い女性の声。 ――航生さぁん、まだぁ? あの甘えるような呼びかけを聞いた瞬間のことは、今でも覚えている。愛音はその場で何も尋ねず、通話を終えたあとに手帳へ書き留めた。声。女。若い。『航生さん』。短い記録だったが、聞き間違いではないと忘れないために残したものだった。 愛音は濡れた手をもう一度タオ
TinkerBellの作業室で、愛音は検証結果をまとめた資料を開いていた。画面には完了した項目と未確認の項目が並んでいる。前回の進捗確認で説明したとおり、遅れている工程を急いで終わらせるより、確実に確認を進める必要があった。とはいえ、使える時間が限られている現状では、すべてを同じ順番で進めるわけにもいかない。 愛音は作業予定の表を更新し、優先順位を見直した。検証の一部を先に進めれば次の判断に必要なデータが揃う。ただし、その場合は別の確認が後ろへずれる。どちらを選んでも影響は残るため、研究責任者として決めなければならなかった。 資料を整理していると、創一郎から連絡が入った。進捗について少し話したいという内容だった。愛音は画面に目を戻し、最新の数値を確認してから返信した。説明する内容は決まっている。問題は、その方針をどこまで認めてもらえるかではなく、自分の判断として筋道を立てて伝えられるかだった。 指定された時間にオンラインの打ち合わせが始まると、画面の向こうに創一郎の姿が映った。彼は手元の資料に目を通してから顔を上げた。「進捗表を確認しました。前回の報告から、検証はどこまで進みましたか」「予定していた確認のうち、こちらの項目は完了しています。残っているのは結果の照合と記録の整理です。現段階では研究の方向性を変更する必要はないと考えています」 愛音は共有画面を切り替え、完了した項目と未完了の項目を示した。数値の根拠と確認手順を順番に説明する。創一郎は途中で口を挟まず、要所で資料へ目を落としながら聞いていた。「今後の進め方については、どう考えていますか。こちらから希望を出すこともできますが、まずは愛音さんの意見を聞きたいです」 愛音は一瞬だけ指を止めた。 希望を聞かれたのだ。進捗を報告する場なのだから、質問そのものは不思議ではない。それでも、答えを急かされず、自分の考えを先に求められることに、わずかな戸惑いがあった。「私は、次の報告までに一次確認を終えることを優先したいです。その結果を見てから追加の検証が必要か判断したほうが、作業の重複を避けられます。記録の整理も並行して進めますが、確認の精度を落としてまで期限に合わせることは避けたいと考えていま
TinkerBellの会議室には、開発資料を映したモニターと、進捗表を印刷した紙が並んでいた。愛音は席に着くと、手元の資料を開き、日付と数値をもう一度確かめた。今朝までに更新した部分には付箋をつけてある。紗英が隣へ座り、パソコンを起動したところで、会議室の扉が開いた。 入ってきた女性を見て、紗英の指が一瞬止まった。以前の進捗確認で顔を合わせていた代理人ではない。女性は二人に軽く会釈し、向かい側の席へ資料を置いた。「初めまして。如月綾瀬と申します。本日から投資家側の窓口を担当します。よろしくお願いします」「研究責任者の西条愛音です。こちらはプロジェクト管理を担当している遠野紗英です。よろしくお願いいたします」 愛音は立ち上がり、落ち着いて頭を下げた。綾瀬も同じように会釈を返したが、表情からは歓迎なのか警戒なのか読み取れなかった。紗英が以前の担当者について何か尋ねかけたように見えたものの、すぐに口を閉じて資料へ目を落とす。代理人が交代した理由は、説明されなかった。 綾瀬は席に着くと、手元の資料を一枚めくった。「まず、以前の進捗について確認させてください。前回の報告では、予定していた工程に遅れが出ていました。特に以前の進捗報告で遅れが明らかになった時点について、理由を伺えますか」 愛音は指先を資料の端に添えた。以前の報告時点。記録に残っている数字と工程は、すぐに説明できる。けれど、その遅れが生まれた時間の内訳まで、仕事の資料に書かれているわけではなかった。「当初の計画に対して、実作業に充てられる時間を十分に確保できませんでした。そのため、検証と記録の整理が予定より後ろへずれています。確認が必要な工程を飛ばして帳尻を合わせることは避けたので、遅れが表面化しました」「作業時間を確保できなかったのは、研究上の問題ですか。それとも人員や環境の問題でしょうか」 綾瀬の声に責めるような響きはなかった。問いは簡潔で、答えを曖昧にすれば次の質問が来ることも分かった。愛音は資料の工程表を開き、該当する欄を示した。「研究上の問題だけではありません。私自身が作業に使える時間が予定を下回ったことが主な要因です。現時点で、実験手順や結果の再現性に問
自室で手帳を開いた愛音は、ページの余白にペンで丸を三つ書いた。二つ目の丸をなぞり、さらにその内側へ小さな丸を重ねる。横に貴子と書いたところでペン先が止まった。前日に紗英と話した内容を思い返し、愛音は手帳を閉じた。スマートフォンを取り、貴子の連絡先を開く。先日はお騒がせしました。お詫びに昼食をご馳走させてください。よろしければお仕事のお話も伺えたら嬉しいです。そう打って送信した。 返信を待つ間、愛音は洗濯物を取り込んで畳み、掃除機をかけた。窓を開けて空気を入れ替え、洗面所の鏡を拭く。洗濯かごを空にして、取り込んだタオルの端を揃えながら棚へ戻した。スマートフォンは棚の上に置いたままで、手に取るたびに時間を確かめることもしなかった。三時間ほど経った夕方、通知音が鳴った。画面には駅前のホテルのレストラン名と、しょうがないわね、という短い返事が表示されている。愛音は指定された店を確認し、返事を送ってからスマートフォンを伏せた。手帳をもう一度開き、貴子の名前の横に置いたペンを揃える。丸の外側には何も書き足さず、ページを閉じて引き出しへしまった。外出の支度を済ませ、鍵をかけたか、指先でもう一度確かめた。 ホテルのレストランに着くと、貴子は窓際の席に座っていた。バッグを隣の椅子に置き、メニューを開いている。愛音が近づくと、貴子は腕時計に目を落としてから顔を上げた。「お待たせしました。今日はありがとうございます」「忙しいのに、わざわざ来てあげたのよ」 愛音は向かいの席に座り、メニューを開いた。貴子はページをめくる手を止め、一番高いコースを指で示す。愛音も同じものを注文した。貴子がメニューを閉じるのを見届けてから、愛音は自分のメニューを揃えてテーブルの端へ置いた。「貴子さんの選ばれるものは、いつも間違いがないですね」 貴子は少し顎を上げ、バッグを椅子の背に掛け直した。前菜が運ばれてくると、愛音はナイフとフォークの位置を確かめるように手元を整えた。貴子がひと口食べてから、愛音も同じようにナイフを入れる。皿の上の料理を小さく切り分け、口に運んでからナプキンを膝に置き直した。「最近、ニュースを見ていて、製薬の業界って噂が早いんだなと思いました。航生さんも、朝に興奮していて」 貴