All Chapters of ゴミ箱の薔薇と、戦地での真実の愛: Chapter 1 - Chapter 10

20 Chapters

第1話

結婚5周年の記念日、涼川紬(すずかわ つむぎ)は島崎蒼介(しまざき そうすけ)の帰りを待っていたが、彼は現れなかった。ふとSNSを開くと、「蒼介と結衣、ずっと一緒に」というアカウントが投稿したショート動画が目に留まった。「この動画、おすすめ機能にのって、あの可哀想な奥さんに届けばいいのに。彼女の旦那さんが本当に愛してるのは私なんだから」投稿者の女は動画の中で、勝ち誇ったように言った。「私が『なんだか胸が苦しいみたい』って言っただけで、彼は奥さんを放り出して、夜中に車を飛ばして駆けつけてくれたの!しかも今日は、彼と奥さんの結婚5周年の記念日なんだって……あのオバサンが、彼にとってどれだけどうでもいい存在かよく分かるよね!」5周年。オバサン。その言葉が、鋭い刃のように紬の胸に突き刺さった。紬はかすかに震える指で、素早くコメント欄を開いた。アカウント名「不倫女は地獄へ落ちろ」のコメントがあった。【ここまで図々しい女は見たことない。まさか彼が本気で愛してるとでも思ってるの?既婚男なんてちょっとした火遊びのつもりでしょ。不倫相手に本気になるわけないじゃん!】「蒼介と結衣、ずっと一緒に」はすぐに反論した。【そう?あなたに何が分かるの?彼は外科医で、極度の潔癖症なのよ。でもこの前私が酔っ払って彼の服に吐いちゃった時、彼は嫌な顔ひとつせず、ずっと看病してくれたわ。これが愛じゃなくて何なの?家に帰って自分の旦那に聞いてみなよ、同じことができるかって。ただのひがみでしょ!】このやり取りを見て、紬は以前、仕事の付き合いで飲んで帰宅した夜のことを思い出した。蒼介は泥酔した自分を、冷たいフローリングの床に転がしたまま、一晩中放置したのだ。翌朝、目を覚ました紬が泣きながら理由を問いただすと、彼は平然とこう言い放った。「俺の服に吐かれたらどう責任取るつもりだ。知ってるだろ、俺は潔癖症なんだ」胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。彼女は悔しさを堪えきれず、コメントを書き込んだ。【他人の家庭を壊して、罪悪感はないの?】投稿者からすかさず返信が来た。【その奥さんを騙し続ける方が、よっぽど罪悪感あるわ。今日、彼がバラの束をプレゼントしてくれたの。奥さんのために予約していた花らしいけど、私が欲しいって
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第2話

紬はすべての手続きと手配を終え、体力の限界を迎えてソファで泥のように眠りについた。どれくらい眠っただろうか。玄関のドアが開くかすかな物音で目を覚ました。目を開けると、スーツ姿の蒼介がリビングに入ってくるのが見えた。彼は珍しく声のトーンを落とし、「悪かった、昨夜は急患が入って帰れなかった」と嘘をついた。そう言いながら、彼は買ってきた花束をテーブルに置いた。「ほら、お前が欲しがってた花だ」紬は受け取らなかった。それは、白い菊にカスミソウをあしらった、見すぼらしい花束だったからだ。彼女はゆっくりと身を起こし、かすれきった声で言った。「蒼介、白い菊とカスミソウの組み合わせなんて、お葬式の供花じゃない。私への嫌がらせのつもり?」蒼介は一瞬呆気に取られた。手元の花に目を落とし、不快そうに眉をひそめると、無造作に花束をゴミ箱へ投げ捨てた。「すまん、知らなかった。俺が選んだわけじゃないんだ……」紬はふっと乾いた笑いを漏らした。「瀬戸結衣が選んだんでしょ?」いつもは氷のように無機質な蒼介の瞳に微かな動揺が走り、完璧なエリートの仮面にひびが入った。「お前、どこまで知ってるんだ?」彼は身を乗り出し、切羽詰まった口調で弁明を始めた。「誤解するな、俺たちはやましい関係じゃない。一線は越えていない。結衣の元夫はDVの気があって、あいつは今、精神的にかなり参ってるんだ。うつ病に加えて、心臓病も抱えている。俺があいつを見捨てるわけにはいかないんだよ」紬は彼の目を真っ直ぐに見つめ、かすかに震える声で言った。「彼女を見捨てられないから、結婚記念日に私を見捨てたのね」蒼介の表情が一瞬にして硬く冷たくなり、彼は静かに、だが苛立たしげに言った。「結婚記念日は来年も再来年も来るが、命は一つしかないんだぞ」紬は彼の冷ややかな瞳と鋭い顎のラインを見つめ、急にひどい疲労感を覚えた。5年経っても、彼女はこの氷のような男の心を溶かすことはできず、彼の優しさを手に入れることもできなかったのだ。「もう二度と来ないわ」彼女は自嘲気味に笑った。「今後、私たちの結婚記念日はもう二度と来ない」蒼介の顔色がわずかに沈んだ。「どういう意味だ?」紬が答える間もなく、彼のスマートフォンがけたたましく鳴った。通話ボ
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第3話

紬が目を覚ますと、視界には病院の真っ白な天井が広がっていた。まだ頭がくらくらし、全身に力が入らない。看護師がドアを開けて入ってきて言った。「今、ご家族に連絡を取れますか?入院手続きと費用の支払いを済ませていただかないといけないのですが」都会で一人踏ん張ってきた彼女にとって、蒼介以外に頼れる人間はいなかった。そして今、その蒼介も一番頼りたい時には決してそばにいてくれない。深くため息をつき、彼女は点滴のスタンドを握った。「自分で手続きします」「救急車でお迎えに上がった時、立派なウェディングドレスの写真が見えましたよ」看護師が不思議そうに言った。「旦那さんがいらっしゃるんですよね?こんな時にどこに行かれたんですか?」紬は点滴スタンドを引きずりながら、弱り切った体で痛みを堪えて歩き出し、淡々と一言だけ返した。「死にました」彼女はすでに上司と話し合い、来月には紛争地帯へ特派員として赴任することが決まっていた。そうなれば、何千キロも離れた場所にいる蒼介は、彼女にとって死人も同然だった。会計窓口は1階のロビーにあり、紬は10分ほど列に並んだ。彼女は、周囲の多くの人間が自分を見て、ヒソヒソと囁き合っていることに気がついた。報道に関わる人間としての鋭い勘が、何か取り返しのつかないことが起きていると告げていた。スマートフォンを取り出して見ると、通知欄にはびっしりと未読メッセージが溜まっていた。両親、親友、そしてテレビ局の上司や同僚たちからだ。誰もが「ネットのニュース見たけど本当なの?」「昔、本当にあんなひどいことしたの?」と問い詰めてきていた。恐る恐るSNSのトレンドワードを開いた途端、頭から氷水を浴びせられたように、全身の血の気が引いた。#有名美人記者、過去の陰湿ないじめと略奪愛が発覚「匿名の同級生」と名乗るアカウントによる暴露投稿だった。内容は、紬が高校時代、後輩の結衣を主犯格として徹底的に孤立させ、いじめていたというもの。さらに、結衣が恋人の蒼介と付き合っていた際、何度も二人の間に割り込んで嫌がらせをし、最終的に破局へと追いやったと書かれていた。投稿の最後にはこう記されていた。【関係者によると、瀬戸さんは長期にわたる精神的ストレスから、重度のうつ病と診断されています。一方で、か
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第4話

スマートフォンが短く振動した。紬がうつむくと、画面に上司からの新着メッセージが表示されていた。【涼川君、局内で緊急会議を開いた。現在の世論の猛反発を鑑みて、君を前倒しで紛争地域へ派遣し、ほとぼりを冷まさせることに決まった。すぐに準備をしてくれ。1週間後に出発だ】自ら危険な特派員に志願するのは、本来ならば栄誉であり、局の将来を担う人材としての抜擢だったはずだ。しかし、この大炎上騒動を理由に「ほとぼりを冷ます」ために派遣されるとなれば、それは単なる厄介払いの左遷に過ぎない。これから先、彼女がカメラの前に立つことも、記名記事を書くこともないだろう。彼女のキャリアは、まだ続いているように見えて、すでに社会的な死刑宣告を下されたも同然だった。再びスマートフォンが振動した。「蒼介と結衣、ずっと一緒に」からダイレクトメッセージが届いた。【おばさん、トレンド見たでしょ。まだ私と同じ病院にいられるなんて、面の皮が厚いのね。私が一言お願いすれば、蒼介があんたを病室からつまみ出してくれるわよ。試してみる?】紬は突然、胃が激しく波打つのを感じ、強烈な吐き気が込み上げてきた。彼女は口を押さえて洗面所へ駆け込み、便器の前に膝をついてしばらくえずいたが、胃液しか吐き出すことはできなかった。壁に手をついて立ち上がろうとした瞬間、目の前が真っ暗になり、そのまま気を失った。再び目を覚ますと、後頭部が鈍器で殴られたようにひどく痛んだ。「ちょっと、あなたどういうつもりですか?」担当の看護師の口調には、明らかな呆れと不満が混じっていた。「妊娠しているのに、風邪をこじらせて、さらに低血糖で倒れるなんて。ご自分の体はどうでもいいかもしれないけど、お腹の赤ちゃんのことも少しは考えてあげてくださいよ」紬は呆然とした。長い時間を経て、ようやく声の出し方を思い出した。「私、妊娠しているんですか?」「ええ、もう6週目になりますよ。ご存知なかったんですか?」彼女は本当に知らなかった。紬は仰向けに寝転がり、下腹部にそっと手を当てた。頭の中がひどく混乱していた。弁護士に頼んだ離婚協議書はすでに作成されており、彼女自身も間もなくこの国を離れる。こんな最悪のタイミングで、妊娠したというのだ。蒼介と結婚したばかりの頃は、彼
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第5話

突然宿ったその命は、あっけなく消え去った。紬が救命救急室から運び出された時、蒼介は廊下に立っていた。彼の白衣には、まだ彼女の血がべったりと付着していた。彼は歩み寄り、彼女の手を握った。「紬、子どもはまた作れる。悲しまないでくれ」紬はひどく衰弱していたが、それでも固い意志を持って、彼の手のひらから自分の手を引き抜いた。うつろな瞳で天井を見つめながら、彼女は静かに言った。「もう二度と、私たちに子どもができることはないわ」蒼介は不快そうに眉をひそめた。「どういう意味だ?」彼女は身をよじり、薬指から結婚指輪を抜き取ると、力任せに彼の顔へ投げつけた。「蒼介、あなたとは離婚する!」「理由は何だ?流産したからか?それとも結衣のことか?」蒼介は深くため息をつき、その声には疲労と明らかな苛立ちが混じっていた。「何度も言ってるだろ、結衣はただの患者だ。俺はお前を別の女にすげ替える気なんて微塵もない。お前が大人しくしている限り、一生俺の妻の座は保証してやる」誰がこんな名ばかりの島崎の妻など続けるものか。紬は無理やり上半身を起こし、彼の目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。「蒼介、もう一度言うわ。私は離……」残念ながら言葉を言い終える前に、若い看護師が慌てふためいて駆け寄ってきた。「島崎先生!瀬戸さんが病室で手首を切りました!もう意識がありません!早く来てください!」蒼介は踵を返し、一目散に駆け出した。流産したばかりの妻は、彼によってあっさりと置き去りにされた。紬は彼の慌てふためく後ろ姿を見つめながら、ひたすらに虚しさを感じていた。彼女は思った。蒼介は、自分の心臓に深く突き刺さった1本の棘なのだ、と。そのままにしておけば、動くたびにずっと痛む。引き抜けば、血まみれになる。だが今、どうしても引き抜かなければならない時が来たのだ。たとえ死ぬほど痛もうとも。……翌朝早く、紬は患者衣から着替えた。弱り切った体を引きずり、結衣の病室で蒼介を見つけ出した。彼女が口を開く間もなく、1枚の紙が丸めて彼女の顔に投げつけられた。「紬、お前はいつからそんな血も涙もない女になったんだ!?」蒼介は彼女を見下ろし、その目にはかつてないほどの失望と怒りの色が満ちていた。紬は呆然とそのA
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第6話

その後数日間、蒼介は一度も家に帰ってこなかった。紬は5年間暮らしたあの家へ一人で戻り、荷造りを始めた。丹念に書き溜めていた結婚生活のアルバムや日記を、彼女は1枚1枚破り捨てた。二人の写真、映画の半券、心を込めて綴った日記の数々が、無残に引き裂かれ、ゴミ袋の中へ落ちていく。リビングに飾られていた大きなウェディングフォトを外し、床に叩きつける。ガラスが粉々に飛び散った。彼女はその破片の中から写真を引きずり出し、蒼介が写っている半分をハサミで無残に切り落とし、それもゴミ袋へ突っ込んだ。5年間の結婚生活が、たった数十分の作業でゴミと化した。なぜか、肩の荷が下りたような清々しさを感じていた。執着を手放すのは、案外一瞬の出来事なのだ。その間、蒼介から一度だけ電話があった。相変わらず感情の読めない冷淡な声だった。「ここ数日、手術が立て込んでいて帰れない。自分の体は自分で労れよ。落ち着いたら、お前の好きなものを買って帰る」紬は一言も発さず、そのまま通話を切った。彼が本当に残業しているのか、それとも結衣のそばにいるのか、もはやどうでもよかった。離婚協議書にはすでにサインをもらったし、自分も間もなくゼルディアへ発つ。これからは、赤の他人だ。出発の前日、紬は引き継ぎの手続きをするためテレビ局へ足を運んだ。エントランスに入った途端、ロビーのど真ん中に置かれた葬式用の花輪が目に飛び込んできた。そこには墨文字で、【涼川紬へ。いじめっ子は地獄へ落ちろ、泥棒猫は一生恨まれろ】と書かれていた。引き継ぎを終えてテレビ局を出ると、待ち構えていた週刊誌やネットニュースの記者たちに群がられ、マイクやカメラを容赦なく顔に突きつけられた。「涼川さん、ネットでは高校時代に後輩をいじめ、彼氏を奪ったと書かれていますが、事実ですか?」「ご主人が瀬戸さんを初恋の人だと公言しましたが、今の心境は?」「正義を振りかざすジャーナリストとして、ご自身の過去の行いを恥ずかしいと思いませんか?」「テレビ局はクビになったんですか?それとも自主退職ですか?」……紬は背筋をピンと伸ばし、カメラを真っ直ぐに見据えて冷静に答えた。「やっていないことは、やっていません。現在、事実無根を証明する証拠を整理しているところです。後日、必ず公表します」もちろん
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第7話

ネットにアップされたスライドを1枚1枚めくるたび、蒼介の心は少しずつ冷たい底へと沈んでいった。紬はやはり、業界の第一線で活躍するトップ記者だった。時系列、証拠の相関図、関係者の証言が、テーマごとに完璧に整理され、一切の反論を許さないほど論理的に構築されていた。彼女は自身が二人の仲を引き裂いた略奪女ではないことを証明しただけでなく、綿密な取材を通して、当時本当に陰湿ないじめを行っていたのが誰だったのかを白日の下に晒していた。【瀬戸結衣は、どんな女子生徒も島崎先輩に近づくことを許しませんでした。ある日、別のクラスの女子が先輩にスポーツドリンクを差し入れただけで、翌日彼女は瀬戸結衣に何度も平手打ちされ、トイレの水を飲まされていました】【バスケ部の試合で、私たちが島崎先輩を応援したんです。それを知った瀬戸結衣は、私たちを一人ずつ呼び出し、『他人の彼氏を誘惑する泥棒猫』と書かれた謝罪文を無理やり書かせました】【島崎先輩から『ちょっと通して』と声をかけられただけで、私のスクールバッグは彼女によって5階の窓から中庭へ投げ捨てられました】すべての証言には情報提供者たちの直筆サインが添えられており、顔を出して証言する動画まで添付されていた。蒼介は全く想像もしていなかった。自分の目の届かないところで、結衣がこれほどまでに残忍で、狡猾な本性を持っていたなどと。さらにスクロールしていくと、「蒼介と結衣、ずっと一緒に」というSNSアカウントのスクリーンショットが現れた。このアカウントは、既婚の男性医師を誘惑するような動画をいくつも投稿し、妻を露骨に嘲笑していた。さらに悪質なことに、裏で紬へ直接ダイレクトメッセージを送りつけ、執拗な嫌がらせを繰り返していたのだ。【涼川紬、あなたでしょ?何年も別室で寝ているくせに、自分の夫の寝顔を見たことある?彼は自分から私と一緒に寝たいって、せがんでくるのよ!】蒼介はそのメッセージの送信日時を見つめ、指先がガタガタと震え出した。覚えている。あの日は、自分と紬の結婚5周年の記念日だった。想像するのも恐ろしかった。紬が結婚記念日の夜、誰もいない冷え切ったリビングに一人座り、この写真とメッセージを目にした時、どれほど心臓を抉られるような絶望を味わったのかを。最後の1枚は、紬が体調を崩して入院した日のスク
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第8話

車を飛ばしてテレビ局へ駆けつけたが、受付で「涼川はすでに海外支局へ異動しました」と告げられた。異動先を問い詰めようとした時、背後から鋭い声が飛んできた。「何しに来たんですか!?」振り返ると、紬の同僚だった。以前一度だけ顔を合わせたことがある、沙耶という女性だ。彼は沙耶に向かって言った。「紬の夫の島崎です。妻が家におらず、電話も繋がらなくて……」「紬先輩を探してる?」沙耶は冷笑を浮かべた。「今更になって探しに来たんですか?」蒼介は痛ましげに目を伏せた。「彼女と話がしたいんです。居場所を知っているなら、教えてください」沙耶は彼を頭の先からつま先まで胡散臭そうに見定めると、「ついてきて」とだけ言い捨て、踵を返した。蒼介が彼女の後について行くと、地下の薄暗い備品室に案内された。沙耶は部屋の隅に置かれた異様な白い花輪を指差し、怒りに声を震わせた。「見えますか?これが、先輩がここ数日で受け取った嫌がらせの数々です。カミソリの刃や、使用済みの生理用品まで送られてきたんですよ。見ますか?あなたがマスコミの前でたった一言でも真実を話し、ほんの少しでも妻を庇っていれば、先輩がこんな異常な目に遭う必要なんてなかったのに!」蒼介の心臓がギュッと締め付けられた。ネットの誹謗中傷が、現実世界でこれほど暴力的な形になるとは想像もしていなかった。彼女は顔の売れた立派なジャーナリストなのだから、この程度の騒ぎは自分でうまく対処できるだろうと、高を括っていたのだ……沙耶はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作して蒼介の目の前に突きつけた。再生された動画には、黒山の人だかりに囲まれた紬の姿が映っていた。無数のフラッシュが瞬き、マイクが銃口のように彼女の顔に向けられている。「いじめ加害者!」「泥棒猫!」「よくも記者ヅラできるな!」という罵声が飛び交う中、画面の端から石が飛んできて、彼女の肩と額で無残に弾けた。沙耶は目を真っ赤に充血させ、蒼介を睨みつけた。「これで満足ですか?これが、夫のすることですか!?本当に意味が分からない。先輩みたいに綺麗で、いくらでも引く手あまただった人が、どうしてよりによってあなたなんかに引っかかったのかを!」蒼介の目は、動画の中で今にも倒れそうな紬の姿に釘付けになり、底知
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第9話

沙耶から送られてきた調査資料に目を通し、蒼介は愕然とした。結衣がDVを受け、離婚されたのは、彼を想っていたからなどという美しい理由では決してなく、完全に自業自得だったのだ。彼女の元夫は海外の資産家だったが、ビジネスで多忙を極め、家を空けることが多かった。結衣はその寂しさに耐えかね、裏でこっそり若い愛人を作っていたのだ。さらに恐ろしいことに、彼女はその愛人と結託し、夫を事故に見せかけて殺害し、莫大な遺産と保険金を騙し取ろうと企てていた。そのおぞましい計画が露見したため、激怒した夫から暴力を振るわれ、離婚を突きつけられたのだ。完全な有責配偶者である彼女は、慰謝料はおろか財産分与も一切得られず、文字通り一文無しで放り出された。そればかりか、怒り狂った元夫は結衣の実家である瀬戸家への資金援助も徹底的に断ち切り、彼女の両親が経営する会社は倒産に追い込まれた。愛人も、金づるとしての価値がなくなった彼女をあっさり見捨てて姿を消した。全てを失い、一文無しになり、海外で悪評が広まって居場所を失ったからこそ、彼女は都合よく「かつての初恋の男」の存在を思い出したのだ。そして彼女の両親も結託し、悲惨な結婚生活の原因はすべて「蒼介を忘れられなかったからだ」という美談にすり替えた。そうすれば、蒼介は罪悪感から喜んで彼らのパトロンになり、一生貢いでくれると考えたのだ。蒼介はギリッと奥歯を噛み締めた。この一家は、どこまで腐りきっているのか。再び結衣から着信があった。泣き喚く声が響く。「私が悪かったわ、蒼介!本当にごめんなさい!私はただ、あなたを愛しすぎていて、自分をコントロールできなかったの……お願いだから、私を見捨てないで!」蒼介は氷のように冷たい声で返した。「お前は俺を愛してなんかいない。ただ、俺が騙しやすいカモだと思っただけだろ」結衣は黙した後、恐る恐る尋ねた。「蒼介、誰かから変な噂でも聞いたの?」「白々しい芝居はやめろ、結衣」蒼介は冷ややかに笑った。「お前が海外でやらかしたドブのような悪事、全部裏は取れてるんだよ」結衣は再び泣き縋ってきた。「蒼介、待って、誤解なの、説明させて……」「説明など聞きたくない。俺を騙したことは百歩譲って許そう。だが、お前が俺の妻を傷つけ、社会的に抹殺しようとしたことだけは、絶
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第10話

ゼルディアへ赴任して2ヶ月目、現地は長い雨季に突入した。空に穴でも空いたかのように、昼夜を問わずバケツをひっくり返したような豪雨が降り続いている。しかし、紬はよく眠れていた。遠くで響く砲撃の音や、テントを叩きつける激しい雨音を聞いている方が、本国のあの広くて無機質なベッドで一人孤独に震えているよりも、ずっと心安らかに眠ることができた。早朝、彼女は手早く身支度を整えた。今日は「国境なき医師団」の野戦病院へ取材に行く予定だった。今回の企画テーマは「紛争地帯における極限の医療現場」。現地のコーディネーターが、取材相手として本国人の外科医を手配してくれていた。質問リストを再確認し、ICレコーダーのバッテリーがフル充電されているのをチェックする。その時、テントの入り口がバサリと開けられた。「紬」桐生慧(きりゅう けい)が入り口に立っていた。彼の着ている迷彩服には、無数の泥の跳ね返りがついている。長身で体格の良い彼がテントに入ってくると、空間が一気に狭く感じられた。「朝飯だ。冷めないうちに食べて」彼は保温ランチボックスを差し出した。ご飯の上に、蒸し鶏のモモ肉と、半熟の味付け卵がトッピングされている。ゼルディアに来てから、まともな鶏肉を見るのは初めてで、紬は目を丸くした。「これ、どうしたんですか?」「うちの食堂で出たんだ」慧は少しだけ目尻を下げて笑った。「お前がこういうの好きだったのを思い出してな。持ってきてやったんだ」紬の胸の奥に、温かいものがじんわりと広がった。何年も経っているのに、彼が自分の好物を覚えていてくれたことが嬉しかった。慧は大学時代の先輩だった。紬が結婚してからは、ほとんど連絡を取っていなかった。異国での思わぬ再会は、2週間前のことだ。彼女が平和維持軍の駐屯地へ取材に訪れた際、背後から「涼川か?」と声をかけられた。振り返ると、迷彩服を着てサングラスをかけ、日焼けして精悍な顔つきになった男が立っていた。彼がサングラスを外すと、昔と変わらない優しく知的な瞳が現れたのだ。「今日の取材は何時からだ?どこへ行く?」慧が尋ねる。「午前10時です。国境なき医師団のキャンプで、裏山の向こう側になります」「俺も同行しよう」「今日は非番なんですか?」「ああ、
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