All Chapters of 私の死後、冷酷な夫は絶望に泣き濡れる: Chapter 1 - Chapter 10

13 Chapters

第1話

朔夜(さくや)が出張から帰ってくる当日。私は彼を迎えに行く途中で、多重衝突事故に巻き込まれた。救急車に運び込まれる際、看護師さんが私のスマホから朔夜の電話を鳴らしてくれた。繋がった瞬間、電話の向こうから聞こえてきたのは、氷のように冷たい彼の声だった。「ちょうど俺から連絡しようと思っていたところだ。雫に輸血が必要だ。今すぐ来い」私が何か答える間もなく、口から大量の血が溢れ出した。看護師さんがスマホを耳に当て、切迫した声で言った。「九条結乃(くじょう ゆの)さんのご家族ですか!?こちら中央病院の救急です。結乃さんが交通事故に遭い、大変危険な状態です。至急、病院へ来てください!」電話の向こうで、朔夜は数秒沈黙した。「……結乃、今度は何の茶番だ?お前が何を企んでいようが知ったことか。今すぐここへ来い。もし雫に万が一のことがあったら、ただじゃ済まさないぞ」看護師さんが焦って声を張り上げた。「結乃さんは本当に酷いお怪我で……!」だが、言葉を遮るように朔夜が冷酷に言い放った。「だったら死ぬ前に、あいつから血を全部抜け。でないと、俺が自らそこへ行って血を絞り出すぞ」プツン、と電話が切れた。ドクン、ドクンと胸の奥から湧き上がった大量の血が、喉と鼻腔を塞いでいく……呼吸ができず、私は必死に血を飲み込もうとした。薄れゆく意識の中で、私は思った。血の通った人間が、どうしてこんなに残酷なことを言えるのだろう。もし生き延びることができたら、あいつの血を全部抜いてやる。そして、水鉄砲に入れて遊んでやるんだから。しかし、私にその機会が訪れることはなかった。私は、生き延びることができなかったのだ。幽霊になった私は、ただあてもなく宙をフワフワと漂い始めた。見下ろすと、看護師さんが何度も朔夜に電話をかけ直してくれていた。しかし、二度と繋がることはない。朔夜はいつもそうだ。私に用件を伝えたら、それ以上は言わない。私が絶対に彼に逆らえないと分かっているからだ。看護師さんは私の他の身内にも連絡を取ろうとしたが、当然誰も出ない。私は幼い頃から身寄りがなく、孤児院で育った。15歳の時に院長先生が亡くなり、朔夜の両親が私を九条家に引き取ってくれた。ご両親は私をとても可愛がってくれたが、朔夜は私
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第2話

男の子は悠(ゆう)と名乗った。少し前に亡くなったばかりだけれど、誰も引き取りに来てくれず、魂がここに留まっているらしい。病院の廊下や片隅には、私たち以外にもすでに亡くなった人たちの姿があった。彼らは自分が死んだことを忘れているのか、生前と変わらない様子でせわしなく動いている。床にしゃがみ込んで顔をしかめながらタバコをふかす幽霊がいれば、行き交う人々の中に立ち、呆然と周囲を見回す幽霊もいる。エントランスホールには、一人の警備員の幽霊が立っていた。彼はとても真面目に、通り過ぎる人たち一人一人に挨拶をし、敬礼を繰り返している。けれど、生者には彼の姿は見えない。当然、誰も彼に返事などしない。その光景を見ていたら、急に胸の奥がギュッと締め付けられた。どうしてだろう。ここ数年の、私と朔夜の関係を思い出してしまったからだ。彼もまた、あんな風に私を無視し続けていた。私が2時間かけて作った手料理を、無表情でゴミ箱に捨てたことも。彼の「忘れられない女」である雫の命を繋ぐため、私から血を奪い続けたことも……どれだけ長い年月、私がどれほど尽くしても、彼は私を存在しないかのように扱い続けた。でも、あの誰にも見えない警備員さんと、私とでは決定的に違うところがある。朔夜には、私の姿がはっきりと見えていたのだ。見えていたのに――彼はただ冷酷に、私の真心を足元で踏みにじっていた。そんなことを考えていた矢先。一人の男性が、目の前で警備員さんの体をすり抜けて歩いてきた。見慣れたその長身に、私は思わず息を呑んだ。私の夫――朔夜だった。彼は最高級のオーダーメイドスーツに身を包み、足元には磨き上げられた革靴。高貴で冷たいオーラを纏った彼は、人混みの中でも一際眩しい光を放っていた。ただ、その整った顔は氷のように冷酷で、ひどく不機嫌そうだ。私と悠は、そのまま彼の後をついていくことにした。朔夜は立ち止まり、苛立った様子でスマホを操作している。画面に表示されているのは、私の連絡先だった。私に電話をかけている……?けれど、看護師さんがいくら電話をしても彼が出なかった後、私のスマホはとっくに霊安室の遺品箱にしまわれている。今頃はもう充電が切れているはずだ。案の定、電話は繋がらなかったらしい。彼は怒りを滲ませた顔
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第3話

隣で、悠が感動の涙をボロボロと流していた。「うっ、うう……二人とも、すっごく愛し合ってるんだね……」私は笑いながら頷いた。「そうだね。あの男が私の夫じゃなかったら、私もそう思ってたよ」その言葉に、悠の思考がフリーズした。ピタッと涙を止め、ギギギとロボットのように首をこちらに向ける。「……えっ? あっ……ご、ごめん、お姉さん」悠は慌てて小さな声で謝った。必死に私を慰める言葉を探しているのがわかる。「気にしないで。こんなの、もうずっと前に受け入れてるから」ここ数年、朔夜から受けた冷酷な扱い、無情な言葉、そして数々の残酷な仕打ち。それらは到底一言で語り尽くせるものではないし、私自身、とっくに諦めがついていたはずだった。なのに、どうしてだろう。胸の奥がざわつき、名状しがたい怒りの炎がメラメラと燃え上がっていくのを感じた。パァーンッ!突如、天井の照明が大きな音を立てて破裂した。「きゃあっ!」雫が悲鳴を上げ、慌てて朔夜の胸にすがりつく。私自身も何が起きたのか分からず、呆然としてしまった。傍らにいた悠が、私に向かって親指をグッと立てた。「お姉さん、ナイス! あいつらビビり散らしてるよ!」私は訳が分からず、もう一度同じように念じてみたが、今度は部屋に何の変化も起きなかった。「人を呼んでくる」朔夜が立ち上がり、雫をそっと引き離そうとする。だが、彼女は彼にすがりついて離れなかった。「朔夜くん、行かないで……! 私、暗いの……怖い……っ」朔夜はその場に立ち尽くし、数十秒ほど体を強張らせていたが、やがてハッとしたように我に返った。そして、甘やかすように彼女の髪を優しく撫でる。「分かった。俺はどこにも行かない。だがまずは人を呼んで、この危ないガラスの破片を片付けさせよう。すぐ戻るから」そう言って、朔夜はようやく病室を出て行った。胸の奥が、ズキズキと鈍く痛んだ。私だって、暗いのは怖い。ある夜、家に泥棒が入ったことがあった。私はベッドの下に縮こまり、明かりもつけられないまま、震える手で彼に電話をかけ、何度もメッセージを送って助けを求めた。だが、彼からの返事はひどく冷酷なものだった。【結乃、いい加減悲劇のヒロインぶるのはやめてくれないか? 鬱陶しい】あの夜、自分が
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第4話

一向に連絡してこない私に対し、朔夜は次第にいら立ちを募らせていた。私が家にも帰っていないことを知ると、怒気を孕んだ荒々しい声で音声メッセージを送りつけてきた。「結乃、警告しておく。これ以上俺を怒らせる前に戻ってこい。さもなければ、二度とその部屋から一歩も出られないようにしてやるからな!」「二度と」……か。私は思わず吹き出してしまった。どうやら彼は、私の人生がすでに終わっていることなど、微塵も想像していないらしい。彼が雫と甘く睦み合っているこの数日間、私がすぐそばにいたことにも。私の魂も、遺体も、彼からそう遠くない霊安室の冷たいベッドの上で、少しずつ絶望に染まり、静かに腐敗し始めていることにも。しばらく経ち、悠の助けもあって、私は他人の夢の中に入れるようになった。「夢」という空間は、死の世界と最も次元が近いからだそうだ。ある日、雫が深い眠りについたのを見計らって、私は、私以上に激怒している悠を連れて、ためらうことなく彼女の夢へと潜り込んだ。私の過去を聞いた悠は「絶対に仇をとってやる!」と、毎日息巻いていたのだ。雫の夢の中は、真っ暗だった。夢は精神状態を映し出す。彼女の心がどれほど陰湿で、ドロドロとした欲望にまみれているかがよく分かる。私たちが夢の中に降り立った時、彼女はちょうど朔夜と甘いひとときを過ごしている最中だった。ソファーに気怠げに寄りかかる朔夜の瞳には、愛を乞うような熱がこもっていた。いつも氷のように冷たい彼の顔に、信じられないほど甘い笑みが浮かんでいる。私が姿を現すと、彼はゆっくりと視線を上げ、口角を上げて優しく微笑みかけてきた。一瞬ドキッとしたが、すぐにこれが「偽物の朔夜」であることに気づいた。現実の彼は、私にこんな顔を見せるはずがない。私に向ける笑顔は、いつだって冷酷な嘲笑か、見下すような冷笑のどちらかだけだ。案の定、次の瞬間には雷鳴が轟き、目の前の朔夜は煙のようにフッと消え去った。私たちに気づいた雫は、目を限界まで見開き、呆然と立ち尽くした。「怨霊のお姉さん、オレが仇とってあげる!」悠が私に向かってニヤリと笑うと、おもむろに自分の首に両手をかけた。ゴキッ! と音を立てて自分の首を引き抜いたかと思えば、目や耳からドバドバと血を流し、舌を蛇のように裂いてみせ、さらに
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第5話

でも、今ならはっきりと分かる。彼だって、一人の女性をこんなにも優しく、こんなにも慈しむように愛することができるのだと。胸が締め付けられ、心臓が麻痺したように感覚を失っていった。雫は朔夜の胸にすがりつき、ぽろぽろと大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。「朔夜くん、私……自分が死んじゃう夢を見たの。それに、朔夜くんが結乃ちゃんをまた好きになって、私のことなんて嫌いになって、捨てられちゃう夢……っ。お願い、もう結乃ちゃんのために私を一人にしないで……っ。ねえ、約束して?」すがるような上目遣いで朔夜を見つめながら、わざと私の名前を口にする。その言葉の裏にある悪意は明白だった。だがどういうわけか、今回に限って、朔夜はすぐに彼女の言葉を否定しようとしなかった。彼の顔から一寸ずつ温度が消え去り、漆黒の瞳には分厚い霜が降りたかのような、底知れない寒気が満ちていく。その瞬間、私はふと思い出した。彼は感情を爆発させて怒る時よりも、こうして感情を殺し、静かに怒気を漂わせている時のほうがよほど恐ろしいのだということを。私たちが結婚した日も、彼はまさにこんな顔をしていた。結婚式の当日、義理の両親が雫を強引に海外へ追放したことに対し、彼は一切の反応を示さなかった。私はてっきり、彼がもう彼女のことを諦めたのだと勘違いしていた。だがその日の夜。彼は私の目の前で、私が長年大切に育てていた愛犬の首を絞め殺したのだ。私が喉が裂けるほど泣き叫び、泣いて懇願する中。小さな家族がもがき苦しみ、やがて完全に息絶えるまでの一部始終を、私はただ絶望の中で見せつけられるしかなかった。「自分の最も愛するものを奪われる痛みが、これで少しは分かったか?」地獄の底から響くような、ひどく掠れた声で彼はそう私に問うた。あの日の光景を思い出すだけで、魂だけの存在になった今でさえ、全身が粟立ち、血が凍りつくような感覚に陥る。記憶の中の悪魔と、目の前にいる朔夜の顔が、ゆっくりと重なり合った。私は考えた。彼はまた、私への怒りで理性を失いかけているのだろうか?だとしたら、今回は一体どんな方法で私を罰するつもりだろう。あの子にしたように、私の首を力任せに締め上げ、彼が愛しているのは私ではないと雫に証明してみせるのだろうか?それとも以前のように、私から大量
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第6話

「手下を使って調べさせたが、あいつの出国記録はなかった」朔夜は氷のように低い声で答えた。「結乃ちゃんなら、朔夜くんのやり方をよく分かってるはずだわ。どうすれば追跡をすり抜けられるかだって……あっ!」雫はそう言ってから、わざと失言してしまったかのように慌てて自分の口を覆った。だが、その言葉は確実に朔夜の神経を逆撫でし、彼の顔色はさらに黒く沈み込んだ。彼が何かを考えて踵を返し、病室を出て行こうとした瞬間、雫が慌てて彼の背中に抱きついた。「朔夜くん、もう彼女のことなんて放っておいて……っ!結乃ちゃんは身寄りのない孤児だったのに、九条家に引き取られて、あんなに大切に育てられたわ。その上、あなたと結婚までして、何不自由ない生活を送らせてもらってたはずよ。本来なら、一生あなたに感謝してもしきれないはずなの!それなのに……あなたが『ほんの少し』お返しを求めただけで、こんなに嫌がって逃げるなんて!朔夜くん、彼女は自分のことしか考えてない最低の人間よ。あなたには不釣り合いだわ……あなたには、もっと優しくて、心からあなたを愛して、すべてを分ち合える人が必要なのよ……」甘ったるい声を出しながら、雫は熱っぽく潤んだ瞳で彼を見上げ、何かを誘うようにその体をすり寄せていく。私はその光景に吐き気を覚え、目をそらそうとした。だが次の瞬間――朔夜は、すがりつく彼女の体を唐突に突き放したのだ。雫は呆然と立ち尽くした。私もまた、その光景に驚いて目を見張った。「悪いが、俺は結乃との間に『契約』を交わしている」朔夜は感情の読み取れない冷淡な声でそう言った。私は一瞬遅れて、彼の言わんとすることを理解した。正直なところ、朔夜の言うその「契約」が何だったかなど、私自身、もうとっくの昔に忘れかけていた。……雫が海外から帰国してすぐの頃。彼女は朔夜がどこまで自分を優先してくれるのか試すため、わざと病歴を偽造し「白血病になってしまった。骨髄移植が必要だ」と嘘をついた。その時、私は妊娠六ヶ月だった。にもかかわらず、私は朔夜の命令によって強制的に病院へ縛り付けられ、お腹の子供を堕ろされたのだ。私たちの初めての子供は、この世界で産声を上げる前に、実の父親の手によって無惨にも命を奪われた。この一件で、私はようやく思い知った。
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第7話

朔夜の体が、唐突に石のように硬直した。「……今、なんと言った?」部下の声ははっきりとしていて、聞き間違えるはずなどない。だが朔夜の鋭い命令により、相手はもう一度、一言一句違わず同じ言葉を繰り返した。朔夜の瞳孔が急激に収縮し、まるで魂を抜かれたように呆然と立ち尽くすのを、私はただ黙って見つめていた。電話が切れた後も、彼はすぐには我に返れなかったようだった。だからこそ、傍らにいた雫の表情が、いかに微妙に変化したかにも気づかなかったのだ。彼女の口元には明らかに隠しきれない歓喜が滲んでいたが、すぐにそれを神妙な顔で取り繕い、朔夜に声をかけた。「朔夜くん……ご愁傷様。一緒に、彼女の顔を見に行きましょうか……」「見に行く?死んだらそれで終わりだろうが!今さら死体なんか見て何になる!!」朔夜が突然、野獣のような荒々しい声で彼女の言葉を遮った。彼が雫に対してここまで声を荒げたのは、これが初めてだった。雫はビクッと肩を震わせ、恐怖で言葉を失った。「ご、ごめんなさい、朔夜くん、私……っ」雫が慌てて取り繕おうとしたが、朔夜は踵を返し、一度も彼女を振り返ることなく病室を飛び出していった。彼の背中を追うと、その足取りはひどくおぼつかず、まるで糸の切れた操り人形のようにフラフラとしていた。何度かつまずき、床に崩れ落ちそうになるほどだ。私には理解できなかった。私が死んだと聞いて、彼はせいせいして喜ぶべきではないのだろうか?彼の腹の内は読めないし、直接問い詰めることもできない。私はただ彼の後をついていき、彼がふらつく足で地下の霊安室へと降りていくのを見守った。入り口で担当の医師が彼を呼び止め、マニュアル通りの事務的な質問をいくつか投げかけただけだった。しかし、朔夜は突然狂ったようにその医師に向かって怒鳴り散らしたのだ。私の前ではどれだけ残酷で冷淡でも、外の人間に対しては常に冷静沈着で、近寄りがたい貴公子の仮面を完璧に被っていた彼が、人前でここまで取り乱し、醜態を晒すのを見たのは初めてだった。やがて、医師によって私の遺体が引き出された。死んでからずっと病院を彷徨っていたが、自分自身の亡骸と対面するのはこれが初めてだった。唇からは血の気が失せ、肌は蝋のように青白い。服には赤黒く変色して干からびた血がべっとりとこびり
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第8話

彼が泣くところを見たのは、これが初めてだ。しかも、他でもないこの私のために泣いているなんて。なんだか身に余る光栄のような気がして、不思議な気分だった。けれど、すぐにスンッと我に返る。私はもう、死んでいるのだ。彼が今さらどれだけ温もりを与えようと、どれだけ美しい涙を流そうと、今の私には一円の価値もない。手遅れになった愛情など、道端の雑草よりも無価値でくだらない。それからどれほどの時間が経っただろうか。いつまでも私の亡骸を抱きしめて泣き崩れる彼を見かねた医師が、とうとう院内線で警備員たちを呼び出した。しかし、屈強な男たちが数人がかりで引き剥がそうとしても、朔夜の腕はビクともしなかった。「……あの人、お姉さんのこと、本当に好きだったみたいだね……」その光景を見て、悠が鼻をすすりながら掠れた声で呟いた。様々な感情が入り乱れ、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回される。喉の奥に何かがつっかえたようで、幽霊なのに息が苦しかった。やがて、私は力なく自嘲するような笑みをこぼした。「……そうだといいけどね」……数日後、朔夜は私の葬儀を済ませた。しかし、彼は私の遺骨を墓地へは納めず、あの冷たい家に持ち帰った。彼の財力があれば、最高級の墓地を買うことなど造作もないはずだ。なぜわざわざそんなことをするのか、私にはさっぱり分からない。とはいえ、幽霊の私に意見を言う権利などあるはずもなかった。私の行動範囲は相変わらず制限されたままだ。私は毎日、あの広くてガランとした家に取り憑き、ただ無為に時間が過ぎていくのを眺めることしかできなかった。生前も、朔夜はこの家へ帰ってくるのを嫌がっていた。最初はただ私を嫌悪していたから。その後は雫が帰国したから。何度もここから逃げ出そうと考えたが、あの強大な力を持つ男に逆らうことなど不可能だった。だから私はいつも一人きり、死んだように静まり返った無機質なこの家で、ひたすら彼の帰りを待ち続けていたのだ。まさか、生前は肉体をこの家に縛り付けられ、死後は魂までもがこの家に囚われ続けることになるとは。なぜまだ成仏できないのかは分からない。ただ、最近自分の魂が少しずつ透明になってきていることには気がついていた。消滅か、それとも転生か。どちらにせよ、良い兆候には違いない。その日、私
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第9話

【朔夜は明日の午後5時のフライトで帰国。絶対に迎えに行くこと】【午後7時。空港で、雫と待ち合わせ】【……】朔夜は何かを必死に耐えるように小刻みに震えながら、付箋の文字を指先でなぞった。その目尻は、またしても痛々しいほど赤く染まっていた。私は元々記憶力があまり良くない。一度、朔夜が珍しく早く帰宅した日があったのに、私が夕食の時間を間違えていて、料理が出来上がった頃には彼が家を出てしまっていたことがあった。それ以来、私は忘れないように冷蔵庫に付箋を貼るようになったのだ。これらの付箋は、今回彼が出張に行った際に私が書き残したものだ。けれど……私はどうしても思い出せなかった。最後の「午後7時、雫と待ち合わせ」という付箋。私はどうして、彼女と会う約束などしていたのだろう?しかも、もし記憶が正しければ。先日、霊安室で医師が告げた私の「死亡推定時刻」は、ちょうどこの時間帯だったはずだ。まさか……私の死には、雫が関係している?ピンポーン――その時、静まり返った家の中にインターホンの音が鳴り響いた。朔夜が重い足取りで玄関へ向かい、ドアを開けた。外に立っていた若い男性の配達員は、朔夜の顔を見ると、一瞬ハッとしたように目を丸くした。「あ、あの、九条結乃さんはいらっしゃいますか?」「……何の用だ」朔夜は警戒するように冷たく問い返す。「結乃さんが先日、うちの店で特注のレコードをご注文されまして。何が何でも今日中に届けてほしいと念を押されていたんです。……あっ! もしかして、結乃さんの旦那様ですか!?」配達員は突然何かを閃いたように朔夜を指さし、興奮気味に声を弾ませた。「お会計の時、結乃さんのスマホの待ち受け画面が見えたんですけど、あなたの写真でした! だからすぐ分かりましたよ。結乃さん、本当にあなたのことが大好きなんですね。あなたが昔の古いレコードが好きだからって、ずっと前からうちの店に『探してほしい』って頼み込んでたんです。こういう年代物って探すのが凄く大変なんですけど、結乃さん、毎朝のように店に通ってこられて……そういえば、ここ最近はお店にいらっしゃってないですね。あっ、もしかしてご旅行ですか!? そうだ、結乃さんが『結婚記念日のプレゼントにする』って言ってたから、きっと記念日旅行に行ってらし
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第10話

朔夜は静かに微笑んでいたが、その漆黒の瞳には氷点下の殺気が渦巻いていた。取り巻きの令嬢たちは悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、床に押さえつけられた令嬢はガタガタと震えながら必死に命乞いをした。「ち、違うんです朔夜様……! 私はただ、この女を叱っていただけで……あなたを侮辱するつもりなんて……っ!」しかし朔夜は彼女の言い訳など意に介さず、私の服に染み付いたワインの跡を冷たい目で見下ろした。そして、傍らのテーブルから赤ワインのボトルを一本掴み取ると、無造作に私へ差し出した。「かけろ」薄い唇から吐き出された声は、絶対的な命令だった。彼はいつも、私がどうなろうと一切干渉しない冷酷な男だったのに。あの夜の彼の行動は、誰の目から見ても明確に「私を守る」ためのものだった。その後、私をいじめた令嬢たちは全員、朔夜によって容赦なく粛清された。彼女たち本人だけでなく、その背後にある一族の企業まで徹底的に叩き潰されたのだ。それは朔夜が九条家の当主となってから、初めて見せた冷酷無比な鉄槌だった。私が虐げられただけで、彼がそこまで苛烈な報復に出るとは、誰も予想していなかった。あの時、彼が周囲に言い放った警告を、私は今でもはっきりと覚えている。「結乃は、俺の妻だ。今後あいつに手を出した奴は、一族もろともこの世から消し去る」「朔夜はもしかして、私のことを好きなんじゃないか」私がそんな淡い期待を抱いたのは、あの時が最初で最後だった。私はてっきり、あの出来事が私と朔夜の「始まり」になるのだと思っていた。だがそれは、私の人生を終わらせる弔鐘(ちょうしょう)であり、果てしない暗闇に突き落とされる前に見た、最初で最後の光だったのだ。あの日を境に、私の周りから私をいじめる人間は消えた。だが同時に、私を助けてくれる人間も完全に消え去った。その後、朔夜がどれだけ残酷に私を痛めつけようと、彼への恐怖と威圧の前に、誰一人として私に同情の手を差し伸べる者はいなかった。こうして彼は、邪魔立てする者のいない密室の鳥籠に私を閉じ込め、思う存分雫のために私の血とすべてを捧げさせることができたのだ。あの日、彼が口にした「妻」というたった一言のために。私は彼と雫に、自分の持てる全てを奪い尽くされることになったのだ。彼が見せたあの数分
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