《婚約者に売られ、親友に顔を奪われた私は、二度目の人生で全てを取り戻す》全部章節:第 31 章 - 第 40 章

168 章節

開かない引き出し

 翌朝。 綾香は父の病室へ顔を出したあと、屋敷へ戻ってきた。 父は検査のため病室を離れている。 戻ってくるまで少し時間があると聞き、綾香はその間に確かめたいことがあった。 母の部屋。 静かな空気は、生前と変わらない。 綾香は真っすぐ机の前へ歩いた。「一番下の引き出し……」 手紙に書かれていたとおり、しゃがみ込んで取っ手を握る。 軽く引く。 動かない。「やっぱり……」 鍵が掛かっていた。 綾香は他の引き出しも開けてみる。 文房具や便箋、古いアルバム。 どれも整理されている。 けれど、鍵らしいものは見当たらない。 机の上も探した。 引き出しの裏も覗く。 それでも何もない。「どこに隠したの……?」 母は最後まで書けなかったのか。 それとも、あえて書かなかったのか。 その時だった。 コンコン。「お嬢様」 橘の声だった。 綾香は慌てて引き出しを閉める。「どうしたの?」「病院へ向かうお時間でございます」「あ……もうそんな時間なのね」「旦那様も、お嬢様をお待ちかと思います」「分かったわ」 綾香は机をもう一度見つめた。 あと少し。 あと少し時間があれば。 そう思いながら部屋を出ようとした、その時。「お嬢様」 橘がふと机へ目を向ける。「奥様のお部屋でございますか」「ええ」「少し掃除をしていたの」 咄嗟にそう答える。 橘は穏やかに微笑んだ。「奥様は、とても物を大切になさる方でした
last update最後更新 : 2026-08-03
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思い出の鍵

 病院へ向かう車の中でも、綾香の頭から母の机のことは離れなかった。(鍵は――) あの手紙は、そこで終わっていた。 母は最後まで書けなかったのか。 それとも、わざと書かなかったのか。 答えはまだ分からない。 病室へ入ると、父はベッドの上で新聞を読んでいた。「お父様」「おお、綾香」 父は嬉しそうに笑う。「今日は顔色がいいわ」「先生に歩く許可ももらった」「でも無理は駄目よ」「分かっている」 父は苦笑した。 しばらく他愛もない話が続く。 会社のこと。 庭の薔薇が咲いたこと。 そんな穏やかな時間だった。 だからこそ、綾香は切り出すのをためらった。「お父様」「どうした?」「お母様のお部屋なんだけど……」 父の表情が少しだけ和らぐ。「最近、掃除をしているの」「そうか」「お母様も喜んでいるだろう」 綾香は静かに頷いた。「机に鍵が掛かっていたの」 父は少し驚いたような顔をした。「まだ開かなかったか」「え?」 思わず聞き返す。 父は懐かしそうに笑った。「昔、一度だけ開けようとしたことがあるんだ」「でも、『秘密です』って笑われてしまってね」 綾香も思わず笑う。 母らしい。「お父様も知らないの?」「ああ」「結局、一度も教えてもらえなかった」 綾香は小さく息を吐く。 やはり父も知らない。 母だけの秘密だったのだ。「そういえば」 父がふと思い出したように言う。「お前は小さい頃、よくお母さんの部屋で遊んでいただろう」「ええ」
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服薬指導

 父が看護師とリハビリの話を始めると、綾香は静かに病室を出た。 廊下では遥臣が待っていた。「先生」 遥臣は人通りの少ない場所まで歩くと、足を止めた。「少し確認したいことがある」「何でしょう」 遥臣はカルテを閉じる。「薬は誰が管理している」 綾香は少し考えた。「お父様ご自身で飲んでいるけれど、執事が毎朝用意しているはずよ」「薬は誰が受け取った」「それは……」 綾香は首を傾げる。「分からないわ」「お父様かもしれないし、執事かもしれない」「そうか」 遥臣は短く頷いた。「確認しておいてくれ」「この薬は、グレープフルーツを避けるよう服薬指導をする薬だ」「病院でも薬局でも説明を受けているはずだからな」「分かったわ」「誰が説明を聞いたのか、お父様にも確認してみる」「頼む」 遥臣は淡々と続ける。「それと、今日からグレープフルーツは口にさせないでくれ」「入院中は病院で管理する」「退院の時にも、改めて説明する」「ありがとうございます」 綾香は小さく頭を下げた。 遥臣も軽く頷く。「他に気になることはあるか」 一瞬だけ迷う。 母の手紙。 机の鍵。 胸に抱いている疑い。 けれど、それを話すにはまだ早い。「いいえ」 綾香は静かに首を振った。「今はありません」「ああ」 遥臣はそれ以上聞かなかった。「何かあれば来い」「はい」 綾香は一礼すると、病室へ戻るため歩き出す。(薬を受け取ったのは誰だったのかしら……) 遥臣に言われるまで、
last update最後更新 : 2026-08-04
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説明を聞いた人

 病室へ戻ると、父は窓の外を眺めていた。「お父様」「おお、綾香」 父は穏やかに笑う。「先生との話は終わったのか」「ええ」 綾香はベッドのそばへ椅子を寄せた。 すぐに聞くべきか迷う。 でも、遥臣に頼まれたことだ。「一つ聞いてもいい?」「何だ?」「今飲んでいるお薬だけど……」 父は頷く。「薬局で受け取ったのは、お父様?」「ああ、いや」 父は少し考え込んだ。「仕事が忙しい時期だったな」「理央に頼んだこともあったし、橘に頼んだこともあった」 綾香は思わず息を止めた。「そうなの?」「ああ」「毎回ではないがな」 父は苦笑する。「私が会社へ向かう前に受け取ってきてもらうこともあった」「じゃあ……」 綾香は慎重に言葉を選ぶ。「服薬についての説明は?」「説明?」「薬局で受けるでしょう?」 父は困ったように笑う。「私は聞いていないな」「受け取りを頼んだ日は、そのまま薬だけ渡してもらっていた」 綾香の胸がざわつく。「そう……」「何かあったのか?」 父が不思議そうに尋ねる。 綾香はすぐに笑顔を作った。「先生が、退院する時に改めて説明してくださるそうよ」「だから安心してって」「ああ、そういうことか」 父は納得したように頷いた。「年を取ると、新しい薬も増えるからな」「先生には迷惑をかける」「そんなことないわ」 綾香は微笑む。「ちゃんと元気になって帰ることだけ考えて」「ああ」
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病院のロビー

 病院を出ようとした、その時だった。「綾香」 聞き慣れた声に振り返る。「理央」 理央は穏やかな笑みを浮かべながら歩いてきた。「今来たところ?」「ええ」「仕事が一段落したから、お見舞いに来たんだ」「様子はどう?」「もう大丈夫よ」「しばらく入院することになったけど」 理央はほっとしたように息を吐いた。「それなら良かった」「本当に心配したよ」 その表情に嘘は見えない。 綾香は静かに理央を見つめた。 前世でも、理央はそうだった。 誰に対しても優しく、誠実で、気配りのできる人。 父も母も、そして自分も、その姿を信じていた。「綾香?」 理央が心配そうに覗き込む。「顔色が悪いけど、大丈夫?」「平気よ」 綾香は小さく微笑んだ。「少し疲れただけ」「そう」 理央は安心したように頷く。「無理はしないで」「君まで倒れたら大変だから」「ありがとう」 それ以上は何も言えなかった。 理央は軽く会釈すると、そのまま病室へ向かって歩いていく。 綾香はその背中を静かに見送った。 誰が見ても、理央は父を心配する優しい青年だった。 前世を知らなければ。 きっと自分も、何一つ疑わなかっただろう。 けれど今は違う。 綾香は静かに唇を結ぶ。(もう二度と、騙されない) そう心に誓い、ゆっくりと病院を後にした。
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母ならどうする?

 病院から屋敷へ戻ると、綾香は真っ直ぐ母の部屋へ向かった。 静まり返った部屋は、時間だけが止まっているようだった。 机の前まで歩き、一番下の引き出しへ手を掛ける。 やはり開かない。「……鍵」 綾香は小さく呟く。 父も知らない場所。 母だけが知っていた隠し場所。 そんな場所が本当にあるのだろうか。 綾香は部屋をゆっくり見回した。 本棚。 化粧台。 クローゼット。 昨日も一通り探した。 それでも見つからなかった。「こんなに分かりやすい場所にあるはずないわよね」 母は几帳面な人だった。 大切な物ほど、きちんとしまう。 けれど、ただ隠すだけの人ではない。 綾香はふと写真立てへ目を向ける。 日記の切れ端は、その裏から見つかった。 誰にも見つからない場所ではない。 母にとって意味のある場所だったから、そこへ隠したのだ。「そうだ……」 綾香は静かに息をのむ。「お母様は、意味のない場所には隠さない」 だったら。 鍵も同じではないだろうか。 綾香は部屋の中を歩きながら、一つひとつ思い出していく。 窓辺の椅子。 母がよく本を読んでいた場所。 鏡台。 毎朝身支度をしていた場所。 どれも母らしい。 でも、どれも決め手にはならない。「違う……」 綾香は首を横に振る。「私が探しているのは、お母様が好きだった場所じゃない」 母は手紙に、自分宛てに残した。 つまり、見つけるのは父ではなく、自分。 その意味があるはずだ。「私だから分かる場所…&helli
last update最後更新 : 2026-08-04
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屋根裏部屋

 綾香は母の部屋をあとにすると、屋根裏部屋へ向かった。 屋敷には代々受け継がれた品や、使わなくなった家具が保管されている。 母の遺品も、きっとここへ運ばれているはずだった。 軋む階段を上り、扉を開ける。 少し埃っぽい空気が流れ出した。 古い箪笥。 季節の飾り。 額縁に入った絵画。 思い出の品が整然と並んでいる。「……あれ?」 綾香は首を傾げた。 母の物が、ほとんどない。 見覚えがあるのは、若い頃に使っていた旅行鞄が一つ。 冬物のコートが数着。 それだけだった。「そんなはず……」 母は物持ちのいい人だった。 洋服も、本も、裁縫道具も。 簡単には処分しない。 それなのに。 十数年暮らした人とは思えないほど、残された物が少なかった。 綾香は屋根裏部屋を見渡した。 整理されすぎている。 まるで、誰かが必要な物だけを選んで片づけたように。「どうして……?」 母が亡くなったあと。 遺品を整理したのは誰だっただろう。 父は仕事で忙しかった。 自分はまだ学生だった。 では――。 綾香はゆっくりと息をのむ。「橘……?」 思わずその名前が浮かぶ。 けれど、すぐに首を振った。「駄目」「決めつけちゃ駄目」 証拠は何もない。 それでも一つだけ分かったことがある。 母の遺品は、自分が思っていたよりもずっと少なかった。 綾香は旅行鞄へそっと手を伸ばした。「まずは、ここから調べてみよう」 鞄の金具が、小さな音を立てて開いた。
last update最後更新 : 2026-08-04
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少なすぎる遺品

 旅行鞄の留め具を外すと、小さな音を立てて蓋が開いた。 中には丁寧に畳まれた服が数着と、古びたストールが一枚。 どれも母が生前愛用していたものだった。 綾香はストールを手に取る。「懐かしい……」 幼い頃、冬になると母はいつもこのストールを羽織っていた。 寒い朝、幼い綾香を抱き寄せながら歩いた温もりまで思い出す。 思わず頬が緩む。 けれど、それも束の間だった。「……少ない」 旅行鞄は思ったよりも軽かった。 服も数着しか入っていない。 母は洋服が好きだった。 決して派手ではなかったが、季節ごとにお気に入りの服を大切に着ていた。 それなのに、残されているのはほんのわずか。 綾香は屋根裏部屋を見回した。 古い家具はたくさんある。 父が若い頃に使っていたゴルフバッグ。 祖父母の代から残る茶器。 使われなくなった照明器具。 それらは処分されずに残されている。 なのに、母の遺品だけが少ない。「どうして……?」 母が亡くなってから3年。 その間に整理されたのだろうか。 けれど、父はそんなことをする人ではない。 思い出の品を勝手に処分するような人ではなかった。 綾香はもう一つ、小さな段ボール箱を開ける。 中にはアルバムが数冊。 幼い頃の写真が大切にしまわれていた。 母に抱かれて笑う自分。 三人で庭に立つ家族写真。 誕生日を祝ってもらった日の写真。 ページをめくるたびに、穏やかな時間が蘇る。 ふと、一枚の写真に目が留まった。「これ……」 写っているのは母の部屋だった。 まだ幼い綾香が机の前に座り、何かを嬉しそうに両手で掲げている。 写真が少しぼやけていて、何を持っているのかまでは分か
last update最後更新 : 2026-08-05
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アルバムの違和感

 綾香は慌てて階段を下りた。「病院から?」「はい」 橘が受話器を差し出す。 胸が大きく脈打つ。 父の容体が急変したのではないか。 そんな不安が頭をよぎる。「もしもし」『御影様でしょうか』 聞こえてきたのは病院の受付スタッフの声だった。『ご心配をおかけして申し訳ありません』『容体の件ではございません』 綾香は胸を撫で下ろす。「そうですか……」『担当の先生から、お父様のお薬手帳をご持参いただきたいと伺っております』『お手元にございましたら、次回お越しの際にお持ちください』「分かりました」『よろしくお願いいたします』 電話が切れる。 綾香は静かに息を吐いた。「何かございましたか」 橘が尋ねる。「お薬手帳を持ってきてほしいそうなの」「かしこまりました。後ほどご用意いたします」「いいえ」 綾香は首を横に振る。「私が探すわ」「承知いたしました」 橘は一礼すると、その場を離れていった。 綾香はもう一度、屋根裏部屋へ戻る。 先ほど開いたアルバムは、そのまま床に置かれていた。 しゃがみ込み、続きをめくる。 家族旅行。 クリスマス。 誕生日。 どの写真にも母の笑顔があった。「……あれ?」 綾香の指が止まる。 写真が、途中から急に少なくなっている。 それまでは毎月のように貼られていた写真が、ある時期を境にほとんどなくなっていた。「どうして……?」 最後のページ近くには、三年前の写真が数枚。 母が亡くなる少し前のものだ。 父と
last update最後更新 : 2026-08-05
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預かり票

 綾香は預かり票をそっと裏返した。 クリーニング店の名前と受付日。 三年前。 母が亡くなる二週間ほど前の日付だった。「こんなものが、どうして……」 アルバムに挟まれていた理由が分からない。 普通なら財布や引き出しへしまうはずだ。 わざわざ家族写真の間へ挟むような物ではない。 綾香は預かり票を見つめる。 品名の欄には、手書きで一言だけ書かれていた。『コート』 それだけだった。「コート……」 母は冬になると、お気に入りのコートを何着か着回していた。 どれのことだろう。 綾香はもう一度、屋根裏部屋を見回す。 さっき見つけた旅行鞄。 そして、その隣に掛けられていた数着のコート。 どれも見覚えがある。「まさか……」 綾香は一着ずつタグを確かめ始めた。 ベージュ。 ネイビー。 グレー。 どれも母がよく着ていたものだった。 だが、預かり票の日付を思い返した時、ふと違和感を覚える。「あの頃、お母様が一番着ていたのは……」 白いロングコートだった。 父と出かける時も。 自分と買い物へ行く時も。 写真にも何度も写っている。 それなのに。「ない……」 屋根裏部屋のどこを探しても見当たらない。 綾香はアルバムを開いた。 三年前の写真。 そこには確かに、白いロングコートを羽織る母が写っている。「やっぱり……」 そのコートだけが、ない。 クリーニングへ出したまま受け取っていないのか。 それとも、
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