橘恒一郎に促され、綾香はゆっくりと廊下を歩いていた。磨き上げられた床。窓から差し込む朝日。遠くから聞こえる使用人たちの声。すべてが懐かしい。そして同時に――恐ろしかった。(戻ってきた……)五年前へ。父がまだ生きていた頃へ。理央に裏切られる前へ。そう理解するたび、胸の奥がざわつく。あの日の記憶が、何度も脳裏によみがえった。『頷くまでやめない』殴られる音。床へ叩きつけられる衝撃。『綾香、僕を愛しているよね?』優しく囁きながら、自分を刑務所へ売った男。『いっそ、顔を壊せばいい』そう言って、暴力の限りを尽くした。綾香は無意識に、自分の腕を抱きしめた。寒い。あれほど暑かったはずなのに、体までも震えていた。「綾香?」不意に聞こえた声に、綾香の身体がびくりと跳ねた。視線を上げる。廊下の先に立っていたのは、橘理央だった。「顔色が悪いけど、大丈夫?」柔らかく微笑むその姿は、綾香の知る“優しい婚約者”そのものだった。だが今の綾香には、その笑顔が恐ろしく見えた。(気持ち悪い……)ぞわりと鳥肌が立つ。どうして自分は、こんな男を愛していたのだろう。理央が近づき、綾香の頬へ触れようと手を伸ばす。その瞬間。綾香は反射的に後ろへ下がっていた。「……綾香?」理央の目がわずかに細くなる。しまった、と綾香は思った。今はまだ、何も知らないふりをしなければならない。「ごめんなさい……少し疲れているみたい」綾香は無理やり笑みを作った。理央は数秒、綾香を見つめていた。まるで何かを探るような視線。だがすぐに、いつもの優しい顔へ戻る。「無理しないで。君は昔から頑張りすぎるから」優しい声。昔の綾香なら、それだけで安心していた。けれど今は違う。その声の裏側にある冷たさを、綾香は知ってしまっていた。「そうだ」理央が思い出したように口を開く。「今日、美月も来るんだ」「この前も君のこと心配してたよ。最近元気がないって」――ああ。そうだった。昔の美月は、いつだって“綾香を心配する親友”を演じていた。可憐で。優しくて。控えめで。誰も、彼女の本性に気づかなかった。『君みたいな顔になりたい』理央は確かにそう言っていた。『君みたいな人生が欲しいって、ずっと言ってたよ』綾香はゆっくりと爪を握りしめた。あの頃は
Terakhir Diperbarui : 2026-07-25 Baca selengkapnya