《婚約者に売られ、親友に顔を奪われた私は、二度目の人生で全てを取り戻す》全部章節:第 41 章 - 第 50 章

168 章節

クリーニング店の記憶

 翌朝。 綾香は病院へ向かう前に、預かり票に書かれていた住所へ足を運んだ。 商店街の一角にある、小さなクリーニング店だった。 ガラス戸を開けると、店内には柔軟剤の優しい香りが漂う。「いらっしゃいませ」 カウンターの奥から、年配の女性が顔を出した。「すみません。少しお伺いしたいことがあるんですが」 綾香は預かり票を差し出す。「三年前のものなんです」 女性は老眼鏡を掛け、預かり票をじっと見つめた。「三年前……?」「ずいぶん前ですねぇ」「やっぱり、覚えていませんよね」 綾香が苦笑すると、女性も申し訳なさそうに笑う。「お客様は多いですからねぇ」「さすがに全部は……」 そう言いながら預かり票を裏返した女性が、ふと首を傾げた。「あら」「どうかしましたか?」「この印……」 女性は伝票の隅を指差した。「うちで長く預かった品には、この印を付けるんですよ」「長く預かった?」「ええ」「何度ご連絡しても受け取りに来られない時ですね」 綾香は思わず身を乗り出した。「じゃあ、このコートは……」「しばらく店に残っていたんです」「でも、その後は引き取りに来られていますよ」 女性は穏やかに答えた。 綾香の胸が高鳴る。「どなたが受け取りに来たか、覚えていらっしゃいますか?」「うーん……」 女性は困ったように眉を下げる。「そこまでは思い出せませんねぇ」「そうですよね……」 三年前のことだ。 無理もない。 それでも、一つ分かった。
last update最後更新 : 2026-08-05
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思い出したこと

 病院へ向かう道すがら、綾香は何度もクリーニング店で聞いた話を思い返していた。『背の高い、感じのいい青年』 店の女性は、そう言っていた。 名前までは覚えていなかった。 けれど、母の代わりに何度も店へ足を運ぶほど親しい青年など、一人しか思い浮かばない。 理央。 昔から屋敷へ出入りし、父にも母にも可愛がられていた。 だから店の人が家族だと思っていても、不思議ではない。(でも、それだけじゃ何も分からない) 綾香は小さく首を振った。 理央がクリーニング店へ行っていたとしても、それだけで母の死と結び付けることはできない。 証拠にはならない。 そんなことは分かっている。 それでも、胸の奥の違和感は少しずつ大きくなっていた。◇◆◇ 病院へ着くと、父は昨日よりも顔色が良くなっていた。「お父様」「綾香か」 父は穏やかに微笑む。「今日は顔色がいいわ」「先生にもそう言われたよ」「昨日から食事もちゃんと食べている」 綾香はほっと胸を撫で下ろした。 グレープフルーツを口にしなくなったからだろうか。 そんな考えが頭をよぎる。 だが、それを口にはしなかった。「そういえば」 父が思い出したように口を開く。「理央が昨日来てくれたよ」「会社のことは心配しなくていいと言ってくれてな」 綾香は曖昧に笑う。「そう」「あの子は本当によくやってくれている」「橘もそうだが、あの親子には助けられてばかりだ」 父はしみじみと言う。「私も安心して仕事を任せられる」 綾香は返事ができなかった。 父の言葉に嘘はない。 本当に信頼しているのだ。 だからこそ、もしその信頼が裏切られているのだとしたら――。
last update最後更新 : 2026-08-06
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説明書

 病院から戻った綾香は、父の書斎へ向かった。 病院から頼まれていた薬手帳を探すためだ。 父は几帳面な性格だ。 大切な書類は、いつも書斎の引き出しへしまっている。「確か、この辺りだったはず……」 机の引き出しを開けると、診察券や保険証と一緒に、一冊のお薬手帳が入っていた。「あった」 綾香はほっと胸を撫で下ろす。 その時だった。 手帳の間から、一枚の紙がはらりと床へ落ちる。「これは……」 拾い上げると、薬局でもらう薬の説明書だった。 薬の効能や副作用、飲み方が細かく書かれている。 何気なく目を通していた綾香は、思わず動きを止めた。『グレープフルーツは服用中お控えください』 赤い文字で囲まれた注意書きが、すぐ目に飛び込んできた。「……」 思わず紙を見つめる。 こんなに分かりやすく書かれている。 見落とすような場所ではない。「どうして……」 父は説明を受けていないと言っていた。 でも、この紙が手元にあったのなら。 一度でも目を通していれば、気づいてもおかしくない。 綾香は椅子へ腰を下ろした。 父は仕事が忙しい。 書類を読むのも後回しにすることはある。 この説明書も、薬と一緒に受け取って、そのまま引き出しへしまってしまったのだろうか。「それとも……」 そこまで考えて、綾香は首を振る。「駄目」 今は何も決めつけるべきじゃない。 証拠はまだ足りない。 ただ一つ分かるのは、父はグレープフルーツを避けなければならないことを知らないまま飲み続けていたということだけだ。 綾香は説明書を丁寧に畳み、お薬手帳へ挟み
last update最後更新 : 2026-08-06
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父の願い

 翌日。 綾香は病院を訪れていた。「お父様」「また来てくれたのか」 父は穏やかに笑う。 昨日より顔色も良く、点滴も外れていた。「先生から、順調だって聞いたわ」「ああ」「少し歩く練習も始まった」 父は照れくさそうに笑う。「こんな歳になって、歩く練習なんてな」「笑い事じゃないわ」 綾香もようやく笑顔を見せた。「ちゃんと治してもらわないと困るもの」「心配をかけたな」 父は申し訳なさそうに目を伏せる。「綾香」「何?」「少し考えたんだ」 父は窓の外へ目を向けた。「私も、そろそろ会社のことを考えなければならない年齢なんだろうな」 綾香は驚いて父を見る。「急にどうしたの?」「今回倒れて、初めて思った」「私に何かあったら、会社はどうなるんだろうと」 綾香は黙って父の話を聞く。「理央も橘も、本当によくやってくれている」「だから安心して任せられる部分もある」「でも――」 父は少しだけ笑った。「本当は、お前にも会社を知ってほしかった」「私?」「お前は興味がないと思って、無理には言わなかった」「だが、少しくらいは見ておけば良かったな」 綾香は言葉を失う。 前世では。 父がそんなことを口にする前に亡くなってしまった。「退院したら」 父は優しく笑う。「今度、一緒に会社へ行ってみるか」 綾香は胸が熱くなった。 前世では叶わなかった約束。 今度こそ。「うん」 自然と笑みがこぼれる。「連れて行って」「約束だ」 父は嬉しそうに頷いた。 その笑
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会社のこと

 翌日。 綾香が病室を訪れると、父はベッドの上で新聞を読んでいた。「お父様」「おお、綾香」 父は新聞を畳み、穏やかに笑う。「今日は顔色がいいわ」「先生にも順調だと言われたよ」 昨日よりも表情が明るい。 食欲も戻り、少しずつ歩く練習も始めているらしい。 綾香はようやく肩の力を抜いた。「無理はしないでね」「ああ」 父が頷いた、その時だった。 コンコン、と病室の扉が叩かれる。「失礼いたします」 橘だった。 いつも通り背筋を伸ばし、一礼して病室へ入ってくる。「会社の様子はいかが?」 父が尋ねる。「おかげさまで、大きな混乱はございません」 橘は静かに答えた。「本日も通常通り業務を進めております」「そうか」 父は安堵したように息をつく。「理央は?」「営業部の定例会議に出席しております」「午後は取引先との打ち合わせも入っておりますので、本日は病院へ伺えないとのことでした」「そうか」 父は小さく笑う。「あいつも忙しそうだな」「はい」 橘も穏やかに頷いた。「入社してから五年になりますが、おかげさまで少しずつ仕事も任せられるようになってまいりました」「まだまだ未熟ではありますが」「いや」 父は首を横に振る。「よく頑張っているよ」「最初は心配だったが、今では安心して営業へ送り出せる」 綾香は黙って二人の会話を聞いていた。 理央は父の会社で働いていた。 もちろん知ってはいた。 けれど、自分は会社へ行くことがほとんどなかった。 父と理央がどんなふうに仕事をしているのかも、詳しくは知らない。「それより会長」
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初めて知る父の仕事

 病室を出たあとも、父の言葉が綾香の胸に残っていた。『会社のことを知っておいてほしい』 前世では、そんな話をする機会はなかった。 父は突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 だから綾香は、会社のことを何も知らないままだった。 けれど今世では違う。 父は生きている。 まだ間に合う。 そう思うだけで、少しだけ未来が明るく見えた。◇◆◇ 屋敷へ戻ると、橘が出迎えた。「お帰りなさいませ、お嬢様」「ただいま」「会長のお加減はいかがでしたか」「順調みたい」 その言葉に、橘は安堵したように表情を緩めた。「それは何よりでございます」 綾香はふと尋ねる。「お父様って、昔からあんなに仕事ばかりだったの?」 橘は少し驚いたように目を瞬かせた。「そうですね……」「若い頃から仕事熱心な方でした」「休日も会社へ行かれることが多く、私どもが心配するほどでございました」「やっぱり」 綾香は苦笑する。「昔から変わらないのね」「ですが」 橘は静かに続けた。「奥様がご健在の頃は、今ほどではありませんでした」 綾香は思わず顔を上げる。「お母様が?」「はい」「奥様がお声を掛ければ、どれほど仕事がお忙しくても、お休みになる日はございました」 その言葉に、綾香は胸が熱くなる。 母は、父を支えていた。 ただ家を守るだけではなく、父が無理をしすぎないよう気を配っていたのだ。「奥様がお亡くなりになってからは……」 橘は少し言葉を選ぶ。「以前にも増して、お仕事へ没頭されるようになりました」「そう……」 綾香は静かに頷いた。 母を失った寂しさを埋めるように。 父は仕事だけを見つめ続けてきたのかもしれない。「私、何も知らなかった」 思わず本音が漏れる。「会社のことも」「お父様のことも」 橘は穏やかに微笑んだ。「お嬢様は、お嬢様らしく育ってくだされば、それで十分だと会長はお考えだったのでしょう」「……そうかもしれないわね」 父らしい。 大変なことは自分が背負い、娘には何も背負わせない。 そんな人だった。 だからこそ、前世では何も知らされないまま、すべてを失った。 もう、それでは駄目だ。「橘」「はい」「退院したら、お父様に会社を案内してもらう約束をしたの」 橘は少し目を見開き、やがて優しく微笑んだ。「それは、会
last update最後更新 : 2026-08-07
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父の書斎

 翌朝、綾香の携帯電話が鳴った。 画面には病院の番号が表示されている。「もしもし、お父様?」『綾香か』 父の穏やかな声に、綾香はほっと息をついた。「どうしたの?」『悪いんだが、書斎に青いファイルがあるんだ』「青いファイル?」『机の右側、一番下の引き出しだ』『今日の午後、橘が病院へ来るから預けてくれないか』「仕事のもの?」 綾香が尋ねると、父は少し気まずそうに笑った。『そうだ』『入院していても、どうしても確認しなきゃならないことがあってな』「お父様」 綾香は思わず声を少し強めた。「昨日、仕事はしばらく休むって約束したでしょう?」『ああ……』「先生にも安静だって言われたばかりなのに」『これは見るだけだ』『書類に判子を押すわけじゃない』 父の言い訳に、綾香は思わずため息をつく。「本当に?」『本当だ』「……分かった」「でも、無理はしないでね」『ああ、ありがとう』 電話が切れる。 綾香は苦笑した。「もう……」 仕事となると、父は子どものように頑固になる。◇◆◇ 書斎へ入ると、昨日と変わらず部屋はきれいに整えられていた。 父らしい。 机の右側、一番下の引き出しを開ける。「あった」 青いファイルはすぐに見つかった。 取り出そうとした時、その隣に何冊もの分厚いファイルが並んでいることに気付く。 背表紙には年度ごとのラベルが貼られていた。 几帳面に整理されている。「こんなに……」 父は毎年、これだけの資料を確認していたのだ。
last update最後更新 : 2026-08-07
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青いファイル

 午後になると、橘が病院へ向かう準備を始めていた。「橘」 綾香は青いファイルを差し出す。「お父様から預かったものよ」「ありがとうございます」 橘は丁寧に受け取った。「会長から連絡がございました」「お嬢様にはご迷惑をお掛けしたと」「本当にそう思っているなら、お仕事のことは忘れてゆっくり休んでほしいわ」 思わず口をついて出た言葉に、橘は小さく微笑んだ。「会長らしい、ということですね」「昔から?」「ええ」 橘は懐かしそうに目を細めた。「若い頃から、一度仕事が始まると周りが見えなくなるお方でした」「奥様には、よく叱られておりました」 綾香は思わず笑う。「想像できるわ」「夕食の時間になっても書斎から出てこられず、奥様が何度も呼びに行かれたこともございました」「それでも出てこない時は?」「書類を取り上げられておりました」「ふふっ」 母らしい。 そんな光景が目に浮かぶようだった。 橘も少しだけ笑う。「ですが、それでよかったのでしょう」「会長も奥様には頭が上がりませんでしたから」 綾香の笑顔が少しだけ曇る。 今、その役目を果たす人はいない。 だから父は、無理を重ね続けてしまったのかもしれない。「……私じゃ、お母様の代わりにはなれないわね」 ぽつりと漏らすと、橘は静かに首を横へ振った。「代わりになる必要はございません」「え?」「お嬢様は、お嬢様でいらしてください」「それだけで、会長は十分お喜びになります」 綾香は少し驚いた。 橘がそんなことを言うとは思わなかったからだ。「ただ」 橘は穏やかに続ける。「今回のことで、会長も少
last update最後更新 : 2026-08-07
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退院の日

 一週間後。 父の退院が決まった。 綾香は朝から病院を訪れ、荷物をまとめていた。「これで忘れ物はないかしら」「大丈夫だろう」 父は苦笑する。「そんなに心配しなくても」「心配するわよ」 綾香は着替えをバッグへしまいながら言った。「また無理をされたら困るもの」「耳が痛いな」 父は肩をすくめる。 その時、病室の扉が開いた。「失礼します」 遥臣だった。 カルテを閉じながら、穏やかに微笑む。「今日から退院ですね」「ええ」 父も笑顔で頷いた。「先生にはお世話になりました」「いえ」 遥臣は表情を引き締める。「ですが、一つだけ約束してください」「無理はしないことです」「……はい」 父は苦笑しながら返事をする。「仕事も、しばらくは控えてください」「退院したからといって、すぐ元通りの生活へ戻れるわけではありません」「分かっています」「それから」 遥臣は綾香へ視線を向けた。「お薬は今までどおり毎日服用してください」「果物については、先日お話しした内容を忘れないように」「はい」 綾香は真剣に頷いた。「家でも気を付けます」 遥臣は安心したように微笑む。「何か変わったことがあれば、すぐ受診してください」「ありがとうございます」 父が深く頭を下げる。 診察室ではなく、こうして笑顔で話せる日が来たことが嬉しかった。◇◆◇ 病院を出ると、外は気持ちのいい青空が広がっていた。「やっぱり外の空気はいいな」 父はゆっくりと深呼吸をする。「でも今日は真っ直ぐ帰るのよ」
last update最後更新 : 2026-08-07
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会社からの電話

 使用人から受話器を受け取ると、父は静かに耳へ当てた。「私だ」 しばらく相手の話を聞いていた父の表情が、少しだけ曇る。「……そうか」「分かった。確認して折り返そう」 短いやり取りで電話は終わった。 受話器を置く父を、綾香は心配そうに見つめる。「何かあったの?」「いや」 父は苦笑する。「大したことじゃない」「取引先との契約書に、一か所確認したい点が見つかったらしい」「急ぐ話なの?」「今日中ではないが、先方へ返事をしたいそうだ」 綾香は少し考え込む。「でも、お父様は今日は仕事をしないって約束したでしょう?」「そうなんだがな」 父は困ったように笑った。「書類だけ見れば済む話なんだ」「それでも駄目」 綾香はきっぱりと言う。「今日は退院したばかりよ」「先生にも、無理をしないようにって言われたばかりじゃない」「厳しいな」「当然です」 父は頭を掻きながら笑った。「分かった」「今日は会社へは行かない」 その時、橘が静かに口を開く。「会長」「契約書でしたら、私がお持ちいたします」「ご自宅で目を通していただくだけでもよろしいかと」 父は少し考え、小さく頷いた。「そうするか」「会社へ行くよりは、その方がいいな」 綾香もほっと胸を撫で下ろした。 少なくとも、退院したその日に会社へ向かうことはなくなった。◇◆◇ 夕方。 橘が契約書の入った封筒を持って戻ってきた。 父は食卓ではなく、居間のテーブルで封を開ける。「少しだけだからな」「終わったらすぐ休む」 綾香は腕を組む。
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