All Chapters of 婚約指輪は返却済み -- Re:Start My Love: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

1話

昼休みの1時間で、婚約者との7年を終わらせることにした。東邦アドワークスの1階ロビーは、天井が3階分ぶち抜きで高い。磨かれた石の床が足音を跳ね返して、来訪者を上から見下ろす作りになっている。設計した人間は、たぶんこの空間を、「威厳」と呼びたかったのだろう。私には、値踏みの空間にしか見えなかった。バッグの中で、小さなケースが硬い角を立てている。私は白鳥有栖(しらとり ありす)。PRプランナーとして働いている。正確に言えば、性格のきついPRプランナー。仕事は、ものに価値をつけること。商品そのものは作らない。作られたものが、いくらの顔をして世に出るかを設計する。同じ化粧品でも、見せ方とPRのフレーズ1行で、1万のものが、5万にも10万にもなる。人はほとんどの場合、中身ではなく価値を買っている。その仕事を7年やってきた私が、自分にだけは値札を貼れずにいた。昨日の夜が、また蘇る。「有栖、聞いてほしい」向かいに座った藤崎悠真(ふじざき ゆうま)は、猫なで声で口を開いた。「あのことは、その……勢いで」「あなたは勢いでほかの女を抱くわけね。続けて」「本当に好きなのは有栖だ」「好き?そんな契約書にも書けないこと、よく言うわね?」彼は答えなかった。7年つき合って、来月、式を挙げる予定だった男が、その質問ひとつで黙った。私はそれを、答えだと受け取った。「威厳」のあるロビーの受付には、若い女性が座っていた。名札に「三浦みなみ(みうら みなみ)」とある。おそらく派遣社員だろう。制服の襟が少しだけ大きくて、肩のところで余っている。私が近づくと、彼女は背筋を伸ばして立ち上がって言った。「本日のご用件は……」「届け物です」私は彼女の言葉を遮り、バッグから取り出したケースを、受付カウンターの上に置いた。黒いベルベットが、受付カウンターの白い天板の上でひどく目立つ。「内線、お借りできますか?」受付カウンターの向こう側に立っている女性が、戸惑いながら答えた。「あ、はい。ご担当は……」「営業部の藤崎悠真さんです」受付の女性はパソコン画面を確認しながら、番号を押した。悠真と取り次いでくれた。しばらくして受話器を受け取ると、聞き慣れた声がした。「有栖?会社まで来たの?」「1階のロビーよ」「いま行く。待って」「婚約指輪、受付に置いていく
last updateLast Updated : 2026-08-03
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2話

でも、恋じゃなく、仕事で上書きする。指輪を返した翌朝、私の婚約破談が広告・PR業界のSNSトレンドに載った。午前8時15分。出社前に待ち合わせた駅前のカフェで、茜がスマホをテーブルの中央へ滑らせた。私の名前は出ていない。代わりに、悠真の肩書きと裏切りだけが、乱暴な見出しにされていた。【#某広告代理店の婚約者裏切り男】画面には、悠真と見知らぬ女がホテルから並んで出てくる写真が映っていた。ホテル名と通行人には丁寧なぼかしが入っている。けれど、悠真と女の顔だけは鮮明だった。悠真は、首から社員証まで下げたままだ。「顔も社員証も丸見えじゃん。ほんっと、救いようのないバカ」茜は写真を拡大し、悠真の顔を指で弾いた。「これ、有栖が流したの?」「結論から言うと、違う」私はアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。「撮った人も、最初に投稿した人も知らない。指輪を返して、まだ1日も経ってないのに。ネットは仕事が早いね」「そこ、感心するところ?」「でも、私の手は汚れてない。そこは大事」嘘ではない。私は何もしていない。浮気相手の名前を追うつもりもなかった。私が取り返すのは男ではない。7か月かけて育ててきた、yonalisの仕事だ。問題は、火が私のほうにも回っていたことだった。出社後、会社の給湯室の手前で足が止まった。「聞いた?白鳥さん、婚約破棄されたって」「式、来月だったらしいよ。ドレスとかどうするんだろ」「かわいそう」かわいそう。その言葉が、いちばんたちが悪い。私は足音を立ててから給湯室へ入った。2人が黙る。マグカップを洗い、湯を注いで出た。何も言わなかった。説明すれば、傷ついていることになる。怒れば、余裕がないことになる。どちらも、あの2人が欲しがっている物語だった。昼過ぎ、上司に呼ばれた。「白鳥さん。yonalisのコンペ、担当を外れる選択肢もあるけど」「なぜですか」「いや、その、いろいろ大変な時期でしょう。無理をしなくても」無理。悪意はないのだろう。悪意がない人ほど、私の仕事を私から取り上げようとする。「昨年9月から、商品設計の上流工程に入っています」「知ってるけどさ」「7か月です。降りません」上司は困った顔をして、それ以上は言わなかった。私はデスクへ戻り、プレゼンのスライドを開いた。18枚。数字も、根拠も、絵
last updateLast Updated : 2026-08-03
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3話

ヨナリスラボの会議室は、壁一面の窓と磨き上げられたガラステーブルが印象的な、無駄のない空間だった。窓から差し込む光が資料の端を照らし、テーブルの表面には私の顔が映っていた。公開最終ピッチで私たちの企画が採用され、この日は契約条件と運営体制を最終確認するため、ヨナリスラボを訪れていた。テーブルの上には、アオイ製薬とヨナリスラボが共同で進める、新ブランドのPR業務委託契約書が置かれている。私は、その3ページ目に赤い付箋を貼った。発注者はアオイ製薬とヨナリスラボ、受注者は私の勤務先だ。契約書に添付された「プロジェクト運営確認書」には、発注側と受注側の担当範囲や決裁権限が記されていた。ただし、実務上の窓口を誰にするかは、この日の協議で決めることになっている。私は会社から、その確認書に署名する権限を委任されていた。そのとき、テーブルの上のスマホが震えた。上司からだった。【午後3時、東邦アドワークスの樫村部長と藤崎さんが挨拶に来る】タクシーの中で届いた脅しは、もう来客予定に変わっていた。私は画面を伏せた。向かいに座る陸が、ノートパソコンを閉じた。「契約条件は確認したか」「悪くありません。ただ、拘束条項が多いですね。その分、成功報酬率は上げてもらいます」彼はわずかに口角を上げた。「強気だな」「仕事では、条件を曖昧にしたくないんです」「仕事では?」「今は契約の話をしています」私はファイルをテーブルの中央へ滑らせ、該当する一文を指さした。「私は、成果が出ると確信できる案件しか引き受けません」「その自信はどこから?」「経験です。それに、あなたの目を見れば分かります」陸は私の目を見返したあと、書類へ視線を落とした。「いいだろう。ただし、こちらにも条件が1つある」「何ですか?」「マーケティングと広報の協議窓口は、俺と君に限定したい。間に別の担当者は置かない」陸は、確認書の該当欄をペン先で示した。「自分が立ち上げたものを、知らないうちに奪われるのは一度で十分だ」命令口調ではなかった。言い切る声の奥に、焦りがにじんでいた。何を奪われたのかは、まだ聞かなかった。連絡窓口を2人に限定すれば、今後は誰かを介さず、陸と直接やり取りすることになる。仕事のためだと分かっているのに、その距離の近さを嫌だとは思わなかった。私はその考えを打ち消すよう
last updateLast Updated : 2026-08-06
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4話

社内チャットに、茜から一枚のスクリーンショットが届いた。 「これ、匿名掲示板。見たくなければ見なくていい」 茜は、見るかどうかを私に選ばせてから送ってくる。こういうところが好きだ。 【白鳥有栖は新CEOを籠絡して契約を勝ち取ったらしい】 【営業というより接待。女の武器は強いね】 笑ってしまうほど雑な文面だった。 証拠はひとつもない。 書いた人間は、証拠がなくても効くことを知っている。 ──噂は、証拠がそろうのを待ってくれない。悪意のほうが、いつも先に広がる。 「どうする?」 「歩く」 「……は?」 「走ったら、追われてる側になる」 そう返したものの、その日は何もしなかった。 翌朝10時、人事部に内線を入れた。正面から潰すつもりだった。 私の職業人生でいちばん確実なやり方は、いつも記録と手続きだ。感情ではなく、書式で殴る。 人事の担当者は、40代の女性だった。話は最後まで聞いてくれた。それだけは良かった。 「投稿の削除申請と、発信元の調査をお願いします」 「白鳥さん。お気持ちは分かります」 「気持ちの話ではありません。業務上の名誉に関わる問題です」 「ただ、これ、社外の掲示板なんですよね」 彼女はモニターを私のほうへ向けた。 「社内システムの投稿なら、こち
last updateLast Updated : 2026-08-07
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5話

4月3日、朝7時12分。記事が出た。 【独占】アオイ製薬 新ブランドPR担当、契約先CEOと深夜の密会 写真は2枚あった。 1枚目は、夜道で陸と向かい合う私。 2枚目は、彼の手が私の腰にあり、顔の距離が近い。 どちらも本物だった。それが、いちばん厄介だった。 2枚目は、信号待ちで私がよろけて、彼が支えた3秒だ。 けれど写真は、それが3秒だったとは伝えない。 1枚目と2枚目のあいだに何があったのかを、写真は説明しない。 説明しないまま、読む人の頭のなかで勝手につながる。 私はその記事を、自分とは無関係な資料のように3回読み返した。そして、3回目に気づいた。 これは、私が毎日やっている仕事だった。 素材を選び、順番を決め、余白を残して、読む人に結論を作らせる。 私が7年やってきたことを、今日は誰かが私に対してやっている。 構図はきれいだった。プロの仕事だと思った。 8時40分、アオイ製薬から電話が来た。 「白鳥さん。本件、しばらく対外窓口と登壇から外れていただきます」 「事実関係の確認をお願いします。私は……」 「写真については確認しました」 宣伝部長の声は、怒っていなかった。 むしろ気の毒そうだった。 それが答えだった。 「白鳥さん個人を疑っているわけでは
last updateLast Updated : 2026-08-08
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6話

「あたし、担当外された」 茜の声が急に遠く聞こえた。 「……なんで」 「今日の昼、うちのアカウントで書いたの。あの記事は事実と違うって」 茜は、匿名ではなく、自分の名前が分かるアカウントで私を擁護していた。 【一緒に働いたことがある人間として言います。あの人は、そういうやり方で仕事を取る人じゃない】 たった2行だった。 その2行に、400件の引用がついていた。 「会社に問い合わせが来たの。編集者が特定の関係者を擁護するのは中立性に反するって。上が謝罪文出した。あたしの名前で」 「消して。投稿、消して」 「消さない」 「茜」 「消したら、あんたを庇ったことまで嘘になる」 返す言葉が見つからなかった。 「ごめん」 「謝んないでよ。あんたが謝ったら、あたしが間違えたみたいじゃない」 通話が切れたあと、私はしばらくスマホを握ったまま座っていた。 私が受付に指輪を置いた。 私が壇上で言い切った。 私が、目立つやり方を選んだ。 その選択の請求書が、私ではなく茜のところに届いた。 私が動いたことで、被害が私だけでは済まなくなった。これは、想定していなかった。 自分が撃たれることは計算していた。撃たれるのは私の仕事の一部だと思っていた。 
last updateLast Updated : 2026-08-09
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7話

明かりは、結局つけなかった。窓の外で、雨が降り続いている。4月の雨は音が細い。屋根を叩くのではなく、空気を湿らせるように降る。桜が散る音は聞こえない。桜は、散るときに音を立てない。私は床に座って、膝を抱えた。数えてみる。担当していたブランド。7か月。もうない。会社での居場所。7年。棚上げ。親友のキャリア。彼女が積んだもの。私の件に巻き込まれて削れた。契約。最後の紙1枚。止まっている。それから、婚約者。それは、私が自分で捨てたものだ。数に入れないことにする。残っているものを数えようとして、指が止まった。──何も持っていない。3月12日、私はロビーで7年を返却した。あのとき、私は自分がとても強いことをしていると思っていた。今日、4月4日。返却した側の私が、今度は持っていたものを次々と取り上げられて、床に座っている。膝の上で、右手が勝手に動いていた。左手の薬指を、上から下へなぞっている。指輪はない。日焼けの跡も、3週間で消えてしまった。何も、残っていない。なぜ、こうなったのか。順番に考えれば、答えは出るはずだった。記事が出たから。写真を撮られたから。目立つやり方をしたから。──目立つやり方をしたから。そこで、思考が止まった。受付に指輪を置いたのは、私だ。壇上で7年を公言したのも、私だ。玲花に「派手なやり方ね」と言われたときも、私は褒め言葉として受け取った。私は、なぜあんなことをしたのだろう。理由なら、いつでも言えた。人の目は一番の噂屋だから。同情のラベルは、自分で読み上げれば効力を失うから。全部、本当だ。そして全部、後から作った説明でもある。本当のところは、たぶん、もっと単純だった。私は、誰にも値切られたくなかった。かわいそうと言われたくなかった。捨てられた女だと思われたくなかった。だから先に、自分で値札を貼った。高い値札を。誰にも手が届かない場所に。母が死んだのは、私が24歳のときだった。化粧品の販売をしていた人で、口の悪いところが私にそっくりだった。病室で、最後の週に一度だけ、こんなことを言った。「有栖。あんた、人に選ばれたがる癖があるでしょ」「ないよ」「あるの。値札は、貼られるものじゃなくて、貼るものよ」私はその言葉を、鎧の作り方として受け取った。自分の価値は
last updateLast Updated : 2026-08-10
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8話

4月5日。 本来なら、私は今日、白いドレスを着ているはずだった。 式場から、キャンセルに伴う最終精算書が朝いちばんに届いた。 事務的で、丁寧で、返金額が明記されていた。 私はそれを最後まで読んで、削除しなかった。 「保留」フォルダに入れた。 今日という日付は、使える。 人生でいちばん惨めになる予定だった日を、いちばん動いた日に書き換える。 それくらいの意趣返しは、してもいいはずだ。 顔を洗って、化粧をして、いちばん隙のない色のジャケットを着た。 昨夜の1行は、まだ画面に出したままだった。 【あの四つ角、雨のあと滑るから気をつけろよ】 4月2日、20時06分。悠真。 1件だけなら、偶然でも成立する。 人は心配して、そういう言い方をすることがある。 だから私は、他の日のメッセージも並べた。 3月29日。 【あの九条ってCEO、バリュエーションが高すぎるって話が出てる】 「バリュエーション」という単語が引っかかった。 悠真がそんな言葉を使うのを、7年で一度も聞いたことがない。 誰かの話し方が、悠真の文面に混ざっている。 その候補のひとりとして、玲花の顔が浮かんだ。 私は、3年前の記事をもう一度開いた。 株式会社ヨナリス
last updateLast Updated : 2026-08-11
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10話

「戻ってきてください」アオイ製薬の宣伝部長は、電話の一言目にそう言った。2週間前、同じ声で私を切った人だ。「名義を戻します。発売は2週間後のままですが、リリースに企画者としてお名前を入れます」私はロビーの窓の外を見た。葉桜が風で裏返り、白く光っている。「即答はしません。3日ください」電話を切っても、手の震えはしばらく止まらなかった。2週間前に同じ声で切られた記憶が、まだ体に残っていた。戻れる場所が差し出されたことに、ほっとした自分もいた。名義も報酬も、慣れた組織の後ろ盾も戻る。昨日まで欲しかったものだ。だからこそ、今すぐ受け取ってはいけない。失う恐怖だけで選べば、また恐怖に決めさせることになる。私は3日間、自分が戻りたいのか、それとも戻れると証明したいだけなのかを考えた。翌日から、東邦アドワークスの社内調査が始まった。会議室の予約履歴や社内ネットワークの接続記録が照合され、匿名投稿への悠真の関与が確認された。樫村も事前に投稿内容を把握していたことが分かった。さらに、玲花側から悠真へ、私の動向に関する情報が共有されていた記録も見つかった。あの四つ角を、悠真が知っていた理由もこれでつながった。のちに悠真は停職処分を受けたうえで営業職を外され、樫村も管理責任を問われて降格となった。玲花には、ヨナリスラボと私の代理人がそれぞれ通知を出した。今回の件を受け、玲花が以前から進めていたヨナリスラボへの再出資計画から資金提供者が離れ、計画そのものも止まった。悠真から謝罪は来なかった。来なくてよかった。私はもう、彼の謝罪まで受け取る役を引き受けたくなかった。茜とは、あの路地裏の居酒屋で会った。違うのは、彼女が先に泣いていたことだった。「担当、戻った」「知ってる。会社の告知に出てた」茜はおしぼりで目を押さえて、笑った。「あたし、あんたを庇ったこと、後悔してないから」「知ってる」「でも、あの日の『ごめん』は嫌だった。あんたが謝ると、あたしが選んだことまで、あんたのせいになる」私は箸を置いた。守られたくないのは、私だけではない。茜も、自分の選択を誰かに取り上げられたくなかったのだ。「……ごめん」「また言った」「今のは、いい謝罪でしょ」「70点」熱い餃子を食べた。舌の上を痛みが走る。今度は、何かを飲み込むため
last updateLast Updated : 2026-08-13
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