تسجيل الدخول「あたし、担当外された」
茜の声が急に遠く聞こえた。
「……なんで」
「今日の昼、うちのアカウントで書いたの。あの記事は事実と違うって」
茜は、匿名ではなく、自分の名前が分かるアカウントで私を擁護していた。
【一緒に働いたことがある人間として言います。あの人は、そういうやり方で仕事を取る人じゃない】
たった2行だった。
その2行に、400件の引用がついていた。
「会社に問い合わせが来たの。編集者が特定の関係者を擁護するのは中立性に反するって。上が謝罪文出した。あたしの名前で」
「消して。投稿、消して」
「消さない」
「茜」
「戻ってきてください」アオイ製薬の宣伝部長は、電話の一言目にそう言った。2週間前、同じ声で私を切った人だ。「名義を戻します。発売は2週間後のままですが、リリースに企画者としてお名前を入れます」私はロビーの窓の外を見た。葉桜が風で裏返り、白く光っている。「即答はしません。3日ください」電話を切っても、手の震えはしばらく止まらなかった。2週間前に同じ声で切られた記憶が、まだ体に残っていた。戻れる場所が差し出されたことに、ほっとした自分もいた。名義も報酬も、慣れた組織の後ろ盾も戻る。昨日まで欲しかったものだ。だからこそ、今すぐ受け取ってはいけない。失う恐怖だけで選べば、また恐怖に決めさせることになる。私は3日間、自分が戻りたいのか、それとも戻れると証明したいだけなのかを考えた。翌日から、東邦アドワークスの社内調査が始まった。会議室の予約履歴や社内ネットワークの接続記録が照合され、匿名投稿への悠真の関与が確認された。樫村も事前に投稿内容を把握していたことが分かった。さらに、玲花側から悠真へ、私の動向に関する情報が共有されていた記録も見つかった。あの四つ角を、悠真が知っていた理由もこれでつながった。のちに悠真は停職処分を受けたうえで営業職を外され、樫村も管理責任を問われて降格となった。玲花には、ヨナリスラボと私の代理人がそれぞれ通知を出した。今回の件を受け、玲花が以前から進めていたヨナリスラボへの再出資計画から資金提供者が離れ、計画そのものも止まった。悠真から謝罪は来なかった。来なくてよかった。私はもう、彼の謝罪まで受け取る役を引き受けたくなかった。茜とは、あの路地裏の居酒屋で会った。違うのは、彼女が先に泣いていたことだった。「担当、戻った」「知ってる。会社の告知に出てた」茜はおしぼりで目を押さえて、笑った。「あたし、あんたを庇ったこと、後悔してないから」「知ってる」「でも、あの日の『ごめん』は嫌だった。あんたが謝ると、あたしが選んだことまで、あんたのせいになる」私は箸を置いた。守られたくないのは、私だけではない。茜も、自分の選択を誰かに取り上げられたくなかったのだ。「……ごめん」「また言った」「今のは、いい謝罪でしょ」「70点」熱い餃子を食べた。舌の上を痛みが走る。今度は、何かを飲み込むため
4月16日。葉桜の季節だった。yonalisの商品発表会は、午後4時に終わった。30分後、同じ建物の別会議室に、説明会への参加を希望した報道関係者が70人ほど集まった。私は前方の説明者席に座っていた。目の前の卓上札には、こう書いてある。【説明者/白鳥有栖】会社名のない卓上札は、驚くほど軽く感じた。演台の上には、薄いタブレットが1枚。入っているのは、11枚のスライドだ。昨夜、4時間かけて代理人確認後の最終版にした。7年間、何百回もプレゼンを作った。自分の潔白を説明するためのものを作ったのは、初めてだった。開始10分前、通路に影が落ちた。「有栖」悠真だった。スーツは新しい。ネクタイは、私が選んだものだった。「本当にやるのか」「そのために、あなたにも回答の機会を知らせたの」「こんな場所で、何を言うつもりだ」彼は膝を折って、私の座席の高さに顔を合わせてきた。周囲には聞こえない、2人だけの声だった。こうした使い分けが、7年ぶん染みついている。「今ならまだ間に合う。ここを出よう。俺と戻れば、全部なかったことにできる」&n
4月5日。本来なら、私は今日、白いドレスを着ているはずだった。式場から、キャンセルに伴う最終精算書が朝いちばんに届いた。事務的で、丁寧で、返金額が明記されていた。私はそれを最後まで読んで、削除しなかった。「保留」フォルダに入れた。今日という日付は、使える。人生でいちばん惨めになる予定だった日を、いちばん動いた日に書き換える。それくらいの意趣返しは、してもいいはずだ。顔を洗って、化粧をして、いちばん隙のない色のジャケットを着た。昨夜の1行は、まだ画面に出したままだった。【あの四つ角、雨のあと滑るから気をつけろよ】4月2日、20時06分。悠真。1件だけなら、偶然でも成立する。人は心配して、そういう言い方をすることがある。だから私は、他の日のメッセージも並べた。3月29日。【あの九条ってCEO、バリュエーションが高すぎるって話が出てる】「バリュエーション」という単語が引っかかった。悠真がそんな言葉を使うのを、7年で一度も聞いたことがない。誰かの話し方が、悠真の文面に混ざっている。その候補のひとりとして、玲花の顔が浮かんだ。私は、3年前の記事をもう一度開いた。株式会社ヨナリス
明かりは、結局つけなかった。窓の外で、雨が降り続いている。4月の雨は音が細い。屋根を叩くのではなく、空気を湿らせるように降る。桜が散る音は聞こえない。桜は、散るときに音を立てない。私は床に座って、膝を抱えた。数えてみる。担当していたブランド。7か月。もうない。会社での居場所。7年。棚上げ。親友のキャリア。彼女が積んだもの。私の件に巻き込まれて削れた。契約。最後の紙1枚。止まっている。それから、婚約者。それは、私が自分で捨てたものだ。数に入れないことにする。残っているものを数えようとして、指が止まった。──何も持っていない。3月12日、私はロビーで7年を返却した。あのとき、私は自分がとても強いことをしていると思っていた。今日、4月4日。返却した側の私が、今度は持っていたものを次々と取り上げられて、床に座っている。膝の上で、右手が勝手に動いていた。左手の薬指を、上から下へなぞっている。指輪はない。日焼けの跡も、3週間で消えてしまった。何も、残っていない。なぜ、こうなったのか。順番に考えれば、答えは出るはずだった。記事が出たから。写真を撮られたから。目立つやり方をしたから。──目立つやり方をしたから。そこで、思考が止まった。受付に指輪を置いたのは、私だ。壇上で7年を公言したのも、私だ。玲花に「派手なやり方ね」と言われたときも、私は褒め言葉として受け取った。私は、なぜあんなことをしたのだろう。理由なら、いつでも言えた。人の目は一番の噂屋だから。同情のラベルは、自分で読み上げれば効力を失うから。全部、本当だ。そして全部、後から作った説明でもある。本当のところは、たぶん、もっと単純だった。私は、誰にも値切られたくなかった。かわいそうと言われたくなかった。捨てられた女だと思われたくなかった。だから先に、自分で値札を貼った。高い値札を。誰にも手が届かない場所に。母が死んだのは、私が24歳のときだった。化粧品の販売をしていた人で、口の悪いところが私にそっくりだった。病室で、最後の週に一度だけ、こんなことを言った。「有栖。あんた、人に選ばれたがる癖があるでしょ」「ないよ」「あるの。値札は、貼られるものじゃなくて、貼るものよ」私はその言葉を、鎧の作り方として受け取った。自分の価値は
「あたし、担当外された」茜の声が急に遠く聞こえた。「……なんで」「今日の昼、うちのアカウントで書いたの。あの記事は事実と違うって」茜は、匿名ではなく、自分の名前が分かるアカウントで私を擁護していた。【一緒に働いたことがある人間として言います。あの人は、そういうやり方で仕事を取る人じゃない】たった2行だった。その2行に、400件の引用がついていた。「会社に問い合わせが来たの。編集者が特定の関係者を擁護するのは中立性に反するって。上が謝罪文出した。あたしの名前で」「消して。投稿、消して」「消さない」「茜」「消したら、あんたを庇ったことまで嘘になる」返す言葉が見つからなかった。「ごめん」「謝んないでよ。あんたが謝ったら、あたしが間違えたみたいじゃない」通話が切れたあと、私はしばらくスマホを握ったまま座っていた。私が受付に指輪を置いた。私が壇上で言い切った。私が、目立つやり方を選んだ。その選択の請求書が、私ではなく茜のところに届いた。私が動いたことで、被害が私だけでは済まなくなった。これは、想定していなかった。自分が撃たれることは計算していた。撃たれるのは私の仕事の一部だと思っていた。
4月3日、朝7時12分。記事が出た。【独占】アオイ製薬 新ブランドPR担当、契約先CEOと深夜の密会写真は2枚あった。1枚目は、夜道で陸と向かい合う私。2枚目は、彼の手が私の腰にあり、顔の距離が近い。どちらも本物だった。それが、いちばん厄介だった。2枚目は、信号待ちで私がよろけて、彼が支えた3秒だ。けれど写真は、それが3秒だったとは伝えない。1枚目と2枚目のあいだに何があったのかを、写真は説明しない。説明しないまま、読む人の頭のなかで勝手につながる。私はその記事を、自分とは無関係な資料のように3回読み返した。そして、3回目に気づいた。これは、私が毎日やっている仕事だった。素材を選び、順番を決め、余白を残して、読む人に結論を作らせる。私が7年やってきたことを、今日は誰かが私に対してやっている。構図はきれいだった。プロの仕事だと思った。8時40分、アオイ製薬から電話が来た。「白鳥さん。本件、しばらく対外窓口と登壇から外れていただきます」「事実関係の確認をお願いします。私は……」「写真については確認しました」宣伝部長の声は、怒っていなかった。むしろ気の毒そうだった。それが答えだった。「白鳥さん個人を疑っているわけでは







